在ることについて

アタマの中にある事柄を吐き出すために書き留めるためのブログ

久々投稿

久々にブログを書く。
特筆することはないのだが、、、Twitterにあげていることの深掘りをしてこう。

 

 

・お金を得て(稼いで)何に使うのか、何をしたいのか?目線は常にそこに置いておく。

 

お金が欲しいって具体的ではないんだよね。
そのお金を持って何をしたいのか?
何が欲しいのか?
もっと言えば、その欲しいものを使って、何を得たいのか、その得られることは何なのか?

その得られるということがどのような感情や気分、どのような生き方になっていくのかを想像しておくことが大切に思う。

 


・引き寄せるのは対極することも寄せるので、手放そう。

 

二元論でできているこの世の中で、引き寄せの法則なるものがある。
要はイメージし続ける、色んな人に言いまくることによって、自分が意図しないところから現れたり、導かれるように進んでいくが、それと対極することも引き寄せてしまうのだ。

なので、両方あるということを知って、両方を手放すことが大切になってくる。

事実、出来事、現象、目の前に現れることは全て、ただそれだけでしかない。

ただ、それに対して両面で見れる。
両面で見たあとは、ただそれだけでしかなくなる。

所謂、禅問答のようなもの。

中庸という言葉があるが、中庸とは真ん中であり、均等が取れた状態なのである。

均等が取れているからこそ、どちらでもあり、どちらでもないと言える。

そういった感覚を常に持っておくと、世の中楽しく生きていけるだろう。

 

 

・目標を決めてから始める。

 

道筋は色んな道があるので、予想、予定していたことと違うかも知れない。
だがら目標は変わってしまうと全てが違うようになってしまう。

何でもそうだが、目標があってこそたどり着けるわけで、そこにたどり着くまでの道のりは目標と自分の今の位置を見れば、どうなのか分かるし、目標を見ているからこそ、様々な手段を使うことができる。

 

 

・『(自由に)なりたい』けど、なったときのことを想像できないから『枠』を超えられない。

 

ここでは自由という言葉を使って言っているが、そうなった時のことを想像できないと、そうなれることはない。
特に『自由』になるとはどういうことかが分かっていない。
時間も、お金も、すべてに制限がなくなった時、人は何をするのだろうか?
そう、発想がいつも『否定』から入る人が多いと思う。

今の自分を、今の環境を否定している。

今の自分も、今の環境も、今までの自分が選択してきたことと知っているのだろうか。

否定した今のその先は否定ではないと言えようか。

 

 

・この世のコトワリ

 

色んな偉人たちが、この世は認識でできている世界だと言っている。
一番分かりやすいのが、映画マトリックスのような世界と言えよう。
(もちろん、あのようなことになるとは言えないが)

認識でできているのであれば、認識すればいいだけのこと。

認識するとは、『物事を見分けて、本質や意識を理解すること』とあるが、分かりにくいので簡単にいうと『脳(自分)がそれをあると認める(思う、感じる)こと』だとする。

『証明しろ』などの話しを入れると、複雑になるので一旦なしにする。

人間は5つ(それ以上の場合も)のセンサーを使って、様々なことを認識している。

認識することによって、そこにあると思っている。

禅問答とは、その認識の感覚を研ぎ澄ますことができる。
あると思えばあり、ないと思えばないのである。

だが、それは意識(脳)での話であり、5つのセンサーのうち何個かを使ってさらに認識を深め、確固たる存在を認めようとしている。

この脳の仕組みを理解し使うことによって、引き寄せやメンタルマネジメントなどを行うことができる。

要は脳を意図的に騙す(騙されていることもあり)のである。

知らず知らずのうちにそう思わされていること(騙されているなど)が洗脳といったり、教育といったり、他からマインドコントロールされている状態である。

さて、上記の『今を否定している』ことで言えば、今を否定した先には否定しかない。

今を否定した形の未来ではなく、未来でどうありたいか、どうなっていたいかと想像する。

それが今と大きくかけ離れていてもいい。
むしろ大きくかけ離れている方がよい。

未だ来ぬ時のことなので、どう想像しようが構わない。

それが『目標を決める』ことであり、『なっていることを想像する』ことである。

 

 

・コントロール可能領域と不可領域

 

自分自身がすることは、始めることも、続けることも、変えることも、やめることも全て自分の意志でできる。
だが、他人がすることに関しては、その人でないため助言や手助けは出来ても、ことを動かすことはできない。
あなたが他人に指図されて、やるかやらないかは自分で決めるでしょ。

その他人の領域に関して、悩む必要はない。
全て自分の責任下にある。
もちろん人だけではなく、事象に対しても。

起きた事象に対して、どうすることもできない領域がある。
例えば、雨が降ってきてそれを止めることはできない。
止んでくれと懇願しても、止まない(特殊能力は除く)のと一緒である。

