虚馬アーカイブス

私「窓の外」が「江戸川番外地」というブログに書いた文章をブログに移行したものです。

管理人:「窓の外」
ホームページ「江戸川番外地」で過去に書いたテキストを移行したブログです。

「ミリオンダラー・ベイビー」(クリント・イーストウッド) Million Dollar Baby

 「自分を守れ」
 それを口癖のように言う老トレーナー、フランキーは、23年来の付き合いとなる雑用係のスクラップと、昔ながらのジム、ヒット・ピットでボクサーを育成している。そんな中でもいいボクサーは育つ。その筆頭であるウィリーは、実力は折り紙付きであったが、教え子が何かに怯えるかのようにタイトル戦を先延ばしにするフランキーにしびれを切らし、別のマネージャーへと乗り換えてしまう。そんな折、フランキーの前に現れた女性ボクサー、マギー。マギーはフランキーの指導を乞うが、昔気質のフランキーは女のボクサーを認めようとしない。だが連日ジムに通い詰めるマギーの一本気さに、やがてフランキーの心も揺り動かされ始める。
 こうして、マギーとフランキーの絆は、こうして繋がり深まっていくが、やがて、彼らは運命の瞬間に直面する

 アカデミー賞で、「アビエイター」が敵わないはずである。その底知れぬ人間洞察の深さに陶然と打たれる。題材としては、特に目新しいものではない。だがイーストウッドの演出にかかると、ずしりずしりと、重いボディーブローのように「心」に効いてくる。人間の哀しさ、美しさ、醜さ、くだらなさ。それらすべてを描き出しながらも、イーストウッドは目を逸らさずに受け止め、優しく映すだけである。皆、誰もが罪人であり、そして、すべからく悪人ではない。
 かつて、容赦なく悪を葬り去ってきたダーティ・ハリーは老境に至り、かつての己の咎も他人の罪も、すべてを引き受け、それを思いながら哀しそうに微笑んでいる。苦悩し、過去の「罪」に怯え、赦しを乞う主人公も、ホワイト・トラッシュな現実からボクシングの魅力にのめり込んでいくヒロインも、その家族も、物語の転調を生むきっかけとなる相手ボクサーにすら、監督は決して非難の眼を向けはしない。監督・イーストウッドは俯瞰するかのように、見つめ続ける。決して手を伸ばそうとはしない。だが、目を逸らしもしない。

 あなたがこの映画を見て、主人公達の行動が美しいと思ったなら、それは真実だ。美しくないと思ったならば…それも真実である。ただ、イーストウッドは提示するだけだ。必死に生きた人々のその姿を。

 美しい、という形容詞は、なにがしかの基準の中で選び取られたものを指す。生きる。死ぬ。世界において、これほど単純なルールはない。その分かりやすい2択。だが、必死に生きたものが、全力でその選択の狭間でもがき、苦しみ、そして一つの選択肢を選び取る。その葛藤こそが、この映画を真の輝きへと導かせるのだ。

