猿がタイプライターを叩くように

 僕のツイッターをご覧の方はもしかしたらすでにご存知かもですが、掌編を書き下ろしました。
 超自由偽画(チョウジユウギガ)と言うSF掌編です。
 簡単に言うと、機械が画を描いて機械がそれを品評して機械がそれを楽しむ、と言う作品です。

 で、もちろん、是非作品を読んで欲しいのはもちろんなんですが、この作品を書くにあたって考えてた取り留めもないことをば少し。

 以前友人とメディア芸術祭に足を運んだことがあった。
 いろんなジャンル、映画やアニメ、マンガ、ミュージック・クリップ、webサービス等で優れたものを文化庁が取り上げる賞があるんだけど、それの関連作品を一挙にお披露目するというもの。
 そこで、いわゆるアートと言う奴に触れた。美術館で、併設して行われてた東京の幾つかの美大の合同卒業制作展にも顔を出して、一日そういったものに触れ、アートってなんじゃろうなぁとか考えたことがあった。
 
 技術を高めて生み出された、もしくは洗練された実用性を備えた工芸品を超える何かを芸術は持っている。
 美しさ、であったり、概念、であったり、アウラ、であったり。
 それって一体何なんだろうなぁと。

 見方を変えると簡単に見えてきたりもする。
 芸術という文化、営みで考えるのでなく、表現、行為者の行為単体に目を向けることでだ。
 一本の黒い線が描かれている画があるとする。まぁ、画と呼ぶかは疑わしいけど、まぁ額にでも入れておけば画だろう。
 それは、それを描いた人間に深い深い愛情を感じる人間が居たとして、その存在に対する思いの丈をその黒い線に閉じ込めたもの。魂をぶつけた表現であるとしよう。
 そのことを理解することは何ら難しいことではないし、極端な言い方をすれば、「お前がそう言うんならそうなんだろうお前の中だけでな!」の一言で済ませられる。
 
 でも、事はそう単純ではない。
 表現と芸術作品の間に大きな壁がある。その壁は本来不可視で何者も通り抜けることのない絶対の壁だ。そう他者である。
 表現があり、そこには一貫した主体性しか存在しない。その主体性が他人によって理解され、且つ評価されて始めて、芸術は芸術足りえる。
 いや、事はそう単純、なのかもしれない。 

 解釈と理解、評価があって始めて芸術が生まれる。
 
 つまり芸術の条件はただ二つだけだ。
 ・表現物があり、
 ・それが芸術として受け入れられることだ。
 
 その作品の巧拙にも、意味にも、歴史にも、ましてや作者の意図などまったくもって関係は無い。それらは我々があまりにも単純な正体を隠すために盛り立てた装飾にすぎない。
 芸術とは構造そのものなんじゃないだろうか。

 そんなこんなな事を考えて書いた掌編です。
 「超自由戯画(チョウジユウギガ)」
 もしよかったらご一読下さい。
 http://ncode.syosetu.com/n6239bk/


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「あまねく無関心」と「選択された関心」

 昨晩、日中とツイッターでした議論、されていたのを見た議論を下敷きにしてぼんやり考えたこと。

 まぁ、今の世の中息苦しくて、いろんな社会問題が山積してる状況があるって話。
 今回テーマになっていたのは、ニートと言うか若年層が社会からパージされがちな現状と言う問題と教育環境の閉鎖性と言う問題。

 その二つに、まあ、当然具体的な提言なんかあるはずもない知恵足らん人、武倉なわけですが、ジャンルはとにかく社会問題とされる類の問題をどうやって解決していくか、と言う事に対して少し思ったこと。

 最初にしてた議論は@223tudumiさんとの会話。

 なぜ、問題が解決されないか。それはその問題の解決に熱量が注がれていないから。
 なぜ、注がれていないか。それは、その問題にみんなが真摯に向き合っていないから。関心がないから。

