二日坊主
三日坊主どころか 二日でもう飽きていた・・・
いや、飽きたというより 忘れていた
もう、そんなこんなで だんだん いろんなこと忘れていくのかな・・・
最近撮っているのは、こんな写真が多いな
彼らは、散って そして 土にかえって そしてまた 生き返る
でも、人が また 人に生まれ変わるという保証もないし、もし生まれ変わったとしても記憶が消えているわけだから、生まれ変わったとは言わないな
だから、あまり先のことはあてにしないで、静かに 忘れていくことにする
お地蔵さま
最近は、葉っぱの写真か そして お地蔵さんの写真ばかり撮っているようだ
以前も石仏は撮っていたけど、その頃は「美しさ」「写真としての良さ」「古さやそれに伴う価値」などを気にしながら撮っていたような気がする
でも、最近は・・・ 別に特定の宗教を信じてるわけでもないし、仏像の意味も知らないんだけど、なんとなく 新しい気持ちで向き合っているようだ
撮り方も、真正面からにらめっこするような感じで撮るようになった
きっと、(たぶんまた違うこと言い出すと思うけど・・) 歳を重ねるにつれて、「死」というものが、目の前にちらつくようになり、それに対して自分なりに、しっかりと向き合いたいという気持ちが、そんなふうにお地蔵さんと目を合わせながら撮っているのじゃないかと、勝手な分析をしている
でも、もう3年ほど同じようなこと考えているようだから、しばらくは続くのかな・・・
もしかしたら自分を撮っているのかな・・・
ご無沙汰しております
久しぶりにアクセスしたら
まだ アカウント残っていた さすが はてな??
ということで、ちょっと 以前 お話したひと 探しにいってみよう
まだまだ写真撮っているけど、最近は こんな葉っぱばかりかな・・・
記憶の枚数
長い通勤時間の中、ふとひらめいた。
今、生きている私と、次の瞬間の私とは 同じ?? 違う??
もしかしたら、次の瞬間には次の瞬間という記憶を持った私'が居て、その次の瞬間にはその次の瞬間という記憶を持った私''がいる。
たまたま、今の私が、今の私の記憶を「意識」しているから、「今の私」と認識しているが、今の私は、今でしかなく、次の瞬間の私'は私'でしかない。
その私'を私が意識さえしなければ、次の瞬間の私'には飛ばず、もしかしたら、別の瞬間の私'''に飛ぶのか、あるいは、他人' に意識を移行して飛んでいくことも可能なのかもしれない。
金太郎飴のように、その断面にたくさんの顔があるように、記憶の数も、限りない断面の数だけあるような気がする。そして、その飴は一本のつながった飴ではなく、無限に広がる飴なのかもしれない。
そんなわけで、今の、つまらない私から抜け出そうとするならば、ちょっと気合を入れて、記憶の飴を飛び越えて行けばいいのである。
その方法は、まずは「寝る」ことかな・・・。ということで、ビールも飲んだことだし、もう寝ることにする。
目が覚めた時の、私は、私'ではなく、ネコかもしれないが、まずは、お楽しみに・・
重い人
重い話、軽い話。重い空気、軽い空気。重い気持ち、軽い気持ち・・・など、「重い」と「軽い」という形容詞が、よく話の中で出てくる。
私は、どちらかというと「重い」ようだ。
だから、「面倒くさい」と思われることもあるようだ。
だから、「気まずい」ことも多いと思う。
しかし、せっかくなら このまま「重い」まま、生きてみようと思った。
広告
暖かくなったせいか、電車の吊り広告には「ビール」の写真がたくさんあった。
凄く美味しそうに撮られた写真ばかりだ。
やはり、写真ってのは、広告・コマーシャルと深い関係があるようだ。
山奥で、ドロドロになりながら苦労して撮った滝の写真も、パンフレットや絵葉書になれば、さわやかな広告になる・・・、不思議だがそのようだ。
そして、広告になれば、お金か動く。それもそうだ。
ということで、写真を撮る目的が、だんだんと変わっていく場合もあるようだ。
ま、げーじゅつは、そういう意味でいうならば、お金にならないから、一生楽しめるのかもしれないなぁ・・
新陰流
先日、柳生の里に行った。私の住んでいる名張は三重県でも奈良県の県境にあるので、柳生は以外と近い。
柳生といえば、新陰流。一時期新陰流という言葉だけに引かれて、少し読んだことがある。
で、柳生のお墓に行ってみた。結構有名な「十兵衛」の墓は小さかった。
そして、やはり「石舟斎(宗厳)」の墓は大きかった。柳生はこの人から始まったのだなあって考えながら、墓石になっている五輪塔を眺めながら思った。
新陰流といえば、上泉伊勢守信綱(関東の人だが、三重県にはいろいろ縁があって結構好きな人だ)。で、その弟子と言われるのが、柳生石舟斎。
その石舟斎は最終的には、刀を持たない、無刀取りという技を編み出したようだ。ってことらしい。
でも、カメラを持たないとは違い、刀を持たないなんて、命に関わるものだから、凄いなぁって思っている。(もしかしたら、勝手に後から作られた話なのかもしれないが・・)
でも、本当かもしれない。しかし、それを真似して、命を落とした人もいるのかもしれない。
新陰流・・・、もう少し真剣に調べてみたなあって思っている。
肉眼レフ
今日は久しぶりに、何もしなくてもいい休日だった。
それで、写真撮影に行った。カメラを持たずに・・
先日、ラーメン屋さんにカメラを持たずに行ったことで味をしめたのか、風景写真を撮るのにもカメラ無しということを試してみた。
これは、なかなか大当たりであった。以前、どこかの写真家が話していた「肉眼レフ」のカメラとはこういうものかって思った。
カメラは無いけれど、写真は撮る。レンズは「目玉」、絞りは「瞳孔」、記憶媒体は「脳みそ」。
ま、そんな感じで、いろいろ試しながら歩いていた。不思議なもので、以前、カメラを持っていたときに感じた後ろめたさってのが、まったくなく、色んな風景や、民家や、通行人を撮った。
そして、記憶は美化されるから、今、私の記憶媒体の中でうごめいている風景はすごく美しい。
このシステムで、ひとつだけ、難しいことは、見る人に少し協力してもらう必要がある。それは、想像力。ま、見てもらう必要もないので、それは、想像したい人、想像できる人、が、勝手にすればいいことで、私の中にある素敵な風景は、私だけのものである。
ということで、このシステムはお金がかからない。歩くのでお腹がすくが、それ以外は省エネであるようだ。
しばらくは、この方式で写真を撮って歩いてみることにする。いつもの春日神社にも行ったけど、カメラがあるときには見えなかったモノ(かみさま)が少しだけ見えたようだ。素晴らしいことだ。
ちなみに、ここに貼った「水」はカメラで撮ったものであるが、これは写真ではなく「げーじゅつ」であるから、いいのである。たまたまカメラを使って、素材を収集しているだけということにしておく。
通常の写真は、カメラは無いほうがいいという結論がでたので、1杯だけビールを飲んで、早いけど、寝ることにしよう。