はんせいぶん

@tomita33

「日常系の謎――『日常系/空気系とは何か』という問いはなぜ曖昧になるのか?」は何がいけなかったのか。――『余白のR vol.2 特集:日常系アニメ』に寄稿して一年を反省して

 

 今回、この『余白のR vol.4-5 特集:社会の中のオタク文化』に「『オタク』/『オタク文化』を語ることに対する当惑/葛藤」を寄稿した。
 こういう評論(といっていいんだろうか)系同人誌に文章を寄稿するようになったのは、昨年の冬コミに出された同サークルの『余白のR vol.2 特集:日常系アニメ』からであった。
 ふるとさんからのお誘いを受け、『キネ旬総研エンタメ叢書 “日常系アニメ”ヒットの法則』を一読したり、ネットで調べてみたりして、意外と根拠なく「正しい日常系」が語られているように感じたことがきっかけだった。
 ある人物は空気系の無時間性※1を語っておられたが、日常系言説もまた無時間的で引用なしに語られる傾向が強いように感じたのだ。
 そして、日常系を語る(あるいは空気系を語る)言説史をまとめ、なぜこれらの言葉の意味が曖昧になるのかという仮説を提示した「『日常系』という謎――『日常系/空気系とは何か』という問いはなぜ曖昧になるのか?」を寄稿した。
 寄稿して一年。あの寄稿した文には、反省点があってそれを今回は記述しようと思う。 それでは、自身が一年前に寄稿した「『日常系』という謎――『日常系/空気系とは何か』という問いはなぜ曖昧になるのか?」がどこがいけなかったのかという反省を述べることにしたい。
 
 この論は、おおまかに分けると、「日常系」言説史の提示、「日常系」概念の曖昧さの理由の指摘の二つに分かれている。
 前半の言説史の提示が恣意的であったこと。これは書いている当初から自覚されていたことであり、この点は明らかに欠点ではあるが、今再記述するようなことではない。
 むしろ、後半部の「日常系」概念の曖昧さの理由の提示に大きな問題がある。詳述は避けるが、「日常系」概念が曖昧になる理由を、「空気系」から「日常系」という表現の変化(シニフィアンの戯れ)による意味の変化、前半で示した歴史的経緯(シニフィアンの戯れを含む)による意味の変化、異議申し立てによる意味の変化という三点にあると説明した。
 しかし、これらの説明は実は説明になっていない。なぜならば、これらの「理由」は「日常系」だけでなく、他の言葉にも当てはまるからだ。特に異議申し立ての「日常系」言説特有の事例を語れていないことが駄目な点である。この点は、前半部の言説史の恣意性という欠点以上に致命的な欠点になっている。今回はこの点を少しでも補うような議論を紹介したい。
 
 言語のある意味が「正しい」とされる根拠にはおそらく三つの要素があるのではないか。一つ目は、それがはじめの意味だから――つまり、起源だから正しいと語るもの。二つ目は、現在、最も流通している意味だから正しいと語るもの。三つ目は、議論の役に立つから――利便性があるから正しいと語るもの。
 「『日常系』という謎――『日常系/空気系とは何か』という問いはなぜ曖昧になるのか?」では、「空気系」から「日常系」という言葉の意味の変遷を示すことで、起源と現在の流通の解離を具体的に示すことがある程度できていると思う。しかし、「日常系/空気系とは何か」という問いはなぜ曖昧になるのかという問いにおいて重要なのは、「日常」という言葉の曖昧さ、それは現在の流通の意味と議論の利便性との解離から生じる曖昧さを指摘することであった。「日常」を描くから「日常系」という流通している意味に対する異議申し立てがどうして発生するのかという理由を語ること。これが「日常系/空気系とは何か」という問いはなぜ曖昧になるのかという問いに一つの回答を与える重要なポイントであった。
 このことに気づかせてくれたのは、『余白のR vol.2 特集:日常系アニメ』に寄稿されていたすぱんくtheはにー氏が自身のUst放送で、コンビニアルバイターの日常と土建のアルバイターの日常(もしかしたら、それぞれ別々の職だったかもしれない)は違っており、互いの生活を交換しただけでそれぞれ「非日常」を経験するだろうと語っておられたことが発端だ。他にも、「日常」の意味合いが複数存在することを語っておられる方がいる。『余白のR vol.2 特集:日常系アニメ』に寄稿されていたじぇいじぇい氏だ。この方のtweetを引用しておきたい。