雨に対して、どう思い、どう感じ、どう見て、どんな行動ができるか、自分自身の選択に“だけ“自由がある。

不可領域に悩む必要はない。

不可領域に悩んでいても、考えても、どうしようもないことなのだ。

 

 

*最後に---

我々は始めから“自由“ということ。
今まで選択した結果、自分を縛るように選択してきている。

縛られ続けてきたからこそ、縛られて居ないと不安になるし、落ち着くこともない。

“自由“(になる)ということが、どんなことなのかをも想像できない。
何故なら“自由“を体験したことがないからだ。

そうあって良いのだろうか?などと縄(愚問)を自分に投げつけ、縛り付ける。

言葉は悪いが“奴隷癖“が抜けない。

周りが何と言おうが、その人たちが自分の人生の責任を取ってくれるわけではない。

他人は自分と同じ、もしくはそれ以下を願っている。
自分だけが置いていかれるのはしゃくだから。

他人を見て、自分の安堵感に変えているようでは、自分の人生を生きていないと言えよう。

あなた(私)は、自分の人生を自分の足で、自分の力において歩もうと思うのか?
それとも他人に言われた人生を歩むのか?

“自由“になるということは簡単ではない。
だが、単純明快な方法で、“自由“を手に入れることができる。

さあ、掴もう。
あなた(私)自身の人生を
さあ、歩もう。
あなた(私)自身の人生を

さあ、味わおう
あなた(私)にだけ与えられた、光り輝く人生を

信じて、疑って、、、

自分のことについて、どれだけ考えたことがあるだろうか?

 

今の自分から見て

過去何をしてきたのか?

過去何に興味があったのか?

過去どういうものを取り入れてきたのか?

過去どういうことを捨ててきたのか?

 

それらが今の自分を形成している。

 

そして、未来は今の自分が創り出していく。

未来、こう在りたい。

未来、こういうことをしていたい。

未来、こういう生活をしていたい。

 

あるったけの『〜たい(wont)』を上げてみる。

 

その上げた項目と今とが乖離している分、できないと認識してしまう。

 

前項で、できるかできないかはどうでもいいと言った。

 

そうできるか、できないかはどうでもいい。

【やってみる】ということ。

 

前項では、どう在りたいかを問うた。

どう在りたいかをみて、やらないのであれば、今のままと何も変わらず、変わらずということは退化して行っていることを認識しておく。

 

生まれた瞬間(もしくは生まれる前)から、死ぬことは決まっている。

与えられた何時間もの間、一体何を得て、何を感じ、何という存在であるのだろうか?

それは決められたことなのだろうか?

 

全てに疑いを持ってみては如何だろうか?

全てを信じてみてはどうだろうか?

 

友人から信じるな、疑うな、必要とあらば調べよという言葉をもらった。

 

否定形なので、肯定形に直してみた。

信じて、疑って、必要なら調べてみる。

調べたことすら信じて、疑ってみる。

 

疑えば疑うほど、信じることになる

盲信はいけない。

情報に踊らされるから。

 

■情報を処理することに追われている。

インターネットという世界がもう当たり前のようになっている世界で、人は情報を処理することに追われている。

 

人の脳をコンピュータ(PC)に置き換えた時、その入力される(否が応でも入ってくる)情報を処理するのにCPUが使われ、人本来が持っている考える、想像(創造)することにCPUが使われなくなっている。

 

まず、一旦情報を遮断してみてはいかがだろうか?

 

情報を遮断することによって、処理することがなくなる。

おそらく、情報を求めてしまうことがある。

それは癖であり、依存であり、禁断症状的なものであるので、その状態になることは正しいのだろう。

 

そして、自ら生み出すことをしてみるといい。

そのために、過去を思い出すことや未来を想像してみるといい。

 

最初はできないだろう。

だが、やっていけばできるようになる。

 

そうすることによって、何かが動き出す。

それを感じて欲しい。

ある時のこと

『できる』か『できない』かは問うてない。

『やる』か『やらない』かも問うてない。

『どう在りたい』のか『どうなりたい』のかを問うてる。

 

何故?

今その理由がわからてなくていい。

 

とにかく、飛び込んでみること。

『やってみる』。

これだけ。

 

やってみたら、やれるようになり、結果『できている』となっているだけ。

 やっている内に理由が見つかる(それをちゃんと認識する必要になってくるから)。

 

『やってみる』ことに対して、勇気を持つこと。

その時に必要な心持ち、姿勢は『諦めない』こと。

そして、時間をそのことに費やしていることが重要。

何に費やすのか?本当にそれに費やしたいの?