 そんな流れになって、いかに、人々と問題との距離感を操作するか、みたいな話になった。

 次に下敷きにした議論。

 それは@yatsuyagurumaさんと@Dan_Qeiさんがしてた話。
 
 教育問題に触れ、委員会や学校と言った主体がインナーサークルなのが問題なのだと言う流れから、親の無関心がそういう状態を育んだ面があると言う話。

 その話に対し、僕はまず、親が教育へ関心を示していなからと言う言及に疑問を持った。
 
 親と言う主体、教育と言う対象に限らずだが、我々がなにか専門的な分野に対して、明確な知識を備えて問題を解決できるほどの活動が出来るだろうか、と言う疑問がある。これは原発の時にも感じた問題で、専門家ですら意見が別れる領域に我々一般市民はどうコミット出来るのかと言う事だ。

 民主主義社会の根本的な問題だが、政治の専門家の政治家が、それぞれ各分野の専門家の官僚が、判断した事柄決定した法案。それらに普段はサラリーマンであったり、学生であったり、主婦だったりの非専門の我々がどう判断し、正しい答えに導けるのだろうか、と言う根本的な構造的な欠陥だ。
 専門家がついた嘘を暴くのに、どれだけの勉強が必要なのだろうか。たとえ原発の問題を何時間も時間を掛け、本を何冊も読み、辛うじて嘘が見抜けた所で、正しい提案を出来るわけではないだろう。そうこうしてる内に、明日には外交政策の是非を論じねばならず、同時に税制について考えをめぐらし、改憲について一角の意見を持ち、農業政策や環境問題にコミットしなければいけない。
 はっきり言って、そんな事をこなせる人間など居ない。
 
 あれもかれもしなきゃいけなくて、しかもその為の時間は無い。
 そんな八方塞がりの状況が、山積する社会問題が片付かない一因にあるのではないかな、と思う。

 僕は、そんな状況を打破するのは単なる関心ではなく、「あまねく無関心」と「選択された関心」では無いかと思う。

 わかりもしないくせに。ちょっと聞きかじった程度で。論説を鵜呑みにしたような知識で、ありとあらゆる公共にコミットするべきではない。くだらない世論を形成すべきではない。
 中途半端な知識、中途半端な問題意識は解決への途を複雑にするだけだ。

 民主主義の原則は、皆で決めるべきなのだが、現状の複雑専門分化した高度な社会では、その形を少し、変えるべきだ。何のための代議制民主主義か。もっと、意思決定を、主権を手放すべきだ。

 専門官僚社会主義を肯定するのか。エリートの熟議だけで舵取りをするのか。我々は政治に、公共に無参加無責任でいいのか。
 そういう事でもない。

 そこで、人々と問題との距離感の操作と言う話になる。選択した関心だ。
 
 僕は以前から徴政制はどうだろうか、と思っている。初めは討論型世論調査などでも良いかもしれないが、いずれにせよなにか特定の社会問題に強制的に市民をコミットさせるのだ。それも、腰掛けではなく、法整備の審議会や第三者委員会とかの形に一年とかそういうスパンで、定期的に関わると言う形でだ。
 司法に裁判員制度をもって主権者がコミットするのと同様に、立法、行政にも参加することで、問題を解決する為の熱量、関心の総量を生み出す。

 誰かしら、何かしらの問題を抱えることになる。そして、それ以外の問題には信託する。

 そうすることでもう少し、社会の公共性の底力を上げられるんじゃないかなぁと言う気がしてる。なんの根拠もない妄言だけれども。


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その存在を漏らさず救い上げ、他と切り離すことからはじめたい。

 えーっと、日陰者と言う概念と言うか、考え方があります。
 わりと、自分のアイデンティティだったり、自分と考えを近しくしている仲の良い友達なんかと繋がる時に互いに認識してる共通点と言うか、共に立ってる立脚点だったりする考え方です。
 この「日陰者」と言うアイデンティティと言うか、属性と言うか、視点と言うか、思考の形態というか、そう言うものについては常に考えていて、どう言葉にしたもんかなぁと言う悩みがずっとある。呪いはその延長線上にある考え方なんだけど、今日はその日陰者と言う在り方を再確認しようかなぁとか。

 日陰者。
 別の言い方というか、なんとなくニュアンスの近い言葉としては「非リア」「弱者」「マイノリティ」「オタク」「ぼっち」とかそんな単語が挙げられる気がする。「人間失格」も近いと思う。
 自らのアイデンティティに悩み、周りが良しとする事に順化したり、それを享受したりしづらい性格の人。そういうのが日陰者、と僕が表してる存在だ。