「キングダム・オブ・ヘブン」(リドリー・スコット)Kingdom of Heaven

 戦国武将として勇名を馳せた武田信玄は、かつて言ったそうな。「人は城、人は石垣、人は堀。情は味方、仇は敵なり」と。

 この映画の舞台は、その武田信玄の生きた時代より400年ほど前に遡る。

 鍛冶屋・バリアンは虚無の男であった。鍛冶屋としての人生にも幸せな瞬間もあったかもしれない。神を心から信じていた日もあったかもしれぬ。だが、妻の死んだ日、彼は神を信じられなくなっていた。彼は孤独になり、村からは白い目で見られた。妻が子供の後を追って、自殺したからだ。神に仕える者たちは言った。自殺した者は地獄に堕ちるしかないと。しかし、妻がなんの非道をしたというのだろうか。
 そこに父と名乗る男が現れる。彼は十字軍の騎士であり、一緒に来いという。だが、彼にはどうでもいいことだ。今更なんだというのか。彼は断る。神の名の下にいる軍隊に入るつもりなどない。俺は鍛冶屋だ。そう、彼にとって確かなのは鍛冶屋である自分だけであった。
 だが、鍛冶屋としての人生は突然終わりを告げた。司祭が妻の首を切り落としたと言う。彼は激高し、男を殺してしまう。彼は家を焼き払い、父の下へと行く。彼は鍛冶屋としての人生の全てを失った。だが、そんな彼を導いたのは父であった。
 教会が彼を裁こうと追っ手を出した時、父は彼をかばい、戦い、そして傷ついた。そして、バリアンに爵位を譲り、騎士の誓いをさせ、死んでいった。彼は父への誓いを自らの心に刻みつけ、そして求め始める。父が自分に語った、どこかにある「平安の都」。キングダム・オブ・ヘブンを。かつて信じたであろう神の代わりに。
 エルサレムへの旅は彼の人生を漂白する旅であった。彼は白いキャンバスとなった。彼はエルサレムで出会った人々から学び、行い、正しき道を探し続ける。曇り無き眼で。

 エルサレムは、十字軍側のエルサレム王国、イスラム教側のサラセンの、双方の王が賢明であったため、つかの間の平和を保っていた。だが、エルサレム王であるボードワン一世は死が迫っており、妹婿で好戦派であるギーが横暴をサラセン人相手に働いている。時代は暗雲を呼び込み、エルサレムは戦争への道をひた走り始める。それでもバリアンは守り続けた。

「戦うことを恐れるな。」「勇気を示せ。」「死を恐れず、真実を語れ。」「弱者を守り、悪しきを行うな。」

 父との4つの誓い。エルサレムに来ても神はいなかった。神の名の下に行動を起こす者たちは、人として非道を尽くしている。では、彼は騎士としてどう生きていけば良いのか。彼は答えを急がない。「私達はどうすればいいの。」と彼と恋仲にあるシビラ王女は聞く。「運命に委ねよう。運命が道を定める。」とバリアンは答える。彼には騎士としての誓い以外に失うものなどない。彼は運命に導かれ一つの答えを見出す。

 その答えを、人々に叫び、行い、そして戦う。その姿に、俺は震え、涙したのだ。

 正義。愛。宗教。国。それすらも超えた真実に出会った彼の姿を見て、あなたは嗤うだろうか。だが、もし我々が戦いにおいて、その心を持ち続けられたならどんなに、世界はどんなにマシな姿になるだろう。世界に幻滅している私にすら、「平安の都」を夢想させた。そんな男が主人公であるこの映画を、傑作と呼ぶにやぶさかではない。

「インファナル・アフェアIII/終極無間」(アンドリュー・ラウ/アラン・マック) Infernal Affairs III/無間道III

 「俺を撃てるのか。」と『ラウ・キンミン』は尋ねた。



 微笑みながら、『俺』は答えた。






「あいにく俺は警官だ。」





 「無間道」こと「インファナル・アフェア」シリーズ完結編と銘打たれた本作。これによって、物語は一つの結末を迎える。このシリーズ、三部作ということになっているけれども、シリーズ立ち上げ時にシナリオ化が進んでいたのは「インファナル・アフェア(以下「I」)」と本作である「終極無間(以下「III」)」。もともと2部作として構想され、「I」撮影時に「無間序曲(以下「II」)」の構想が立ち上がった経緯を考えれば、きちんとシリーズとリンクするとは言え、「II」は前日譚でありながらもあくまで「番外編」であると捉えるべきだろう。よって、本サイトではあくまでも、「I」を前編、「III」を後篇と位置づけて、つまり「III」を「I」の正式な続編として、この文章を書き進めて行きたい。



 よって、この「III」は「I」の鑑賞が必須であること、そしてこの文章に「I」のネタバレがあることを、申し述べておきます。



 さて。

 「I」の中で描かれるのは、善と悪の狭間で苦悩している2人の男である。潜入であるが故に互いを探索する指令を受けた二人は、その境遇ゆえに互いを求め、その立場ゆえに敵対する。心の螺旋を行く二人。やがてマフィアと警察の均衡は崩れ、ヤンの上司ウォンは死に、ラウの親分のサムもラウの凶弾に倒れる。そして、ラウとヤンは邂逅する。つかの間、意気投合する二人。だが、それはラウの偽りあってのものである。ラウの正体を知ったヤンによってその関係は瓦解し、クライマックスで、二人はビルの屋上で対峙する。悪でありながら善。善でありながら悪。まるで鏡像に向かいあうかのように立つ二人。そして、物語はひとつの無情な結末を迎える。





