あらためまして。でもはじめまして。

というわけで。個人的にずっとこちらで綴ってきた続きはあちらにお引越しをすることにいたしました。いろんなソーシャルメディアが世の中には溢れかえっているので、いろいろとたぶん分類をしながら使い分けていくこと(べき?)になるんだろうけれど、とりあえずは暗中模索しながらの予感。ただしおそらく文字ばかりのものはtumblrになるかと。食べ物はinstaとか、旅の記録はどっちに行くのかなどなど、まだ決めかねていることはあるけれども、節目を迎えてしまう前に見切り発車でも動き出しておこうと思うのです。

新ブログ:a kite in the blue へのお引越しです。

抱負と呼べるほどのものでもない

今年の私のキーワードは、おそらく「投資」。今年だけというより、今後10年だと、昨年中に言われたのだけれど。とりま。
自分にとって、「家族」や「友だち」は「投資」の対象じゃない。なんていうのか、投資と言われてもピンとこない。それはきっとnot give & takeだと思っているから。give, give, give and giveでも構わないし、take, take and takeだとしても、どのみち同量のgiveを返しきれないと、ちょっと諦めているからかも知れない。(ほら、特におばあちゃんとか。返しきれるわけないじゃない?)だけど、そうやって考えてみると、同時に言えてしまうのは、「恋人」はある意味「投資」として捉えているということ。典型的なgive & takeの関係として捉えているということなんだろうけど。それってどうなんだろ。刹那的?自己本位?平等…とはなんかちがう気がする。ちょっと、どうなの、私って思った。これはもう少し深く潜ってみる必要がありそう。
そして「投資」の話に戻ると、これからは何に対して、何をどれくらい投資していくのか。それを考えなくてはならないように感じている。もちろん、今後10年を見据えて、そして自分が望んでいる方向へと人生の舵を取るために。具体的な理想像を描くことは難しいとしても、いつの自分が、どういうムードで、どういう場所に佇んでいたいか、ならば想像できる気がする。まずはそこから始める必要がある。自分が纏うムードと居場所。それさえちゃんと形作ることができれば、あとはハートに従って明るい方へと生きていくことだけ。それが一番難しいけれど、絶対に曲げてはいけないことなんだけどね。そのために今できること、今しかできないこと。

「物語が好きすぎるから、私も庄司も向いてないのかしらねぇ……。」
 私は言った。私は無心にけん玉だとか、爪切りにうちこめる自信がない。
「何もかも吸い取っちゃうからね……あんた。まわりの空気を。声が出なくなったときあったでしょう? ドラマチックなことは嫌いなのに、空気を感じているのよ、いつも。そうやって強くなってきたのかもしれないけれど、庄司さんが死んだときみたいにはもう二度と泣いて欲しくないなぁ。変わった子よ、あんた。少しお父さんに似てるのかな。」
(中略)
“お母さんの人生や、その時々に抱いてきた気持ちのようなものが少しわかる。もう子供じゃないってことかね。こうしていてもひどく心細い。すごくひとりぼっちな気がする。”
                  ―――「N・P」吉本ばなな(1990)

ここのところ年末からずーーーっと、手に取り、開き、仕舞い、また取り出し、を繰り返していた、何年も傍らにある文庫。たくさんのものをこの作品からいただいたけど、事あるごとに特に思い出すのは、主人公が母親とランチをしているこのシーン。主人公のもっとも共感できる部分が、自分もまさにそうだと思っている部分がここなのだと思う。

そして、おそらくこのタイミングで、ブログを移行することになると思います。だから最近やたら更新しているのもあったりなかったり。エクスポートの仕方が手に負えるようであれば。ちょっと時間を割いてやってみないとわからないけれど。どのみち既にこの場所は、ほぼ自分のためだけに開いていた場所となっていたし、少し、ネットとの関わり方も再度模索したいと思っているみたい。

たぶんココで一旦区切られます

自分で区切りをつけることは苦手だから。慣性の法則、運動の法則、バンザイ。でも区切られるんだろうなー。望もうと望むまいとそんなことにはかかわらず。そういうタイミングまで来てしまっている気がする。だから(というわけでもないけど)このシーズンのリピさんたちをココに記録。そんなことしなくても全然忘れるわけすらないんだけど。


  • まったりしてしまったり __さよならポニーテール

 ※リピしてたのは通常Ver.だけど。。

  • Call Me Maybe __Carly Rae Jepsen


  • I Will Survive __Gloria Gaynor

…こうしてみると、意外と洋楽率高し。そして女性ばっか。普段そんなことないと思うんですけどねぇ。iPhoneiTunesを全曲シャッフルかけてて、「もっかい聴きたい」と思ってリピしたと思われる曲たちは、思い出せる感じこんな感じ。そして、本当に書きたかったのは、やっぱりいくつになってもいつまでたっても、絶対胸に突き刺さっちゃうと、朝から鷲掴まれたコレの記録なのでした。

Swanky Street __the pillows

デザイン変更

そして気分転換にデザインも変えてみました。ほんとはいちから好きなように作りたいんだけど。。Tumblrとかでがっつりやりたいんだけど。。。でもとりあえず既存の中から。。。。やりたいこととやらなくてはいけないことはいつも均衡している。