 でも、今挙げた単語も、それぞれさす存在が異なるし、重なる部分もあれば、重ならない部分もある。僕の表したい存在。と言うより、僕の、他人に認めてもらいたい、僕が僕として認識したい、自己像を過不足なく説明できては居ないので、なんとか、それを説明したい。

 と言うことで、なんとかその輪郭を端的に説明したくて、色々と考えた。
 結果。一つの特徴が浮かんできた。
 それは「コミットできない」と言うこと。
 
 信じるものが無い。これだ、と言うアイデンティティが無い。自信が無い。社会の中での自分の立場にカッコたる安心を持って居ない。目指すものが無い。関われない。心が動かない。
 内側から掴むべき自分と言う存在に、外側から形作る為の社会と言う関係性に、「コミットできない」
 それが、僕の表したい存在だと思う。

 伝わるのであれば、ポストモダンと言う言葉が手っ取り早い。
 僕が良く触れてる東浩紀氏の周辺で使われる言葉(現代思想系で広く普及してる言葉なのかもだけど)を用いれば「大きな物語」が崩れた時代。
 皆が等しく信じてきた観念が、受け入れてきた価値観、生活様式が経済的な理由で、発達したコミュニケーションツールによって、互いに共有できなくなった時代。
 前者はもはや一億層中流じゃないと言う形で。後者はテレビの多チャンネルや娯楽の多様化でわかりやすく現れているかと思う。
 そういう時代。人々は「大きな物語」を信じなくなり、それぞれ、自分が信じたい、信じられる「小さな物語」の中に籠もり、それらが乱立する時代と言う表現がなされる。これが一つ大きな問題だとも。
 なぜか、人々は互いが違う価値観をもっているので、公共性が築きにくく、常識が巧く機能しなくなり、互いが理解し合い、共存するために大きなコストがかかるからだ。

 それはそれで問題だと思う。
 でも、それでも。「小さな物語」でも、例えそれが他人と相容れづらくとも、信じるものをもってる人は良いんじゃないかと思う。
 
 僕は、大きな物語が崩れた時に失われたの物には、物語と言う人々の間をつなぐ世界観だけでなく、物語を「信じる」と言うモチベーションもあったのではないかと思う。
 つまり、「信じていたものが間違っていた、から、また違うものを信じよう」と言う回路だけでなく「絶対だと信じていたものが絶対じゃなかった。だから、もう、「これが絶対だ」と何かを信じることなんか出来なくなるんだ」と言う回路も存在するだろうと思うのだ。
 信じても裏切られるかもしれないと言う猜疑心が根付いてしまったのだから。

 それは相対化と言う呪縛だと思う。その呪いを受けると、何かに真剣になると言うことが難しくなると思うのだ。
 この呪いは一見思春期の熱病とも症状が似ている。どちらにも通低するのは、「自分」はただ一人の存在で絶対的であるのに、そんな絶対的存在が、「他者」と言う名前で相対的に乱立すると言う矛盾状態に対する疑問だ。
 しかし、この熱病にはこれまで処方箋があった。それが「大きな物語」だ。そんな悩みを抱える者でも、年を経て社会に出て行けば、「幸せ」の形を手にし、それを信じる事が許された。経済に参加し、働くと言う方法で。家族を築くと言う方法で。そして、その信心は裏切られることが無かった。

 でも今は違う。その救いは失われてしまった。
 
 陽の当たらない場所に、「日陰」に僕は取り残されてしまった。どうすればいいかもわからずに。そんな存在が、僕で、そして、僕以外にも多く居るのではないかなと思う。居て欲しいと思う。
 
 と言うことで、少し言葉をひねり出して、輪郭を捉えてみた。


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明確な悪が居れば物事分かりやすいのに。

 書きたいことは数あれど、欠く気力が足りない武倉です。

 今日書くことは、最近、友人知人との付き合いの仲で度々出てきた。問題。「迷惑」とか「他人を慮る」とか「気遣い」とかそんなような話。

 もともとの根っこは、ツイッターで時々出会い、処遇に悩む出来事を考えたのがきっかけだったかな。

 そのときのツイートがこれ。
「たまに、どうかと思うなぁと考えることがツイートされてて、どうかと思うという気持ちを発露したい自身の幼さと波風立てることもあるまいと言う自制が働く事があり、その葛藤をつぶやいた時点でなんか言ったも同然なるよなぁとか、もやもやすると言うことを繰り返す。」

