ミッドサマー、ダニーの救済と私がTwitterやってて感じる不安

ミッドサマー今日見に行ったんですが面白かったのでネタバレ全開で語ります。語らせて。

 

最後の主人公ダニーの笑み含め、示唆に富むエンディングで映画館から出る時「カルト宗教こええ」という人がいたり「アレはアレでアリじゃない?」とか言ってる話し声が聞こえたり。ダニーに感情移入して見てた人には、肉親が死んで大変な時に全然助けてくれないクソ彼のクリスチャン燃えてちょっとスッキリしてホルガ村のほうが現実社会よりマシなんじゃないとか思った人もいただろうなと思いつつ、でもラストの描写見てるとカルト宗教に入っても個人の抱える苦痛からは結局救済されなさそうだなとおもいつつ帰りました。

感想は2点、①僕がエンディングのダニーについて思ったことと、②映画見て思った同じ価値観で集まったコミュニティの怖さというか俺もホルガ村に片足突っ込み始めているのではというTwitterやりながら感じている漠然とした不安 について語ろうと思います。

 

①ダニーの救済

冒頭から、肉親も死んでどうしようもない寂寥感を抱えるダニーと、その場その場は優しい言葉かけるけどダニーの苦悩を抱える気はないクリスチャンの描写が繰り返されてて、

ダニーかわいそうになりますがクリスチャンもダニーへの気持ちは正直離れてるようにしか見えないし、それより論文テーマも決まってないしそっちが気になってしょうがないくらいに見えます。

別れたら?と言いたいくらいですがダニーはクリスチャンを手放して更に寂しくなるの嫌でしょうし、クリスチャンもこのタイミングで別れよ!言うのも罪悪感で気がひけるから分かれるまで行かずなんとなく続いてる関係なんでしょう。

対してペレはダニーに優しい言葉もかけるし、誕生日に似顔絵描いたりペレなりのダニーへの思いを感じますがペレはホルガ村星人なので「ダニーの家族を失ったことに対する寂寥感」について全然分からないし、むしろ「家族」「家族」と連呼してダニーの具合を何度も悪くさせます。辛いことは分かっても、家族を失う寂寥感が全然分からないのでしょう。

 

・同じ価値観で育ってはいるが、自分に手を差し伸べてくれないクリスチャン

・自分に手を差し伸べてくれるが、価値観が違いすぎて同じ感情を全く共有できないペレ

 

の対比がダニーにとっての「現実」と「ホルガ村」を表していてこの辺この映画でとってもいいなーと思いました。

ある意味では、ダニーにとって彼氏ではない新たな安息の地を得た安らぎみたいなのもあってラストの笑みはきっと彼女の心からの笑顔なんでしょう。

 

ただ、あの笑みは酷く個人的な救済の笑みでありホルガ村価値観とは相入れないというか、ホルガ村的正解で行くとあそこは「みんなで苦痛の声をあげる」なので結局彼女はどこまで行っても個人であることを捨てられないように見えます。幻覚の中でも彼女は失った家族の顔を見ていますし、その顔も全然笑っていませんでしたし意識下のレベルでも家族を失った寂寥感からは逃れられず、それを一時的に癒すのが彼氏からホルガ村に移ったに過ぎないのかなと思ったり。

本質的な救済なんて自分にしかできないから一時凌ぎの対象が別にホルガ村でもいいでしょ〜というのも真っ当な意見と思うのですが、ミッドサマーの儀式に深く関わった彼女がホルガ村から出るのは多分許されないと思うし、個であることを捨てられない彼女はどこかでホルガ村に馴染めなくなるけど、出れないんだろうなという感想を抱きました。

 

あと彼女がホルガ村でも個人であることを捨てられないのが「パニック障害という極めて個人的な苦痛・恐怖を味わう病気にかかっている」という理由づけがあってうまいなと思いました。パニック症状発する彼女に対してホルガ村の住人ができたの「とりあえずベッドに寝かす」「ダニーと同じ顔して叫ぶ」しか出来なかったところにホルガ村の救済の限界を感じて唸りました。

 

Twitterやりながら感じる漠然とした不安

ミッドサマーの他の人の感想見てたときに「アセクシュアルの人間にはホルガ村は生きづらいと書いてあったけど、当事者の私にとっては一般社会でも生きづらいし一般社会もホルガ村も大して変わらん」という呟き見て少し感じいる所があったのですが、

 

