thousandgrass’s fields

一日一生の毎日を。

死生について話し合うカフェーいまを生きるための集いー はじめます。

皆さま、ごきげんよう。

 

大変ご無沙汰しております。

前回の投稿から、かなり時間が空いてしまいました。

あっという間に春が過ぎ去り、令和に改元され、梅雨入りして、上半期が終了し、もう7月って、、、光陰矢の如しとはよく言ったものですよね。

 

個人的には博士後期課程2年生になっておりますが、肝心の博論研究は遅々として進んでおらず、さすがにマズイなぁと焦っております。が、お仕事や社会活動等も盛りだくさんで、気ばかりが急いてしまいます。

とはいえ身体は一つなので時間のやりくりですよね、えぇそうですよね。

なかなか慌ただしい日々ですが、心身の調子を崩さないように、何とかうまくやっていきたいと思っています。

 

そんな中で、もう一つ新たな試みをスタートいたします。

私が現在在籍している大学院研究室の院生が主体となった、広義のいわゆるデスカフェ「カフェ カルペ・ディエム」ーいまを生きるための集いー をはじめます。

cafecarpediem.hatenablog.jp

「カフェ カルペ・ディエム」は、日常生活のなかで感じることはあっても、口に出して話すことや考えることが難しい死生にまつわる様々なテーマについて、お茶を飲みながら気軽に意見を述べ合うことで、いまを生きるための何かを得ようとする集いの場です。

 

これまで死生学カフェに参加したり、死と死別をめぐる対話についての勉強会に参加させていただいたり、自死遺族の会「アルファの会@東京」に関わったり、死生にまつわる様々なテーマについて語り合う対話の場「カフェあの世この世」に関わらせていただいたりしておりました。 

 

そもそも私が在籍する研究室は、 緩和医療学・臨床死生学研究室でして、いわば死生についての専門的な学問や研究の場です。

そこで、死生にまつわるテーマについて話し合うカフェの場をもつというのは、ごく自然な流れだと思いますし、むしろ社会の中でその役割を担う必要があるだろうと私は考えておりました。

 

第1回目の開催のご案内を公開していますので、ご興味のある方はどうぞお気軽にご参加くださいませ。

cafecarpediem.hatenablog.jp

 

第1回のテーマは、「障害を持って地域で生きることと安楽死の主張をめぐって」を予定しています。

いきなり初回から難しいテーマのような気もしますが、お互いの異なった感性や考えを尊重できる姿勢を持っている方同士で話し合ってみること自体が、とても大切なことだと考えています。

 

このテーマを設定するに至ったのには、当研究室の院ゼミで「安楽死」についての議論を続けてきているという経緯があります。

くわえて学部ゼミでは大学生を対象とした安楽死についての調査研究や、通信教育課程のスクーリングでは神経難病の専門家のドクター、療法士、看護師の皆さまを招いてレクチャーをしていただいたりして、様々な議論をし続けてきています。

 

慎重に議論すべき重要なテーマだと思いますが、そのきっかけとなった番組 NHKドキュメンタリー - NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」や関連の書籍のことについても、別途記事を書きたいと思っています。

 

特に、NHKドキュメンタリー - NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」をご覧になった方には、是非以下のご著書も併せてお読みいただくことを私はオススメしたいです。

番組では描かれていなかったとても大切なことが細かく書かれています。

あの番組を見ただけで安楽死の是非が問われることは、とても危ういと個人的には感じています。

安楽死を遂げた日本人

安楽死を遂げた日本人

 

本ご著書でも書かれている通り、番組で取り上げられたのは安楽死の中でも厳密には「自殺幇助」です。

自殺は嫌だけど安楽死は認めてほしい、というような論調は個人的には理解できません。

以前「自殺は(醜いから)嫌だけど、安楽死は個人の権利であるので認めてほしい」と仰った方に遭遇しましたが、自死遺族である私からすると激しい憤りを感じると共に、とても悲しくなりました。

自殺と安楽死の違いは何なのでしょうか。

迷惑をかけたくないから安楽死を認めてほしい、というような論調もよくよく熟考する必要があると私は考えています。

安楽死はほんとうに誰にも迷惑をかけないのでしょうか。

仮に日本でも認められたとして、手を貸す医師はその先も医療行為を続けていけるのでしょうか。医療の安易な手段となってしまわないでしょうか。

さらには、今生きていることは誰にも迷惑をかけていないのでしょうか。

 

前著も併せてお読みいただくと更によろしいかと私は思います。 

安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

 

 

こうして死生にまつわる様々なテーマについて、みんなで考えたり、話し合ったりするというのは、 とても大切で必要なことだと考えています。

性急に正解を求めたり、是非を問うたりするのではなく、みんなで考え続けて対話を続けることに、意味があって大切なことなのだと、私は思っています。

是非皆さまも、ご一緒に考え続けて、対話を続けて参りましょう。

 