「んでもって、だったら当該ツイートと時間ずらす事でどのツイートに言及してるかを隠すと言うことも考えるのだけど、そう言ったネガティブな気持ちはあるだけで、しかもそれがどこに向いてるか明確でないとそれだけで誰かの加害妄想的な申し訳なさを誘発することもあるのでいかがなものかとか思う。」

「じゃあ根本の自らの幼さが悪いと思うのだけど、現実生まれてしまった感情は何とかするしかないし、もしかしたら自身の何気ない発言もどこかでそう言う感情を想起させてるかもしれないと考えると、耳を閉じ目を瞑って口を噤み膝を抱えて孤独に暮らせ!の様な少佐の言い分に至るのかなぁとも思う。」

「で、一連のツイートが既に、こう言った思考が生まれるだけのネガティブな刺激があったのだろうかと誰かに思わせてる、と言うことも思ってしまうから、発露はしたいけど発露そのものも必ずしも気分がいいだけの物ではあり得ない。典型的な自縄自縛で笑える。諧謔のみが救いと言う気もしないでもない。」  


 ・誰かの何気ない行動で不快な刺激を受けることがある。
 ・かといって、不快な刺激を受けたと喧伝すると、それが誰かの不快感を刺激することになる。
 ・じゃあ、我慢するしかないのか。
 って話かな。要は。
 
 一つ目の話はどこにでも、誰にでもよくある話かな、と思う。
 で、二つ目の話が入ってくると話がややこしくなる。負の感情が生まれてしまったときにどうするかと言う話。
 愚痴とか怒りとかが負の感情のはけ口と言うことはよく言われるけど、それには個人的に疑問を持っていて、たとえば、上司だったり、同僚だったり、家族だったり、身近に居る距離をいかんともしがたい、どうしても付き合わざるを得ない人が居たとして、その人が不機嫌だったら、皆さんどう思いますか。多分、その人が振りまいた不機嫌の分、周りに負の感情が生まれるんじゃないかなぁと思うんですよね。
 ましてや、それを意識する人だったら、自分が負の感情を振りまくと言う行為が人に迷惑を掛けてることに自覚的になって、そもそも怒りや愚痴がはけ口ですらなくなる。
 そうすると、溜まる一方かなぁ、と。
 プラスの感情でなんとかすると言うのが正攻法かなと思うのだけど、それって、あくまで相殺で、負の感情が無ければ楽しめたものも、そのせいで楽しめなくなると言うことが往々にしてあると思う。
 大切人がそばに居ると、悲しみは半分、楽しみは二倍とよく言うけど、あれは気の持ち様や関係性によっては全然嘘で、自分は楽しいのに、となりで陰気な顔をしてる人が居たら、楽しみなんかどっか行くと思うんだよね。
 
 これが、前段。
 
 で、何が人に迷惑を掛けるのか。負の感情を生むのか、と言う話もした。もはや収拾出来る気もしないので、とりとめも無いままに書く。

 たとえばいじめの話。

 いじめは良くないと言った時に、じゃあ、いじめを無くそうと言う話になる。で、じゃあ、何がいじめなんだと言う話にも当然なる。いじめとは何か。
 一番シンプルにいじめとは何かって考えるときに、いじめられてる子が嫌だと、自分は攻撃を受けている、不快に感じている、と言う気持ちが存在すればと言う事になるのではと思う。
 すると、困ったことに、いじめられていると宣言すればいじめだ、と言うことになってはしまわないだろうか。
 例えば、ある人が好きな人に想いを告白し、その人が告白を拒否するとする。こんなのはいじめでもなんでもない。でも、振られた側が、「拒絶された!」「いじめだ!」と強く訴えたらどうなるだろうか。それはいじめだろうか。