 その二人が対峙した「I」のクライマックスを起点として、「終極無間」では並行して二つの物語が描かれる。その事件から10ヶ月後のラウと、半年前のヤンである。

 「俺は自分の道は自分で選ぶ。決めたよ。」

 警察組織内の事後処理も済み、マフィアとしてではなく、警官として生きようとしていたラウであったが、彼には「不安の種」があった。かつての仲間に、潜入マフィアがあと2人いると聞かされたからだ。彼は、自分が警官であるために「自分」と同じ「潜入」を殺さねばならない。

 そして、彼はついに手段を選ばないやり手刑事のヨンに不審なものを感じ、彼を監視しはじめる。本土のマフィアを名乗りサムとも交流があったシェンと接触した事実を知り、確信を深めるラウ。しかし、消したはずの「自分」を見つけだそうとする倒錯した行為が、彼の精神を徐々に蝕み始める。

 彼の心は、やがてヤンの存在を求め始める。善人になるために、自らに染みついた血のにおいを消すタダひとつの方法。それが…ヤンの存在にあるからだ。(「I」から)半年前のヤンという「虚」の人生を追うことで、現在のラウという「現実」の人生が虚実を混濁し始めていく。



 「善人でありたい。」。そう互いに願い、そして生きてきた二人。しかし、彼とラウには決定的に違うものがあった。『あいにく彼は警官』だったのだ。善人であるために、ラウはヤンを求め続け、やがてヤンの人生を「手に入れる」が、それこそが「現実」の彼を破滅へと導く。

 クライマックスで、彼はその現実を知り、絶望の涙を流す。そして、彼が採った方法は…あまりにも哀しい方法だった。



 ラスト。車いすに座り、モールス信号を打つラウは、すでに無間の闇に閉ざされてしまったのだ。伸びた蜘蛛の糸を切り離してしまった健陀多のように。戦慄すべきは、それが永久ループの連環の輪であることである。

 多少のほころびはあるのはわかるし、「I」のテンションから転調している違和感もわかるのだけれど、それでもこのシリーズは「無間地獄」への道のりを貫き通した。その志を、俺は支持したい。

「ボーン・スプレマシー」(ポール・グリーングラス) The Bourne Spremacy

ボーン・スプレマシー [Blu-ray]

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  • 発売日: 2012/04/13
  • メディア: Blu-ray

「彼らはドジはしない。そして思いつきの行動も。彼らの行動には常に狙いがある。」

 「狙いがあるとして、それを指示しているのは?」

 「驚きたい?彼自身よ。」



 CIAのトレッドストーン計画で連絡係を担っていたニッキー(ジュリア・スタイルズ)は、CIAの人間の前でパスポートによって当局に拘束されたジェイソン・ボーンマット・デイモン)という人間をこう断ずる。完全無敵。この映画においてボーンという男は、知的かつ俊敏、そして最強。敵はいない。非人間的なまでにパーフェクト。まさに、生きる精密機械のごとし。だが、彼を突き動かすのは、もっとも人間的な問いかけからきている。



 「俺は何者だ?」



 「ボーン・アイデンティティ」の続編である。


 前作で記憶を無くした元・CIAトップエージェントが自らの過去を捨て、恋人と共に幸せに暮らしましたとさ、という話の続編なので、ノーテンキな感じになるかと思いきや、映画の冒頭でいきなり前作のヒロイン(フランカ・ポテンテ)がボーンを狙う刺客の巻き添えで死亡。ボーンは再び己の過去との対峙を迫られる。