今日はこの辺で。

 

Thanks,

Chigusa

 

f:id:thousandgrass:20190707222448j:plain

 

 

 

 

愛する人が教えてくれたこと:ハグハワイ10周年記念イベント

皆さま、ごきげんよう。

遅くなりましたが、新年おめでとうございます。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

さあ新しい年の幕開けです。

個人的には昨年末までにやり残したことが多々あって、いろいろ焦っていましたが、新年になったことですし、また心新たに邁進していきたいと思います。

とある占いによると、私にとって今年はチャレンジの年だそうで、なんだかんだ結局毎年チャレンジの連続のような気もしますが、「♪聳える高い壁 超えるのは 自分自身を目指して♪」ということで、Be Myselfでいきたいと思います(分かる人には分かると思いますw)。

 

さて、新年早々↓コチラ↓のイベントが開催されまして、参加してまいりました。 

※↓このイベントは終了しています※

thousandgrass.hatenablog.com

 

死別によるグリーフサポートのグループ、ハグハワイ10周年記念イベントで、今回はスタッフとしても準備段階から関わらせていただきました。

f:id:thousandgrass:20190106225130j:plain

f:id:thousandgrass:20190106225135j:plain

@Com.Cafe 音倉さんにて

f:id:thousandgrass:20190106225232j:plain

 

当日は多くの方にお越しいただき、おかげさまで盛況のうちに無事終了致しました。

まずはご来場いただきました大勢の皆さま、誠にありがとうございました。

心より御礼申し上げます。

f:id:thousandgrass:20190106225354j:plain

f:id:thousandgrass:20190106231719j:plain

f:id:thousandgrass:20190106235324j:plain

ハグハワイの創立10周年記念イベントということで、ハグハワイの創立者であるフロイド由起さんもハワイより来日されました。

 

f:id:thousandgrass:20190106225523j:plain

死別経験に伴うグリーフケア・サポートとして、非常に有意義な活動を10年も継続されてきたことには頭が下がります。

大学ゼミの同期生としてもとても誇らしいです。

 

今回は、故かまやつひろしさんのご子息であるTAROかまやつさんをお招きして、とっても素敵なピアノコンサートを開いていただきました。

TAROさんも短期間の間にご両親を亡くされた経験をされて、つい最近ライブ活動を再開されたというこの時期に、ハグハワイのイベントに快くご協力いただけたことは本当に幸いでしたし、いろいろな意味で必然であった気がしてなりません。

TAROさん、素晴らしい心に響くピアノと歌、そして真っすぐにご両親のお話もしてくださり、本当にありがとうございました。

f:id:thousandgrass:20190106230121j:plain

f:id:thousandgrass:20190106230143j:plain

TAROさんも仰っていましたが、音楽というのは本当に素晴らしいものですね。

言葉だけでは伝わらないかもしれないことを、ピアノ、メロディ、歌詞、表現が一体となって、心の奥深くに染み入ってくるようでした。

曲中にご両親との思い出の映像も流してくださり、TAROさんのご両親を愛する思いと愛する人を喪ってしまった悲しみが伝わってきて、私も胸が震えました。

しかしながら、もしかすると音楽や歌を奏でるのも、聴き入るのも、どちらもグリーフワーク(喪の作業)になり得るのかもしれませんね。

そのぐらい、TAROさんのピアノと歌は、心の琴線に触れて癒しや救いをもたらすようなものだと感じました。とてもとても優しく美しく、素晴らしかったです。

ご参加された皆さまの心にもそれぞれ響くものがあってのではないかと拝察します。

 

TAROさんによるピアノコンサートに続いて、「愛する人が教えてくれたこと」と題した語らいの時間を設けて、僭越ながら私もお話をさせていただきました。 

f:id:thousandgrass:20190106232412j:plain

f:id:thousandgrass:20190106232550p:plain


私は父と姉を亡くしていますが、二人とも急逝だったこと、特に姉は自死であったことで死別の当時は本当に深い悲嘆と辛さで絶望していました。

死にながら生きていた、生きながら死んでいた、そんな感じでした。

それでも今こうして生きていることは本当に素晴らしいことだと思えますし、愛する父と姉が教えてくれたことは多大すぎて語り尽くせません。

 

