旅行後の感想
旅行に行ってきた話。
詳細はまた写真の整理とか終わってからまとめるつもりだけど、とりあえず感想的なものを書いておく。
久々にそれなりのお金とそれなりの時間を持って旅に出た。
大学の時はバイトがあったり就活があったりメンタル狂って動く気になれなかったり…意外と余裕がなかったからなぁ。本当に久しぶりの大旅行だった。
最初は友達に連絡取ったりしていたけど結局1人で出かけることになって、どうせなら思い切り自由な旅にしてやろうと思った。
盆休みの開始とともに、とりあえず電車に乗って西をめざした。ただでさえコロナで後ろめたい旅。しかも行きたい場所にこれから台風が来るという。なんとも言えない気分で電車に揺られて移動した。
1人で適当に行きたいところに行って、降りたくなった駅で降りて、おやつの時間くらいに「そろそろ宿を決めるか…」とじゃらんを検索して…ずっと僕がやりたかった旅行ができたと思う。
人間関係に常に悩んで、優秀な人に囲まれて、自分に何も自信が持てずに、上手く考えを前向きに誘導するのも下手で
「でも僕はメンタル鍛えられてるから」みたいにストレスにただ耐える方向で生きる毎日。
SNSも結局現実だし、家で寝転んでTwitterとかを眺めていても結局そのスパイラルから逃れられないことも多い。
でも旅の道中は違った。僕のやりたいように、思うままに動く。そこに劣等感なんて概念はない。僕しかいないから。
変わる景色とこれから行く図鑑でしか見たことのない場所。そんな新しい感覚を他者とのしがらみの修正を入れずに自分一人で五感いっぱいに感じられのが楽しかった。
正解不正解を除いたそのままの僕を感じられた…気がする。知らんけど。
また行きたいなぁ。
今度は東北かな。またお金と時間が出来たら行こう。
記憶に残っている先生たち
どうも、ときわぐです。
ブログ書くのは久しぶりだよね。
その時思ったことを書いておくと結構後で見返した時に勉強になるから週一くらいで書きたいんだけどな…。面倒くさいんよね。
それはともかく。
学生生活が終わろうとしている。4月からは社会人だ。しかも住処も大きく変わる。もうひたすら不安しかない。
そんなこんなで近頃はこの先のことで頭が一杯になる日々だが、永遠に続くと思っていた「学生」という肩書きが終わる衝撃は大きく…色々感慨深いものもあるわけである。
たとえば「先生」という言葉。
先生という概念の存在に触れるのももう終わりなのかな。いやまぁ「先生と呼べるような人」みたいな人物にはこの先も出会うだろうけど。
色々思い返すと僕も結構濃い先生に恵まれてきたような気がする。印象的な先生達をちょっと書いてみる。
1.中学時代に担任だったK先生。
(中学校の先生にしては)厳格であり、また綺麗好きで教室に小さな掃除機を持ち込んでよく掃除していたのを覚えている。
僕は中一の頃は新しい生活に慣れない上にいじめも受け、それなりに苦しい生活を送っていたが、そんな僕を少し助けてくれた先生である。
ある日僕はいじめてくる奴に苦し紛れの報復をした。よく覚えていないが軽く蹴るか小突くかしたんだと思う(ぶん殴るような度胸はない)。すると彼らはいじめる大義名分を得たとして襲ってきた。
その時先生が僕を助けてくれた。いじめる奴らは先生にこいつから仕掛けたと主張するが、先生は「確かに今はこいつが悪かった。謝らせる。でもな、お前らはいつもこいつに何をしてるんや?…」とそれなりの剣幕で怒った。
小学生の頃から多少のいじめは受けてきたが、初めて先生が僕を守る方向の発言をしてくれた瞬間だった。
小中の先生って元気な子が好きで先生やってる人が多いからね…いじめっ子の肩を持ちがちなんだよね(現実のいじめっ子は多くの場合大人から見て「元気で健全、少し腕白な面白い少年」である)。
勇気を振り絞っていじめを学年主任に訴えても「お前もカッカすんなや笑」と言われたこともあった。
そんなわけでその先生の僕の側に立ってくれた一言は10年以上経った今でもしっかり覚えているのである。
2.高1の時に担任だった某先生
変わった先生だった。ベテランの社会の先生で、何だかんだで学生からの信頼も厚かった。一番覚えているのは高一の冬の三者面談の一言だ。
当時の僕はまだ成績のいい人間であり、親に僕は京大(しかも理学部)行くんやとか言っていた。思い返すだけでも恥ずかしい黒歴史である。
それだけ調子に乗って浮かれていた僕は面談でも似たようなことを言い放ったのだろう。しかし先生からの返しの言葉は厳しいものだった。