 前作との大きな違い。それはジェイソン・ボーンが最初から最後まで全力で目標に向かっていくことである。前作は自らの力をやや持てあましていた感じのボーンだが、今回は自らの過去を追う
という目標があるため、彼の行動には無駄がない。愛する人を失い再び天涯孤独となった男は、「完璧な機械」になるしかなくなった。人間としての自分を取り戻すまで「機械」であり続けようとする。それは殺人機械としての訓練が体にしみついている彼にとっては容易なことだ。

 しかし、彼の中で、「人間」として愛した彼女との2年間は消えない。そして彼女が死ぬ間際に言ったことも。命を狙われれば殺すしかない。そうだろう?そのボーンの問いかけに彼女は「否」と答えた。そして彼女は死んだ。

 彼は復讐の鬼であってはならなかった。哀しみと孤独を耐える方法。それは「人殺しをしない機械」になって「真実」を探す道。その真実は彼が2年間フラッシュバックとして見る悪夢の中にあった。



 この物語を重層的にしているのは、「殺人機械」ジェイソン・ボーンについて知ろうとする人間が、彼の行方とトレッドストーン計画の謎を追っていたからである。ベルリンで夫人に殺されたロシア政治家の謎を追うCIA諜報員・パメラ・ランディ(ジョアン・アレン)である。
 情報屋と接触した諜報員が、何者かに抹殺された。影も残さず消えた刺客が、たった一つ残した物証。それは現場に残された爆弾についた指紋。指紋はジェイソン・ボーンのものだった。彼女はトレッドストーン計画という「パンドラの箱」を開け、ボーンに肉薄しようとする。だが 謎はむこうから接触してきた。数少ない手がかりからジュリアへの連絡手段を探り当て、携帯電話にかけてきたのだ。


 CIAとの息詰まる駆け引きを繰り広げるボーン。そして影を踏ませてはするりと消えていくボーンに翻弄されるCIA。彼の行動一つ一つが布石であり、そして真実へと繋がっていく。
 終盤、遂に真実と記憶を取り戻したボーンはモスクワへと向かう。その行き着いた先で彼は激しいカーチェイスを演じることになるのだが…。



 彼がモスクワに訪れた理由が明らかになった瞬間、彼は人間に戻る。本当に孤独な男に。ボーンが再びパメラに接触してきた時、彼女は「人間」ジェイソン・ボーンにある「贈り物」をする。その彼女らしい贈り物に思わず涙。

 優秀なスパイアクション映画でありながら、人間の悲しき罪業と向き合うドラマとしても素晴らしい傑作。必見。

「劇場版 テニスの王子様 -二人のサムライThe First Game-」(浜名孝行)「~跡部からの贈り物~君に捧げるテニプリ祭り~」(浜名孝行)

 凄いらしい。とは噂されていた。見に行く気はなかった。でも…見た。

 事の起こりは今週発売の「週刊少年ジャンプ」の作者コメント欄。許斐剛はこう書いた。


「劇場版とにかく凄い!!スポーツAの常識を、カンフーハッスルを超えました!是非劇場で!」



 なんだとこの野郎。

 言うに事欠いて、チャウ・シンチーが全身全霊を込めた作品を、たかだかテニプリの映画版が超えただと!!ふざけんな!!ファッキン!!

 俺がこの目で確かめてやる!!
←術中。

 …というわけで、上映されてる近くのシネコンまで出向く。まず入るまでが大変。なにせ、チケットを買わなくちゃいけない(当たり前だ)。ここ、買ったチケットをマイクで読み上げるのでちょっと躊躇する。普通にオタクな映画なら躊躇ないのだが(おい)、こういう明らかに俺が対象外の映画のチケットを買うのは結構勇気が要る。

 で、劇場に入る。案の定女性ばっかり

 こういう状況での「女性ばっかり」はあまり嬉しくない。一種異様。明らかに俺は場違いの人間で居づらいことこの上なし。ううううう。

 女性客たちはなぜか劇場の真ん中に集まりたがる傾向にあるようで、とりあえずその女性客から離れた脇の方で見る。食事がまだだったので買ってきたマクドナルドを開映前に、ほおばろうとしていたのだが、結局最後まで食べられなかった。