当日は、その一部として

 ー人はそれぞれの人生を精一杯生きていることや、

 ー私は自分の人生を最期まで精一杯生き抜こうと思っていること、

 -愛する人との死別経験を経て、喪ったものは大きくても、得たこともたくさんあること、

 ー人には目に見えない生きづらさを抱えていることがあることを想像したり思いやることの大切さ、

 ー死生についての対話を続けることを大切だと思っていること、

 ー特に自死遺族をはじめとする生きづらさを抱えている人と直面して戸惑ったとしても、沈黙したりせずに話を続けてほしいこと、

 ーお互いを理解し合おうという姿勢で死生についての対話を続けてほしいこと、

等をお話させていただきました。

特に、自死と自死遺族のことをオープンな場で話すのは初めてでしたが、このような機会をいただけたこと、少しでも自死遺族のことを知っていただけたことは有難いことでした。少しでも自死や自死遺族に対する理解を深めていただけたのであれば幸いです。

 

そして、他のスピーカーの方やTAROさんのお話もとても深くて、私もいろいろ考えさせられました。 

全員が愛する人との死別を経験しているわけですが、それぞれの悲しさや辛さ、深い想いがあって、それでも悲嘆を乗り越えてそれぞれの人生を生きていることは本当に素晴らしいなぁとしみじみ感じていました。

そして個人的には、みんなでお話しているときに、愛する父や姉もきっと喜んでくれているだろうなぁと感じていました。

中には涙ぐまれている方もお見受けしましたが、なんか目の前がキラキラしていたんですよね。恐らく照明のせいだと思うのですが、いわば大きくて温かい愛に包まれていたような感じがしていたんですよね。

やはり、私は私の人生を最期まで精一杯生ききることを大切にしていこうと思いましたし、それを教えてくれた父と姉に対する愛でいっぱいです。

父と姉には今も会えることなら会いたいですけれど、いつも共にあると思っているので、意外と心強い気がしています。しっかり側で見守り応援してくれている感じがしています。

 

イベントの最後には、TAROさんのお父様 ムッシュことかまやつひろしさんが作曲、お母様 かまやつまさえさんが作詞を手掛けられた「なんとなく なんとなく」をみんなで歌って、リクエストではスパイダースの名曲「バンバンバン」も歌ってくださって、大盛況のうちに幕を閉じました。正直テンション上がりました!

 

というわけで、関係する皆さまのおかげで、本当にハートウォーミングで素敵な時間であったと振り返っています。

改めまして、TAROさんやご参加くださった皆さま、ハグハワイのメンバーをはじめとする関わった全ての皆さまに深く感謝し、心より御礼申し上げます。

誠にありがとうございました。

 

そして今年もハグハワイ主宰の自死遺族の会「アルファの会@東京」を開催してまいります。

alphaandomega.hatenablog.com

本会は、自死遺族限定の集まりですが、今年はオープンな講演会やイベントなども企画していきたいと考えています。

自死や自死遺族に限らず、死生について様々なことについて、もっとオープンな対話ができるような機会を作っていきたいと思います。

 

死生にまつわる様々なテーマについて対話する会「カフェあの世この世」も次回は2月に開催の予定です。

anoyokonoyo.hatenablog.jp

 

皆さまとご一緒に死生のあれこれをお話しできることを楽しみにしています。

 

そして、皆さまにとって今年も一日一生で善き毎日でありますように、心より願っております。

最高の1年にいたしましょう!

 

Thanks,

Chigusa

 

 

 

 





 

 

 

死の民主化ってなんだろう?:Death Lab(金沢21世紀美術館)

皆さま、ごきげんよう。

 

あっという間に師走が目の前に迫って参りました。あら、びっくり。

皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私は最近様々な案件がいろいろと重なっていて、なんだかとっても気忙しいです。

今年中にやっておきたいことも沢山あって、結構焦っているわけですが、所詮身体は一つですので、目の前にある大切なことから片づけていくしかないよね、と思っているところです。

目下最大の悩みは、いま使っているPCキーボードのAのキートップが外れてしまってとっても打ちづらいことです。応急処置としてテープを貼っているのですが、すぐにああああああああああああああああああああああ とかなってしまうのが結構なストレスです。www

 

さて、かれこれ数週間前に金沢へ行ってまいりました。

f:id:thousandgrass:20181128013830j:plain

美しい紅葉で心まで綺麗になれそうな気がしました。

気のせい?