同じ価値観の人間で集まって騒ぐのめっちゃ居心地いいし楽しいけど、そのコミュニティ外の人間から見ると排他的・独善的にしか見えないことがままありTwitterみたいなSNSに見えて分断された小集落でどっぷり生活やってると外から見たらニコニコ楽しいホルガ村、みたいなこともあるんだろうなーとか考えたり。

SNSではミュートやブロック手軽にできるけど、現実社会では生きてる人間をミュートやブロック出来ないので価値観を共有し得ない相手といかにうまくやっていくかというのも実際問題これからの社会の対人関係のテーマの一つかなと思いました。

分断の進む社会では隣に住んでる人、隣の机の人がホルガ村星人な可能性大いにあるし、自分も気がついたらホルガ村星人になってるかもしれないと思うと割と恐怖感ですね。

 

自分では、ホルガ村星人になっていても気が付けなさそうだし、コミュニティから叩き出される時気がつくのかなーとか、ミッドサマーのラスト、それまでめっちゃニコニコしてたのに火が体について初めて痛がり怯える人を見て思ったりしました。怖いね。

腕組みハスに構えおじさんが「天気の子」見に行って涙流して帰ってきた話。

新海監督作品好きおじさんなのですが、監督作品に最初に触れたのが高校生くらいの頃で、いつの間にか年齢を重ねて妻子持ちおじさんになってしまい、「ボーイミーツガール作品は好きだけど前ほどのテンションで恋愛の勢いにハマれない…でも新海監督作品好きだし見に行くか…」くらいの感じで見に行きました。

「君の名は」は面白かったけどちょっと大衆向けっぽくなって、大ヒットで喜ばしい反面ちょっとモヤモヤした、なんか「好きなバンドがメジャーデビューして寂しいな、なんか昔の尖った作風のが良かったよ…」みたいな言いがちなセリフをブチブチ言いながら腕組んで見始めたわけです。でも、映画見て圧倒され「ありがとう監督…」と泣きながら帰りました。

以下映画の流れと視聴中の心の動きです。

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作品鑑賞でありがちなこととしてメタ的なところ考えつつ観るというのはありますが最初の占い師の発言の下りで驚きました。

「つまり天気の祈りというのは稲荷系の神への祈りであり、新海監督作品だし“晴れ”を願って行くたびにヒロイン消えるんじゃねえの、オイオイいきなりネタバレか!?君の名はのヒット考えるとヒロインも戻ってくるだろうし…。もうおじさん、この先がだいぶ見えたぞこの話…。」と一歩引いて腕組んだ。作品世界から一歩引いて腕組み。その鑑賞スタンス続けるとあまり作品楽しめないぞと分かっていつつも腕組みしてしまう悪癖。

 

第二の驚きが主人公の発砲。『いやいや後先考えなしかよ、大丈夫かこいつ…』
後から考えれば世界よりヒロインを取る彼の決断の伏線でもあるわけですが、とにかく主人公の行動に面食い、腕組みながら引いてた。もう僕はオッサンなので世界よりも彼女をとる!みたいな主人公はそもそももう感情移入しにくいのかもしれない。腕組みして「いやいや」と見てしまう大人になってしまった。映画見る前からわかってたけどちょっと寂しい。ボーイミーツガール作品はもう楽しめないおじさんになったのか…?


主人公にイマイチ感情移入できないまま、監督の描く東京の情景美を楽しんでいたら
ライターのおじさん、須賀圭介にハマり始める。
ムーとか、超常現象怪奇モノ雑誌のライターの仕事はしてるけどオカルト分野全然信じてなくてあくまで「仕事」の割り切り。雑誌名モロだし、ムーに怒られないか大丈夫か。でもこういう感じは好きだな…と。 この辺で話全体として「大人と子ども」の対比が軸として出てきて楽しみ始めました。

(例えば以下2点)

 

・主人公穂高は天気の子陽菜に会って超常現象をガッツリ信じ込み、夏美お姉さんはそういうオカルト世界をどこかであったらいいなと思いながら就職活動する大人と子どもの合間。大人の須賀はオカルト世界はあくまで飯の種、ないこと分かって楽しむエンターテイメント。

・須賀の「大人になると優先順位が固まって動かねえもんなんだ」的なセリフがありましたが大人になると未来の可能性も狭まるし大事なこと以外はある程度距離置いて過ごして行くこと多いですね。
「優先順位の固まった大人」とは反対に穂高の方は彼にとっての一番大事なものが「島ではないどこか」、「東京」、「いや東京より陽菜が大事」と作中で優先順位がどんどん動いて行く。


