(λx.xx)(λx.xx)

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Shallov、とてつもなく良い激情バンド

久しぶりのブログだ。。。

YouTube サーフィンしてたら、とんでもない激情バンド見つけてしまったので紹介したい。

Shallvov」というスロバキア🇸🇰のスリーピースバンド。とりあえず、最近の2曲を聞いて。


これスリーピースの音かよ。。。

2曲ともMVのクオリティも高杉。もはや映画に思えてきませんか*1

特に一曲目、05:30 からの展開が激すごい。映像も音も「!?」てなること間違いなし。

ちなみに生演奏のクオリティも高い。

 

ここから、さらなる詳細と個人的な感想。

Shallov に関する情報は以下の bandcamp でしか見つけられなかった。

https://shallov.bandcamp.com/album/concrete-glass-remastered

Twitterとかもしてなさそう。FBはあるけど自分がやってないや。。。

ジャンル的に、演奏力の高さや複雑さと、最近の流行り*2?からプログレッシブ・メタルとかなのかなと思ったけど、

bandcamp のタグを見る限り、ポストハードコア、エモーショナルハードコアを本人たちは意識してそう。てか、個人的に激情系音楽味を強く感じるんですよね。

何をもってして激情ぽいかって難しいけど。シャウトがあればいいってもじゃないし、メロディアスであればいいってもんでもない。ただ、Shallov の曲って、激情の芯みたいなの強く感じたんですよね。そして、本人たちが激情であることを自覚してるようで本当に嬉しくて嬉しくてこの記事を書いた次第です。

言語化するのはかなり難しいんですが、不穏なメロディと熱いメロディ、抑揚のあるシャウト、そして何より三拍子!!これ、90後期〜00初頭の日本の激情を感じませんか?どうです、最高じゃないですか???

 

Shallov 日本来てくれ。ってかもっと情報を出してくれ。

 

*1:ドライヴ / オンリー・ゴッド の ニコラス・ウィンディング・レフン の映画ぽく感じた

*2:プログレッシブ・メタルが流行ってるかは知らないけど、Polyphia ぽさを若干感じた。Polyphia もそれはそれでかっこいいと思ってる。Saucy超好き。

言葉の意味とは何かそして何であるべきか

はじめに

本稿では、「言葉(記号、情報)の意味とは何か、何であるべきか?」について考察を行う。
考察の主たる動機としては、以下の個人的な疑問について、個人的な納得を与えるためである。

  • 人工知能は言葉や数式の意味を理解をしているのか?
  • 記号(文字、言葉)は存在しているのか?(インクやペンの染みと紙は存在していると言い切って良いが)

これらについて、「意味」がどのように介在してくるかは後で述べるが、これらは「意味」という言葉を適切に運用すれば、個人的には納得のゆく考察が可能なものであり、そのために、「意味」が何者であるか?何であるべきか?の考察を行った。

ちなみに、私(筆者)は、哲学の議論に関する教育を受けたこともなく、本稿も哲学の議論として記したものではない。あくまで個人的な疑問を解消するための考察であり、いちブログであるため、哲学に一石を投じようとする意図があるものではない点はご承知おきたい。(ただし、哲学の議論でこの手の議論がされている印象があるため、本稿の内容が哲学的な議論であるという表現はわかりやすさのため用いる。もし本稿の内容が哲学の領域を踏みにじっていると感じた方がいても、半可通の言葉遊びだとご容赦願いたい。)

結論

先に結論を述べる。
言葉の意味は、当然に物理的存在ではない。言葉の意味とは、言葉自身に場所がありそこに駐在されるものでもなく、
言葉を認識した聞き手が言葉によって引き起こした変容を意味と定義するべきである
というのが私の結論である。
つまり、言葉(ないしそれ相当の記号列、情報)はそれを観測した聞き手に「消費」され、消費後の変容こそが意味である。

もっと具体的に述べよう。
「8月はスイカが美味しい」という言葉(文字列、情報)の意味は、「8月はスイカが美味しい」という文字列(正確には、文字相当のパターンの列だがこれはあまり重要ではない)自体に宿るわけではなく、それをみた ""あなた"" が、「スイカ食べたいなぁ」とか、「最近暑いなあ」とか、「スイカは別に好きじゃないなぁ」といった感情を引き起こす。あるいは、実際にスイカを買いに行くかもしれない。この変容こそが意味であり、文字列自体に宿るものではないというのが私の結論である。
つまり、意味は一意ではなく言葉の認識主体の数だけある。