 よく、人にされたら嬉しい事は人にしてあげなさい。人にされたら嫌なことは人にしては駄目だ。と言う道徳の教育がある。
 でもこれ、いい年した人なら、こんなことはそうそうまかり通らないことは誰でも知ってる。
 チーズが嫌いな人とチーズが好きな人が居るように。構って欲しい人と、放っておいて欲しい人が居るように。
 快不快なんてものは、人によって千差万別で、他人に対しベストな振る舞いなんてそうそう出来る事ではない。
 もちろん一般的に通用する、万人が嫌がることはあるかもしれない。自分の命を脅かされることを好む人は稀有だし、だからこそ、ある程度、他人を毀損する行為は法的に禁じられている。
 でも、そうでないことの方が世の中には溢れている。その場でベターだったはず振る舞いが関係性や構成員が変わった環境では疎まれるかもしれない。
 そういう、危険な綱渡りが常に存在し、その中でどうすればいいのか。迷い込んでしまうと抜けださせない迷宮だと思う。
 
 一つ、話していて大事だよねとなったのは、ありとあらゆる振る舞い、その振る舞いに踏み切らせる意思が、その迷宮の存在を知っているのかどうか、キーになるのでは、と。僕らの間で流通してる造語で言うところの「一周しているか」どうかである。
「善意は悪ではない」と言う単純な話には出来ないと思う。でも構造的に不可避に生まれてきてしまう軋轢を、最小限に緩和し溜飲を下げる為の、免罪符、落とし所を互いが認証してるのが関係性に求められる作法ではないかなと思う。

 とりあえず今日はここまで。

所信忘れるべからず

プロフィールに所信表明的に、
「わかっている事だけを、確かだと思えたことだけを、そう思っていると、僕は死ぬまでなにも話せないのだと気づいた。それはあまりに寂しいので、ちょこっと、自信なさげに話してみます。」
 なんて事を書いときながら、こうまで更新頻度が低いのは、やる気の問題と、あとはアウトプットするものてらいを持っているからだと気づいた。

 なにか気になったことに関して、ある程度考えた上で、アウトプット出来るような輪郭を持った物にまで出したくないと言うか、出すならなんかちゃんとした形にしたいと言う変な潔癖がある。
 もろ、上の発言と反するわけで、もうちっと、考えの基、まだ茹でる前のデロデロしたすいとんみたいな状態の思考を小出しにしていこうかなとか思う。

 もう、この時点で140文字よりは多いわけだし、それだけでも意味はあるだろう。

【創作】ネタノートというか、なんか、考察?的な物。

 日記と呼ぶのもおこがましい更新頻度。

 最近、趣味の小説創作関連で色々、と言っても、熱心に活動してる人に比べれば大したこともないが、活動してる。

小説家になろう」と言うサイトのユーザーの有志による企画、空想科学祭に参加したのがきっかけで、もう一個別の企画にも書き下ろしではないものの作品を登録したりして、
なんとなく、余暇を割く割合の中で最近ちょっとホットな感じ。

 んだもんで、ちょっとそれ関係の事で、日記でも書こうかなぁ。と。

 このブログを見てくれているユニークなユーザーがどれだけ居るのかは存じませんが、仮にいらっしゃったとして、そのユーザーの興味が未熟な素人小説書きの武倉に興味をお持ちなのかは存じませんが、あしからず。
 
 で、何書くかってなぁ、ネタというか、ネタの種と言うか、思いつきというか、多分実現しないような気もするけども、ネタをこねくり回すのがなにより一番楽しいので、そんんか感じ。

 今年も参加してる空想科学祭と言う名のSF小説競作企画。も、とある通り、去年も参加したわけですが、去年の参加作品が「Mono語(モノガタリ)」と言うタイトルのSFでした。

 どういった作品か、と言うとですね。
「Nr(なんの略だったか忘れたw)サービス」と言う、読者の周囲の情報を拡張現実上のタグから読み取り、今読んでいる電子書籍に固有名などを反映させると言う物を描いたものでした。作中に登場する駅やビルや施設名などが、自分が今居る場所のそれに置き換わることで臨場感が増し、物語の筋は変わらぬままに読者一人一人にパーソナライズされた小説があったら興味深かろう、と言う近未来SF短編です。

 もし、ご興味ある方はこちらをどうぞ。
 http://ncode.syosetu.com/n7617v/(Mono語)

