2017年目標
いまさらながら、2017年の目標をば。
キーワードは、「心の掃除」と「アウトプット」。
「心の掃除」とは、ずっと気になってたことをなんとかするということ。
ずっと果たせていない約束があるとか、ずっとヨガやってみたいと思ってたけどできてないとか、ずっと世界中の女の子を助けられる何かにきちんと取り組みたいのになあとか、そういう心にひっかかっていることをなくすために、何らかのアクションすること。
具体的には、小説を書き始める・ヨガやる・女性問題に関して単発でなく継続的な寄付を始める。
「アウトプット」は、方法はなんであれ表現することに復帰する意識をもつこと。
仕事以外で「書く」ことに復帰するとか、書く以外でも言うでも撮るでも行くでもやるでもなんでもいいので、とりあえずやること、やってみること。
具体的には、120文字以上の文章を書く回数を増やす(たった今、実施中!)、思いついたときにいつでもメモをとるようにする、考えるだけでなく書くことで脳内整理する方法を復活させる、写真をたくさん撮る、考えやアイデアだけでなく感情も表現する、など。
小説→まずは短編を適当に書いてみる(これがなかなか厄介)
ヨガ→今週末、近所のあやしい教室に問い合わせる
寄付→寄付先は見つけたので、あとは今週末プランを決めて寄付するだけ(たのしみ)
書く→テーマは何でも良いから週1以上ブログを書く
メモ→紙でやるかデジタルでやるか悩む
写真→特にいままであんまやってない人を撮る(姪とか)
感情表現→基本ニュートラルなのでまずは本気の感情を探す方法を考える。ひっかかりを気にする。
どれもそれぞれが循環するようにつながっていて、なんかやっぱり一貫する何らかの気配があるんやろうなあと。
結局、ひっかかっているものをどうにかするためにアウトプットが必要なんやという一年ぽい。
一番ハードル高いのは、明らかに小説。
これは約束したことだからやらなきゃならない。
自分でやりたいわけではないから、ヨガとか寄付よりつらい。
普段プライベートのことは現状報告はしてもあまり愚痴ることはないけれど、最近重荷になりすぎててあちこちの人に何かいたらいいかわからんと愚痴りまくっている。
しかも、自分自身小説をほとんど読まないので終わってる。
SF小説限定で、それ以外は全然読まない。
『果しなき流れの果に』というSF小説が好きなのだけど、作者の小松左京はこの作品を34歳の頃に書いている。
同じくらいに好きな『しあわせの理由』も、作者であるグレッグ・イーガンが36歳のころの作品である。
自分が読みたい小説を書く、としても、SFは無理やんすごすぎやんハードル高すぎやん。
仕事やと、伝えるべきこととターゲットがあるから答えにたどり着けるけど、趣味のレベルとか目標設定ってむずかしい。
人は死なない
p.53
ウィリアム・ステイントン・モーゼスの『霊訓』には、「我々は1つの信仰を唯一絶対と決め込み、他のすべてを否定せんとする態度にも、一顧の価値も認めません。心理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねます。いかなる宗教にも心理の芽が包含されているものであり、同時に誤った夾雑物も蓄積しています」とあります。
p.140
母の死を受け入れたとき、私は、これでもう心配しなければならない人はいなくなったという思いが湧き上がり、その瞬間言葉では言い表せない大きな安堵感、幸福感のようなものに満たされました。そして、あとは死を迎えるそのときまで、心を無にして生きていこうと思いました。
p.153
アメリカの実験心理学の父と呼ばれるウィリアム・ジェームスは心霊現象について、それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれども、先験的に疑いを持つ人にまで信じさせる証拠はないという限界を持っている、と指摘しています。
以前この本の作者がマル激トーク・オン・ディマンドに出ていて
その中で、宮台がユングやクリプキ、ヴィトゲンシュタインの話をしていたのが面白かったので読んでみた。動画のなかで面白かったところを要約すると、
「神秘現象」の存在と、「神秘現象の体験」の存在は違う。「神秘現象の体験」の存在は、「神秘現象」の存在を意味しない。しかし、現象と体験を分けることはあくまでコミュニケーション上の便宜的なもので、現象とは間主観的な体験の理念化とも言える。結局現象と体験を截然と区別はできない、ということは現代哲学の最前線では常識だ、
みたいな話。本は、ミンスキーの「内在性の錯覚」の話なんかも思い出しながら読んだ。
認識や科学の限界。自然科学はHowに答えるものであり、Whyに答えるものではない、というようなことを誰か言っていたが、要するにそういうことであり。アインシュタインはユダヤの神を信奉し、ニュートンは錬金術を愛した。「人は死なない」の中にはこの人たちは出て来ないし、あまり期待していた内容ではなかったが、やはり現状の自然科学「信仰」の限界については述べられている。まあ、スピ系の常套手段。同様に、作者がいくら東大の偉い先生でも、「信仰」の分野に対する精神力の強さを持ち合わせているわけではないことは、オウム真理教などの信者に高学歴の人間が多くいたことで証明されている。要するに、この本の内容を真に受ける必要もないということであり、そもそもほとんど既にどこかで観たことのあることしか書かれていなかった。流行った理由は、この内容を東大の救命救急とかやってた大先生が言っている、という一点であったのだろう。内容はコレ系の本によくある使い古されたものでしかない。