人の振り見て我が振り直すというか…

悩み事を拡散して解消するというのは、まったく大人らしくないことだと思う。でもものすごーーく、よく(often)やってしまう。そしてスッキリしたその後で「ごめんなさい」と小さく思う。でも「もうしません」とは言えない。だってお約束できないから。だけど、それではただ人を傷つけるだけの場合もあるのだと痛感した。傷が大きかろうが小さかろうが、私のために誰かが心を傷めるということを鑑みて、やはり大人らしくなく、できることなら避けた方がよいことなんだと、初めてきちんと気づいた気がする。こういうことがないと気づけない、本当にどうしようもない私なんだけど。
それとはまるで真逆みたいな点も、最近同時に思った。自分がハッピーな安寧な心持ちでいるために、大切な友人がうだうだ、ぐだぐだくだを巻いて愚痴をこぼすことを、全否定して「私には必要ない」と言い切ることは、私にはできないと思った。どんな人だって、誰かに聞いてほしいけれど、結局結論は出せないような悩み事はあるし、本当は結論なんてはなから出ているのだけど、それは選びたくない本心とか状況があったりして、もう少しベターな案がないかとただぐるぐるしていたいだけ、ということだってある。それを、いつまでもただ聞いていりゃいいって訳ではないし、時間は誰にとっても平等かつ有限だから、その時間が無駄に思えたりすることもあるだろう。だけど、その相手に(しかもぐだぐだしている自分が最低だなあと気づいてしまっている)相手に、とことん付き合ってあげたりすることも友情だし、持ちつ持たれつの部分ではないかなと思う。「それこそ断ち切るべき悪習、馴れ合いだ!」と叱られてしまうかもしれないけど。だけど、ダメかもしれないし、潔癖ではないかもしれないけれど、そういう弱い部分を受け入れられるからこそ強くなれたり、優しくなれるのではないだろうか。いつも完璧でいつも美しくあれたら、それはすごいことかもしれないけれど、それが絶対善なんだって信じたくない私は、ただ自分に甘いだけなのかな。
ひとつの物事の両極端の部分を、まざまざと見せつけられたというか感じさせられた気がしたので、とりあえず記録。愚痴とか悪口とか堂々巡りの悩み事とか、人間特有のそれらが、コミュニケーションや関係性の一部に深く関わっていることは事実だから、その一見ネガティブに見える要素とも、上手に向き合って、うまくやっていきたいと思う。

馬のようにさっさと駆け抜けてしまいたい

あけましておめでとうございます。
新年です。2014年です。去年の終わりから今年にかけて、なんだか「あれれ」と気づくことが多いです。いまさらなんだか、いまこそなんだか、とにかく、既にそうあったことを今やっと認識するような、気づきのシーンが多くて、こころとあたまが噛み合っていないような、自分が遅れているような、そんなちょっと追い付いていない気分です。

今年は、もう少しまともになれるよう、同時に欲張るならば笑いも取れる人間になれるよう、精進したいと思います。昼間から談志をYouTubeで探すという、けったいな年明けに。

誕生日を迎えました



今年は思いがけず多くの人に祝っていただき、いろいろあった中にも、私のことを大切に想っていてくれる人の多さにいたく驚き、これまで自分が築いてきたものと恵まれた周囲の環境に、心打ち震えるほどの感謝を心に刻む誕生日となりました。私は自己中心的で感情的な人間だと思うけれど、自分のその部分を、ばかみたいなほど素直にそのまま受け入れてしまっているので、同じくその理由で誰か他の人に嫌われることがあっても、つい致し方ないことだと思って、勝手に諦めてしまいがちなのだけれど、その部分の、その理由のために、私のことを好きだと、大切だと思ってくれている人がいるという事実こそが、奇跡のようにすら思えて、あまりのことに涙がにじむほど心がぶるぶる震えてしまうのです。

今年後半はびっくりするくらい、いろいろなことが一気に押し寄せてきていて、9月にあったことを「去年だった気がします」とか素面で言い切ってしまえるような12月を送っていたので、今、結局すべてがあるがままに、元の場所とも呼べる場所に収まっている現状を、少し心寂しく、でも少し安堵しつつ、そして同時にやはり私だから仕方ないんだと諦観しつつ、両手に余るほどのやりきれない悲しみを確かに抱えたまま、いっそ思い出として必死に記憶の中に定着させている日々です。誕生日に一年を振り返る日々はもう何年も変わりなく、その日を、私をもっとも大切に想ってくれている家族の膝元で過ごせることは、おそらくかけがえがないほど幸せなことで、そしてその日を、多くの友人がきちんと思い出して祝ってくれるということが、こんな私の人生にすら訪れるのだと、いまさらだけど中学生だった頃の私、高校生だった頃の私にも教えてあげたいと、本気で思ってしまったりする。そんなことができないからこそ、今がとても大切なのだとしっかり思い知っていながらも。

まだどうなるか全然不安定でさっぱりわからないけれど、今、少しでも大切にしたい、大切にされたいと感じている人と、年明けに再会したらどうなるのか本気で見えないしわからないけれど、変に格好つけたり意地を張ったりひねたりせずに、とにかくまっすぐ、でも私らしいウィットは効かせてもいいから、とにかく素直に真摯に、向き合える力を、きっと今大好きな人たちが少しずつ、孫悟空元気玉みたいに与えてくれているのだと信じて、あと1日の2013年をしっかり誠実に生きようと思う。そしてその心持ちを忘れることなく、大きな切り替えの年となる2014年もまっすぐやっていきたいと思う。