 で、ですね、空想科学祭と言う企画に参加してることからもお分かりな通り、SFが好きなわけです。でもって、理系の学問はちんぷらかんぷらなわけなので、サイエンスを真剣にフィクションするのは出来ないので、個人的に自分の書くSFはソサイエティフィクションとか自分では思ったりしてるわけで、要は、なんかそう言う技術で変遷した文化とか価値観とかそういうの在り方を描けないかなぁ、面白おかしく、とか考えてるわけです。
 
 
 で、ですね、今年は小説は小説でも、企画が行われている「小説家になろう」というサイトのインターフェイスに特化している小説を書いたりしたわけです。
 
 こちらも、一応、リンク貼っときますので、もしよろしければ。
 http://ncode.syosetu.com/n3078bi/(夢を叶える仕事)

 で、ですね、どちらにも共通する「デジタルな環境で文章を綴る」ということからなんか出てこねぇかなぁ、と。

 
 で、ですね(いい加減しつこいかw)、まぁ、そのデジタルってものにはコピー可能性という大きな特徴がある、と。
 でもでも、そもそも文字、と言うか言語って原型(アーキタイプ)があって、ひたすらにそのコピー&ペーストの繰り返しで意味を紡ぐわけじゃないですか。
 一つ一つに辞書にも乗ってる語義ってもんがあって、その無数なコピペがこれまでにないユニークな意味を生み出していると言う行為があるわけです。その語義もこれまでの文字の使用の中で培われ、単なる辞書的な語義以外にも、読む人がその言葉に触れてきた文脈に依拠するニュアンスみたいのを背負ってるわけです。
 
 そういったものを企図して意識させるもんが書きたいなぁと言うネタの種があるわけです。「モザイクブルースカイ(仮題)」と言うタイトルでイメージしてるものが。

 青空文庫ってあるじゃないっすか。あれって、文字が全部デジタルデータになってて検索可能かつ著作権切れでコピペも自由自在なわけですよ。
 過去の著名な作品をぶった切って、ひと固まり意味の文節にする、と。
 で、それを繋ぎ合わせて、文章を綴る、と。
 すると、言葉と言葉を繋いで作る文章って意味では変わりないんだけども、例えばこの「青い空」って言う言葉は、ただの「青い空」でなく、芥川の小説に出てくる「青い」と太宰の小説に出てくる「空」を繋ぎ合わせたものです明示することで、言葉が文脈に拠って規定され、その連続が言葉にニュアンスみたいのを持たせてるっていう現象が強制的に意識される気がすんのよね。

 そこに紡がれる文章は全く新しいものなんだけども、それが造語とか新しい固有名詞とかを含まない限りは、そこに出てくる単語は、これまでの言語の歴史の中でなんども使われてきた物なわけで、その新しくなさ、と言うか、その新しくなさをそうやって明示する事で逆説的に強調される創造(クリエイティブ)が持つ新しさ、みたいなのってインタレスティングじゃね、とか思うわけです。

 何時か、書いてみたいなぁ、と思うわけです。そんな感じ。
 


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生きると言うことは「誰かに認められる」事なのか。

 社会問題等に敏感な人を何人かTLに入れると、情報の感度が飛躍的にあがる。
「世はことも無し」と誰が言ったのか知らんけど、TLを見てると「世は事だらけ」だと本当に痛感する。

 世は事も無しかどうかは、本題に入るための、枕詞と言うか単なる接頭の決まり文句のつもりで書いたのだけど、それ自体が一個考察に耐えうるテーマな気がしてきた。問題の多さ、その絶対量の多寡ではなくそれが可視化されうる状況。そして、人の処理能力みたいな話。

 さて、閑話休題、も何も、まだ、本題を披露してすら居ない。
 本題。それは、タグを付けるとすれば、いじめ問題。評価経済社会ベーシックインカム。と言う話になる。のだけど、それぞれが僕の脳内で有機的に絡まっていて、それを快刀乱麻する文章力、論理的思考能力が無いので、これから先、どこにどう着地するかはわからない。
 とかく、個人の人格、生存はどう認められるべきかみたいな話、をしたい。と思う。

