シン・ゴジラがみせてくれたのは、何だったのか【ゴジラとは、好きにしろとは?】
お久しぶりです。シンゴジ実況、盛り上がりましたね!!私も参加して、思いっきり楽しみました。
非公式イベントといえども、改めてシン・ゴジラの世界線を追体験することで見えてくるものがありました。一般市民一人一人にも人生と生活があって、脇役やその他大勢という人は存在しないんだな、ということ。これは大発見でした。こんな形でもう一度楽しめるなんて、本当に素敵な作品に出会えて、今年は幸せだったな~と一年を総括しています。
(と書いたまま、年が明けてしまいました……)
さて、記事にするまでだいぶ経ってしまいましたが、初代ゴジラを拝見しました!庵野監督が一番参考にしたという本作と比較しながら、結局ゴジラとは何だったのか?また牧元教授の「好きにしろ」とはどういうことだったのか、考察していきたいと思います。
前回記事です。
ネタバレ喚起は……もういいかな(笑)
初代ゴジラとシン・ゴジラ
初代ゴジラを初めて真剣に見た正直な感想は
え? 終わり?? (ヒロインがイライラする。。)
でした(笑)。でもあの時代に、『ゴジラ』という後にも先にも人類が(米国でさえ)一度も勝利できない怪獣が生み出された、ということは本当にすごいですね。特撮には詳しくありませんが、0から生む苦しみは尋常ではなく、それが半世紀以上世界中から愛される存在を、戦後間もない日本で誕生したことは、それだけで称賛に価すると感動します。
さて、初代ゴジラとシン・ゴジラは、似て非なる存在だと感じました。
初代の原動力は、怒り。二度もの原爆投下で人類を地獄に突き落とした核を、たった数年後に性懲りもなく水爆実験という形で再現した人類。これは当時の日本人の怒りであり、自然の怒りでもあったはずです。「水爆実験反対、核保有の反対」と、声を上げるだけでなく、怒りの化身を娯楽映画の形を借りて訴えた当時の制作陣の思いを感じます。
怒りの化身であるゴジラは、双子の妖精の歌声でも乙女の涙でも止まりません。破壊の限りを尽くします。積極的に壊します。この映画は、戦争映画でもあると感じました。水爆実験を止めない国に対して、核に相当する誰も止めることのできない兵器『ゴジラ』で対抗したのではないでしょうか。
対してシン・ゴジラ。こちらは哀しみの化身だと思います。これは牧元教授が一体化した説から思い付いたのですが、彼の心がゴジラに溶け込んだためではないでしょうか。私が今まで見てきた『モスラvsゴジラ』や『ゴジラ・ミレニアム』でのゴジラは、初代と同じく建物中心に破壊していたように思います。(その方が、迫力があるから?)しかし、シン・ゴジラは建物よりも人間を狙って進行していたように思います。故に明確な目的を持って「襲い掛かってくる」という恐怖を感じました。
また、これはあくまで個人の感想ですが、熱光線を苦しそうに吐き切った後、ゴジラは目の表情を変え、俯き加減に哀しい目をします。「憎くて仕方なかったはずなのに、全く気が晴れない。こんなことをしたいんじゃない……」とでも言いたげに映りました。
散りばめられたオマージュ
作品を見ていて、「あっ」と何度声を上げたでしょう。庵野作品のファンの方なら、私よりもずっと多くオマージュやパロディを見つけたことかと思います。恐れながら、そのいくつかを紐解きたいと思います。
【風の谷のナウシカ】
これは若き庵野監督が新人時代に関わり、エヴァンゲリオンの原型になっていたり、『巨神兵、東京に現る』で自らリメイクしている程、思い入れのある作品ですね。