作中の「大人と子ども」視点で行くともう自分みたいなオッサンは須賀さんサイドなものの見方だなあ、とか思いながら須賀さんに感情移入して視聴続けた訳です。話続けて見ると「須賀さんも元家出少年」「嫁さんは死んでいて、娘は実家預かり」 などバックボーンもチラチラ明かされていって彼のスタンスも分かるな、と思った所で、主人公穂高が警察から追跡される。

 

須賀さんは大人なので「娘を引き取れるかどうかの瀬戸際だし、穂高より娘が大事」と優先順位は動かさず、穂高が警察に追われてると知るとはっきり言って手切れ金渡して追い出しちゃう訳ですが、完全に非情に徹しきれず娘の為にやめてたはずのタバコ吸いながらやけ酒。(娘はどうした、と思いつつも気持ちめちゃわかる…。)

 

そして須賀の事務所に家宅捜査来た警察の「(少年が)必死になってでも会いたい人がいる」という発言聞いて不意に涙が溢れる須賀さん。
ここで僕もウワーと泣きそうになった訳ですが。
須賀にとっての優先順位一番って「亡くなった奥さん」なんでしょうね多分。
須賀にとって優先順位は今も一位のまま動かないけど、亡くなってしまった奥さん。 無理だと分かってももう一度、出来れば会ってみたい。そんな気持ちがずっとくすぶってて娘一筋にも生きれず、気持ちも曖昧な状態で奥さんとの思い出もあった仕事場も離れられずに仕事してたんじゃないかと。
ビル内での穂高と対面時の須賀の「いい加減大人になれ」と自分自身の奥さんへの執着や感傷を振り切りたい、自分に声かけるようなセリフにも見えました。

しかし穂高の必死さ、ひたむきな思いについ感化されてしまう。
須賀ももう会えないけど奥さんへの気持ちはずっと会って「会えるものなら何としてでも会いたい」という気持ちがあったから最後はつい、子どもゆえのひたむきさを持つ穂高を応援するスタンスになっちゃったんでしょう。「大人が寄ってたかって…」みたいな台詞もありましたがそういうことだったのかなと思います。

もうここからは俺も「穂高、お前には最後まで感情移入しきれなかったが、お前のひたむきさを応援するぜ…!!なんかよくわからんけど行ってこい…!!」みたいな感じでボーイミーツガール応援席でひたすら頑張れ!!やっちまえ!!と応援する係になって、どっぷり作品の世界に浸かり、クライマックスもめちゃくちゃ気持ち盛り上げて見ることができました。
ボーイミーツガールの主人公に感情移入仕切れる自分にはもうなれなくても、応援するスタンスでこんなに楽しむことが出来るとは思わなかったしすごいサプライズでした。
多分監督もその辺は理解していて、青春がもうとうに過ぎた人向け応援席みたいなの作ってくれたのだと勝手に思い、ありがとう新海監督…と泣きながら劇場を後にしました。

毎回感傷的な主人公にどこかハマりながら作品見てたけど、天気の子の感傷男は奥さんへの想いを捨てられずにずっと大切に持ってる須賀さん、お前だった…。


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ここからは映画見た後ジワジワ来た感想なんですが、「世界よりも陽菜を選んだ」穂高に対する大人の声のかけかた、いいですね。
彼にとったら世界よりも陽菜を優先したバツの悪さ、罪悪感でいっぱいな訳ですが
おばあさんは「東京も昔は海の中にあり、灌漑と天気具合で平地に変わっていった」みたいなこと言って、東京がなくなったことは悲しいけど地球全体のホメオタシスの範疇みたいな一歩広い視点を話しますし、
須賀も「お前1人で世界が変わったとか大それたこと背負い込まずにいいからさっさと陽菜に会ってこい」と須賀なりの励ましをします。
劇中で穂高が実際やったことは大人の慰めとは異なり事実「世界を変えてしまった」わけですが一歩広い視点を与えたり、許し励ますのも大人の役割としてOKだよな、となんか優しい気分になりました。
(実際穂高個人であそこまでやれたかというと、迎え火の煙や神社のナスやキュウリであったように先祖(死んだ陽菜の母や須賀の妻含む)の霊の助けもあってという事ですしょうし作品としては彼の決断もどこかで許されてるような感じがありました。)
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最後にですが最近ハスに構えがちでボーイミーツガール見るにはもう歳がなー、と言いながらブツクサ見ていた自分の心が洗われたようでいい作品見れました。
ありがとう新海監督…。