 最初は「-二人のサムライThe First Game-」。制作はProduction I.G.。


 あ、そっか。そういやI.Gなんだっけー、とか思いながらようやく真面目に見る気になる。
 話は桜吹雪彦麿っていうテニス好きの大富豪が主催する船上のエキジビジョン・マッチに、青学テニス部が招待される。その相手は桜吹雪が用意した高校生軍団。その中に越前リョーマの兄と名乗る越前リョーガがいたのであった。ってな話。

 最初のテレビ版の延長みたいなノリこそやや違和感あるものの、試合が始まるとなかなか面白い。「普通」の高校生プレイヤーたちに、いつもの調子でたたきのめす青学メンバー。おいおい。しかも「油断せずに行こう」ときたもんだ。高校生連中思わず「あいつら本当に中学生なんですか!?」と叫ぶ。まあ、そりゃ、そうだわなー。

 ここで高校生たちが感じる青学メンバーたちのイメージがスクリーン全体に爆発する。アメージングなイマジネーションだお前ら!特に手塚ゾーンのイメージは必見。そして最終対決は天変地異を引き起こしての超イマジネーションが炸裂する

 話自体はしょーもな、っつーか映画としてどーこー言えるもんじゃない。個人的には、「カンフーハッスル」と比べてどーこうってもんでもなかった。おおげさなイメージも、この程度の表現はまあ、アニメの「焼きたて!!ジャぱん」ででもやってるので、それほど衝撃でもなかった。

 ふーん、こんなもんかと思いながらスタッフロールを眺めていた。やがて次の併映作品が始まる。


 二本目「跡部からの贈り物~君に捧げるテニプリ祭り~」 制作:トランスアーツ


 うわあああああああああああああ…。


 すまん手塚部長!油断してた!あんじゃあこりゃあ。

 正直、10分少々の短編かと高をくくって見ていたんだけど、長い!くどい!濃い!特濃テニプリ汁一気飲み!許斐の変キャラが集まるとここまでくどくなるのか!衝撃だった。こんな世界があったのか!

 ずっとジャンプの一読者として、なんでテニプリ「ごとき」が人気あるのかと思っていた。その謎が一瞬にして氷解していく。これは…すげえ。あ…あ…


ありえねー!


 免疫がない分くらくらしてくる。これは…酔う。特に跡部はすごい。確かに氷帝はすごいインパクトのある変キャラ揃いだったけど、ここまでアニメで膨らませてるとは思わなかった。そういや「二人のサムライ〜」でもなにげに跡部大活躍だったし、アニメのテニプリでは奴はすでに核なのか?おそろしい…。

 特にクライマックスは大爆笑!ありえねー!!


 そーか!「カンフーハッスル」超えたってこっちか!


 あまりにくらくらして席から立てねー。こりゃあ参った。これ見たら、男でも跡部に惚れてる。うーん。なんかこう…正直すまんかった。中学テニス界は跡部に任せる!どーでもいいが。…おかしいな…マクドナルド食べられなかったのに、なんだろうこの満腹感。ああ…げっぷでそう。

「パッチギ!」(井筒和幸)

パッチギ! (特別価格版) [DVD]

パッチギ! (特別価格版) [DVD]

  • 発売日: 2007/04/25
  • メディア: DVD

 映画監督としてより、テレビタレント活動の方が有名になりつつある、井筒和幸の最新作。

 井筒和幸という監督は商業監督としてはせいぜい二流止まりの人だと思う。この人は洗練されたものが作れない。それは一流のエンターテイメントを目指した「ゲロッパ!」で証明してしまった。洗練されてなければ成立しえない題材なのに、出来上がった者は非常に泥臭い人情映画に成り下がってしまった。和製「ブルース・ブラザーズ」になり損ねた凡作であった。

 井筒監督というテレビタレントが出演する「こちトラ自腹じゃ!」を見ていて感じるのは、とにかく現代のハリウッド映画になじめない、ってことだけだ。筆者がハリウッド映画に抵抗感がないせい、というのもあるんだろうが、彼の場合ほとんど全否定に近い。
 なんなんだ、この親父は…と思ってきたのだが、本作を見て、分かった気がした。