ナウシカの世界は、世界崩壊の後の世界です。その元凶が、巨神兵による『炎の七日間』です。印象的だったのは、そのシーンを彷彿とさせる炎をバックに赤坂から東京駅へ向かうゴジラのカットです。人類が生み出した最強最悪の兵器に、逆襲される構図は、核をエネルギーに巨大化したゴジラ、ひいてはチェルノブイリ原発や福島第一原発を思わせます。力は必ず諸刃の剣であることを、人間はどうしても忘れてしまう生き物なのですね。
ゴジラが最初に現れ去った日の夜には、ゴジラ擁護派が存在しました。ここで議論するつもりはありませんが、原発についても様々な意見があります。しかしゴジラは、人間に危害を加え、放射能を撒き散らすと分かった途端、そういった主張はなくなりました。『ゴジラは神だ』という主張もありましたが、あれは清濁合わせ飲んだ意味では正しかったのかもしれません。
【エヴァンゲリオン】
あの「デーン デーン デーン デーン デンデン」の音楽で、うぉ!とならなかった方は、ほとんどいないのでは?(笑)。細かすぎて伝わらない選手権な箇所ですが、ヤシオリ作戦終結直後の「ゴジラ、完全に沈黙しました」のセリフは、「ネルフだ!」と妙にテンションが上がってしましました。
またキーパーソンである、牧元教授と碇ゲンドウの類似点について、後述で触れます。
エヴァに関しては、生兵法になり兼ねないので、あまり深くは掘り下げないでおきます……。目下、再放送で勉強中です。
一方で今までのゴジラシリーズには無かった、独自の展開もありました。
先述のように今までは、破壊しまくる一方のゴジラ様でしたが、今回はその建物や電車に攻撃されることになりました。
グッズ化される程人気の『無人型在来線爆弾』らは、乗り入れのある故・京浜急行線の敵を取ります。また『無人型ビル群爆弾』(と勝手に命名)は、現時点では存在していない建設予定のビルだったそうです。消されかけている未来に、抵抗されたのかもしれませんね。
ゴジラとは何だったのか
何度観ても残る謎があります。むしろ見る度に謎が増えると言っても、過言ではありません。
中でも、ラストカットの『人型にせり出した不気味な尻尾』。先日発売になった『ジ・アート』に答え合わせがあるかもしれませんが、私の仮説で進めます。
あの凍結が少しでも遅れていたら、あの人型ゴジラが量産されて、この世は終わっていたと、耳にしたことがあります。では何故人型なのか?これは犠牲になった人の残留思念や牧元教授の分身など、色々な説がありますが、私はゴジラが『神なる存在』だからではないかと思います。
キリスト教では、神は人を自分と同じ形に創られたと言われています。
神と違い、ゴジラは元々自然から生まれた古代生物が、人間に不法投棄された核燃料をエサに進化したものです。言わば、神が生み、人の手によって故意に兵器へと育ってしまった、人工の神です。
あのままヤシオリ作戦が失敗に終わっていたら、同じ姿形をした化物に、人類は駆逐される運命にあったと思うと、恐ろしいですね……。
一方で終盤、尾頭さんが嬉し涙を浮かべて安堵する、ゴジラを使って二、三年以内に除染できるという希望。矢口ら人間に敗北したゴジラは、人類が生き残る道を授けます。矢口のセリフにもあるように、ゴジラは脅威であると共に福音なのかもしれません。『神』は時に前触れもなく奪いますが、与えもする存在。シン・ゴジラは、そんな神と人間の物語でもあったのかもしれません。
ラストにある矢口の「この国、いや我々人類はもはやゴジラと共存していくしかない」というセリフは、今もまだ解決の糸口が見えていない福島第一原発へのメッセージだと受け取りました。