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」を語りたいオタク(後半ネタバレ・ラストシーン考察)

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」 (後半ネタバレ・ラストシーン考察付き感想) 

f:id:the_anchor7:20170820201254j:plain  見に行きました。Twitter眺めていると賛否両論で、特に多かったのが「君の名はみたいなの想像していたら全然違った」「ラストのオチが謎」というのが多くて、きっとこれは君の名は期待して見に行く一般向けじゃなくて、エヴァ劇場版でQの展開来た時におよそエンタメ向きじゃない俺たちのエヴァ帰ってきたーー!」と興奮したオタク向け映画だなという予感がしたので、これは多分オタクのために作ってくれたので見に行こうと。たとえ見に行って面白くなくても俺がそっと供養しておこうと、そういう気持ちになって映画館に行きました。結果的にはこのブログ書くくらい十分楽しみましたが。

 

1.映画の感想(非視聴者向き)

映画の予告と本編の内容全然違うじゃん!!!っていうのよくありますけどアレ制作会社と広告会社の方向性のズレがあると思うんですよね。

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この映画も広告CM見てると、『君の名は』っぽいやつかーと思うと思います。

本当はぜんぜん違うテイストの作品なのに、多分製作者の意図とは別に、広告マンが映画の宣伝は君の名はっぽくしたら多分売れますよ!!って言ってやらかしたんだと思います。

 
(○○の名は。みたいなCM)

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(実際のブツ)
 

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シャフトじゃねえか!!という絵面とシャフトじゃねえか!という内容の連発

あと良くも悪くも女友達いなさそうな感じのヒロイン!!

シャフ度高め!! 
 
・・なんていうか「君の名はみたいな奴やるらしいぞ!初デートの映画これにしよ!」と選んだ非オタクカップルが1番甚大な被害を食らったと思います。
 
中身悪くないのに酷評も多いの、コーラだと思って飲みに行ったらそばつゆだったというのが一因かと思います
 
ホントは全然別物なのに・・・別の楽しみ方があるのに・・・
 
 
僕が薦めるとすれば、新房監督だしまどマギみたいな雰囲気とか物語シリーズ好きだったら向いてると思うので見に行っても損はないとおもいます
 
オタク向き映画です。
 
家に帰りながらあーでもねーこーでもねーとオタク同士で感想言い合ったり、考察ブログ読んだり書いたりするの好きな人にもすすめます。

 

ここからはネタバレ付き感想です。重大なネタバレ・考察入っているので映画見る気持ちになった人は回れ右、、

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この映画見た人はわかると思うんですが、ラストシーンで1回
「どういうこと?????」ってなるんですよ。
 
「この先の続きの映像ないの?どうなったの?」って感じに。
実際映画館でも「え??」「終わり??」って口に出して言う人も居てました。
パット見?なんですけど考察好きの人間としては待ってましたな展開!!!!
僕も映画見ながらこうじゃないかと思ったこと、ここからゴリゴリネタバレ感想書いて行きます。最後のオチ含めて。

 

2.なぜ願いが叶う玉を持っていても最後まで駆け落ちが叶わなかったのか?

 なずなちゃんの親父が自殺する時に持ってた謎の玉、なぜあんなに強力な願いを叶える力があるのかについては最後まで不明ですが、まあアレはアレとして映画見ながら最初に疑問に思ったのは、プールの競争で勝つ」「電車に乗れる」「祐介やなずなの父母に見つからない」という願いをどんどん追加して、もうこれは駆け落ち成功でしょとなったのに結局電車が東京や大阪にも行かず戻って来たとこです。
願いを叶えるたびに、風車が逆回転になったり花火の爆発がヘンテコになったり、どんどん世界が歪んで行くんですけど、障害がなくなった自分の夢の世界でも電車は大阪や東京に行かないんですよね。

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  この辺からは僕の考察になるんですが、「祐介やなずなの父母に見つからない」という願いを込めて玉を投げた時にはまだ「駆け落ちする」ということに決心が至ってなかったからだと思うんですよね。「文字通りなずなの父母にただ見つからない」だけの願いを叶える形になるので電車も一回離れて海に行って戻ってくるだけになると。
結局恋愛と友情の葛藤や地元を離れるというところの決心がつかないまま願いを叶えようとしたから中途半端な結果に終わったのだろと思います。
だからこそ「世界がどうなったってなずなといたい!!」という思いを打ち明けることで初めて願いを叶える玉も"主人公がなずなと駆け落ちする世界"を垣間見せるようになったんじゃないかなと。(玉はそこで壊れちゃいましたが)
 

3.ラストシーンの意味はなんだったのか?
 