いやいや、8月という時期があって、スイカというのは食べ物で...という一意な「国語的な正しい意味」、あるいは 1+1=2 等は「数学的な正しい意味」があるでしょ?という反論がもちろんあると思う。それについては後で詳細を議論するが、ここでは、それらの正しいとされる意味は、消費した後の変容の一部を一定程度統一するための規範を指す言葉であり、言葉の意味 の定義は相変わらず、認識主体側の変容一般を指すべき という私の結論に変わりはない。
一意的な普遍(あるいは真理的)の(正しい)意味があると考えてしまうのは、人間の言語能力と認識能力の高さゆえ、またそれに日常が支配されてるゆえの過剰なコミットだということを後述する。

このことから、言葉の意味を「理解する」という表現自体が不適切な表現である。変容は言葉を受ければ起きるからであり、変容に正しさも誤りもないからである。(「法定速度は60km/h」は真偽がつく命題と言えるが、「60km/h」は命題ではない。)

ただし、ある変容を規範として、それとだいたい同じ変容を正しいと暫定的に捉えることはできる(これが、ある種の規範的正しさである)。

よって、AIが言葉の意味を理解しているか?は不適切な問いであり、AIが言葉を受けて何か変容しているか?という命題ならそれは正しく、その変容が人間と大部分で同じか?という命題なら正しくないという結論は導ける。これこそが適切な問い立てと回答である。

また、インクの染みや、ハードディスク上の(文字列に復元されうる)物理状態はもちろん存在している。それらはパターンとして人に認識されれば言葉としての意味となるが、単独で意味としてそこに存在していることはない。というより、意味は消費者に起こる変容なので、存在とは異なる(車は存在するが、時速60kmは存在ではなく現象である)。

記号は消費者があらわれれば意味となりうる という認識が適切である。

以上の分析が、私なりの納得である。

では、結論に至るべきまでの議論を述べたい。

議論

前提

議論では以下を仮定する。あるいは、仮定というより大原則とするというべきかもしれない。
結論もこの仮定のもと出したものであり、特に1番目は本稿の中心になるものなのでしっかり抑えてほしい。

  • 1. ハードな二元論的世界を仮定せず、全ては一つのキャンバス上の議論とする
    • 1つのキャンバスを物理世界と本稿では呼ぶが、いわゆるステレオタイプ唯物論者では私はない
    • つまり我々は、「普遍(や真理)の世界」を覗くことも、そこにコミットすることもできない
    • 普遍世界(や真理世界)みたいなのを仮定しない理由はシンプルで、観測できていないものを仮定していくことを許可すると議論が収集つかなくなるからである
    • 繰り返しになるがこれは本稿の大大大原則である
  • 2. 問題や神秘性をより素朴な問題や神秘性に還元することで、議論の範囲を限定することは理想的であり、ある種の解決である
    • 本稿では主に、意味の問題を神経や諸科学の神秘さに還元している

辞書から考える

そもそも、言葉の意味とは何だろうか?

[goo辞書](https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%84%8F%E5%91%B3/)によると、言葉の意味とは以下の通りである
> 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。
上記の定義であれば、言葉の意味とは、「言葉自身」に紐づくものと考えられそうである。

また、ご存知の人も多いかもしれないが、言葉の意味についてはいろいろ哲学的な議論がされている。ここではそれらの紹介はしないが、私が見てきた範囲では基本的にはやはり「言葉自身」に意味が定義されていた。

日常での考察

哲学的な問いを考えるときに、日常的な問題に還元して考えることは悪くないことだと思う。
一旦、ここまでで述べた議論をクリアして、素朴に以下の2つの言葉の意味を考えたい。
先に述べると、以下の2つの例を通じて、我々は「意味」のある側面として「第二人者(言葉を受け取ったもの)の解釈やそこからつながる行動」が関わってくるということがわかる。 

それは「意味」がない(無意味)

