読書感想文002:『殺人出産』(村田沙耶香)

 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

 

この作品を読む事になったきっかけ 

 

 

 

 

 

 で、読みました(『コンビニ人間』は未読)。面白かったです。他の読者さん達はいったいどんなふうにこの作品を評価しているのか知りたかったので、ネットで様々な感想を読み漁りました。

 

 でも……なんというかですね……私の考えを代弁してくれるような感想が無かったんですよ……。

 

 だから自分で書くしかないですね! ひねくれた視点で書きます!

 

注意:ネタバレがあります!

 

 

感想

 

・『殺人出産』

  

 前提として。なぜ人は人を殺してはいけないのか。 「いやそんな当たり前の事を訊くなよ」と思われるかもしれないが、一応。私の答えは「個人の生きる権利を侵害してしまうから」である。

 

 本作で描かれる殺人出産制度とは、「子供を十人産めば誰か一人を殺しても罪に問われない」という法制度である。避妊技術の発達によって人口が減少してしまった日本における、合理的な人口回復システムだ。殺される人間は「死に人」と呼ばれ、(おそらく)どのような人物であってもその対象となる。「産み人」が仮に一人殺したとしても、十引く一で九。九人の増加となり、社会にとってはプラスである。

 

 この設定を見た私はふと思い出した。そうだ、あれに似ている。

 

 トロッコ問題という有名な思考実験がある。


思考実験「トロッコ問題」::Hachipedia2

 

※この思考実験の本来の意義からちょっと離れた話になります。

 

 A氏の視界の範囲内に「列車の進路上に立っている五人の人間」がいるとする。貴方は人身事故を回避するために列車の進路を変更する事が可能だが、変更すると「変更先の線路に立っているB氏」が轢き殺されてしまう。

 

 さて、A氏の路線変更を貴方は倫理的に許せるだろうか。仮に許せるとしよう。B氏にとっては迷惑な話だが、彼一人の死によって五人の人間の命が助かる事になる。だから倫理的に非難されるべきでない、と貴方は考える。

 

 この時、貴方は人間を個人ではなく命として見ている。当然だ。貴方はA氏やB氏、そして五人の人間の事を何も知らないのだから。では、もしもB氏が貴方の最愛の人間だったとしたら、貴方はB氏の判断を許せるだろうか?

 

 殺人出産制度は人間を命としてしか見ていない。そしてその命を数で評価している。一つ一つの命は全て等価であり、より多くの命の方が価値が高く、そして優先される。それは同族であるはずの人間を巨視的に見るという事であり、歪んだ平等意識がそこにある。

 

  十人産めば誰かを一人殺していい。九人増えるのだから。

 

 さて、人間性とは何だろうか。人間を人間たらしめているものとは何か? 「人間を特別視する事」がその一つだと私は思っている。

 

 なぜ人が人を食べる事を忌避するのかというと、人間を特別視しているからである。他の生き物とは違って食べ物ではない。だから食べてはいけないと考え、食人行為を非人間的であると非難するわけだ。

 

 主人公である育子は物語の終盤で花の上の蟻を獲って指で潰し、別の蟻を同じ花に乗せ、全く同じ(潰して一匹減っても別の個体を乗せれば状況は同じ)であると主張する。

 

「働き蟻の寿命って、2年くらいだそうですよ。でもこの子たち、私たちが小さいころから、変わらずずっといますよね。知らないうちに、命が入れ替わってるだけで、ずっと存在している」

 

 人間は蟻を個体識別しようとしない。蟻は蟻である。同様に、殺人出産制度を肯定する育子はもはや人間を個人として見ていない。人間を命そのものと考え、命を個数で考える。

 

 人間は他の生物を俯瞰で見るが、育子は人間すら俯瞰で見る。言わばこれは神の視点だ。上空から見下ろせば人間一人一人の区別などできないだろう。育子は人間であるにも関わらず神の視点を手に入れてしまったのである。

 

 人間一人一人を個人と考え、特別視するから人間は人間なのだ。その感覚を失う事は人間性の喪失に他ならない。

 

 産み人の「特定の人物への強烈な殺意」は人間個人に対する執着であり、人間を個人として見ているという点では人間的であると言える。しかしながら、産み人の一人である環(主人公の姉)はそういった執着に乏しい。彼女を動かすのは純粋な殺人衝動であり、殺せるなら誰でもいい。人間を個人として見る意識が希薄なのだ。

 

 ミサキ(主人公の従妹)は環をこう評している。

 

「お母さんって噂好きだし適当なことばっか言うから、いつもは信じないんだけど。なんか、ほら、環ちゃんって昔会ったときも、綺麗で、神秘的で、神様から選ばれた人って感じだったから。だから、環ちゃんが『産み人』だって聞いたとき、何かしっくりきちゃって。……でもやっぱ、そんなわけないよね」

 