 最初は主人公(典道)死んだのかな?と思ったんですけどそうなると話の整合性合わないんですよね。玉が割れた瞬間から花火がどんどんマトモな形に戻って行って、なずなも消えちゃうし、ああこのパラレルワールドぶっ壊れるんやと〜主人公死亡フラグビンビンの展開。玉の前の所持者の、なずなの親父死んでるし。。
 もしパラレルワールドが壊れることで主人公が消えたら、最初に玉を使った、「なずなが親に連れられて行って、典道が祐介ぶん殴って玉投げたところ」で主人公が消える事になるので、目の前で消えられたり死なれたりしたら周りの友人も大騒ぎになるし、二学期に移って呑気に名前呼んでる場合じゃないんですよね。
 
 ラストシーンの描写は繰り返しの夏の1日が終わって、なずなは学校離れていることはみんな知っているけど、典道が欠席してることは周囲は知らなかったということになりますがみんなの前で消えるとそことの整合性が合わなくなります。
 
物語の流れから考察進めると、典道も祐介の前で遠慮したりして前節でも言ったように迷いだらけで自分が「本当にどうなってもなずなと一緒にいたい」と踏ん切りつけるのは玉が壊れるところなんですよね。願いを叶える玉も東京に駆け落ちする夢を一瞬典道に見せるだけで砕けてしまいます。
 
じゃあそこまで駆け落ちする決心がついて、願いを叶える玉も無くなって、どうしたか?そこの疑問がラストシーンにつながっているんじゃないかと。
 
主人公は新学期に学校のみんなに”人知れず”去っていきます。
 
僕は『玉無しでも自分の願いを叶えるために、人知れずなずなに会いに行った』
のだと思います。

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駆け落ちが成功したのかどうかは視聴者の想像に任せますという感じで……。
 
 

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ポスターでは駆け落ち用のカバン、作中ではなずなしか持ってませんでしたが、”2人”で持っちゃってますね

 
 
 
読んでいただきありがとうございました。
いろんな見方があると思うのでコメントなど貰えるとうれしいです。
 
 

君の名は。と語りたいオタク

遅ればせながら君の名は。見てきました。

 

発表直後に駆け込んだ新海監督オタクが「優勝!!優勝!!」と叫んでいたので僕も9月頭に見る予定だったんですが伸びに伸びてようやく。

 

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映画館で新海監督作品見るの初めてだったので、ビルと電車と夕焼けと雨の新海監督ワールドに大画面で浸れて興奮しました。

 

  ストーリーはなんていうかアク抜きされて食後にもたれない新海監督作品という雰囲気で「持ち味のSFっぽさ出してエンターテイメントに寄せて調理加工されました!!」

という感じで、監督インタビューとか見てても、監督自身の意向としてやりたいこと前面に出すより、複数人の手を渡りながら編集・完成された作品なんですけど、だからこそここまで大ヒットしたのかなあと思います。(新海監督古くから好きな人にとって、新海監督映画が中高生のデートムービーに使われるとか完全に意味不明な状況と思いますがこの辺はプロデュースの仕方なんでしょうね…)

 

  新海監督ってもうちょっとネッチョリした作風だしRADWINPSももうちょっとネッチョリした作風だと思ってたんですけど君の名は。は湯上りに一杯やれそうな感じ、金曜ロードショーとかでサマーウォーズの代わりに放送できそうな雰囲気になってたので結構度肝抜かれましたが、監督の得意な緻密な町描写は三葉の都会への憧れと上手い具合にマッチしてたしこれはこれでやりたいことと得意なことが組み合わさっていい感じになったんじゃないかなと思いました。

 

  監督インタビューでは「観客の喜怒哀楽を揺さぶる自信がついてきました」と言っていたので、だからこそ今回みたいに感傷的な作風からエンタメに振り切ることもできたんじゃないかなー。なんて思いました。次回作はどんな作品になるかいよいよ予想つかなくなったのでそういう意味では今後楽しみですね。

 

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僕は基本的に映像美目的で行ったので映像美でお腹いっぱい、食後にももたれず安心だね!って感じであったのである意味1番恩恵を受けた客層かもしれません…

 

 

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ストーリー後半の、ちょっと物足りないというか、役場のところ等"多分シーンはあったけどカットされたんじゃね??"的なところが気になったので、ストーリー補完要素も兼ねたAnotherSideも家に帰って読んだんですけど最後の三葉パパのストーリーが伝奇SFって感じになってて面白かったです。