「あの人は好きな人がもういるから、アピールしても意味がないよ(意味だよ)」 この言葉の意味を考えてみよう。
まず、これは明らかに、「アピールしても期待する効果がない」という趣旨であり、ここでの「意味がない」は、「あなたの期待する効果がその行為で得られない(からやめるべき)」という意味である。
本当に意味が空っぽであるということが主張されているわけではないということは抑えておきたい。 

正しい理解

「「善処します」を努力しますと捉えるのは正しい理解ではないよAくん。善処しますはできませんという意味だよ。」
この言葉の意味を考えてみよう。
ここでは、2つの意味がでている。

「努力します」と捉えた第二人者Aの解釈、
「できません」と捉えた第二人者Bの解釈、「できません」という意味で(おそらく)述べた第一人者の意図である。

つまり、ここでいう正しい理解とは、「第一人者(発話者)」の意図と一致するものを指すと考えられる。

 

意味の再定義

「日常での考察」で述べたことに関して、以下のように「意味」概念を(上での議論からわかったことをやや一般化して)定義したい(辞書と異なる定義なので、再定義とした)。

言葉の意味とは、その言葉を受け取った聞き手(第二人者)に訪れる変容のこと

ここで聞き手の「変容」とは、「解釈」を更に一般化したもで、その言葉を聴いたことで脳内の神経でおこる変化であり、その変化から伴う行動まで含める。神経の変化という表現には、まだ厳密には解明されいないと言われている、感覚や感情の変化も含める(クオリアという表現でもよかったが、クオリアの存在をみなが認めてるわけでもないようなのでその表現は避けた)。

つまり、「青い海を観に行こう!」という言葉に対する変容としては、「青い海」のイメージ、過去の経験による青い海を見たときの素晴らしい感情、
青い海に行くという計画に対する理論的な判断、などを含む。

そして、他に定義したいものが、「正しい理解」と「教科書的正しい理解」である。

言葉の)正しい理解とは、その言葉を生成した第一人者が聞き手(第二人者)に意図(期待)する変容」のこと
言葉の)教科書的正しい理解とは、規範的な変容」のこと

例えば、行きつけの店における「いつものやつ」の正しい理解は、「中華そば大盛り」などである。
一方で、「いつものやつ」の教科書的正しい理解は存在しないが、「善処します」の教科書的正しい理解は「できません」であり、これは上の例では、正しい理解 = 教科書的正しい理解 が成り立っている例でもある。

このような定義をする意義であるが、このような定義をすることで、ある種の分析が(明確になって)便利、以上の意義はない。意味 = 正しい理解 と定義してもよいが、この3つを分けて考えると分析が明確になるため、分けている。
( 少しだけ付け加えるとすれば、意味を受け手に置くことで、
「戦争」という言葉の持つ「痛み」、「虹」や「空」や「海」などの言葉がもつ「美しさ、喜び」などの言語的には表現しづらい感情も意味の範疇になり、主体が人間だけではなく犬や動物、感情がない機械に対しても「意味」が生じうる事を可能にした。 )


正しい理解に話者の意図は必要なのか? 普遍的言及に関する議論

意味、正しい理解は、話者、聞き手が存在する場合には存在しうる。
しかし、話者に必ずしも意図が存在しうるのか?
例えば、「事実」に対する言及、「数学の定理」に対する言及は、話者の意図とは別に、また規範という社会的なものとも別に、「普遍的な意味」というものがあるのではないか?
そして、この普遍的な意味こそ正しい意味とするべきではないのか?
といったことに対して議論をする。

 

事実の普遍性

我々はともすれば、普遍的言及をしたがる。しかし、本稿の大原則を思い出してほしい。普遍を我々はしらないし、普遍に我々はコミットできない。
ビートルズが4人組であるというのは、ほぼ間違いないことではあるが、我々は普遍の事実というものにコミットできないのである。

経験したこと、目で見たことを日常的に事実というのは問題ない言及であろう。
しかし、その日常的な意味での事実に対する感覚を言葉の意味の議論に持ち込むのは禁物である。
我々ができるのは、高々自身が正しいと揺るぎない信念をもっているという言及である。