 

主目的はとある私の推しメンさまのライブ2days遠征だったのですが、合間に金沢21世紀美術館へ訪れまして、非常に気に入りましたのと、ちょうどDeath Labというとても興味深い展示がありました。

臨床死生学の研究を行っている私にとっては、偶然というか必然だったとしか思えなくもないです。

企画展示やイベントもとても興味深く素晴らしくて、私がすごーく好きな感じの美術館でした。

また度々訪れたいと思える場所です。

ほんとうはまた直ぐにでも行きたいです。

 

金沢21世紀美術館

https://www.kanazawa21.jp/

 

f:id:thousandgrass:20181129002416j:plain

この日はお天気も最高でした。

なんか雲が可愛いらしいことになっていますね。

f:id:thousandgrass:20181128013620j:plain

プールを上からと下から眺められるんですよ。

面白い光景です。

f:id:thousandgrass:20181128013640j:plain

「タレルの部屋」《ブルー・プラネット・スカイ》

ここは物凄く良かったです。

この部屋に早く再訪したいと思えるぐらい。

f:id:thousandgrass:20181128013653j:plain

瞑想部屋のようにも思えて、一日中居られそうでした。

f:id:thousandgrass:20181128013707j:plain

刻々と空の表情が変わります。

夜明け前やトワイライトの時間もきっと美しいでしょうね。

 

そして、きっと必然の出会いでした。

 ↓ 

Death Lab

f:id:thousandgrass:20181128013730j:plain

「死を民主化せよ」とは、一体どういうことなのでしょうか?

結構エッジの効いたフレーズですよね。

f:id:thousandgrass:20181128013719j:plain

f:id:thousandgrass:20181128013747j:plain

f:id:thousandgrass:20181128013756j:plain

f:id:thousandgrass:20181128013820j:plain

大変興味深い展示でしたので、ご興味がある方は是非行ってみてほしいと思います。

2019年3月24日(日)までのようですよ。

 

個人的にはいろいろレポートしたいことはあるのですが、多くの方に実際に行って観ていただきたいと思うので、ここでは割愛させていただきます。

 

端的にいえば、タイトルにも書いた通り、「死の民主化」って一体なんでしょうね?

というようなことを、深く考えさせてくれる本当に興味深い展示でした。

都市計画とか、建築とか、お見送りの場のこととか、物理的な共生というようなことにも多く言及されていました。新しい視点や発想はほんとうに面白いですね。

いつか死が民主化された世界はどのような世界になっているでしょうか。

 

 

わたしも個人の活動として「カフェあの世この世」という死生にまつわる様々なことについての対話の会を仲間と共に開催していますが、まさに忌避されがちな「死」についてのあれこれを、市中において市民同士で対話することを目的の一つとしていますので、ある意味で「死の民主化」を目指しているともいえるかもしれません。

anoyokonoyo.hatenablog.jp

 

近代の日本では、自宅死よりも病院死の方が多くなったことからも、市民から死が遠ざけられて忌避されている傾向にあります。

そこで、「死を市民の手に取り戻すこと」、そんなことを仲間と話したりしています。 

個人的には、とても面白いことだと思っていますので、引き続き考え続けて行きたいと思います。

博論研究にも活かせそうな気がします。

嗚呼、私の博論研究はどうなっているのでしょうか・・・。

 

皆さまも是非、Death Labへ。

そして、いつかカフェあの世この世へもどうぞお越しくださいませ。

会場でお会いしましょう。 そして、死生について対話いたしましょう。

 

 

ところで。

お久しぶりの金沢Tripはいろいろな意味でとっても素晴らしいものになりました。

絶品のどぐろ等の超絶美味しいお寿司を心行くまで注文し続けて至福の時間を過ごし、

サクサク白エビで心も満たされて、

私にとって初の2daysは間違いなく最高!で、

ちょうど解禁された蟹を金沢おでんで堪能してほろ酔いになったところで、

帰途にまたとあるアーティストの方とごくお近くで乗り合わせるという今年二度目の奇跡が起こり、一睡もできずに車中悶々としていたことは今年のハイライトといえるかもしれません。

いえ、もっと大切なことはあった気がしますが。

 

今年も残りあと1か月、皆さまも一日一生で豊かな楽しい毎日を過ごされますように。

 

Thanks,

Chigusa

 

 

 

【イベントのご案内】ハグハワイ10周年記念イベント TAROかまやつミニ・ピアノコンサート&愛する人が教えてくれたことトークセッション(2019年1月5日)

皆さま、ごきげんよう。

 

酷暑の夏がもう既に遠い昔に感じられるぐらい、あっという間に秋が深まってまいりました。

ブログの更新も滞っておりまして、私の9月10月は誰かに盗まれたんじゃないかな?と疑いたくなるぐらい、なんだか目まぐるしい日々でございます。

大学も既に秋学期に突入していて、私も博論計画やら論文投稿やら学会発表やら、やらなきゃいけないことが山積みなわけですが、、、今年は個人的に「教育を学ぶ」ことも一つの秘密ミッションとしておりまして、学部ゼミ生のTA(ティーチングアシスタント)としても積極的に関与するようにしています。

 

教育って難しいですね。「教える者が最も学ぶ」という意味がよく分かるような気がします。

まぁビックリ!することとか、予想外の斜め上のこととかが頻繁に起こるので、色々思うところはありますが、教育も難しいけど面白いなーと感じています。

指導教員って大変だなー、と今更ながらに先生方のご苦労を偲んでおります。

でも私もまだ一応学生なので、学生気分は満喫するつもりでおります。

 