 1968年の京都。東高校の空手部と、朝鮮高校の番長・アンソン(高岡蒼佑)一派は、激しく対立していた。そんな対立とはあまり関わらず、女の子にもてるという目的以外にエネルギーを使っていない主人公、東高生の康介は、アンソンの妹のキョンジャ(沢尻エリカ)に一目惚れ。彼女が奏でる美しい曲が、「イムジン河」という朝鮮半島に思いを馳せた歌だと、音楽に詳しい坂崎(オダギリジョー)に教えられる。キョンジャと親しくなりたい一心で、康介は、ギターの弾き語りで「イムジン河」を練習し、朝鮮語の独学を始める。
 キョンジャときっかけも出来、アンソンたちとも親しくなって行くが、その中で康介は在日朝鮮人の揺るがしがたい現実を知る。彼らにはビザもなく、やがては北朝鮮に送還される運命がある。彼らの置かれた状況と日本人であり続けたい自分との狭間で、揺れる康介。

 そんな中、東高と朝鮮高校の、二つの対立を決定づける出来事が起こる。


 放送禁止歌であるフォーク・クルセイダーズの「イムジン河」をフィーチャーし、京都の喧嘩を朝鮮半島分断の悲劇に見立てながら、いつか、二つになりたい。けれども決して一つになれはしない。韓国と北朝鮮。日本人と在日朝鮮人。そんな人間の愚かさ、哀しさ。
 始まりこそ、そんな背景とは一見無縁な青春群像を描いたドラマだが、やがてそのいくつもドラマが一つに収斂されていく。


 映画はとあるGSコンサート会場から始まる。俺が生まれてもいない時代の話なのでなんのことやらわからんのだが、68年当時、失神ブームというものがあったらしい。それを見事に「再現」しているのだが、それは当時のブームを映すことで時代設定的な記号を出したに過ぎない。
 ところが、それに連なる本筋の物語までも、見事に60年代感覚なんである。「~テイスト」なんてものではなく、そのもの。そう言いきっても言い過ぎとは思えないほどなのだ。60年代の京都を井筒監督はほとんど違和感なく活写してみせる。当時の時事風俗、メンタリティ、その舞台にいたるまで、緻密と言っていい再現ぶりだ。
 当然のことだけど、1960年代に撮る「60年代映画」と、2004年に撮る「60年代映画」ではその意味はまるで違う。一方はその年代の「現在」を映し出し、一方はその年代にとっての「過去」を映すからだ。
 ところが2004年に撮られた「パッチギ!」は1960年代に撮られたと言われても信じられるほど1960年代の「現在」映画なのである。それは現代感覚で撮られた60年代映画「69」とは似て非なるものだ。

 器用な人で、こういう映画を撮ろうとして出来る人はいるだろう。だが、井筒和幸はどちらかと言えば「不器用」に属する映画監督なのである。だとすれば考えられるのはただ一つ。井筒監督にとっての「現在」はいまだ60年代なのだ。1960年代の頃から2005年現在に至るまで、ほとんどメンタリティが変わっていないのだ。この頃の価値観のまま、今に至ってる。そう思うと井筒和幸という人そのものへの違和感まで氷解していく。
 彼が現代のノーテンキなハリウッド映画に対して、アメリカン・ニューシネマを引き合いに出して評価するのも決して冗談ではなく、それこそが現代を活写する唯一の方法だと「未だに」信じて疑わないからだ。

 井筒監督は当時の原点を描くことで、現代を照らし返したつもりなんだろうが、この映画は現代からはるか離れたところにある映画である。現代を活写する能力のない監督だが、過去を活写する能力だけは突出している井筒和幸だからこそ撮れた作品になったと思う。
 二流監督には二流監督の矜持ってものがある。その矜持さえ持てれば、二流でも傑作は撮れる。「パッチギ!」はそれをはからずも証明したのであった。

「理由」(大林宣彦)

理由 [DVD]

理由 [DVD]