強盗現場の目撃者が、「犯人は黒い服の男だった」と述べる時、「自分の神経が間違いないとい感覚を持っている」ことから、ともすれば普遍的事実のように断定口調となっているのである。そのギャップを慎重に考慮すれば、この目撃者の発言の正しい理解は、
(聞き手が、)自分と同じ様に間違いないという変容を伴い、かつ、黒い服の班員を目撃した映像と自分の同じ変容を伴う ということである。
もし、犯人の仲間が別の目撃者になりすまし、「犯人は白い服の女だった」という嘘の言明をした場合、正しい理解は、「白い服の女だった」ということと、自分が目撃したということ以外は共通であり、ここで正しい理解に違いはない。
違いがあるとすれば、前者は発話者に事実に感じるという神経の状態がが伴っており、後者はそれを伴っていない(嘘をついているという状態をむしろ伴っている)ということである。

我々は普遍(真理)にコミットできない以上、事実は事実の神経状態を伴っている以上のことは、同一キャンバス上に描くことではできないのである。

数学、科学の普遍性

数学も「事実」と同じ用に、普遍的な言及に思える。定理は、普遍的な事実として主張され、
数学的事実は検証可能という点で、上の目撃者への言及よりもより普遍的な主張とも思える。
しかし、何度もいうが、われわれは普遍や真理にアクセスできない。
では、数学的な正しさはどのように考察するべきだろうか?

「1+1=2」という主張は、やはり、主張者の神経がこれを強く正しいと感じる状態にあることは否めないであろう。
しかし、数学にはもう一つ重用な営みがある、「証明」である。証明には重用な要素がある。公理やより推論規則という小さな前提条件から、より大きな帰結を導けるという性質だ。

また、もう一つ特筆する点があるとすれば、数学的な正しさは「再現可能」であり、
上の目撃者の例とは違い、紙とペンがあれば基本的に再現可能であるという特徴がある。

ただし、実はこの2つは数学だけではなく、物理や計算機科学なども同様の性質をある程度もつものであろう。

何度も何度もいうが、我々は普遍や真理ではない。
結局の所、最小性があろうと、再現性があろうと、我々が確認できるのはその再現性を我々の観測が補足できるというところまでである。
つまり、これらを普遍性とコミットしてしまうのは過剰であることと変わりない。
ただし、話者が求める変容の要求度の高さに対して、それをある種の検証能力がある聞き手が「正しい理解」が可能であるという特徴と、
「(計算などの)実験」を通して、聞き手が同じ結果を観測できるという特徴もある。
後者についての不思議さなどは、もはや「意味」ではなく、「個別科学の不思議さに還元できるし、そちらで議論するべきだろう。

観測された現象を普遍と捉えてしまう、これらはある種の我々の認知能力の高さからくるものだとも言えるだろう。しかし悲しいかな、全てわれわれの感覚(五感)から得られた情報に基づいて生成されているため、数学や物理的な普遍性があるとしても、それに関する言及は普遍性へのコミットとは別である。

(この議論に納得がいかない方は、次の章のロボットの議論読まれるとひょっとしたら納得いただけるかもしれない)


普遍的な言及についてもうちょっとだけ

ここまでの議論では、「普遍的な意味」を否定し続けてきた。
しかし、私は、「普遍的な認識一般の有意義性」を否定するつもりは毛頭ない。むしろ、人類のこれまでの進化はこの普遍性と認識してしまうある種の錯覚から生じたと思っている。

つまり、数学的主張もそうであるし、非現実のキャラクターを普遍の存在としてストーリーを作り上げられる想像力などは、普遍を自らのうちに作ってなければできない所業だろう。

ただし、自らのうちの普遍が、他人ともある程度共有できるというところまではよいが、
それが何かしらの絶対的な普遍であるとなると、オーバーコミットであるということを今回主張している。

 

共通の内部モデル上で普遍性が語れる可能性

あくまで物理世界のみを認めた上で、他人と認識的な普遍性(科学的事実や、空想のキャラクター)が共有できている場合、つまり、相手の変容が確信できる場においては、「普遍的な言葉」を(限定された意味で)語ることが可能になる。
世界に関する事実、ドラえもんの世界などの存在し得ないと思われる世界の事実に関する言及もある種可能となる。