牧元教授の「好きにしろ」とは
最後に、写真でしか登場しないのに観た人に存在感を与える牧元教授と、「好きにしろ」の真意を考えてみたいと思います。
彼の出身地大戸島は、初代でもゴジラ伝説に縁のある地として、出てきます。
元教授は妻を、恐らく原爆、水爆実験もしくは、放射線治療の失敗などで失ったと考えられます。ヒントの与え方や妻への執着から、エヴァの碇ゲンドウのような偏屈な科学者だったのではないでしょうか。そんな彼の唯一の理解者であった、碇ユイ……(笑)ではなくて、亡くなった妻。
エヴァとシンクロするのは息子のシンジ君ですが、元教授はゴジラと一体化することで、人間への復讐を誓いつつも、完全には希望を捨てきることはできませんでした。その希望が、偏屈な彼らしい難解な数々のヒントを残すことで、自分一人では辿り着けなかった『答え』を人類に託したのではないでしょうか。きっと彼に足りなかったのは、仲間だったのだと思います。圧倒的な孤独に屈して、ゴジラに身を投じたのでしょう。
私の妄想ですが、彼が破滅のみを選ばなかったのは、きっと妻と過ごした幸せな日々と妻の愛したこの世界を、踏み潰すことができなかったのでは、と考えると不憫で居たたまれません。だから、自分のように神と共に自滅するのも、何かしらの光明を見い出して共存の道を行くのも、真っ向からぶつかって人類もろともゴジラと滅するのも、「好きにしろ」だったのではないでしょうか。
まとめ
ゴジラは殺生与奪を持った神のような存在
牧元教授の最後に残った希望が、人類に生き残る道を与えた
絶対的力は、必ず何か代償を要する諸刃の剣
そうそう、最後に興味深いなと思ったことを一つ。一緒に三回目の鑑賞をした川崎出身の友人が、同じ地元の友人が武蔵小杉で観て感動したと言っていたと聞きました。彼女自身もぜひ今度は、そこで観たいと言いました。また別の友人は、自宅近くの泉岳寺駅が出てきたことに感動していましたし、前述のように立川付近在住の私は、立川で初回を観られたことに感動しました。
神奈川県、東京都に縁のある人にとっては、自分にとって思い入れの強い場所で鑑賞することで、感じ方が変わるというのは面白いなと思いました。映画はどこで観ても同じ、という私の概念を覆す作品でもありました。
2016年、『シン・ゴジラ』という作品に出会えたことは、大袈裟ではなく私にとっての宝物です。「ちょっと観に行ってみようかな?」そう思った私、実際足を運んだ私、グッジョブ……!!
今回を持って、全四回に亘ってお送りした『シン・ゴジラ』考察記事は、終了です。ここまで読んで下さった方も、今回を初めて目にして下さった方も、本当にありがとうございました!!
まっさか、おまけ程度に構想していた最終回がこんなボリュームになるとは……。でも、初秋に出会った、人生がひっくり変えるような衝撃をくれた『シン・ゴジラ』という作品への興奮した熱い思いや考察、妄想を文字に書き起こせて、自分の中でも整理がつきました。そんな自己満足な記事を、楽しんで下さった方、感想を下さった方、何より読むことで思いを共有して下さった皆さんがいたことが、本当に意味のあるものに変わった瞬間だなと、今更ネットの凄さに感動しています。
このブログは、ぐっちゃぐちゃな私の脳内を、文章という形態で整理整頓するお片付けツールなので、テーマはほんとバラバラです。また面白いと思ってもらえるようなテーマの時に、出会えたら幸いです。
ではまた、私のリビドーが暴走した時に~(笑)!