 

 

 だが、端的に流通と利便性の解離を語っておられるtweetを発見したので、それを引用しておきたい。

 

 

 すぱんtheはにー氏やじぇいじぇい氏のこれらの言説は、「日常」に多数の意味付けができることを示唆しており、蠅氏のこの議論は、「キャラにとって日常であれば日常系」という流通している「日常系」の意味が「ジャンルの定義としては機能しない」という議論の利便性に重大な欠陥を抱えていることを指摘している。
 「空気系」から「日常系」へと言葉の表現が変わり、起源と流通が解離しただけでなく、「日常」という意味の多数性(あるいは無意味性というべきなのだろうか)によって、流通と利便性に解離が生じている。「日常系」言説は起源と流通に解離が生じているだけでなく、利便性の間で解離が生じている。これが「日常系/空気系とは何か」という問いはなぜ曖昧になるのかという問いの一つの回答になるのではないだろうか。
 
 元々、『余白のR vol.2 特集:日常系アニメ』に寄稿したのは、自身で提示した言説史に反論が加わることで、「日常系」に対する理解を深めようと思ったからだ。私が提示した言説史の反論は頂いていないが、自身の言説への反省と他の「日常系」を語る人々の指摘によって、この目的は少し達成された。
 
 もう一つ寄稿してみて、わかったことがある。それは意外にも感想が少ないということだ。自分が書いた文章を読んで頂くだけでも、ありがたいことである。だが、感想がないとやはり寂しい。実は、書かれていたり、話されているが私が気づいてないだけかもしれない。少なくとも私が記憶しているのは、同評論系同人 誌に執筆されていたすぱんくtheはにー氏が自身のUst放送で、「引用しやすい」というように語って下さったことぐらいであろうか。やはり、感想を頂けると嬉しい。
 
 というわけで、感想が欲しいなどと宣う前に、自身からこうした同人誌の感想を書いていこうと思った次第である。次第であったのだが、そう思ってから一年が経過してしまった。
 
 いい加減、それを記述しておきたい。
 次回は、『余白のR vol.2 特集:日常系アニメ』の感想を書いていこうと思う。

 

※1「空気系の無時間性」は、宇野常寛氏が政治と文学の再設定 宇野常寛|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブローにて語った概念である。

キネ旬総研エンタメ叢書 “日常系アニメ”ヒットの法則

キネ旬総研エンタメ叢書 “日常系アニメ”ヒットの法則

 

 

10月10日(土)京都哲学道場「あなたは私のどこが好き?」予告文

 10月10日(土)に京都哲学堂場で発表することになった。そこで、ちょっとした予告文を書いてみたらどうかというお話を世話役の深草氏から頂いたので、ここにそれを記そうと思う。
 今回の発表のタイトルは「あなたは私のどこが好き?」というものにした。テーマは「誰かを愛する理由」である。一応、哲学道場は、その回限りで独立した発表になっているという条件があると認識している。が、今回の発表は前回の哲学道場でのふると氏の発表、「現代社会と恋愛」で話された恋愛は契約なのかという議論や恋愛における排他性の議論を発端にして今回の発表を決めたものである。そのため、これらの点について踏まえた上で、今回の予告文を掲載することとしたい。
 前回の哲学道場で、恋愛は契約関係なのかという議論は、片思いは恋愛ではないのか、「恋愛ができない」ということはどういうことなのかという参加者の疑問から生じたものであった。この疑問は恋愛の定義の問題に関する議論に移行した。もし、恋愛関係がある種の契約から生じるとするならば、そこには選択が生じることになり、ある相手との恋愛関係には、その相手と付き合う理由が生じるということを意味するだろう。
 また、前回の哲学道場では、現実の恋愛のパートナーと恋愛ゲームにおける「彼氏/彼女」との違いについても議論され、ゲームの「彼氏/彼女」は、誰のものでもありうるが、現実の彼女はそうではないというようなことが語られていた。これは現実の恋愛関係における排他性(恋愛関係にない第三者の介入を拒む性質)が語られたものだと私は認識した。恋愛がある種の契約/選択であり、こうした排他性を基礎づけるものとして、恋愛相手を選んだ理由、相手を愛する理由が語られているのではないか。
ところが、こうした理由は語った途端、まがい物になってしまうと語る「哲学者」が過去にいた。それは、ハンナ・アーレントである。今回の発表はハンナ・アーレントが何故、愛の理由を語った途端に、それがまがい物になってしまうと述べているのか、果たしてそれは本当なのか、そして、それが事実だとすれば、どういうことを意味するのかということから発表をはじめたいと思う。
もし、興味がある方がおられたら、ぜひ、ご参加下さい。