なぜなら、普遍に対するコミットではなく、「お互いの中の普遍的に感じる機能」に関するコミットであるからだ

ロボットを例にするとわかりやすいかもしれない。
ロボット2台が同じ部屋にいる。このロボットはそれぞれ部屋に関する情報をセンサーなどを頼り集め、内部的に世界のモデルを構築している。
今、ロボットAが扉の近くに落とし穴があることをセンサーでみつけ、Bluetooth経由でロボットBにそのことを伝えた。
この時、ロボットAはロボットBに世界(部屋)の事実として罠の存在を伝え、Bもそれを事実として「内部の世界モデル」に罠の危険性を加筆した。
この例であっても、ロボットAの言葉(通信)の「意味」は、「ロボットBの変容」であることは変わらない。
ロボットAの言葉の「正しい理解」も同じ様に、ロボットBが(罠にかからないように)「変容することで、その変容は世界の内部モデル書き換え」であろう。しかし、ロボットAもロボットBも「世界の内部モデルがある」ため、ロボットAの言葉は、「世界の事実」としても見なせる。

これが普遍にコミットできない我々でも、共通の変容が想定されうるときには、「普遍を語れる」可能性がでてくるということである。

むしろ、一般的には、この「変容が共有できている状態を前提として」言葉の意味が議論されてきたようにも見える。例えば、「宵の明星と明けの明星」の意味に関する議論などは、まさしく世界の内部モデルが我々に共通してあるからできる科学の議論である。

この内部モデルが存在しうる、ある種アプリケーションレイヤーでの言葉の意味などについては、本稿ではとても扱いきれないのでここで終わるが、
少なくともロボットの例に出したようなモデルと我々人間も同じであることは考慮すべきである様に思う。

まとめ

以上見てきたとおり、人間には「普遍」に関して、よくも悪くもオーバーコミットをする性質がある。そのオーバーコミットは大変豊かな帰結をもたらすが、状況を分析するうえでは、そのオーバーコミットの特性を認識するとまた別の見え方が可能であり、「意味」などは特にそうである。

慎重に「意味」を分析すると、これまでの意味に関する哲学的な議論が、より問題を個別詳細化(あるいは哲学的問題から科学の問題への帰着)できる様にも思える。

AIが意味を理解しているか?という問いは、正しい理解に関する求める変容をどこに置くかで、例えば、神経のレベルまでの一致なら No であり、計算などの正しい答えを出す変容を理解とみなせればOKとする立場なら Yes  と答えることができる。
また、前者であればより深い議論は神経の科学の問題に還元できそうである。

既存の意味に関する議論はあまり触れられていなかったが、既存の意味に関する議論が、「共通の内部モデル」が前提された場面における考察であったということがわかったというのは個人的に有意義な結果であった。

おしまい。

 

本稿に目を通してくださった方、ありがとうございます!

 

追伸

なんとなくであるが、本稿を書き終えてみて、本稿の内容が結果的に戸田山和久先生の「哲学入門」の内容に似てしまった印象を今感じている。

個人的には、哲学入門においては、「意味」は湧いてくるものとはいえ、何か存在者的な雰囲気があった記憶がある(がうろ覚え。。。)ので、少なくともその点では違うとは思っている。そこからインスピレーションを得たわけではないが、暗黙的に無意識に影響を受けてしまっている可能性は避けられない。

ただし、一応本稿を書き始めた動機としては、「日常での考察」の章で述べた、「無意味」は本当に「無」意味なのか?という日常的な疑問と、「推論主義」と呼ばれる方々の意味に関する議論(難しいので、勝手な理解でいます)から、本稿での意味の定義に関するインスピレーションを得、そして、意味の定義を今回のように細かく定義すれば、上で書いた2つの問題も納得の行く表現ができなと気づいて、本稿をまとめたというものである。

他にも、「チューリングテスト」が何を言いたかったのか、「記号設置問題」、「(単語の意味の)分布仮説」等に関する考察もしており、それらの章も書くつもりであったが、力尽きてしまった。

もし、本稿に何かしらの反応があれば追記するかもしれない。

ニコニコ大百科におけるメタな(解説をしている)記事

ニコニコ大百科 をみなさんも一度はいんたーねっつで目にしたことがあると思います. Wikipedia にしろ,ニコニコ大百科にしろ,信憑性等はまぁソーシャルなものなので ある程度限界があるとは思いますが,読みやすさが良いですよね. ニコニコ大百科は特にくだけた表現とか,記事にスレッドが付属しているあたりが凄く好きです.