シン・ゴジラがみせてくれたのは、何だったのか【すごい。まるで進化だ】
さて、ロングラン上映も決まり、まだまだ楽しませてくれるシンゴジにフィーバーしております。
考察感想も三回目になりました。毎度の注意です。
前回の記事です。
※※※そもそも、鑑賞済みの方を対象、もしくは今の時点で見に行く気ないし~、ネタバレかもんwwという方にしかオススメできない記事です。おいおい! ぬるっとネタバレすんなよ⁉ となられる方は、自己責任でお願いします。※※※
【鑑賞三回目】
前回の4DX鑑賞から興奮冷めやらぬまま、三日後に三回目の鑑賞がやってきました。
待ちに待った、きっと語り合えるに違いない友人とのシンゴジです!! ワクワクし過ぎて、映画館に着くと何故か緊張していました(笑)。
上映が始まってすぐに
(これ、メモ取るべきだわ)
と手帳を出し、真っ暗闇の中、夢中でペンを走らせました。この時はまだ、ブログ記事にしようとは考えておらず備忘録程度に考えていたので、解読は相当困難でした……。
でもこのヒエログリフとその後まとめた解読ノートのお陰で、記事にすることができました。頭の中を整理整頓できて、他の方に伝えることもできたので、よかった~~! 隣の人には不審がられたことだろう。。ごめんね☆
一回目の鑑賞では、『初代ゴジラ上映当時と、シン・ゴジラの現在が限りなく近い立ち位置でテーマを共有していた』ということ、
二回目の鑑賞では、『全く異なるやり方で、同じ目標達成のために奔走した矢口と赤坂は、破壊と再生で国に希望をもたらせた』
という感想を持ちました。
三回目は半分くらいはメモ取りと、すっかり夢中になってしまった安田くんに気を囚われてしまったのですが、その日の夜にヒエログリフをまとめている時、新たな気付きがありました。
それは、『進化=成長』です。
主人公の矢口蘭堂、赤坂先生、カヨコの主要人物はもちろんのこと、巨災対のメンバーたち、大河内首相。それこそ、ゴジラが形態を変え進化するように。
矢口は大河内内閣では、浮いた存在でした。新入社員の如くおかしいと思ったら、とにかく指摘します。社会人を経験した人なら、大体の方が「そんなに空気読まずに、若手が持論展開しちゃ駄目だろ⁉」冷や冷やされたのでは? かく言う私もそんな経験で大失敗してきたので、「おいおい、駄目だよ蘭ちゃん!」と自分のことのように心配しながら見ていました。立川移転後、矢口がはっきり物申す理由が、本人の口から明らかになります。
「政界は敵か味方はっきりしていてわかりやすい。シンプルだ、性に合っている」
恐らく会社員時代(庵野監督による公式設定より)は、相当上とやり合った、可愛くない奴だったんでしょうね……。(ものすごく親近感湧くわ)
自分を尊敬している従順な志村くんや、ナイス嫁力を発揮してくれる裏ヒロインとも言われる泉ちゃんは数少ない味方なのでしょう。赤坂は敵とは言い切れませんし、東官房長官はなんだかんだで目を掛けてくれています。それでもレクチャーや会議の様子を見る限り、邪険にするわけにもいかない鬱陶しい二世議員と扱われているのは、大体察しがつきます。その点から行くと、『首を斜めに振らない連中』の集まりである巨災対と矢口が上手くやっていけるのは、彼自身も彼らと同種だからではないでしょうか。きっと今までも幾度も長官や赤坂にたしなめられてきたのでしょう。
そんな彼が初めてゴジラを目の当たりにした時、
「すごい。まるで進化だ」
と口にします。
圧倒的破壊力と人類に絶望感を与える存在を前に、行き場のない怒りを露わにします。長官と最後に交わした言葉、「あとで会おう」「はい、這ってでも行きます」のやり取りから、それなりの信頼関係と恩義があったのでしょう。(余談ですが、私はこの「這ってでも行きます」に第二形態である蒲田くんが、這いつくばって上陸してきたことへのメタファーと受け取りました。この時の矢口はまだ第二形態だったのでは?)