本編の方であまり触れられなかった神社の失われた歴史って実はこうだったのでは?とかなんで避難させる結末に至ったのか?みたいな核心的なところも本編で推測できる範囲+αくらいで書かれていたのでよい外伝でした。ストーリーは映画とコレ見て満足した感じでしたね。

 

そういえばユキノ先生出てきましたけど、高校生と不貞疑惑で東京から故郷へ帰り、その後赴任先の高校も無くなってしまったユキノ先生はどこ行ったんでしょうか……あの人も災難ですよねw波乱万丈すぎる人生、今後も新海監督作品に出て酷い目に遭わされないといいなと思いました(オイ)

語りたいオタクとニコ生してみた話。

ー語りたいタイプのオタクです。

 

好きな映画見たら、映画館からの帰り道に「あのシーンは○○の暗喩では」とか、「あの監督ああいう演出好きなー」とかそういうことずっと喋るの好きです。

 

最近はシンゴジラとか、見たあとネタバレしない範囲でTwitterに感想書いたりEvernoteにゴリゴリ感想書いたりしておりました。

 

シンゴジラ面白かったよ感想文  https://www.evernote.com/shard/s88/sh/d45f9517-9db3-43f2-b3a4-d3531c3c5700/fb6015d1201e051b75d4af75d3625e87

 

こういう喋りたがるオタクって僕含めて結構いると思うんですがあんまりこういうのやって得することって批評家でもない限りそうなくて、個人の利益には全くならないんですけど楽しいんですよね。

 

多分石器時代とかに生まれてたら「OOの丘のとこの土と、あそこの川の底の土混ぜたらめっちゃいい色合いの土器ができるんよ」とか喋り続けていくらかウザがられてたと思いますが、個人の利益というか社会性のある快楽を目当てにやってる気がして、人間は社会的動物なんだなあとか思ったりします。

 

高校生のころも、誰にも見せてないけど日記をノート10冊分くらい書いていました。

 

そんなわけで文章発信するSNSとは相性良くて過去6年間ぐらいで7万回くらいツイートしてて、しかもほとんどが他人とのコミュニケーションではなく「つぶやき」ばっかりです。

 

一応個人で楽しむ日記とTwitterとはまた違うので多少他人にお見せできるように「表現は簡素に、わかりやすい文面で書く」のはちょっと意識するようになりました。

 

んで人に見られてもいい程度の、喋りたい独り言はTwitterの方でやっているのでここ最近日記帳に何か書いたり、ブログしたりというのをしなかったし特にしたいと思うこともなかったんですが、最近また語りたいことが増えまして。

 

シャドウバースっていうオンラインカードゲームが楽しいんですよ

 

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 ただカードゲームの駆け引きの面白さってTwitterではメッチャ表現しづらいし、何より専門用語とか、カード一枚一枚の効果知ってることがある程度前提の会話になるので知らない人にはなんのことかサッパリだし、こういうツイートばっかりだとシャドウバース知らない人にとっては意味不明だろうなと思っていたのでつぶやきは控えておりました。

 

でも面白くて…

 

語りたい…

 

となってたとこにTwitterのフォロワーが色々ツイキャスとかやってるの見たりして、ゲームの話したいな…となり

 

「シャドウバースのゲーム実況やったら思う存分カードゲームの話ししてても大丈夫やん」

 

と閃き、いきなりシャドウバース実況をニコニコ生放送で始めました。

ツイキャスもしたことない人間が唐突にニコニコ生放送始めたのでビビった人いたと思いますが、30分ぐらいでツール揃えてやりました。最近はこういう発信ツールが手軽に入手できていいですね。

 

基本的に生まれた時代が、ネットに顔写真出したら、童貞図鑑に貼り付けられたりコラ作られてネットのおもちゃにされる時代だったのでずいぶん時が進んだなあ…って思いました。

 

「このカード後に出したほうが良かったかなー」とか「向こうはOOデッキですかね」とか独り言全開の実況生放送やってみて感想なんですけど、友達の家とかで喋りながらゲームしてる感覚に近いですね。社会人になるとなかなか友人の家で集まってゲームとかできないんですけど、昔そういうことして楽しかったなーみたいなこと思い出しました。

 

「実況とか最近の若者は…」とか言ってましたが普通に1人でゲームやってる時より楽しかったです。

新しいものにも触れていく姿勢はこれからも大事にしようと思った出来事でした。

 

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