ところで,ニコニコ大百科の記事を読んでいると,メタな解説をしている記事,記事の内容自体がそのことばがあらわすものそのものになっている記事が多いな〜と気づきました.
意味不明ですか?記事がそのものを表すのは当たり前だって? 例を見てもらったほうが早いかもしれません.

なんとなく伝わりましたか?

例えば,アイスクリームの記事などは,アイスクリームそのものを表すことは絶対に不可能でしょう. 一方で,この文字化けの記事の様に,記事の中でそのことばそのものを表現することができる属性のものがあります. ただし,この作業自体は,Wikipedia でも可能です.

ですが,Wikipedia はその性質上,ニコニコ大百科ほどユーモラスにはできないでしょうね.

ここでは,

例:「文字化け」が、「 文字化㑠」と表示されるなど。

このような表現にどうしてもとどまってしまいます. つまり,文字化け記事中の1オブジェクトとして文字化けを表現するという形式になってしまいます.

記事中のオブジェクトにとどまるという表現はわかりにくいですか? では,記事中のオブジェクトにとどまっていない,わかり易い例を(ニコニコ大百科の文字化けの例も十分とどまっていない感ありましたが)

なんだこのきじ(^ν^)
まさしく,いんたーねっつじだいだからこそできるわざ


しかし,記事 という言葉の意味は,三省堂大辞林によれば

①新聞・雑誌などに報道されている事柄。また,その文章。
②事実をありのままに書き記すこと。また,その文。
③「記事文」の略。

とあり,記事文の意味

文章の種類の一。事実の記述を主とする文章。記実文。

とあります.
( ー`дー´)うーん...難しいですね.
ここで,事実を(記事となることばが指す)対象のこと だと考えてみると, 対象の記述を主とする文章であればよいわけで,対象そのものだけ はダメだが,対象に関する記述がアレばOK という感じですかね.ニコニコ大百科の例でいえば,文字化けはOK(後半に解説ある),無限ループはNGということになるのかな.

まぁ,無限ループの様に,記事たり得ていない?ものも(ニコニコ大百科の記事の)中にはありますが,このユーモアさが好きですw 記事としては然るべき性質じゃないとしても好きです. ということで,このようなパターンの記事をまとめてみたいなーと思います.

はてなブログではなく,はてなブックマークでやれと言う感じかもしれませんが,こっちのほうがリンク先にいろいろ言及できるのと そもそもはてなブックマークの使い方知らないという問題がありました.やっぱブックマークでやるのがいいのかなぁ・・・

なお,以下の分類は私が独断と偏見によるものですのであしからず.



うーんこうやって分類すると,そのもの系が多いですかねw
そして,そのもの系が一番僕も見ていて面白かったりします(出落ちなのかもしれないけどw)。メタな解説記事かも?と思って,検索してみて、やっぱりメタな解説がされていると結構うれしいですw
このブログ記事は,時々編集(更新,分類追加)していきます.

あと,メタといえば,京都大学の林晋先生の,メタの世界という記事がすごく好きです.

みなさんも,何かニコニコ大百科のメタな記事を見つけたら教えてくださいね.

あ,あと忘れていた.このブログを書くにあたって,このブログを参考にしたのでよければこれもみてみてください.

ロボットからの倫理学入門 読書感想文

久木田,神崎,佐々木「ロボットからの倫理学入門」を読んだ

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何故この本を購入して読んだのか?