そして遣る瀬無いイライラを当たり散らす彼を正気にさせる名シーン、泉ちゃんの水ドン。
「まずは君が落ち着け」
正気を取り戻した矢口の表情は晴れやかになり、ここで覚悟を新たにします。ここでランドゥー第三形態になります。物凄く細かい点ですが、立川予備施設移転後は、今までずっとつけっ放しだったネクタイを、外したり付けたりするようになります。TPOに合わせているのはもちろんですが、外すということで本当の意味で、国会議員から巨災対の副本部長としてメンバーになったのではないでしょうか。ネクタイを外した矢口は、一民間人になる。
第四形態ゴジラの都内放射能ビーム後、巨対災メンバーはそれぞれ誰かを失います。尾頭さんは課長補佐から課長代理になったことで課長を、安田くんは巨災対メンバーだった同じ文科省の部下二名を、そして真相は定かではありませんが、森部長は休憩時間にいじっていた携帯(不在着信やメールのやり取りをしていた)にその後一切触れていないことから、ご家族を亡くしたと考えられます。同じ痛みを共有したことで、本当の仲間になったのだと思います。だからこそ、鎮痛な表情を浮かべるメンバーの前でする政治家らしい演説が、上辺の綺麗事にならず、心に染み入る綺麗事になるのです。
それはヤシオリ作戦直前の作戦実行班の自衛隊員、民間協力者を前でする演説でも同じことが言えます。
「自衛隊はこの国を守る最後の砦です。希望はこの現場にある」(またまた余談ですが、後半のセリフは音楽で繋がりのある『踊る大走査線』のオマージュだと思います)
これは矢口本人が、自分の命よりこの国を十年先まで残すことを選び、前線に立つからこそ、その場の誰の胸にも響く言葉になるのです。当事者としての言葉であるから。
その熱意は多くの犠牲者を出し続けても尚、前線に立つ自衛隊にこれより前から既に伝わっていました。私が一番格好いいと思っている名シーン、財前統合幕僚長の「礼は要りません。仕事ですから」の笑顔からわかります。
ここに到達するまでに核攻撃の延期要請という大きな困難がありました。巨災対がヤシオリ作戦を持てる力全てを結集させてすすめる中、政治家たちは外交手段を使って三度目の原爆投下を必死に回避させようとしました。
ここでカヨコ・アン・パタースンの成長が垣間見られます。初めは分かりやすいくらいに高飛車でプライドが高く、気の強そうな『ザ・アスカ・惣流・ラングレー』なカヨコ。上昇志向も高く、四十代で大統領就任を目指す、完全潔癖な経歴と相当大物らしい父を持つ名門のお嬢様。そのカヨコの絶対的目標をも揺るがしたのは、血でした。
日本人の祖母を持つ彼女は、恐らくおばあちゃんっ子だったのでしょう。日本という国への思い入れと、生まれ育った祖国アメリカの間で心が揺れ動きます。「祖母を不幸にした核を、祖国に三度も落とさせたくない」その思いが、彼女の今まで頑なに守ってきたものたちを手放させます。自分にとって本当に大事なことに気付くのです。
だからといって、目標は手放さないところがカヨコらしいところ。友情の芽生えた矢口に、冗談とも本気とも取れる言葉を投げて、「だから辞めないでよ」と言い残します。
カヨコは矢口に日本の決定権について問います。総辞職ビーム前の官邸で「あなたの国では誰が決めるの?」と。矢口はそれには答えません。説明するまでもありませんが、日本は責任の所在を有耶無耶にするのは、お家芸です。それでも責任を取る時は、辞職する時。そういう意味では、初期対応の遅さ、事態を甘く見て被害を拡大させた責任を、ゴジラのビームによって取ったのかもしれません。死を持って償う、というのは日本特有の感覚だそうです。全く笑えない比喩ですが、そういった日本の価値観を表したシーンだったのかもしれません。
さて今度は立川で核兵器投下について、カヨコと矢口が話すシーンでカヨコが
「この国で好きを通すのは難しいわね」
と同情を寄せた表情で投げ掛けます。それに対し、矢口は
「そうだな、一人ではな」