確か「それならこんな状態で満足するな。もっと勉強しなさい。今から(勉強に明け暮れる)暗い正月を送れ」という内容の事を言われた。
中学の頃と同じ「適当に教科書読んでりゃいいや」みたいな勉強を続けていた僕は、この一言で高校からの勉強は難易度の次元が違うのだと知ったのだった。
「暗い正月」という言葉には隣にいた親もそれなりに衝撃を受けたようで、今でもたまにネタとして言ってくる。今考えてもなかなかインパクトのある言葉だ。
3.大学でお世話になっている某先生
多くは書けないが死ぬほどお世話になっている。大学の先生は研究第一で学生の扱いは適当な人もそれなりにいるのだが…。
現在進行形なのでまだ思い出深く語ることはできないが、間違いなく3人目の「印象に残っている先生」になるだろう。
本当に迷惑ばかりかけてすみません。いつもありがとうございます。
…こんな感じかな。各学校に一人は印象に残るような先生に出会えるものなんだね。
中学校では他にも数人思い出せるのだが、高校の先生はあまり覚えていない。何故だ。
これからはある程度は僕自身の力で生きていかなくてはならないんだろうな。最初から「先生」な人もいなくて、僕自身が先生のような人を見つけていくしかないんだろう。いや知らんけど。なってみなきゃわからん。
というわけで、ふと思い出した先生たちでした。
前向きに諦める
「自分には何もない」と前向きに認める。というか、前向きに諦める。
結構難しいことだと思う。
前々から僕はコンプレックスを数多く抱え、自分をネガティブに捉えがちな人間である。
でも、人には言えなくともほんの1ミリくらい自信のあるものも持っていた。
就活では自分の有用さを相手にアピールしなければならない。僕は人間関係に乏しいという大きな弱点を抱えながらも、そのほんの1ミリの「売り」たちをかき集めて提示するしかなかった。
ところが。
それを伝えた相手の返事が「あ、そうなんですか」なのである。
きつい。あぁ僕の「売り」って何も売りじゃないんだなって。しかも案の定弱点のほうを執拗に追求され僕はポンポン落ちている。いくらかは途中から「もう許してください」って言いかけた
結局僕は何もすごくなかったし、「売り」も全く売れるものではなかった。
その売りにしがみついてきたこともあり、認めたくなくて結構悩んで荒れた。
でも悩んでいても何も変わらないし、荒れて周りに当たり散らしたところで人は僕から離れて孤立していく…
気づくのが遅すぎるが、結局それは先に言った僕の「弱点」を強化しているだけなのでは?とついさっきふと気づいた。
だから、もう悩むのはやめにしよう。
自分には何もなかったんだ。今ここから作っていくしかないんだ。落ちても当たり前なんだ。
別にネガティブな意味じゃなくて、自分のこれからのために「前向きに」そう考えることにする。
まぁ相手に「僕の利点?ないです!これからですねぇ」なんて言えないから就活はしばらくはこれまで通りで行くけどね。
僕には何もない。でもまだ死にたくもない。ならどうせどこかで何かしら前向きにやるしかなかった。
人間関係をこれ以上失う前に気づいてよかった。
前を向く。
近況
就活が始まっている。
今はまだインターンの申し込みといった段階だけど、既に辛い。とても辛い。
「自己PRしてください」「あなたの利点は?」「今まで取り組んできたことをかけ」等の針のような質問が押し寄せてくる。考えるだけで発狂しそうだ。だって恥ずかしいことに何も無いんだもの、自分の利点。
でも書かなけりゃ進まない。
自分が売り込めるものって何だろう?…と一週間ほど考えていたら、ふとあることを思い出した。中学時代に部の顧問から「彼は修正力高いから試合までに直せる」と言われたことだ。よく考えたらバイト先の店長にも似たような事を言われている。周りの意見をしっかり聞き修正しながら何かを成し遂げる、みたいに感動的に書いとけば何とかなるのでは…?まぁ嘘じゃないし。
一瞬これだ!と思った。
…でもよく考えたら「自分は修正力あります!」ってつまり「自分はまず間違えます!」と言っているようなもの。なんというか…売りにならない能力だな、と思う。
他に思いつくのは「友達いないけど一人で頑張りました!」くらいか。全く売りにならないどころか即座に落とされるだろう。
講義と研究を背負いながら自分を売り込む術を探す毎日。辛い。
新学期
さぁ夢の院生。
…とさらっと言ってみたかった。院の受験に失敗し、蹴るつもりだった大学の卒業研究に手こずり教授からも呆れられ、辛うじて卒業したのだ。院に入っても誇らしさみたいなものが微塵もない。
ともあれ晴れてM1、これから色々なことが始まる。