 

時間=命(残り)

 

■□■□■□■

『生きるためにお金は必要だが、仕事をするために生まれてきたわけではない』。

この言葉に良い感じを受けない人はさようなら。

 

 何となくでも、感じて欲しいことである。

人として生まれてきた意味なんてわからないし、知りたいとも思わない。

ただ『何をしたいのか』、『どう在りたいのか』を認識したほうが良い。

狂いたまえ

2019年、明けましておめでとうございます。

 

2020年という区切りのいい年に向かう最後の1年であり、平成も残すところ後数ヶ月となる年。

 

何か意味があるのか、ないのか。

それを知っている人もいれば、知らない人もいて、意味があると思っている人もいれば、そうでない人もいる。

 

長らくお休みをしていたブログだが、こうして打ち込む機会が訪れたのも何か意味があるのだろう。

 

人は意味を付けたがる生き物なのかも知れない。

 

さて、新年の挨拶を兼ねて、お伝えしたいことがある。

 

『諸君、狂いたまえ』ということ。

 

さあ、狂って狂って、狂った先に見えること。

それが何か意味するのかを考えてみよう。

 

信じるな

疑うな

自分で調べろ

必要であれば

Time is Gold

いつから始まったのか、明確な区切りは付けにくいけれど、強いていうならば6月に入った頃からだ。

 

予定していたことがなくなり、大きな嵐に巻き込まれていった。

土台が崩れ、失った。

それは突如、大きな波となり飲み込まれた。

波の中で空も地も分からず、息も出来ない。

そんな不自由な自由を1ヶ月過ごし、精神はぐちゃぐちゃになった。

 

荒波から何とか浜にたどり着いた。

新しいご縁、古きご縁に助けられた。

 

浜にたどり着き、もう一度航海をするためにといき込んでいたら、別の問題が発生した。

今、嘘や偽りはボロボロと浮き彫りになり、膿みだしのように現れてくる。

そして、痛みやかゆみ、傷などを伴う。

それは例外なく。

 

流れは大きく変わっていく。

精神がズタボロになっていることに気が付く。

 

思考を前向きにすれば、するほど目頭が熱くなる。

一度は気付いていたことを再認識させられる。

そして、自分の立ち位置を思い知らされる。

 

だが、そこで止まらない。止まりたくない。

航海することは決めている。

目指す場所が在るから。

そこに行くことを決めているから。

弱音は吐けない。

 

今周りにいる人たちは、そんな状況を知らない人が多いから。

それは嘘でも、偽りでもなく、どう見てもらいたいのかという選択肢は自分自身が持っているから。

 

突きつけられる様々な変化。

○相手の立場に立って物事を考えること。

→それが正しいとは言い切れないが、自分ならこう言われると、こうされるとどう感じ、どう受け取り、どう反応するのだろうか

 

○謙虚な態度、立ち居振る舞い。

→偉そう、上から目線と無意識でそうしているのだろう。

どうであれば、偉そう、上から目線と言われないのか、思われないのか。

それはきっと謙虚でないから。

相手が自分自身のことを見下そうが、卑下しようが、それでも謙虚であろう。

 

○与えること、優しさとは。

→見返りのない優しさ。本当に与えられることを与える。

何かを求めず、とはいえ求めている部分もあることを認識した。

きっと、それは時差で返ってくると知っているから。

 

○約束を守ること。

→人との約束より自分との約束。

これをしっかり守っていくことに意識している。

案外、自分で決めたことと違うことをやってしまっていることもある。

全てをまず認識し、修正していくこと。

それが自分を信じる最大の方法だから。

 

○Time is Gold

→時は金(かね)なりというが、お金より、金のように希少価値が高く、限られている。

お金は無限に生み出そうとすれば可能だが、時間は生まれた瞬間から死ぬと決まっているため、生み出すことは不可能。

なので、どういう時間を使うのか、その時間をどう過ごしていくのかなどをしっかり考え行動する。

 

色んなことを再認識したり、気が付いたりする。

ここからが正念場。

 

日々精進。

近況

*会話について

どうやら会話の進め方と言うか、人がわかりにくい話し方をする傾向があるようだ。

人は何について話しているのかを想像した上で、会話をしていくと分かりやすいらしい。

これは伝えるということにおいて、右脳を使っているのか、左脳を使っているのかみたいなもので、論理的に伝えようとしているのか、そうでないのかの違いなのかも知れない。

それを意識的にしていくことは、かなり意識を働かせることになるので、私としては非常にしんどいことになる。

が、相手の話しを理解しようとするときは、論理的にまとめながら聞いているので簡単(無意識)にできる。

自分が話したいことを、どのように話せば相手がわかりやすいのかは、書籍の表題、目次を思い浮かべて話してみるといいと聞いた。

 