と微笑んで返します。これは前述のように巨災対という仲間や、思いを同じくした赤坂など、もう一人で闘っているわけではないことを示唆しています。闘う相手は、尾頭さんが「一番怖いのは私たち人間の方ね」と発言するように、ゴジラではありません。この考察記事の一回目で書いたように、「そうです。生物だから駆除できるんです」と赤坂が言います。逆を言えば、人間や国は簡単に駆除することはできません。根気強い説得と、裏からの外交取引など、ある意味ゴジラより厄介です。
そこで出てくるのが、急拵えの里見新内閣です。矢口が「次のリーダーがすぐ決まるのが、この国のいいところだ」と発言するように、3.11当時も震災後すぐに新内閣が発足しましたね。亡くなった大河内総理は登場から死去までのほんの数日間で、リーダーとしての自覚が育っていきました。初めは現実の多くの政治家と同じく、責任逃れと事なかれ主義の中で決断を迫られます。女房役である内閣官房長官の東長官から、「ここは苦しいところですが、ご決断を」と心情を察しつつ促される度に返す返事が、少しずつ変化していきます。
わかった→わかっている→わかっている、やってくれ
と続き、自衛隊の武器使用承認時は
「使用を許可する」とついに自主的な返答になり、
最後は「許可します」と一国のリーダーとして自覚を持った力強く静かな決断を下します。
また永田町から退避を促された際には、「私にここを、都民を捨てろというのか⁉」と命を賭す覚悟までします。しかし、それは総理大臣としてするべき判断ではない。矢口らに「総理にはもっと守るべき国民と国があります」と説得され、立川への退避を決断します。そしてそれは、皮肉にも自らの運命を決める決断になってしまいます。
東京を中心とした関東が日本の経済の大部分を担っていることは、現実でも3.11時に浮き彫りになりました。新聞記者らの雑談で交わされるように、いかに日本が中央政権であるか、それがどれだけの危険を孕んでいるか。庵野監督はそんな『現実』も織り込んだのでしょう。
さて話を里見内閣に移しましょう。消去法で総理になった里見総理は、初めひどく頼りなく、大丈夫か? と周りも心配になります。この内閣は、とにかく『巨大不明生物駆逐を早急に収束させるため』発足された、言わば責任を取るためだけの存在です。そのせいか、里見総理はぼやきつつも、アメリカや連合国軍からの一方的な要求を飲み、判子を押印するだけの簡単なお仕事を続けます。
でもただのポンコツではありません。あの泉ちゃんからも「腹の読めないお人」と評されるように、真意がどこにあるのか、なかなか示してくれません。そんな総理の本心が少し見えるのが、核攻撃が閣議決定されたと告げられたシーン。
同室にいる全員が沈痛の面持ちでうな垂れ、「こんなの、酷すぎます‼」と思わず拳を机に叩きつけ、男泣きします。その時静かに総理が「だよなぁ……」となだめます。決して何も感じていないわけではないことがうかがえます。
また、「二週間待つから、その間に住民を避難させろ」という連合軍からの指示に対して、
「避難とは、市民に生活を根こそぎ捨てさせることだ。簡単に言わないで欲しいよなぁ」と静かに怒りの火を灯します。これに呼応するように、赤坂が核攻撃を受け入れたことを伝えるシーンがあります。
「彼らは、これがもしニューヨークでも同じことをすると言っている」とぐうの音も出ない伝聞をするシーンです。
これは他の方が考察されていましたが、日本は農耕民族であり、アメリカは開拓民であることに由来があると言う説に同感しました。「ここが駄目なら、また新しい場所に行けばいい」という考え方。これは人間性でも同じことが言えます。「この人、コミュニティーが合わないなら、よそに行けばいい」という、考え方。私はそれができないので、羨ましい思考だなと思います。
一方日本は、土地に根差し、場所や人、コミュニティーを必死で守ってきた民族です。理由は案外「土地が狭いから」という簡単なものなのかもしれません。だからなかなか、アメリカンスタイルで物事を考えることが、私を含めできない人が多いのではないでしょうか。そりゃ、なかなか分かり合いづらいですよね。
ちなみにこのセリフは、84年版ゴジラで、同じくアメリカとロシアからゴジラに対して核攻撃を迫られた時に、日本の総理が「それが、ニューヨークやモスクワでも同じことをしますか?」と言い放って回避した展開への、2016年版答えでは、と考察されている方もいました。