 評価経済社会については、以前、少し触れた。ツイッターでも言及した。
 福祉、救済的な公的な公共(公的なと言うのは無論、公的機関によると言う意味)が崩れて良くかもしれない中で、自分を助ける状況、セーフティーネット等を、他社からの善意を自信の与える価値が生み出す評価によって引き出すことで構築しようと言う考えだ。
 これがこれからの時代に適応した、新しい生き方、働き方の在り方であるという事に反対意見は無い。でも、個人的に強く括弧を求めたい。つまり、その在り方は『一つの、それもごくごく一部の有能な人間にのみ可能な』在り方である言う事だ。
 
 つまり、従来の弱者を救うと言う状況に対し、強者のみが可能な適応法を提示されても、語義的に本来の価値、つまり弱者はどう生きるかと言う問題に対しての答えとして価値を持ち得ないと言う事だ。
 
 さて、いじめ問題である。
 いじめ問題も弱者の問題であると思う。

 学校という空間でいじめによって生まれる弱者。資本主義社会、福祉の崩壊した社会と言う空間で生まれる弱者。同一の構造を持つ二者には、同様の救いの論理がもたらされねばならない。

 つまり、いじめ問題も評価経済的論理では解決できないと言うことが言えると思う。

 ここで一つ引用したい。

 ツイッターでも著名な乙武氏が、「いじめから発展した自殺」に限定はしていないが、自ら命を絶とうとする存在に対してと思われる文脈でした発言である。
 
 https://twitter.com/h_ototake/status/223594237910978560
「君のことを必要としている人がいます。まだ、君はそのことに気づいていないだけなんだ。この先、君が幸せにするはずの人は、君と出会えることを心待ちにしています。でも、もし君が死んでしまったら、その人たちは君と出会うことができなくなってしまう。だから、生きていてほしい。今がつらくても。」

 これが個人的には首肯できかねる内容なのだ。

 少し悪意を持って解釈すれば、「君は、他者に価値をもたらす可能性を秘めているから、あなたの辛いという感情を押し殺してでも存在すべきだ。」と言っていると読める。
 これはとても、評価経済的だと、僕は思う。他者に評価をされる、すなわち価値をもたらすことがその存在の意義である、としている。

 そして、もはや語るまでもなく、これは裏返しの意味を持つ。価値をもたらすことの出来無い存在の存在意義は、無い、と。

 ここで、乙武氏の擁護もしておきたい。僕が、自らの論を強固にするために、明確な文脈の存在しないツイッターの発言を些か恣意的に引用し、利用したからだ。
 僕の、引用の発言自体の意の解釈は、間違っていないと思う。
 ただ、自殺をしようとしている存在に対し、こうした呼びかけが有用な効果をもたらしうる可能性は当然あるだろうし、それが実際功を奏すればその価値は疑いようもない。その事は付記しておく。
 
 さて、他者に価値をもたらすことの出来ない弱者、は生きる資格を持ち得ないのか。そんなことはない。いや、そんなことはあってほしくない。

 そこで、もう一つ、いじめ問題、評価経済社会に接続するのが、BI。ベーシックインカムの論理だ。ベーシックインカムの政策としての細かな説明は省くが、要は、年金や生活保護や控除、現金給付の補助金等を一本化し、どんな立場にある人間かに関わらず、すべての人に毎月一定の金額を給付しようという論理だ。
 
 その具体的な金額や方法論、社会的影響には諸説あり、まだまだ議論の熟成が待たれる話題ではあるが、個人的にここでBI論を引きたいのは、その理念に共感したからだ。
 
 生産性の向上や労働の価値と言う問題も、BI論の中核を為すのだけれども、なにより大きいのは、どんな理由であれ、どんな存在であれ、飢えて死んでしまうのは違うだろう、と。ありとあらゆる人に、それは、誰かに価値を供出しない存在であっても、最低限生きる権利は保障すべきだろう、と。生活保護も似たような原理で動いてると思うが、とかく、この理念が大事だと思う。
 綺麗事を実現できる力を、我々は技術によって手にしたのでは無いだろうか。

 経済と構造が、生きる糧を手に入れる機会を奪う時。強烈な悪意が、自己の存在を徹底的に破壊する様な陰惨な行為を行った時。そんな時に光明となるのは、違う形で、違う場で「頑張れば」いいじゃん、と言う言葉ではないと思う。
 頑張らなくてもいい。頑張らないからと言って、誰もあなたを脅かさないと言う安心が、切に望まれているのではないだろうか。


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