僕の流転日記10-大企業特有の問題と方針-

僕は看護師マーケティングをやってる会社に
入った。
前の会社で、勢力争いとか、誰を支持すると
かやっていたくなかった。
今は売り上げを最大にする段階で、親会社に
もそこをアピールすべきなのに、1人営業で
おかしな奴がいて、裏で親会社の人間に会社
の内情を暴露しながら自分の立場を確保しよう
としていた。

僕はその政治的な動きが背景にあって、突如
最も売り上げが難しい業界だけしか営業が出来
なくなった。
その業界はサービスが全国にないと予算が出
ず、一方で会社のサービスは地域に偏りが
あったので予算を取る事がそもそも難しい
事は明白だった。
が、社長は業界の事、マーケティング部門
考え方を理解しておらず、自分で営業もせず、
頭ごなしに命令するだけの人だったので、
コミュニケーションが出来なかった。

せめて、僕らのサービスを使ってよかった事例
とか、アンケートすべきと言っても、既に取っ
た(とは言え、nが20しかなく信憑性に欠けると
の指摘を受けていた)から二度と取らない の
一点張り。
まず、この会話に疲れた。その業界から売り
上げれないのが僕の責任なら受け入れる。
でも、理由はそこではなく、サービスの提供
範囲の問題と、データの不足なのだから。
僕は急に売り上げる事が出来なくなり、立場が
おかしくなっていった。
必死に営業をして一番の売り上げだった。
しかも、期がちょうど変わり、売り上げ0にな
っていて、タイミングも最悪…
僕は、政治にも興味は無かったので(古い会社
ではそれが致命的なのだろうが)立場はより危う
くなった。
同僚のくだらない暗躍に付き合って、同じ
レベルで争いたくなかった。
その営業は結局売りが立たなくなり辞めていく
のだが、それまでの振る舞いが最低で、社員
誰からも送られず、ひっそりいなくなった。

僕は仕事をしたかった。仕事で認められて、
名を上げていくのが今の時期だと思っていた。
争って自分の立場を上げるのは性に合わない。

ちなみに、その社長も僕を縛ってしばらくして
親会社の社長レビューで「営業がヘボ」と言っ
てその場で解任され、後に経歴詐称まで発覚し
た。
親会社は一部上場会社であり隣のビルだった。
彼らは社長に見切りをつけていたらしく、行動
を把握していて(そもそも社長は午前中にジムに
行っていてこなかったのだ)その場で解任、交際
費の使い方がおかしかったらしく、親族の取締
役にもメスを入れて取締役も一ヶ月後に解任
された。

でも、僕を縛った時間は返ってこない訳で…
僕はその時追い詰められて薬無しでは寝れなく
なってしまった。
また、新経営陣も僕を信用してくれながらも、
親会社の方針とかで自由に企画する事さえ禁止
してきて、枠売りのみ(コストかからない事の
み)やってろ という感じだった。
これではキャリアを積めない…僕は今手持ちの
駒をどう活かして売り上げるのかがテーマだと
思っていて、どうしても枠売りには馴染みたく
なかった。

妻に病院連れていかれるほどで、周りに心配か
け過ぎてしまい、自分の為にもならない。
その時、禁止されていた他媒体での記事作成
の仕事を売り上げ額が大きいという事で押し
通して実施していて、それを見ていた看護師
媒体を運営している会社が手を差し伸べてくれ
たのだ。
とてもありがたかった。
社員が三人で四年間やっていたので、不安は
あったが、企画ありきの部分が大きく、僕は
この会社にお世話になる事にした。


僕の流転日記9-大企業へ そしてつまらない争いの日々-

僕が次に選んだ会社は、日本で唯一の病院
スタッフ向けのサービスを提供している会社
だった。
その会社は、上場会社の傘下にあった為、財務
状況は良好と考えられたし、何より大企業を
肌で感じてみたかった。