*生活面について

上記の会話だけでなく、様々なことを意識的にしていく必要がでてきた。

仕事が変わった。やりたいことが増えた。それに伴う費用が必要。

いきなり色んなことを変えるのは難しいので、一つ一つやっていくだけなのだが、やはり意識を最大限活用すると疲れが出る。

今は建て直しの時期なのだろうと感じている。

ついつい堕落しがちなので、自分を律することが最重要項目になってきている。

 

*優しさについて

何かを与えるときは見返りを求めないようにしている。

見返りを求めて与えると、返ってこないことを見てしまうから。

(↑表現がしっくりきていないが)

ただ、優しさは無限ではない。

優しさ=便利や都合のいい人とは違うと感じている。

人付き合いも変えていく必要が出てきた。

与えることを精査していく。

 

*まとめ

とにかく、何から何まで変化しようとしていることをひしひしと感じている。

能動的に変えていくことは、今まで意識していなかったこと、してこなかったこと、無意識でしていたことなどを洗い直していくことになる。

それには体力と精神力が必要になってくる。

さて、どこまで変えられるのだろうか。

意識していこう。

自分の世界を作っているのは『思考』することだけなのだから。

輝かせる

感謝という言葉は、日本語で言う【ありがとう】、【有り難い】と少し違うらしいのだが、概ね【ありがとう】、【有り難い】ということの認識で良いと思う。

 

人に何かをしてもらうことに対して、対価を払う。

対価を払えば、それなりの何かを得る。

そこに感謝の気持ちは要らないのだろうか?

それが当たり前になっていないだろうか?

 

もちろん、何かを提供してもらっていることに対して、対価を払っているので問題ない。

 

だが、それだけでなく、そのことに関して、感謝の意を伝えることで、そのことを伝えられた人は嬉しいと感じる(何とも感じない場合もあり)だろう。

 

相手に対して感謝を伝えることで、相手の存在を認めることになるのではないだろうか。

私の物語に、あなたという存在が多かれ少なかれ、存在しますということ。

 

人は人の中で生きるから、人間となる。

ならば、素晴らしき世界を築きたい。

その素晴らしい世界とはどのような世界だろうか?

 

今の世の中は、人を蔑み、人を蹴落とし、人のせいにして、自分を守ることで精一杯なのだ。

攻撃しなければ、殴られ、ズタボロにされる?

 

私見だが、『攻撃することで、自責から逃げているだけ』ではないだろうか。

またそのようなことを気付きにくい環境なのだ。

自分の世界に責任を持つのは、重荷だと思っているから。

 

本当は誰も自分自身を傷つけることはできない。

相手が何を言おうとも、それを食らったと認識して自分が自分を傷つけるのだ。

とは言え…という世界になっている。

 

堂々巡りで、それをどうこうしようとするのには、あまりにも大変で難しいことである。

 

ただ、絶対と言えることが一つある。

私たち(地球全て)の存在は【奇跡】だということ。

 

私たちが存在する確率は天文学的数字だ。

そんな私たちが出会い、そこで起こる全てのことも奇跡である。

 

この奇跡的なことは在るべくして在るのだが、有ることは難しいことなのだ。

有り難いとしか言いようがないだろう。

 

どんな出来事も、どんな存在も、全てが贈り物として受け取ってみると、素晴らしいと感じるよう瞬間がやってくる。

 

・・・贈り物として受け取りたくもないこともある。

 それは自分が贈られてきた物事に対して、二元論で受け取ろうとするからだ。

 自分がどう取ろうが、誰にも関係ない。

 関係ないが、関わりの中で相手から提供されることを受け取るに当たって、受け取り方次第で相手との関わり合いに変化が生じる・・・

 

その瞬間の連続が日々となり、日々は年月となり、自分自身という人間を形作っていく。

 

素晴らしいと感じる世界で生きていきたいのか、そうでない世界で生きていくのか、その選択肢は常に自分にある。

 

感謝できないことも、奇跡なんて知らないと言いたいこともたくさんあるだろう。

だが、贈り物は常に望んでいなくても、周りに溢れている。

我々が奇跡の存在であるように、そこに在るモノ・コト全てが奇跡である。

 

世界は既にあり、その世界全てを変えるには、大きな力が必要になる。

だが、自分が生きている世界に在る無数の奇跡を有り難く受け取ることで、人生は輝くのではないだろうか。

 

そう。私たちは奇跡の存在であり、私たちの周り全てのこともまた奇跡である。

そしてそれだけではなく、私たちには選択肢(決定権)が与えられている。