 なぜミサキが環に「神秘的で、神様から選ばれた人」という印象を抱いたかというと、幼少の頃から既に環に神の視点が宿っていたからだ。そして時代が彼女の感覚に追いつき、彼女はより高みに近づいた。

 

 国民全員が殺人出産制度に賛成するという事は、国民全員が神の視点を持つという事である。殺人出産制度は国民全員に神の視点を与える法制度である、とも言える。それがもたらすのは国家単位の人間性の喪失だ。この作品から感じられる気持ち悪さの根源がここにあるのではないかと私は思う。人間のくせに、神にでもなったつもりか。

 

 冒頭で私は殺人が罪である理由を「個人の生きる権利の侵害」と語ったが、殺人出産制度は個人の生きる権利を尊重しない。この制度が尊重するのは命の数であり、そこには人間一人一人の顔を見ようとしない神が居座っているのだ。

 

・『トリプル』

 

 三人で恋人の関係になる真弓(主人公)、圭太、誠の物語。

 

 真弓は三人で恋人になる“トリプル”を実践(既に肉体関係に至っている)しており、二人組で恋人同士になる従来の“カップル”という付き合い方を否定している。真弓の母親はその逆で、“トリプル”をふしだらな事と思い、そんな事をしてはいけないと娘にしつこく言い続けている。

 

 どちらも性行為に関して潔癖であり、獣性を嫌悪している。嗜好は真逆であるが、「性のあり方はこうでなければならない」という自身の価値観に抑圧されている、という点において真弓と母親は酷似していると言えるだろう(男性二人は考えがそこまで偏ってはいない)。

 

 さて、真弓はいったいどのような人間だったのだろうか。

 

 カップル間セックスを目撃して「おぞましい」「不気味な行為」と非難し、トリプル間セックスを「正しいセックス」であると断言する一方で、トリプル間セックスで誠と共に圭太の穴を犯し終えた真弓はこんな事を思っている。

 

私と誠は、同じ罪を犯した共犯者になって圭太を見つめている。

 

 性行為の描写の中に加虐性や被虐性、そして背徳感が執拗に織り込まれている(「私の仕打ちに耐えている」「いたぶる」「私たちに犯しつくされた圭太」等)。本当に「正しいセックス」だと思っているならば背徳感を感じるはずはないのだが……。

 

愛おしさがこみあげてくる。子供を産んだあとの母親とは、こんな気持ちになるのだろうか? この突き上げてくるような気持ちが恋愛なのか、私にはわからない。私と誠は、同じ罪を犯した共犯者になって圭太を見つめている。

 

 子供を産んだあとの母親のような気持ちと罪を犯した犯罪者のような気持ちが混在している。非常に不可解だ。

 

 自分を潔癖と信じ込む真弓は、自分の中の矛盾に気づいていない。トリプル間セックスの描写からはこの時点で既に背徳感を楽しむ素質が彼女に備わっていたと解釈できるし、出逢いの場面で二人の男性の視線に体を火照らせ、性的興奮を催していると思われる描写からは潜在的な性欲の強さが垣間見える。

 

 実は真弓は三人の中で最も獣性の強い人間だったのではないだろうか。彼女はそれに無自覚であり、本来のセックスを目撃した事で彼女の中の何かが壊れ、そして同時に何かが生まれた。

 

 寝取られ描写を嫌悪していたのにいつの間にか寝取られ作品にハマってしまっていた……みたいな経験をする人が世の中にはいる。嫌悪が甘美な背徳へと変換された一例だ。

 

 なぜ不倫の恋が燃え上がるのか? いけない事だとわかっているからだ。

 

 汚らわしいからこそセックスは良いのだ。いやらしい事だと思うからお互い興奮して、セックスが気持ち良くなるのだ。世の男性はこの辺りの事をよく理解していると思う(たぶん)。お上品なセックスなんてこの世に存在するのだろうか?

 

 物語の終盤、真弓は本物のセックスを見てしまった事で嘔吐し、屋外であるにも関わらず圭太と誠にトリプル間セックスを強く要求する。「私を浄化して」と。だが本当に嫌悪しか感じなかったのだろうか?

 

 そして最後に描写される、狂おしいまでの爆発的絶頂。あれは本来のセックスに吐き気を催す嫌悪と激しい性的興奮を引き起こされた彼女の、獣性の目覚めを表していたのではないかとも思える。「産まれるような声を思わずあげた」という描写が実に象徴的だ。

 

 変態行為を神聖視する変態女であり、かっこつけてるだけの無自覚真性ドスケベ女。それが真弓の正体なのかもしれない。というのはちょっと言い過ぎだろうか。

  

・『清潔な結婚』

 なぜ夫が最後に嘔吐したのかというと、目の前の少女(結果)から自分の妻との生々しいセックス(原因)を逆算して想像してしまったからだろう。生と性は切り離せない。やはりどこかでつながっている。だから気持ち悪くなって吐いたのだ。

 