前の会社では、行き着くところまで行って
しまった実感があり、何をしたら良いのか
分からなくなってもいた。

希望を持って僕は新たなミッションに挑んだ。
初めて製薬会社にアプローチもしたし、前の
会社では直接仕事が取れなかった大手メーカー
とも仕事が出来た。
狙いを持ってWeb代理店にアプローチして協業
体制も作り定期的な仕事を頂く様にも出来た。
しかしここでも問題がすぐに出てきた。
信頼する上司が退職した事で、経営陣が僕らの
営業に口出しを激しくする様になったのだ。
ただ、この経営陣、何故か自分達のいる業界の
事を勉強する事もせず、頭ごなしに命令する
だけだった。何故か新しい事を企画するのも
極端に嫌い「コストがかかるから、企画する時
間は営業に当てろ。と言うか、企画自体しない
で動け!」という方針だった。
今時、付加価値もなくあり物を売る奴、広告
業界にはいないし、それでは単価を上げられ
ない。
しかも、製薬会社をアプローチする事に僕を
専念させ、他の業界には行くなという指示まで
が社長から飛んできた。
一見集中出来てて戦略として正しく見える。
でも、製薬会社が絶対に僕らを選ばない理由が
明確にあるにも関わらず、製薬会社専念は意味
が分からない。これはサービスが全国にない為
で、その課題がクリアされなければ個人の努力
なんて無意味という事を意味する。
それを何度訴えても分かってもらえなかった。

その時、僕にはライバル(相手が勝手に思ってた
だけだけど)がいて、彼は僕を引きずりおろした
くてたまらない雰囲気を醸し出していた。
僕の売上は目に見えて落ち、攻撃される様に
なった。大企業って、こういうものか…提案
以外でやらねばならない仕事があるのか…
初めて知った。
とても残念で、僕は薬を服用しないと寝れなく
なった。無理やり妻に病院に連れていかれ、
鬱の手前と診断も下っていた。

僕は一年間だけど、一生懸命仕事をした自信が
あった。その一年で一番売上はあり、おかげで
またスタートアップベンチャーからお呼びが
すぐにかかった。
救われた…そう思って、また転職をする事に
なった。
そのライバルとやらが一番嫌がる広告をわざと
最後の仕事としめ取って、辞めた。
ただ攻撃されてるだけなんて、悔しい。
僕はいつか必ず復讐する事を未だに諦めては
いない。

とにかく僕は今度は看護師マーケティングを
企画する会社にいった。
また知識を拡げるチャンスだし、これを最後
から一個前の転職にする事を誓って。

そしてまた激しき日々が始まった。

僕の流転日記8-仕事に疑問を抱く不幸-

その後、僕は単なる広告訴求なんて…とか
思いながら、でも何をしたら良いのかが
分からないという状態になった。

ちょうど、副社長が国の仕事を取ったので
大阪で色々動かないといけなくなり、売上
もデカイという事で国の仕事専任になって
営業を外れた。
大阪ばかり行っていて、皆んなの様子がよく
分からなくなったが、気分転換にはなった。

この仕事は、食事指導に患者はお金を出す
か?という調査でもあったが、結果は厳しい
ものだった。
医者が食事の処方箋を出し、僕らが用意した
栄養士がいる場所に任意で行ってもらう。
そうすると、無料で食事指導が受けられる
仕組みで、その後希望者は有料で食事指導の
プログラムを選択できる。
でも、有料で受けたい人は皆無だったのだ。
食事を書いて添削 とか、Web上で食事指導
が出来たり、マンツーマンでの面談とか色々
サービスは用意したけれど、皆無…
あえなく、その仕事は半年で終了してまた
営業に戻った。

その後、僕はある食品メーカーの海外の食卓
調査を一年かけてやった。
ドイツ、ポーランド、フランス、中国、
インド、みんな食べてるものが当然違うけど
中国の北と南で違うのが面白かったかな。

その仕事が終わってすぐ、僕は退職した。
広告って何だろう…僕はクライアントの役に
立てたのかな?と思いながら。
そして、十分頑張ったと思いながら…

僕の流転日記7-会社の方針と株主-

会社が突如診療所設置の無料レシピ集を
一回増やした時、黒転を目指して奮闘して
た僕は、あと一息の黒字達成の道を断たれた
と思った。
そして、ちょうどその時に友人の結婚式に
招かれ、一ヶ月の休み(!!!!)をもらってドイツ
に行ってしまった。
あの時本当にがっかりして、反発心があった。
案の定、雑誌を出した分がそのまま赤字に。
はぁ…やっぱり…何のために黒字目指して
頑張ってたんだっけ? その想いが消える事
はなかった。