講義が始まる。
学科内に人間関係を持たない僕にとっては「地獄の再来」という感じだ。また後ろに1人で座るのか…苦しい。ただ研究室の同期とはある程度関係を作れているので、全講義独りというわけではないはずだ。それだけでも救われた気分である。
そして少し楽しみな面もある。それは「学びたいことが学べる」ということ。これから学ぶ分野は友達につられたわけでもなく、自分で考えて選んだもの。さらに院で学ぶのはより専門的な、社会に役立つ分野なのだ。まぁ楽しんで勉強できたらいいな。
研究が始まる。
いやまぁ今までの1年も研究してきたんだが、あまりにもお粗末だったので研究日数にカウントしたくない。
これからは学会に発表する機会も出てくる。…いやこの僕が学会で発表だと?無理ですわ。ロマンあふれる話だが正直不安しかない。
そして後輩も入ってくる。機械の操作方法などを教えろと言われたが…いやこの僕が以下略
何をやるにも自信と度胸のなさが足を引っ張るが、まぁ腹くくってやるしかないだろう。
就活が始まる。
人によってはM1のうちに就職先が決まるという。インターンや面接など、今まで遠い存在だったものがとうとう僕にもやってくる。平均より遥かに低いコミュニケーション能力を酷使する苦しい戦いになるだろう。
就職先については一切妥協したくない。卒業したら40年もそこにいるわけで、転職みたいな器用なことができそうにない僕は最初の選択を慎重に行う必要がある。幸いなことに入りたいと思える企業は幾つかあり、弊学からの採用例もある。頑張れば入れるだろう、「優秀なら」ね。
色々始まる苦しい時期。でも少し未来に期待してもいいかな、などと思えるのは今まで頑張ってきた自分への1ミリくらいの自信があるから。いつの日か自分で自分を誇りに思えるように頑張りたい。
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あとカメラ欲しい。模型も欲しい。旅行も行きたい。そしていきものがかりのライブにも行きたい。
…趣味もここ数年でかなり増えた。楽しみたい。
今年を振り返って② 旅行
今年を振り返るシリーズ②。今度は旅行。
今年はどんな所へ行っただろうか?
自分は基本的に鉄道目的の旅が多いが、詳しい話は省略して簡単にまとめてみる。
1/3~1/5 奈良、京都
2/7 浜松
2/15 京都
2/26 京都
3/3~3/4 奈良、京都
…さすがに面倒になってやめた。要するにほとんど帰省。
本格的に旅行したのは3月の関東遠征と8月の仙台・関東遠征くらいか。
3月の関東遠征は群馬から横浜にかけて旅行した。Twitterで知り合った方達と遊んだりして…なかなか楽しんだ。
8月の遠征は受験で仙台に行ったあと常磐線経由で関東入りし、数日滞在した。常磐線は途中に未だ不通の区間がある。それらを目の当たりにして、なかなか良い経験になった。
受験後はもう遊ぶ気など微塵も起こらなかったが、そこは案外適当な自分…関東入り後は結局当たり前のように遊んできた。
旅行をすれば、必ずどこかで人と関わるイベントが起こる。
伊勢興津で電車を見逃した僕を松阪まで軽トラで送ってくれたあの方や、三重の田舎で鉄道を撮っていたら隣にやってきた方達…みんな覚えている。
元々自発的にコミュニケーションを取れずにいる僕は、家を飛び出して外の世界へ行くことで人と関わる接点を増やしているんだろうなと思う。
もちろん寺社巡りも好きだし、鉄道を眺めるのも本当に好きなんだけど、僕にとっての旅行の本当の理由はそれなのかもしれない。…さすがにそれは言い過ぎかなぁ。
来年はどこに行こうか?
今度は西、そして日本海側を攻めてみたい。それらの場所の鉄道に興味があるし、そもそもほぼ行ったことのない地方でもある。ワクワクする。
院に入り、前よりも自由度は下がるだろうが必ず旅行には行く。今まで見たこともないものを見て、会ったこともない人に会う。それが楽しみだ。
今年を振り返って①
…2018年ももう少しで終わりである。
今年も色々あったなぁ…とか思ったり。まぁ毎年僕は色々やらかすのだが。
せっかくだから今年の諸々をまとめてみたいと思う。この手のものは長文になるのでTwitterよりブログの方が良い。
本当は一回の記事で全て書き切るつもりだったが、意外と思い返せば色々出てくるもので…上手くまとめられなかったため、分類ごとにつらつら書いていくことにした。今回は「勉学」。
○勉学
「勉強は学生の本分」とあるようにこればかりは学生である以上避けられない問題である。この1年で僕はどれほど成長しただろう?
