最近の仏教のご法話では「死」や「地獄」という言葉を使うことに非常に気を遣っているように思います。
かなり前ですがNHKの「心の時代」の中の「問われる宗教とカルト」という番組でキリスト教の方が「死や地獄について強調して脅すのは良くない」というようなことを言われていました。
なぜそういう雰囲気になっているのか考えてみました。
地球が誕生してから現代まで、この世界で「死」は当たり前のように身近なものです。
当然、死なない人は一人もいません。
しかし最近はその身近なものを遠ざけようという風潮があります。
臭いものを見ない、嫌なものは遠ざける、本能的な働きでしょうか。
また、各家族化して「死」を見ることが少なくなりました。
このコロナ(武漢ウィルス)の影響で葬式もどんどん縮小されています。
間違いなくお寺の数も減ってきています。
死んだ人が生き返るようなテレビや本も多くあります。
何度もリセットできるゲームの影響でしょうか。
老人はホームに入れて見ないようにします。
人知れずどんどん亡くなっていきますが自分の目に触れなければ問題ありません。
霊柩車も雰囲気が変わりつつあります。
宮型霊柩車はほとんど見なくなりました。
付近の住民に配慮して自治体が宮型霊柩車の出入りを禁止にしたという話も聞きます。
とにかく「死」を無視する雰囲気は大いにあります。
宗教の本質は本来「死」と向き合うものだと思うのです。
この世での生き方を問題にするのは哲学や儒教であり、倫理・道徳と言われるものです。
戦争や災害などを扱った映画だけでなくホラー映画は間違いなく「死」を扱っています。
映画「貞子」の意味するところは「死」に対する恐怖です。
根元的な人間の恐怖は「死」なのです。
だから今を一生懸命生きて、生きていることを謳歌することがすばらしいと叫んでいるのです。
今を一生懸命生きることはすばらしいことです。
なぜ生きることが素晴らしいのか。
仏教的に言えば生きている間に悟りを開くことが出来るからです。
四苦(生老病死)から解放されるからです。
真宗的にはご信心を頂くことが出来るからです。
そうでなくても生きて次の世代に法を伝えていくことは苦しみから逃れる方法を伝えることであり人々を救うことになるのです。
また、与えられた命を全うすることが大事だと本能的感じているのでしょう。
ですが最後に必ず万人が行き着くのは「死」です。
でも、ここで宗教が示すことは「死を受け入れよ」と言うことです。
「信じること」により「死」を超越する世界があることを示しています。
本当に超越出来るのかどうかは別として人々にその安らぎを与えています。
そうして「死」を受け入れ「生」を謳歌するのです。
そういう教えが本来宗教の役割だと思うのです。
ですから、「死」というものから目をそらさず真正面から見たとき、何かが見えてくるのです。
恐怖だけでなく光があるのです。
真っ暗がりの先に光があることを教えてくださっている、それが宗教の役割です。
いろいろな宗教がありますが、その光を見せずに脅してばかりで物を取るのを詐欺と言います。
キリスト教、イスラム教などは信じることにより天国に召されると説きます。
仏教は悟りを開くことにより苦しみから解放されると説きます。
「対価」をはらったらその見返りを与えなければ宗教ではありません。
ここで言う「対価」とは「信じる」ことであり「帰依」することです。
新宗教も「対価」を払うことにより幸せになれると説きます。
この「対価」は「お金」です。
ところが現実には既存の宗教も「お金」により運営されているため、経済の根本的なところでは何も違いがありません。
そういう意味で「鰯の頭も信心から」と言われてしまうのは仕方ないのかもしれませんが、問題は「死」を対象にしていないことがほとんどです。
とは言っても「本物と偽物」は「本物」に出会えば一発で分かるのですが残念なことに本物はなかなか知ることが出来ません。
世の中には沢山の宗教関係の書籍だけでなく宗教者及び宗教学者もいるのですが、そこで本物に出会えるのは希なことと思います。
「お金がもうかる、健康になる、家族が幸せになる」などと言って物を取るのがほとんどです。
そういう意味で葬式、法事ばかりで法を説かないのは僧侶の怠慢です。
とは言え聞く人がいないのに辺り構わず辻説法をするのはどうなのか。
しかし辻説法で人を引きつけてきたのが鎌倉仏教でしょう。
そのエネルギーが今の僧侶には無い、そこが問題でしょうか。
現代の辻説法は「YOUTUBE」だと私は思っています。
熱意のある僧侶が沢山います。
そこでも「本物と偽物」がひしめき合っています。
本物に私は出遭えたと思っていますが、明確に新宗教の人たちを説得する言葉が見つかりません。
「死」を扱わずに仏教の本質を伝えるのは困難と言わざるをえません。
大きな問題だと思っています。
噫(ああ)弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。
誠なるかな摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
顕浄土真実教行証文類 総序
阿弥陀様は「現在、ただいま、落ちるそのままの私を救う」と誓っていらっしゃいます。