さて本日は、別館ブログ自死遺族の会「アルファの会@東京」でもご案内を解禁しましたイベントのご案内です。

 

 

f:id:thousandgrass:20181104182905j:plain

alphaandomega.hatenablog.com

 

イベントではTAROかまやつ氏にご協力いただき、ミニ・ピアノコンサートを催してくださることになりました。貴重な機会をいただくことができて感謝感激です。

TAROかまやつ氏&愛する人を亡くした人達による「愛する人が教えてくれたこと」と題したトークセッションも予定されています。

もしかすると、私もトークセッションに加わらせていただくかもしれません。

当日会場でお会いしましょう。

 

「来年ことを言えば鬼が笑う」そうですが、そう、今年も残すところあと2ヵ月なんですよね。 時の流れが速すぎて、浦島太郎さんみたいにあっという間に老けてしまいそう。。。まだ師走でもないのに、いろいろ焦ってきました。

 

イベントは新年1月5日(土)ですので、それを楽しみに、あと2ヵ月は誰かに盗まれたりしないようにしっかり過ごしていきたいと思います。

皆さまもご自愛の上、一日一生の毎日を。

 

今日はイベントのご案内でした。

 

Thanks,

Chigusa

 

社会人大学院生の得すること、損すること。

皆さま、ごきげんよう。

 

東京は酷暑から急に涼しくなったと思ったら、台風の接近が心配されます。

各地で甚大な被害等が出ないことを願うばかりです。

 

さて、本ブログを書き始めてから1年半以上が経ちまして、拙い記事にもかかわらずお読みいただきまして誠にありがとうございます。

記事をアップした直後のアクセス数は微々たるものですが、実は過去記事がどこかでヒットしてお読みいただいていることも多々あるようです。

その中で、実はアクセス数が最も多いのが、私がひょんなことから社会人大学院生になるまでのお話です。

 

thousandgrass.hatenablog.com

もしかすると、社会人の方が大学院への入院を検討している際にお読みいただいているのかもしれません。

 

というわけで、どういうわけか博士後期課程に進学している現在、社会人大学生を経験して得すること、損すること、特に社会での利点や欠点について書いてみたいと思います。

あくまで個人的な意見ですが、どなたかのご参考になれば幸いです。

 

まず得することですが、意外とこれは沢山あるように思います。

最近一番実感しているのは、

○論理的な文章を書くことに慣れてきた(気がする)

ことです。

特に修士研究を一通りやり遂げて、多少メンタルをやられながらもw修論を書き上げたことは非常に良い経験になりました。当時は辛かったですけれど、今となってはほろ苦い思い出であり、喉元を過ぎれば・・・というね。

f:id:thousandgrass:20180113182758j:plain

苦労して書き上げた修論ですが既に負の遺産認定ですw

 

内容はともかく、理論立てて論旨の通った文章を最後まで書き上げるという作業がお仕事でも役立っている感じが今になってジワジワと効いてきています。

過去記事で書きましたが、修論研究は長丁場の独りプロジェクトを回しているようなものでした。

thousandgrass.hatenablog.com

修士課程での経験は、きっと事業やプロジェクトの進捗管理なんかにも活かされることでしょう。データの整理とか分析とか考察とかもね。

何より一つの研究を最後まで完遂するという覚悟や腹の括り方は、社会でも役立つのではないかしら。

 

そして、卒論やら修士の院試やら、修論計画やら博士の院試やら、倫理申請やらで研究計画を何度も何度も書いたことは、

○(事業)計画を立てて文章で説明する、(事業)計画書を作成する

ようなことにも役立っている気がします。

最近お仕事でとある助成制度の申請書類を書いたのですが、書いている途中で研究計画やら修論を書いている時のことが蘇ってきていました。

つまり、手元にある情報を集約して計画を立案する、それを元に論理的に計画を書く、あるいは意義を説明する、予想される結果を述べる、利点を説明する、というようなことが、研究計画書や倫理申請、論文を書く作業に似ていたのだと思います。

お陰様で事業の助成は書類審査を通過して、次の審査に進むことができました。

くわえて学会発表の経験は、各種プレゼンテーションでも役立つのは言うまでもありません。

 

あと、

○クリティカルな見方をするようになった

ことは、利点であり欠点でもあるかもしれませんね。

論旨が通るように先行研究やエビデンスに基づいた理論を展開することが求められますし、曖昧な情報やら主観だけで意見を述べると指導教員から厳しいご指導を賜ることになりますので、何ごともきっちり説明ができるように先行研究を精査しますし、かなりクリティカルな読み方もするように訓練されます。