雑誌を増やした時期がもろリーマンショック
と重なり、そこから会社全体の売上も落ちて
いったと記憶している。
急に営業を増やすとかで栄養士やデータ分析
を仕事にしてた人たちが僕の部下になった。
皆んな不安そうな顔して…
会社ってのは、営業増やしたら売上がアップ
すると思ってるのかぁ…ま、多分株主に営業
を増やすので変わらぬ協力を とか言ったの
だろう。
ベンチャーキャピタルからの出資も多かったし
仕方のない面はあっただろう。
それはそれで致し方ないと思って、彼女らと
テレアポと営業を一緒にやった。
もちろん速攻で売上出るなら僕だって毎日
遅くまで仕事なんてしてない。
残念ながらすぐに売上を立ててあげる事は
僕の力では無理だった。
半年もしないで彼女らは元の仕事に戻った
けれど、営業やってる時は辛そうだった。

出資受けると安定はするんだろうけど、口出し
もあって経営陣も嫌々ながら従ったりしないと
いけなくて、ストレスたまるだろう。
僕は黙ってこの決定には従っていたが、うまく
いくとは正直思わなかった。

そして、僕は徐々に営業からは離れてしまう
事になり、また新たな道を探すのだった。

僕の流転日記6-ニッチ媒体って役立つの?-

僕の歯車が狂い始めたのは、せっかくもう少し
で黒字を出しそうだった無料レシピ集を一回
増やす決定を経営陣がした事と無縁ではない。

当時確か20万部発行し、三ヶ月に一度出して
いた。それを株主に約束したからという事で
1回増やす と。
その1回がなければ確実に黒字になるのに、
強行するのに意味があるとは思えなかった。

そもそもその頃営業は4人程いたが、売上の
大部分は僕だったし、それは仕方のない事で、
他の営業を僕はカバーする気持ち満載だった。

休みも取らず、とにかく営業部の売上なきゃ
やばいと思って身体張って黒字を目指した
のに…
僕は今まで持っていた筈の緊迫感をその時
失ってしまった。やる気を無くしたのだ。
ちょうど親友がドイツの女の子と結婚する
から、出席しようと一ヶ月も休んでミュンヘン
に飛んだ。
有休たまってて、消化も必要だったし。

成田で見た東洋経済がリーマン倒産の特集
だったが、一企業の倒産なんて大した事は
ないと思って、海外ほっつき歩いててネット
もニュースも見ず、事の重大さに気がついて
いなかった。
でも、帰国して日本の雰囲気が変わっていた。
あの時に広告費はガンと下がった筈だ。
何もしない事が戦略 とかほざくマーケ担当が
いた位で、提案が急に通らなくなった記憶が
ある。
あと、あの時僕は広告って何なんだろう…と
自問自答していた。
自社媒体で、丁寧に読者に商品の魅力を伝え
る、これは正しく見えて、何かの役に立って
いるのだろうか?購入意向と、実売には大きな
差がある。
(昔、自社プロデュースの商品で購入意向と、
実売は、実売が購入意向の1/10だったのだ)

アンケート取得も読者モニターから3000人位
から取れてたけれど、広告閲読率、購入意向は
取っていても、意味あるのだろうか?
雑誌メディア、それもニッチな診療所だけに
置く雑誌メディアはニッチだし、一見効率
よく情報伝達は出来るかに見える。
でも、単に伝えるだけって良いのかな…
クライアントの役に立ってる?と毎日考える
様になった。

それこそ、テレビと大手ウェブサイトにでも
掲載したらそれだけで良いのではないか?と。

株主のおかげで、コンビニとの連動企画も
やったが、コンビニが求めるレベルの実売
には繋がらなかった。
この時期から、僕は行動変容を起こすには?
を追い求める事になる。



僕の流転日記5-そして少し安定する-

僕は医療界で働くことになった。
最初は診療所に飛び込んで、栄養士が患者の
食事日記を添削するサービスを医者に紹介
していた。

もちろん、まず受付が突破出来なくて、突破
しても怪しい人扱い。
それはそーだ。若僧が急に来て、医者に
生活習慣病を予防もしくは改善する為に、
うちの栄養士の食事添削サービスを患者さん
に使いましょう!」とか言い出すんだから。