1~2月は恥ずかしながら再履+今期履修の大詰めでかなり忙しかった。しかし部活を引退したこともあり何とか全ての単位を取り切ることができた。
例の如く友達のいない僕は全て自分で解決するしかなかった。再履で出られない科目の板書を友に頼むなどという裏技も使えない。
仕方なく月一程度で教授の居室に恐る恐る伺って頭を下げてスライド等を融通してもらっていた。今思い返しても本当に迷惑をかけたものだ。情けない。
4月になり、晴れて4年に上がれた僕はこのままこの大学で過ごすのだと思っていたが、ここで転機が訪れた。
歓迎会でとある教授に受験時の話(僕は第一志望に落ちて今の大学にいる)をしたところ、その教授が「狙えるんだから今からでも狙ってみなよ」と仰ったのだ。さすがは教授…軽くそういうことを仰る。
でも本当にその通りだと感じたので、僕は元第一志望大学の院を受験してみることにした。一応滑り止めとして(?)今の大学の院も出願した。
(今振り返ればひと月前まで再履を受けるような状態だったのによく頭を切り替えられたものだ。)
それから夏まではひたすら勉強の日々だった。
大学受験以来の勉強詰めであり、一番足を引っ張ったのは自己管理の甘さである。
僕は自分は「やればできる奴」だと微かに信じていたのだが、なかなかスイッチが入らず自信は早くも崩れ去った。時期によっては寝不足で集中できなかったりとかなり苦労した。
安易に挑戦しておきながら実は自分は上に挑む気など微塵も無いのではないかと思い、悩んだ。
能力ももちろんだが、「やるべき時にやる」ことができる人を世間は秀才と呼ぶ。僕は天才にも秀才にもなれなかった。
そして受験の夏がやってきた。
まずは滑り止め(?)の現所属大学の院を受けたのだが、自分的には出来はまずまずといったところであった。
しかし意気揚々と面接に向かうと面接官に「別にいいわけではないですよ。「可」と言ったところでしょうか」などと言われ、赤っ恥をかいた。
以下括弧内禁句
(実は大学受験の時も後期試験であり過去問はろくに解かずに挑んだとはいえ、恐らく合格点間際で受かっている。僕の実力は本当はこの大学でギリギリ程度なのでは?)
そして8月も終わりに近づいた頃、親にも甘えて資金の援助をして頂き、第一志望の受験地へと旅立った。受けると言ったら嫌な顔一つせず、むしろ喜んで下さった親には本当に感謝している。
第一志望は僕の専攻分野では日本有数の知名度を誇る研究室である。教授の名前を言うだけで同学科の人からは「へぇ…あの教授の」と驚かれるような研究室。そこに入るのが高校からの僕の夢だった。
しかしお世辞にも結果は良くなかった。大学受験の時と同じく、数学に悩まされた。翌日の面接の時点で軽く「君は落ちたが滑り止め受けてる?大丈夫?」ということを遠回しに聞かれ、泣くのを堪えて帰った。
歓迎会で教授が仰った通り、今回は最後の「狙えるチャンス」だった。それをものには出来なかったが、挑戦したことは無価値ではない。
言ってはなんだが我が大学の院試は内部生は1割程度しか落ちない試験である。専願で受けていたらきっと後悔しただろう。だからいいのだ。
しかし、そもそも第一志望の院を受ける資格が自分にあったのか。それは今でも考えるところである。
向こうの研究室を見学に伺ったとき、院生達の「意識の高さ」を強く感じた。彼らは自分の研究室の素晴らしさなど1ミリも気にしていないようで、今進めている研究の話を楽しそうにしてくれた。そこにただひたすら入ってみたいとだけ思っていた僕との温度差がそこにあった。
彼らにとっては合格などゴールでもなんでもないのだ。もし受かったとして、僕は彼らについて行くことができただろうか?
父は「彼らとお前は環境が違うのだから、引け目を感じることはない。お前もそこにいたら同じような人になるよ」と言ってくれたが、はたしてどうだろう。
夢ももはや醒め、今は卒論に明け暮れる日々である。
所属研究室が扱うテーマは若干抽象的なものであり、なかなか難しい。しかしこれこそ僕がやりたかったこと。見えないところから世界を変える、ミクロの物理の世界である。
僕にしては珍しく「本当にやりたいこと」をやれている。時の運とここで研究させて貰えるありがたさを感じながら頑張っている。
来年はどんな展開があるのだろう。院に入れば講義もまた始まる。勉学に関してはこれからきっと楽しくなっていく。何となくだが、そんな気がする。