特に大学の倫理審査は厳重でしたので、事前のリスク評価や想定される危害に対して予め対策を講じて明記しておくことが必要でした。

これはお仕事でも同様ですし、多様でクリティカルな視点をもつようになるのは利点だといえるのではないでしょうか。

ただし、あまりにもクリティカルな見方に慣れてしまうと、いろいろ気になってしまって見過ごせなくなる、という嫌~な感じの人間になってしまいそうなことは気を付けたいところです。

 

あとは

○世の中をほんのちょっとでも良くしたいと考えるようになる

のは、個人的には研究の本質だと思っていて、お仕事でもどのようなことに貢献できるかな?とか、どの課題や問題を解決していけばいいかな?とか、以前より建設的な考え方をするようになったかもしれません。

事業においては当たり前のことかもしれませんが、日々の業務に追われて愚痴や文句を言いたくなるような時でも、やっていることの本質は何か、目標とするゴールはどこか、そもそもの目的は何か、主観ではなくて客観ではどうか、というように俯瞰の視点から見渡そうとする姿勢は研究の本質と似ている気がします。

 

あとは、大学が契約している各種データベースを使用できるとか、場合によっては学生割引が使えるといったことは学生の特権かもしれません。

それから、たとえ指導教員に何を言われようとも、最後まで諦めないでやり抜くっていう図太さが身についたとかね。w

これは社会でも意外と大きな利点かもしれなくて、お仕事で誰に何を言われたとしても、まぁそんなに気にしないことにして、理論的に説明をして論破しようというガッツにつながっているかもしれません。

 

あまり大きな声では言えませんが、アカデミアの世界では社会では当たり前に通用することが通用しなかったりすることも多々あってビツクリ仰天することがあります。それは逆も然りだと思いますが。

その両方を経験してみると、大概のことがまぁそんなこともあるよね、ぐらいに思えてくるのが摩訶不思議です。変に逞しくなるのかもしれません。

その他にも、特に修士課程を修了してみて、我ながら変わったようなぁとフト思うことはちょいちょいあります。今になって、修論地獄が報われたような気がしています。

 

逆に損することといえば、

×(高い)学費や交通費が自己負担

×研究に費やす時間を確保しようとすると自ずと余暇や睡眠時間が削られることになる

×お仕事外でもいつも研究のことを考えているので気が休まる暇がない

×TAをやっていると今どきの若者(現役大学生)の言動にビックリしすぎてときどき気を失いそうになる

等というようなことでしょうか。

損すること、というよりは自ら進んでやっていることなので、必要なコストというか自己投資というか。

 

社会人大学院生としてのお仕事との両立やら研究は決して楽しくはありません。

でも、面白いです。

逆に言えば、面白いと感じられなかったら、やっていられない気がします。

ただ、この年齢になって知りたいと思うことを学んだり研究したりできることは、幸せなことなのだと思います。有難いですね。

 

とはいえ、私はまだ数年の経験ですし、先も長いのでこの先どうなるやら分かりませんが、今のところ私は社会人大学院生を経験してみて良かったと思っています。

どなたかのご参考になれば幸いです。

 

Thanks,

Chigusa 

 

 

もしものための話し合いを「もしバナゲーム」で。

皆さま、ごきげんよう。

梅雨明けしたと思ったら、特別警報が出るなど不安定なお天気が続きましたね。

各地の自然災害にも心を痛めますし、このところ関東でも地震があったりで、予測不能な自然の営みに太刀打ちできない人間は一体どうすればいいのだろうかと、時に途方に暮れてしまいますね・・・。もしもの時に備えておくしかないのでしょうか。

 

人間の「生老病死」も予測不能なことが多いものです。

最近私の界隈でも「終活」「エンディングノート」といった人生の最終段階に関する話題がホットです。

そこでいつも思うのですが、予測不能なことに直面した場合に何かの決断をする際に、一体誰の意思が尊重され最優先するのだろうかと。特に、人生の最終段階において、たとえば延命や治療停止など、いわゆる終末期、死にゆく過程では誰の意思を最優先させればよいのでしょうか。

 

ちなみに、厚労省から「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」(平成30年3月改訂版)というものが出ています。

この内容については概ね頭では理解できるのですが、いざ実際に近しい身内がそのような状況に置かれた場合、自分がどう判断して決断するのか、いくらガイドラインがあるといってもきっと激しく動揺して迷いまくるのではないかなーと私は思うのです。

 

仮に事前に本人の意思確認をしていたとしても、その瞬間にどう思うのかは分からないんじゃないのかな?とか、「推定意思」って曖昧だなーとか、果たして実際に本人の意思を尊重して最優先できるのだろうか?とか、遺されることになる家族の意思はどこにいっちゃうのかな?とか。

