物語内物語は現実と虚構の壁を壊す。

Facebookを眺めていると、よく目にするポストがある。

 

「読書のコツ」「読書の効果を上げるポイントベスト5」「速読ができると読書が楽しくなる」などなど。

 

どうやら私たちは「読書」というものが注目され、一定の価値を与えられている瞬間に生きているようだ。

そんなの当然だと思う人も多いだろう。本屋大賞やこのミスといった賞も話のネタとして盛んに口走られているのだから。

 

かくゆう私も、読書が最近のブームになっている。もともと本が好きで、本がある空間も好きで、なんなら本屋さんを賃貸して、そこに365日住み、そこから会社や学校に通い、帰ってきてはご飯とともに本を読みたいと思うほどなのだが、「今」、読書ブームなのだ。

それは、これまでやっていた本の「読み方」と現在のそれとが異なるから始まったブームなのだと、ひとり分析してみる。

 

これまでは、本を開き、そこに書かれている情報をそのまま書かれた情報として自分の頭にインプットしていた。

「〜〜はリンゴを口にすると、おもむろにそれをテーブルに戻した。」と書いてあれば、ああ、〜〜はリンゴを口にして、ゆっくりとそれをテーブルに置いたのだなぁと思っていた。

 

しかし、その読み方は少しづつ変化していき、今では、なんで〜〜は梨ではなくリンゴを口にしたのか?なぜ素早くではなくおもむろにテーブルに置いたのか?リンゴを口にした時に、それは力強くだったのか、それとも優しくだったのか?などなど。物語には記されていない、「文脈

」や「行間」ともまた違う、「そうであったかもしれない可能性」のようなものを読み取ろうとするようになった。

 

つい数十分前にある本を読み終わり、「そうであったかもしれない可能性」への気づきが自分の中で湧き上がってきた。それは、作りたての粗いウィスキーの原酒が、樽の中に注ぎ込まれ、どうにかしてその言葉にできない味を洗練されたものに変化させるようなものだった。

 

つまりは、これから私は書評を書く。人生初だ。読書感想文は書評ではないと、旧時代人的な僕の脳みそは言っているのだから。

 

 

その作品はポール・オースターの『写字室の旅』という。ポール。オースターは、日本でもなかなかに名前の知れた作家らしい。そう著者紹介の部分に書いてある。

私は、数年前からポール・オースターの作品のにわかなファンだ。数年前という時間軸とにわかという言葉の持つ時間性には少しギャップがあるように感じるが、まぁ個人的感覚として未だ僕はオースターの作品を全部読んだことがあるわけではないという点で、にわかという言葉を使うことを許されたいと思う。

これから記されている文章は、今現在私が記しているものではない。それは、読了後すぐに私の両手がカチカチと四角形の規則正しく並んだプラスチック片を叩き、液晶を介して形を得た文字群たちである。

それだから、非常に文章は粗いし、内容の要旨などは微塵もない。

 

 

だが、これからオースターを読む人も、これまで読んできた人も、何かしらの気づきがあればいいなと、今日も道端で考えている。

 

 

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『写字室の旅』 書評

 

 

ポール・オースター作品の中には、「物語内物語」が多く登場する。『オラクルナイト』や『幻影の書』などがその例である。今作品にも物語内物語として、ある架空の世界における戦争と謀略が描かれている。これらの物語内物語をなぜオースターは多用するのか?

それは、現実と虚構との境目を曖昧にするという効果を引き起こすためではないだろうか?『写字室の旅』においては、ミスター・ブラウンという老人が密室(とブラウンが考える)に軟禁されており、その老人は記憶が非常に曖昧である。次々と入室してくる人物たちの名前も自分との関係もほとんど覚えてはおらず、その部屋で出会った人たちの名前を覚えておくために、名前のメモを残す。ここでは、老人自体の記憶の曖昧さによって、物語の軸が非常に脆くなるように設定されている。つまり、主人公である老人のキャラクター設定が老人自体の記憶の曖昧さによって確定されておらず、読者が物語の筋を把握できなくなっているのだ。そんな曖昧な状況において、物語内物語が登場し、きちんと構成を持った、「物語らしい物語」が描かれる。ここで読者は、本来の物語であるブラウンが主人公の物語よりも、物語内物語の方に自然と信頼を寄せて行く。それは、「ヤドリギにつかまる」と言い換えられるかもしれない。今まで全く不安定でおぼろげだった物語において、やっと筋道のある物語に出会ったのであるから、読者としてはそちらに思考と注意を向けるのは当然だと思える。さらには、本来の物語が曖昧が故に、筋の通った物語内物語によって本来の物語の不透明さを補填しよう読者はしてしまう。本来の物語と物語内物語が別次元のものではなく、同じ次元のものとして認識される。つまり現実と虚構が融合して、新たな現実の可能性(曖昧さに対する回答)を生み出されようとする。そして、ここでもう一つ言えることは、オースターが本来の物語と物語内物語の境界を曖昧にし、同じ次元に引き上げることによって、私たち本来の物語を読んでいる読者のいるこの次元さえも、虚構である物語(本来の物語)との境界は曖昧であり、容易に同次元になりうるというメッセージを示しているということだ。それは、層(レイヤー)を引き上げるとも言える。物語内物語<本来の物語<読者のいる世界という順に、私たちはそれぞれを階層に分けて、自分が存在する世界をより高次の層において考える。しかし、オースターの描く最下層の物語内物語が、それより高次の層である本来の物語と融合する描写によって、それぞれの層は超越性を持っており、私たちの世界にさえも同様に層を超越して、融合しうるということを、オースターは暗に示しているのではないだろうか。

また、『写字室の旅』において、非常に面白い点は、物語の構成と老人(ブラウン)の状況がリンクしているという点である。物語の最後で、老人は新しい物語内物語が書かれた紙の束を発見する。そこに書かれているのは、『写字室の旅』というタイトルで、まさにこの本の書き出しとまったく同じものなのである。つまり、この物語は、ループし続けているのだ。『写字室の旅」は始まって、行くつもの展開を経て、その後また冒頭へ戻るのである。言い換えれば、この本は「密室」という構成で作られている。それは、密室と思われる部屋に存在し、記憶も曖昧で外に出ることを許されない老人の構図とリンクしている。ここをさらに深読みしてみるならば、先ほどの「現実と虚構の境界の曖昧さ」という点を、この物語構成と老人の状況の関係にもみることができる。物語内の老人は密室で軟禁され、閉じ込められている。そして、この本自体も物語をループさせることによって、自分の物語を閉じ込め(閉じ込められ?)ている。物語内での設定が、現実においても反映されているのである。このことによって、私たち読者は、物語とそれを記してある本(私たちの世界の層に属する)との明確な境界が曖昧になり、今まで確固たるものと無意識的に判断していたものを失い、新たな可能性に目が開かれる。

オースターの作品は、単純に物語としての面白さだけではなく、本や物語、現実と虚構、意識と無意識といった、自然と次元を分けて認識してしまうものの新たな存在の可能性を示唆し、私たちの想像力の次元を底上げしてくれるような、クリエイティビティに満ちた試みを行う、実験的な作品という特徴を持っていると常々考えさせられる。