残虐性のスケール。その意味では、ISISはナチスよりひどい。
全文表示 | おりに閉じ込め、外から火をつける ヨルダン人パイロットの非道「焼殺」動画 : J-CASTニュースヨルダン国民の大半がイスラム教徒で、イスラム教では火葬は禁忌だとみなされることが多いとされる。こういった殺害方法をとることで、残虐さを強調する狙いがあるとみられる。
■ISIS
遺体を焼くというのはイスラーム教徒にとって「死後の終末の日での復活を許さない」という倫理的にも過酷な仕打ちなのだそうだ。今朝、池内恵さんがつぶやいていた。
見た目の残忍性だけでもかつてないほど衝撃的だったが、この事実を知ったとき身震いした。無宗教の自分からは「どう殺すか」ばかりが目に付くが、宗教的世界観の中に生きる人たちは「いつまでどう殺し続けるか」というさらにスケールの大きい残虐性がありえる。
■ナチス
今朝このニュースを見たときに、アウシュヴィッツ強制収容所を思い出した。この間もNHKアーカイブスで放送されていた『死の国の旋律 アウシュビッツと音楽家たち』でも描かれていたアウシュヴィッツの囚人オーケストラの話だ。ドキュメンタリーの内容は、この囚人オーケストラでバイオリン奏者として任務を行っていたゾフィアという80歳の老女が、始めてその一部始終を語るというものだった。
ナチスが彼女らに与えたミッションは、ときには炎を上げる焼却炉の横で、彼らがガス室に向かう道ばたで、またあるときには衰弱した女性達がガス室での処刑を待つ死のブロック内で、同胞へむけて「勇壮な行進曲」や「陽気な音楽」を演奏する、という過酷なものだった。それは、収容所の仲間をもてあそぶような耐えがたいものだった。
ラデツキー行進曲 ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート - YouTube
【70年前の大惨劇】アウシュヴィッツ強制収容所の写真 - YouTube
囚人オーケストラはアウシュヴィッツに限らず、さまざまな収容所で囚人に苦痛を与える手段として、ナチスによって戦略的に使われていた。囚人たちの悲惨極まりない状況を卑劣にあざ笑うように、痛烈なタイミングで、陽気で勇壮で賑やかな音楽ばかりが選ばれ演奏された。ナチスは彼らに、肉体的な苦痛や死を与えるだけでなく、綿密に考え戦略的に死の直前まで精神的苦痛をも与え続けた。同じく、そんな仕打ちに加担させるという方法で、囚人オーケストラのユダヤ人達にも死ぬ間際まで忘れることの出来ない深い心の傷を与えた。
ゾフィアは自分を責め続け、音楽を聴くこともままならなくなった。60年後、余命いくばくかの老年に、ようやく少しずつ大好きだった音楽が聴けるようにはなったが、それでも当時演奏した曲を聴くといまでもどうなるかわからない、と言っていた。
ふり返れば、つらく苦しい体験ばかりでしたけれど、それは私に、人生や人間、そして世界を深く見る力を与えてくれました。アウシュヴィッツは今も叫び続けています。“人間よ、考えるのだ”と。(ゾフィア)
残虐性のスケールの違い
しかしそれでも、ナチスの鬼畜的行為はこの世に閉じている。生まれてから死ぬまでである。
けれど、ISISは、生まれてから死んだあとまで殺そうとする。さらに「ヨルダン人パイロットは空爆で多くのムスリムを焼き殺した(≒ 死後も殺した)。これはその報復でしかない。」という彼らの言い分を聞くと、もはや自分とは圧倒的に異なるスケールのなかに生きているのだなあということを改めて実感させられた。
死後も殺す。肉体だけでなく、魂までもを滅ぼす。
ゾフィアの一生をかけた言葉をかき消してしまいそうなほど、とてつもなく強い言葉だ。強い言葉は、キャッチーでわかりやすく極端だ。そしてそれを拒否しつづけることが出来るのが、ゾフィアの言う「考える人間」なのだろう。
生まれる前から死んだ後まで殺そうとするのは、このパターン以外に「呪い」くらいしか存在してないだろうな。
この話もとても心に残ったのでメモ。
悪質なデマの可能性が高い 「後藤さんのまばたきはモールス信号」 WEDGE Infinity(ウェッジ)
コピーや広告の文言を自動で生成する「Persado」
前から気になっている「Persado」。マーケティングオートメーションと、それにともなうコンテンツ自動生成・チューニングの流れは間違いなく進むし、逆らうことはできないだろうと思われる。引き続き本件、要観察。
コピーライターが不要!?サイトのコピーや広告の文言を自動で生成「Persado」 | Techable(テッカブル)実際に効果のあるキャッチコピーやサイト、メルマガで使えるテキストを自動で作成してくれる
Urbex/urban exploration