もう後はこの二週間で、いかにヤシオリ作戦を決行、成功させるかに日本の将来が託されます。今まで頑なに現実主義者であった赤坂に、変化が起きます。彼だって出来ることなら、三度目の原爆投下なんてさせたくない。思いは、矢口や巨災対、内閣と同じなのです。でも現実だけ見て判断すると、どうしても核を回避することはできない。そこで初めて、矢口の虚構を頼みの綱にするのです。「夢ばかり見ていないで、現実を見ろ」というのは、「夢を現実にして、実現させろ」という裏のメッセージが込められていたのではないでしょうか。
また今まで助言やフォローをしても、噛み付いたことのなかった赤坂が、総理に対して、少し声を荒げて、本気で言っているのかと問います。そして
「そろそろ好きにされたらいかがでしょうか?」と総理に促します。今まで現実と確定要素を重んじてきた赤坂が、「好きにする」という無謀な虚構に対して、期待を持ち始めたのです。
この「好きにされたいかがでしょうか」は、牧元教授の書き遺したあのメッセージと、全力で好きを通す矢口と巨災対から受けた影響だと思います。そしてきっと誰よりも苦労して、政治家になった彼だからこそ、好きを通す難しさを知っていたのでしょう。(庵野監督の公式設定より)苦学して努力で昇ってきた、一人で夢を叶えてきた人だからこそ、その大変さをわかっていたのです。そのスタイルから、好きを通すこと、矢口に希望を託したのは、やはり頭より心情に動かされたから。
このセリフのお陰で、頼りなく見えた里見総理が、実に日本らしい行動で結果的に核攻撃を一時中断させたので、必ず誰かの言動は誰かに影響を及ぼすものなんだな、と感心しました。
事態収束後、矢口と赤坂が交わす会話で、矢口のやり切った希望に満ちた晴れやかな表情と赤坂の「せっかく壊れたんだ。この国を立て直していくさ(セリフ曖昧です)」と口では面倒そうに言っても、これから采配を揮うギラギラとした力強い目は、スクラップとビルドのリレーバトンを渡したシーンなのだと思います。
そしてこれは一個人の成長だけでなく、日本そのものの成長過程を見守る作品だったのだと思います。人間は成長するから変われるし、波及するように影響し合って、結果みんなが変わった。これは今までの日本史全般に言えること。被災した日本が、前を向いて一歩ずつ変わっていく様子を見守る作品だったのかな、とも感じました。
〈鑑賞三回目まとめ〉
- ゴジラ出現をきっかけに、進化するように皆、頑なだった頭を柔軟にし、心で感じるものを大切にすることで、成長していた
- 矢口はゴジラの進化に合わせるように、一人で頑を張るより、人との関わりを糧に、進化していった
- 人間ドラマを削ったことで、むしろ各人物のとても些細で確実な変化に気付けた
そして三回目鑑賞後は、まんまとハマってくれた友人と念願の感想談義ができて、本当に楽しかったです……! やっぱり語り合いたい作品を、同じく衝撃を受けた人と、感想を共有し合えるって最高ですね♡
ちなみに三回目にして、初めてエンドロール後に控えめな拍手が、起こりました。みな一様に照れながら、波及していく様は、同じ感動を同じに時間に共有し合えたことが物理的にわかる、今の日本では珍しい現象でした。顔も素性もわからない人たちと、単純な形で分かち合えたことは、とても貴重で嬉しく感慨深く思いました。時期的にも、きっとリピーターさんが多かったのかな?
気付いたらこんな文字数になってました。。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
もしかしたら、次も書くかも……? 初代を見ようと思っていて、その比較や『シン・ゴジラ』のゴジラとは、牧元教授とは?? とまだまだ、深く考察に沈みたい要素があるので、またまとめたくなったら、書きますね!
では、またどこかの記事でお会いできますように☆彡
出し惜しみリバティで3000円のカチューシャを300円以下で作る
絶賛『シン・ゴジラ』ドハマり中のとんです。
〈材料〉
- 百均のカチューシャ
- リバティ ベッツィーアンちゃんのハギレ
〈作り方〉