  • 久木田先生が,初の著書?(翻訳などはあったと思うが)を出されたとのことで,これは買わなければならないという使命感があった

  • 本を買うということについて:在野の人間(会社勤めの非研究職)が,アカデミアの方を支える最も簡単かつ自身にもメリットがある方法は,著書を出された際に,新書を購入することでしょう.積極的に本を買いましょう😄

    • 学生さんは,所属する学校の図書館に購入リクエストを出すことで,同等のことが行えると思います 😊
    • 一方で,その研究者のつぶやきや(難しい論文でなくとも)公開資料などを見ることで,我々は無料でメリットを得られる
    • 最近では,OCWで,授業をまるごと聴講できたりもするので...素晴らしい時代になった
  • また,久木田先生も参加された,ロボットやAIに関連した倫理についての研究会(一般参加も可能なもの)に参加したこともあり,元から興味がある内容ではあった

  • もっといえば,そもそも倫理一般に最近興味があった

    • #余談ですが,自分は徳倫理派(徳倫理のある種直感的?な部分が好きです)

本の紹介

  • 目次なんかは,出版元の名古屋大学出版の情報

  • 冒頭(iP)に以下のようなことが書かれている

    本書のねらいは二つあります.ひとつは倫理学に初めて触れる読書を対象に,ロボットを通じて人間の倫理・道徳について考えてもらうことです. もうひとつは,ロボットや人工知能(AI)に携わる人々(研究者,メーカー,ユーザなど)が,関連する倫理的問題について考え議論するための土台を提供することです.

  • 繰り返し,倫理学に初めて触れる読者を対象にしているという記述があるので,「入門」であることは強く意識されている感じ(自分は初学者なのでよかった)

  • AI・ロボットというのはホットな話題という以上に,不可避的に人間それ自身の投影であったり,人間とは少しだけ違うが(理論的)一般化によって同じ権利を有する可能性がある対象 という性質がある

    • これが,本書の話題展開の一つの柱になっている感じがあり,そこが本書の面白さの肝な気がする
  • SNSや,現代の監視社会のように,AI・ロボット固有だけではない,現代社会が抱える問題の倫理的議論もちょっとだけ紹介されている

    • 例1: 情報技術の発展に伴って生まれたソーシャルサービスによる,現実の他者への配慮欠如可能性(第5章)
    • 例2:プライバシーの重要性と,プライバシーが保証された社会がもたらすメリットについて(第6章)

本書の良い点など(本の紹介と若干内容被るかも💦)

  • まず一番強く感じたのが,文章が洗練されていて,読みやすくわかりやすいのに,隙がない(ということの意味は後述)文体

  • 具体的な最新の事例(テスラ・モーターズ社の死亡事故や,ソーシャルロボットの例としての Jibo など)が豊富

  • ある倫理的な概念を解説するときは,必ず実例が伴われているので,謎抽象論に置いてきぼりにならない

    • 議論の起点が,実際に起きている問題が中心だから
    • 例:AIBOによる癒やしは欺瞞なのか? など
  • 各章のまとめが本当にうまい.まとめを読んだときにその章の内容が鮮明に思い出される&整理されるので,本当に凄い.

  • 前提を明確に述べ,前提が成り立つならばこういう倫理的社会的問題が浮かび上がるよね という書き方,あるいは,こういう観点ではこれこれの可能性がまだ排除できないよね という書き方がされているので,内容が正確(これが隙きがないと感じる文体)

    • 例1.82P : 現代の自由意志論を基盤とした責任論の観点から見ると,ロボットへの責任帰属が原理的に排除されない可能性があることを確認しました.

    • 例2.98P : では,どのような条件がそろったら,ロボットが道徳的被行為者とみなされるべきだという主張が真剣に検討されるようになると考えられるでしょうか.

  • そのため,テレビ等の談義にはありがちな,荒唐無稽な警告や問題提議はされない(大学の先生方が書かれたもなので当然ですが…)

    • 余談:なんか,「 Aという可能性が排除されない かつ AならばB」を 「AかつB」だ大変だみたいな取り上げ方されることが多い気がする > AIやシンギュラリティ周辺

もう少し議論や改善が欲しかったところなど

  • 実際は,ものごと(特に科学技術と社会等)はトレードオフで,様々な泥臭い判断がされる(例:車社会と交通事故).その泥臭い議論こそ今まさに必要があるものに思えるが,そこが omit されているように感じた(ただし,そこはこの本の目的とそもそも違うという話かもしれない)

  • 具体的に新しい製品や技術が紹介されていることは,わかりやすさや発見がある反面,5, 10 年後ぐらいには本が古く感じる要因かもしれない

  • 電子書籍で買えば別だけど,紙媒体だと,参考情報(文献?)としてURL載せられても参照が難しい(最新のニュースやトピックが題材にされているので,URLの参照が多い気が)

  • 個人的には,ロボットを傷つける(廃棄含め)場合の人間側のストレスや葛藤みたいな問題も知りたかった.