Urbexとは
vol.1 なぜ、いま世界で「廃墟」が注目されているのか?|廃墟とアーバン・エクスプロレーションの現在――『世界の廃墟』インタビュー |佐藤健寿|cakes(ケイクス)
佐藤 アーバン・エクスプロレーション、つまり「都市探検」なんですけど、都市や郊外の未知なる領域に足を踏み入れてその場所を暴く、という活動が盛り上がっているんです。SNS上でも「Urbex」(※)で検索するとコミュニティがたくさん出てくると思います。
※ urban explorationの略
佐藤 アーバン・エクスプロレーションという言葉はもともと、2005年にその界隈で有名なニンジャリシャス(Ninjalicious)というカナダの都市探検家が『Access All Areas(全面通行許可)』という本で提唱した概念です。そして最近出た『「立入り禁止」をゆく』という本の著者のブラッドリー・ギャレット教授が、都市探検家となって、より攻撃的な意味をもつ「プレイス・ハッキング」という概念にまで拡げています。
佐藤 世界的に流行しているグーグルのIngress(GPSとマップを用いた陣取りゲーム)なんかはメタレイヤーでのプレイス・ハッキングそのものだし、ドローンの急発展などを見ても、場所をハックする、というのが次の潮流になる
vol.2 日本が「廃墟先進国」になった理由|廃墟とアーバン・エクスプロレーションの現在――『世界の廃墟』インタビュー |佐藤健寿|cakes(ケイクス)
佐藤 そもそも日本の「廃墟」があらわすものと、英語の「Ruin」には隔たりがあるんですよね。「Ruin」には遺跡まで含まれていて、どこまでが廃墟で、どこまでが遺跡という明確な線引きはない。
ただ、そうだとしても、廃墟ブームのおかげで日本が「廃墟先進国」として認識されているところもあります。ちょうど漫画が「Comic」でなく「Manga」と呼ばれるように、廃墟のことを「Ruin」じゃなくて「Haikyo」って呼ぶ人もいるくらい。つまり海外の人も日本における「Haikyo」が、自分たちの「Ruin」とは違うものを指しているということを認識してるんだと思います。
Urban exploration - Wikipedia, the free encyclopedia
Webライティング11のルール
Webライティング11のルール
- 意味を変えず文字を減らす
- 文字数のバランスを取る
- 段落をデザインする
- 抽象的な表現は具体的にする
- 平易な表現にする
- 見出しで内容を伝える
- 長い文章は分割する
- キーワードを自然に含める
- 論調を統一する
- 表記を統一する
- 改行を調整する
「看板」から学ぶ「見出し」の基本設計とは!?
■よい看板=「見出し」をつくるための5箇条
- 紙媒体とWebとの「読まれ方の構造」の差を理解する
- 読者を導く「看板」として視覚的・直感的な表現を目指す
- 「看板の材料」として的確なキーワードを見つけ出す
- 「具体性」と「謎」をブレンドして読者の欲求を刺激する
- 性質の異なる言葉をぶつけて「インパクト」を生む
ASCII.jp:3限目:「看板」から学ぶ「見出し」の基本設計とは!?|書かなきゃいけない人のためのWebコピーライティング教室
日本語の文は4つのレイヤー(命題・現象・判断・伝達)からできている。
どの文章にどの層(レイヤー)が使われるか
◯4つ【命題・現象・判断・伝達】→ 話し言葉、手紙
◯3つ【命題・現象・判断】→ 実用文、論文
◯2つ【命題・現象】→ 小説、新聞
◯1つ【命題】→ 詩
(会話、論文、小説の言葉はどう違うか?日本語の文は4つのレイヤーからできている 読書猿Classic: between / beyond readers より)
審神者(さにわ)
審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者のことである。後には祭祀の際に琴を弾く者を指すようにもなった。 「さにわ」(歴史的仮名遣いでは「さには」)は、元は「清庭」(さやにわ)の意味で、神を祭り神託を受けるために忌み清めた庭(場所)のことを指したとする説が有力である。『古事記』の仲哀天皇の段に、天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭(さにわ)に居て神の命を請うたという記述がある。ここで沙庭は場所の意味であるが、武内宿禰が審神者を務めたということになる。その後の記述では、神が神功皇后に乗り移り、神託を述べている。 『日本書紀』の神功皇后9年3月には、皇后が自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者としたと記されている。 後に、神楽で琴を弾く者のことを「さにわ」と称するようになった。平安時代の『政事要略』に「今琴弾之者を以て佐爾波(さにわ)と云、偏に以て神遊に供奉す」とある。 近現代の新宗教教団においては、人についた神や霊の正体を明かしたり、その発言の正邪を判断したりする者のことを審神者と称している。
関連項目 朝霧の巫女
カテゴリ: 神道