 

私は一応大学院の緩和医療学・臨床死生学研究室で研究をしている身でありまして、それなりに学んでもいる方だとは思いますが、いざその場面になったら、正直冷静に判断して望ましい決断ができるか否かはかなり怪しいなと自分でも思います。

これがまさに臨床の死生学というところでしょうね。

 

しかしながら、実際にその瞬間に遭遇する以前に、もしもの時のためのことを話し合っておくというコミュニケーションは大切なのでしょう。

そんなコミュニケーションツールの一つとして、iACP | もしバナゲームというものを教えていただき、購入してみました。

 

詳しくは↓コチラを参照くださいね。

www.i-acp.org

「もしバナゲーム」とは
1人でも、2人でも、またもっと多くの 人数でもゲームをすることができます。
1セットには36枚のカードが入ってい ます。そのうち35枚には、重病のときや死の間際に「大事なこと」として人 がよく口にする言葉が書いてあります。

たとえば、「どのようにケアして欲しいか」、「誰にそばにいて欲しいか」、そして「自分にとって何が大事か」、という内容です。

(もしバナゲーム、iACPホームページ、https://www.i-acp.org/game.html

  、2018年7月8日参照)

 アマゾンでも買えます。

もしバナゲーム

もしバナゲーム

 

 

そこで早速自分もやってみて、数名の方にもやってみていただきました。

要は36枚のカードに書いてある「重病のときや死の間際に大事なこと」の中で、おおまかに優先順位をつけていくという作業をして、優先順位が高い10枚程度について、それはどういうことか、何故それを選んだのか?等について話を聴く、話し合うということをしてみました。

 

面白いなーと思ったのが、優先順位が高い10枚程度のカードに書かれた内容とその傾向が、人によって全く異なる、ということでした。

自分ではかなーり優先度が高い内容が、他の人にとっては優先度が低かったり、その逆もあって、人それぞれ考えていることが本当に違うんだなーというのが実感です。

つまり、あの人にとってどうでもいいことは、私にとっての大切なことであり、私にとってどうでもいいことは、あの人にとっての大切なことであり得るということです。

これは別に悪いことではなくて、人によって大切だと思うことが違うんだよ、ということをお互いが理解することが大切なのだと思います。

そして、だからこそやはり日ごろからの話し合いやコミュニケーションが大切なのでしょうね。くわせて、優先事項はその時々によって変わりゆくことを理解しておくことも大事なのだと思います。

 

ちなみに、私は高齢の母親にもやってもらって話をしました。

いくら家族とはいえ、本人の考えや望んでいることを日頃からよく理解しているとは限りませんよね。

母親が望むことはこれまでにも何となく話し合うことがありましたが、10枚程度の優先度の高いカードの内容と選んだ理由を聴いてみて、一番近しい身内ながらなるほどなーと思うことがありました。私はやってみて良かったです。

とはいえ、実際にそんな場面に遭遇した時に、私が望ましい判断をできるか否かは未だ怪しいのですが、、、全く本人の意思を聞いたことがない、話し合ったこともない、というような状況に比べるとまだマシだよなーっと思いました。願わくは、本人の意思を最大限に尊重して望ましい判断ができることを祈りたいと思います>わたし。

 

さいごにもう一つ、面白いよなーと思ったことを。

私も自分でカードに優先順位をつけていったわけですが、その時に一番大事かもしれないと思ったカードが自分でも結構意外でした。

 

それは↓コチラ。

f:id:thousandgrass:20180708185747j:plain

え、重病の時とか死の間際でユーモアを持ち続けることが一番大切なんですか?>わたし 

もっと痛みが無いとか、家で最期を迎えるとか、家族と一緒に過ごすとか、いろいろあるでしょうよ、と思ったのですが、なぜかこのカードが一番ピンときたのですよねー。まぁ今後変わるかもしれませんけれど。

自分でもなんでこれが一番ピンときたのかいまいち不思議なんですが、死生の際においてもユーモアを持ち続けたいという意思はこれからも忘れないでいたいと思います!