  • 発売日: 2006/10/20
  • メディア: DVD

 人は自分の物語の中にいる。そして物語はいくつもの交差を繰り返す。だが、その男の物語に近づけた者は、ついにいなかった。その作者でさえも。

 宮部みゆきという作家の映像化は難しい。それは過去の映画化作品が証明してきた。宮部みゆきの最高傑作「模倣犯」に至っては、原作が見るも無惨に切り裂かれてしまい、今にして思えば森田芳光の罪は、「デビルマン」の那須博之と同等であろう。成功作品と言えるのは、NHKでドラマ化された時代劇シリーズやドラマ化された「R.P.G」などの小品くらいだろう。

 しかも、よりにもよって「理由」である。この作品で宮部みゆき直木賞を受賞したわけであるが、俺が思うに宮部みゆきの作品の中でもっとも異形な作品だと思う。荒川区の高層マンションで起きた一家四人殺害事件をさまざまな人間の証言から、事件そのものの貌を浮かび上がらせるという、ドキュメンタリータッチとも言える作品。大林宣彦は大胆にもその手法をそっくりそのまんま取り入れて映像化してしまった。無謀である。当然のことながら、この映画、すさまじく変だ。俳優が出てきては画面に向かって、事件の関係者として話すのだが、最初、みてるとギョッとする。なんか舞台劇かなんかのようで、それをカメラを通して見るとすごく嘘くさく見えるのである。最初、監督の気が違ったかと思ったくらい。「虚」と「実」のあまりにも明瞭な混在は、いくら意図的とはいえ、見ている側はとまどう。
 実は俺、WOWOWで放映されたこの作品(ドラマ版)を一度見ているのだが、あまりの違和感に耐えられず、視聴を放棄してそのまんまにしてしまった。映画館にかかることが決まり、いい評判が聞こえてもきたので、宮部のファンを自認する以上、見届けねばいかん、とおっかなびっくり再トライしたわけである。

 うかつだった。
 大林宣彦は本気も本気。「実のような虚」の集積によって生み出されるあらたなる「像」。宮部の自らの作家性を踏み越えた異形の作品を、大林監督のセオリーを踏み越えた異形をもって照らし返す。大林監督はそれをやった。ここまで宮部みゆきに真っ向勝負をしかけた作品を他に知らない。

 物語はミステリーの存在である一人の「ある青年」とひとつの「殺人事件」、まるで蜘蛛の糸のようにその二つにあまりにも多くの事物がからみついている。その一本一本の糸を丁寧にたぐり寄せひとつひとつの事象を引き寄せていく中で出会う、加害者、被害者、関係者。会わせて107人。その気の長くなる作業を経て集積された数多くの「物語」によって浮かび上がるのはたった一つの「孤独」。
 原作では最後に明らかになる「物語」についてあまり突っ込んだ事は描かれなかった。宮部みゆきにも「理解」できなかったのだと思う。その人物の心の有り様。それは想像だけで描くにためらわれた乾いた「世界」故に、あえて描かなかったのだと思う。(それゆえのドキュメンタリータッチだったのだ)。原作では、まるで真ん中にだけぽっかりと穴が開いたように「何もない」のだ。
 だが、ここで、大林監督はその「作業」をきっちりなぞった上で、さらにその空白を埋めようと試みる。それが「理由」という小説を映画化した大林監督の、原作に対する返答なのだろう。
 原作小説が最後の最後で目線を逸らしてしまった一人の青年を、大林宣彦はしっかと受け止める。渡辺裕之演じる刑事が嬉々として取り組んでいたジグソーパズルのように、107個のピースで構成された原作の、最後のピースは映画化されることによって埋められることとなった。

 大林宣彦監督は、一人の少年が言った問いを持って映画を締めくくる。原作でも印象的だったあの問いが、2004年に映画として再び問いかけられるのだ。90年代後半なら「否」と言えた。なら今は?
 90年代後半に書かれた原作が抱えていた「予感」が現在になって顕在化してきている、ということなのだろうか。だとしたら、完成するべきではなかった「物語」だったのかもしれないが、哀しいかな、「理由」は完成した。現代を映し出す、傑作映画として。