医者って、男ばかりだし食事指導なんかより
も結果の出る薬を処方する事しか考えてない。
だから、僕が言う事は彼らの治療方針の否定
になってしまう。
当時は分からなかったけれど、ムカつくこと
いうガキだなぁって感じだったと思う。

しかも、保険点数内で食事添削サービスの料金
がまかなえるとは言え、その点数を取る医者は
悪者という認識も広がっていて、怒り出す医者
もいた。

それをやってるうちに、クリニックに置いて
いる無料レシピ集の営業も並行してやる事に
なった。

無料だから、医者には怒られずに設置許可を
もらえるし、どんどん設置クリニックは増えて
いった。
大手のディーラーが医者に配るという契約も
決まり、あっと言う間に1000箇所を越える
クリニックがレシピ集を置いた。

そして、営業もとてもやり易くなっていった。
なにしろ、その冊子は無くなると患者が医者
に欲しいと言い、医者が欲しいとディーラー
に言うのだから。市場に求められている感覚
があった。

最初部数は当然少なかったが、それでも大手
企業から広告をもらえてしまって、舞い上がっ
たというか、調子乗ったというか。
そこから僕は自信を付けて、テレアポに明け暮
れる様になる。

もちろん単にあり物の原稿を入れてもらう
なんて考えてもいなくて、企画で勝負して
価値を売って高い売上を!と思っていたし、
実際にそれが出来ていた。
しまいにはライティングも担当し、評価は
高くはなかったけれど、自分が作った実感の
ある広告が世の中に出て、嬉しかった。

ベンチャーだったので、投資してくれる方々
がいて、彼らから「お前の先に、クライアント
は会社を見ている。お前だけの手柄と思う
な!」と戒めてもらったのも、良かった。

僕は一時期を除いて、謙虚?に仕事してたと
思うから。態度は偉そうでも、バックで僕を
支えてくれている社員に感謝もしていた。

僕は初めて二年以上働きに働き、自分で考えて
行動しながら売上を拡大していった。
そして、5年目あたりから少しずつ歯車がハマ
らなくなっていく…
きっかけは、会社が決めたレシピ集を1回
増やす決定だった。

僕の流転日記4-拾う神あり-

優しいけれど、決して柔軟ではない社長の下、
僕は働き始めた。
上司は僕を評価しておらず、その上司と社長が
仲が悪く、働きやすかった訳ではない。

でも、前の会社でマジで死にたくなった僕
にはマシな環境だった。死ぬ恐れがないから。

そのうち数ヶ月で上司が本社に戻った。
その後も大きな売りもなく、しばらく過ごして
いたら会社の存続がマズイと言われ、本社に
籍のない僕は転職を迫られてしまった。

全く何も出来ず、単にシステムのバグを発見し
ては指摘するもしくはマニュアルを作る日々。
社長には力になれなくて申し訳ないと思った
けれど、営業フェーズでも無かったし仕方ない
気はする。

退職して、10年も後にこのシステムのブームが
来るとは思いもよらなかったな。
とことん、運がないなぁ と思いながら転職活動
を営業時間にやっていいと許可されたので、
色々また活動をした。

その時、どこに受かったのかはあまり覚えて
いないけれど、キャリアの下地になる会社に
ほどなくして受かる事になる。

ここが僕の医療との関わりの最初で、10年も
経ってるけれどまだ医療界にいる。
会社は食事指導で医療費を抑制しようと管理
栄養士を雇用して、患者の食事日記を添削する
サービスを提供しつつ、フリーのレシピ集を
診療所に発行し始めていた。

聞けば、生活習慣病は実は内科の診療所に薬を
もらいに来ていて、収益の基盤になっている
らしい。
その生活習慣病の方々に、簡単に御飯を作って
もらう為の低カロリーかつ減塩レシピを定期的
に出していく予定らしい。
こんな会社見た事もないし、そもそもジャンル
が分からない。
けど、間違いなく人の役に立っていて、広告
だって食品メーカーから集めるのは割と出来
そうだ。

そこに早めにジョインすれば僕は第一人者に
なれる訳だし、今までの悔しさをぶつけて
やろう!と思った。

すぐにゲームプロモ会社に断りを入れ、その
会社にお世話になる事にした。
これまた壮絶な体験をしつつ、僕は燃焼し
尽くした実感だけは8年後には得る事になる。