・『余命』

 非常にわかりやすい ショートショート。自分で自分の死ぬタイミングを決める、というのは、生きる事それ自体を目的化している人ほどわかりにくいんじゃないだろうか。生を手段と考える人は、目的を失えばあとはもう死ぬだけである。極端なまでに生が手段化しているのがこの作品世界であり、それは命のモノ化、あるいはツール化と言っても差し支えないかもしれない。

 

最後に

 『殺人出産』がこれだけ面白く感じられるという事は、作風の異なる(と思われる)『コンビニ人間』は私に合わないのかもなあ……と思いました。

読書感想文001:『リア充にもオタクにもなれない俺の青春』(弘前龍)


公式の略称は『リアオタ』なのだろうが、あえて『にもにも』と呼ばせて頂く。

本作は最初から最後まで非常に多くのパロディ要素が散りばめられており、
中にはブラックなものもあるのだけれど、そこにばかり反応すべきではないと思う。
それは表面的なものであって、本質ではないからだ。

ラノベスクールカーストものは上下格差の問題を主に描かれるのだが、
本作で描かれるのは温度差の問題である(温度差などという表現は作中で使われていないのだが、便宜上ここでは使わせてもらう)。

 

ここで言う温度差とは、他人と交流した時に感じる違和感の事である。

自分と相手は違う。共感できない。そう思えば思うほど、温度差は大きくなっていく。

常に違和感が付きまとう状態での生活。その苦痛は耐え難いものだ。

リア充集団の中にいてもオタク集団の中にいても、主人公はその温度差に苦しめられる。
そしてそれはアイデンティティの問題にも関わってくる。

自分を自分たらしめているものは何か?
所属する集団が自分のなんたるかを表してくれるのならば、リア充でもオタクでもない自分はいったい何者なのだろうか?

主人公は常にアイデンティティの危機にさらされていると言える。これが幸せであるわけがない。
主人公以外はどうだろうか。
作中のオタクが「作品を好きというより作品を好きな自分を好き」なのは、
「○○を好きな自分」を作る事でアイデンティティを獲得しようとしているからである。

作中の某キャラが「みんなの役に立っている自分」を維持し続けるのも同じ。
そして自己の確立の過程で何かを排除しようとするのはよくある事であり、
作中のオタクが特定の作品や人物を排斥するのはまさにそれである。

彼らはそれによって「正しいオタクである自分」を獲得できる(もしくは獲得したような気分になる)のだ。
これは、ある宗教の信者が異教徒を迫害する事で「誠実で敬虔な信者である自分」を獲得したような気分になるのとよく似ている。同調圧力などはまさに宗教的だ。

全員、自己の確立に必死になっている。
青春ものと言えばだいたい恋愛要素がすぐ頭に浮かぶものだが、
思春期におけるアイデンティティ獲得の苦悩もまた青春要素の一つであり、
やはりこの作品は青春ものであると言える(つまりタイトル詐欺ではない、という事)。

そしてさらに温度差は孤独感をも生み出す。
孤独感に苛まれるのは、誰もそばにいてくれない時だけではない。
誰かと一緒にいても共感し合えなければ孤独感は生じてしまうものなのだ。
本作は境界線上に立つ人間の生きづらさをこれでもかと描いている。

本作におけるオタクはリア充から見下される存在ではなく、
リア充-オタク間の上下格差」は存在しない。
だが、二つの集団それぞれの内部には格差カーストが存在し、
それによって生じる問題が主人公に降りかかってくる。

スクールカーストものが原初から内包していた「温度差」という要素を、
リア充-オタク間の上下格差」という要素を廃する事で思いっきり強調したのが本作。
だから本作は従来のタイプのスクールカーストものではないのだけれど、スクールカーストものと密接な関係にあると言える。

そして終盤、主人公が目の前の大きな問題に対して、
今まで自身を苦しめてきた「温度差」を逆に利用する事で打ち破る展開は非常に上手いと思った。
「温度差」に敏感な主人公は、他人の感じている「温度差」を容易に想像できる。
それが非常に強力な武器となるのだ。

このポストスクールカーストものと呼ぶべき本作は、
スクールカーストものに飽きた読者(私はまだ飽きていないのだが)に対するお薬のような作品でもあり、
弘前龍先生はもう次のステージに足を踏み入れているんだなあ……と読んでいて感心させられた。

物語として非常に面白いのだが、面白さ云々よりも、この作品を世に送り出した事自体に大きな意味がある、と私は考える。
もしも私がプロの小説家ならば、この事態に危機感を抱くだろう。
「果たして私は『にもにも』と同等かそれを超える次世代型のスクールカーストものを書けるだろうか?」と苦悩するはずだ。

本作が発売された事でもはや環境が『にもにも以後』へと変わってしまった(私はこれを『にもにもショック』と呼んでいる)わけで、
これから先、どんな次世代型のスクールカーストものが誕生するのか実に楽しみである。

 


ところで評論家ぶって感想書くような人はオタクの枠に入りますか? 入っていいですか?