    • 個人的に大好きな映画 A.I. でのロボット虐殺シーン(これは,明らかにユダヤ人であるスピルバーグが人間同士で起きた事のメタファーとして表現したと思っている)が,AI・ロボットの倫理問題で真っ先に思いつくイメージだったので(トラウマ級に嫌な気持ちになったシーン…プライベート・ライアンよりもきつかった)
    • これは ,P91 で述べられている,ロボットをぞんざいに扱う事がいずれ人間To人間でも同じ様に…,徳倫理的に… という話とは別の意味合いで,例えば,刑務官の死刑執行時の心理的負担に近いような話が,割りと喫緊の問題としてあるのではないかという意味(A.I. で言えば,デイビットをリンチすることに嫌悪を感じた群衆の真理)
    • 倫理というよりは,社会問題に近い側面の話かもしれないが
      • 余談ですが,A.I. は本当に好きな映画で,デイビットがブルーフェアリーに祈り続けるシーンは,私の観た映画の中で一番美しいシーンだと思っています.外延的にはチープなのに,その内延がすごく崇高なものは本当に美しいです

印象に残った箇所

  • 4章,7章の議論が特に印象に残った

  • 4章では,ピーター・シンガーの種差別の理論を紹介し,ロボットが道徳的被行為者(簡単に言ってしまえば,人道的扱いの対象)になりうる可能性があることを述べており,そこは目からウロコであった

    • 苦痛を感じる能力も恣意的な線引き,つまり,苦痛を感じえないモノだから道徳的被行為者にならないというのは差別的では?という議論は,モヤモヤを感じつつも,認めざる得ないな〜と思った
  • 7章で少し議論される,機械によって殺されるということが,人間の尊厳を傷つけるという話は,すごく生々しい恐怖を感じた(例えば以下に引用する話など)

    • 158P: イスラエル無人飛行機に苦しめられているレバノンのある市民は,「何故か無人偵察機のほうが有人のF16よりも「もっと頭にきた」」と述べたそうです

    • 以前,久木田先生に,「共感みたいなある種の道徳的行動にはコスト(ある種の自己犠牲)が生じ,それが倫理的であることの一端であるように感じます.ですが,AIやロボットには…」と質問したことがあった.
    • その時頂いた回答の一部に,上記の非人間的なロボット兵器の話もあり,「軍人はある意味,人の命を奪う生き方という選択を背負ってきた人だが,ロボットだと…という批判も勿論あります」ということを教えてもらった
    • その時のこともあってか,ロボット(AI)兵器というものについては強く印象にのこっている.

備考

  • あとがき(P182) で以下の記載があるが

本書は次のような分担で書かれています.草稿を書き上げたあとで,お互いの文章を読み合いながら,執筆者間で何度も議論を重ねました.

はじめに,1章,5章,7章:久木田
2章,4章,8章:神崎
3章,6章:佐々木

共著だけど,だれがどこを記述したかは182Pまで明にならないので,目次や章末に情報があってほしかった気もしたので引用 (文体がすごく統一されていた感じがして,基本的には同じ人が書いた文章に感じていたので,分担されていたことには驚き)

総評

  • 基本的に,本の紹介で述べた<本書の対象者>にあたる方が購入することはオススメします

    • 倫理学を専攻していた人とかは物足りない内容かもしれない(そもそも入門本の対象者ではないが)
  • 内容も然ることながら,文体とか,文章の構成がすごくいいのもポイント

  • 倫理学を学ぶという面でも十分役に立つが,最新のAIやロボット技術の話題でも目からウロコな部分はあるので,その意味でもオススメ(例えば,エンハンスメントの話とか,前述のAIロボット兵器とか)


なんか漫然と文章を書いてしまいましたが,論文でも課題でもなんでもない,個人のブログなのでお許しを...

次回は,別の本(これもまた,人間ーAI の構図.厳密にはAIの部分はチューリングマシンかな?)の紹介をする予定です.

それでは✋