第6回誰得研究会「『自己啓発』を考える」反省

 本日、一体、誰が得するのかわからないようなことを調べて発表しようという主旨の会、略して誰得研究会の第6回目「『自己啓発』を考える」に参加。

富田はそこで、自己啓発(書)の批判のパターンについて発表を行なった。

 

 自己啓発(書)批判には、

 ①自己啓発(書)は「宗教」(マインド・コントロール)だから問題がある、

 ②自己啓発(書)は疑似科学だから問題がある、

 ③自己啓発(書)は役に立たないし、むしろトラブルのもと(自己破壊的)だから問題がある、

 ④自己啓発(書)は心理主義だから問題がある

 という4パターンがあると紹介。

 

 特に、自己啓発の認識論的個人主義の問題点、心理主義の問題点を取り上げ、富田はそこで自己啓発にハマることでかえって自己啓発で主張されていることができない周りの人にストレスを感じるような間違ったエリート意識をもち、そのことが他人とのトラブルに繋がる事例を紹介する。

 

 そこで

「あることを学んで知識のある人とない人の間にあるコミュニケーション・ギャップやエリート主義の有無というトラブルは自己啓発に限ったことではないのでは?」

というような疑問が投げかけられ、これに富田はうまく答えることができなかった。

  確かに、この問題点は何か(例えば、マナー)を学ぶことにも見られ、自己啓発のスキル特有の問題点ではなかった。

 しかし、この問題点から学べる自己啓発読者が気をつけたほうがいい話があり、富田はこれを紹介すべきだった。

  そこに書かれていることが一方で真正で本質的であると思いながらも、他方でその主張を全て盲目的に自己啓発書の主張を信じるのではなく選択的にその主張を取り入れるという態度、つまり、信じながらも疑うという両義的な態度をもつということが自己啓発書の読者の一般的な態度として牧野智和氏の『日常に侵入する自己啓発』(2015)では紹介されていた。

 

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

 

  だが、その取捨選択はその主張とそこで紹介されているスキルと自分とがマッチするかどうかという話であり、ここでも個人主義を感じる、

  自己啓発書の主張を取り入れて実践する時に、身の回りの他者(例えば、仕事場の同僚)や環境(例えば、会社の慣習)といった「私」以外の変数と合致しているかどうかを考慮するという人は一体、どのくらいいるのだろうか。

  心理主義を批判する社会学者が問題にしていたのは、個人でどうにもならない問題もあるのにもかかわらず、個人だけで解決しようとするのはちょっと無理ではないか、社会的な問題や環境といったものに働きかけることも重要であり、こうしたバランスが重要という話であったが、自己啓発書読者が学ぶことができるのはこの点だけではない。

  さまざまな自己啓発の主張を選択的に取り入れるときに自分との相性だけで考えることもまたバランスの悪さにつながっていると捉えることがデキるのではないか。

 自己啓発書の主張を取り入れたり、あるいは捨てるときの判断材料として周りの他人や環境との相性を考慮するということも重要ではないか。

 

 というような話をした方が、より自己啓発読者に訴える提案になり、良かったのではなかったと後悔した。