 

あなたも「もしバナゲーム」でもしものための話し合いをしてみてはいかがでしょうか。

 

Thanks,

Chigusa

 

 

 

 

 

 

 

いわゆる「デスカフェ」で「あの世この世」について対話すること。

皆さま、ごきげんよう。

東京は梅雨明けして連日蒸し暑い日が続いています。

待望の夏が例年より早くやってきましたが、早くも熱中症、夏バテの予感がしますので、皆さまもどうぞご自愛くださいませ。 

 

さて、早速ですが今日は「デスカフェ」についてのニュースより。

www.asahi.com

 

あなたは「デスカフェ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

「デスカフェ」は、欧州でスタートしたとされる、お茶などを片手に死について語るカフェのことです。

記事ではこの取り組みが、日本でも徐々にではありますが広まってきている様子が伝えられています。

 

上記の記事が有料で続きを読めない場合には、

コチラ↓も(内容の良し悪しはさておき)参考になるかもしれません。

デスカフェってなに?世界中で話題の”デスカフェ”が日本上陸? - NAVER まとめ

 

記事にもある通り、「死」はとかくタブー視されがちですし、忌避されて私たちから遠ざけられてきました。昔と比べて在宅死よりも病院死のほうが多くなってしまったことも一因として考えられるでしょう。

しかしながら、私たち全員に関係する大切なことだと思うのです。

 

「死」について考えて語り合うことは、すなわち「生・生きる」ことについて考えて語り合うことでもあると考えることが出来ます。

つまり、「死」だけではなく、「死生」にまつわるあれこれを対話する場がいわゆる「デスカフェ」であると捉えるのが良いように思います。

 

「死生」についてのことは、主に医学や医療の専門家や、あるいは患者、遺族となった市民の間では考えられ、語られていることが多いといえるでしょう。

しかしながら、患者や遺族でもない市民が、何でもない時に普通に死生ついての話をする機会はなかなか少ないのが現状ではないでしょうか。

 

死生にまつわるあれこれには、実は様々なテーマがあります。

とかく私たちは「いずれ高齢になって死にゆく」というイメージを抱きがちですが、実は死生のテーマは生まれる前から始まっており、死の瞬間の後も続いていきます。

「生老病死」という言葉がありますが、産まれる前から老いて病にかかり死にゆくまで、そしてその後のことまで、死生にまつわるあれこれは、実はずーっと私たちの身近にあります。

 

例えば「ご遺族」というと、高齢者を亡くした家族というイメージが一般的かもしれませんが、小さな命を失ってしまったご遺族もいらっしゃいますし、私も高校生の時に父親を亡くしていますから、高校生で既に遺族だったわけです。まぁよく考えれば、私たちは必ずご先祖様を亡くしているわけですから、私たち全員が「遺族」であるともいえますが。

 

遡れば、不妊治療に代表される生殖補助医療や、出生前診断も死生の重要なテーマですし、広くは戦争や災害、犯罪、死にゆく過程では終活、緩和医療/ケア、グリーフケア、看取り、安楽死、尊厳死、自死など、人生においては数え切れないほどの死生にまつわるあれこれが関係しています。

 

そんなずーっと私たちの身近にある死生にまつわるあれこれことについて、なかなか語り合う機会がないというのも考えてみれば不思議な話ですよね。

私たち全員に関係するお話なのに、なぜ避けて通られがちなのでしょうね。

ほんとうに死はタブーなのでしょうか?

多死時代を迎えるのに?私たち全員がいずれ死にゆく存在なのに?常にずーっと身近にあるはずなのに?なんで市民の間では普通に語られないのでしょうかね?

 

単純に「デスカフェ」というネーミングもとっつきにくいのかもしれません。

「デスノート」みたいなイメージを連想すると、暗くおどろおどろしい感じもしますしね。w

 

そこで、私たちはとある研究会の有志で「カフェあの世この世」と銘打って、死にまつわる様々なテーマについて語り合う対話の場をスタートさせました。

※本来の「デスカフェ」には条件付きの定義があるようですが、「カフェあの世この世」は条件に合致しませんので、厳密には「デスカフェ」とは言えません。

 

 

anoyokonoyo.hatenablog.jp

 

「カフェあの世この世」はこれまで既に2回開催されまして、いずれも非常に面白い死生にまつわるあれこれの対話が行われました。

 

thousandgrass.hatenablog.com

 

当日対話するテーマ候補は予め2つ用意されます。

そして、当日集まったご参加者全員による対話で、その日対話するテーマを1つに決めます。このテーマ決めの対話の過程もとても面白いのです。

ちなみに、

第1回目では、「一人称の死、二人称の死、三人称の死」

第2回目では、「弔いとは何か?」

がテーマに決まり、ご参加者全員であれこれ対話をしましたが、本当に興味深く面白かったです。

 

f:id:thousandgrass:20180503163330j:plain

 

「カフェあの世この世」では、今後も死(生)にまつわる様々なテーマについて対話する場を機会を設けて参ります。

 

次回開催は、2018年7月28日(土) を予定しております。

詳細は近日中にご案内できる見込みです。

 

常に私たちにずーっと身近なはずの「死生」にまつわるあれこれについて、気兼ねなく自由に対話してみたいと思っている方のご参加を心よりお待ち申し上げております。

ご一緒に対話を楽しみましょう!

 

Thanks,

Chigusa