桜の花に迎えられ

 術後丁度一週間で大腸癌手術から家に戻った。
庭の桜が盛大に迎えてくれた。この桜には変わった由来がある。実は、大分前に閉鎖された中央線西国分寺に近い、警察病院でバイトしていて、看護師さんから頂いた人の丈くらいのヒカンサクラ。今年は暖かいので盛大に満開。謂れは置いて、兎に角、15年くらいで幹もしっかり立川の土地に根を下ろしてくれている。まるでペットのような感じ。

 術後のたった一週間だが、80年の生涯で1度も感じなかった苦痛を何度も味わい、癌と云うものの恐ろしさを少し味わった。残る寿命はあまり長くないが、機会あれば、100回でも書く。

年に一度の健康診断で、必ず、必ず、検便、更に、熟年男性なら、前立腺癌検査を受けて貰いたい。費用は両方でも千円以下だから、自費でもやるべし。

大腸癌手術の苦痛面

 ネットで何度も調べたが分からないことが多かった。実際体験して、まだ癌に気が付かない人に、絶対読んで、云うことを聞いて貰いたい。

 大腸癌は殆んどS字結腸と直腸で発見されるという。癌のあるところは切除すれば、完治するという。取り方は殆んど腹腔鏡手術。痛みも少ないし、治りも早い、痕も目立たない、とある。

 確かに傷の痛みは何も無ければ、その通り。ところが、全身麻酔で酸素吸入した後遺症か、白色の少量の痰が繰り返し出る。この時、痰を出すのに胸隔膜の筋肉が激しく動く。この時、臍の傷が痛む。

 食事は翌日から食べられ、傷の治りを速め、大腸の活動再開を助けるために、色んな管をぶら下げて廊下を歩けという。然し、言うは易しである。最初は惨めだったぞ。だが、要らないものをどんどん外して行くから、数日間の辛抱だ。取り外す度に嬉しさが込み上げた。

 だが、問題は腸管の活動再開だ。良くオナラが復活の印と言うが、盲腸炎くらいならそうだろう。
大腸癌では大分違うぞ。ガスがジャンジャン出ても大便は中々出ない。先生は、大丈夫、必要と判断したら下剤を出しますから、ですと。

 術後の食事について触れておく。
翌日は食事なし。2日目の昼から重湯主体。5日目の昼から五分粥、一週間後の昼から全粥。量は多いので、食べたいだけで止めている。

 次回は退院後に書く積もりだが、結論を先に云うと、小さな手間を惜しんで大怪我するな、である。

大腸癌手術の後、医療面

 兎に角、余程、電子カルテで綿密に管理されているのだろう。段取りが実にテキパキしている。
ナースさんたちもワゴンにパソコンを載せて移動し、患者からの情報を逐一打ち込み、ドクターから指示を得ているようだ。

 医療もアフターケアの面でも凄く進んでいるみたい。患者は流れ作業的に次々のステップに進まされ、スムーズに退院して行く。

 手術翌日朝、ICUから一般病棟に車椅子で引っ越し。術後2日目朝、尿カテーテルと心電図端末を早くも外した。歩いてトイレに行けるなら、イランわとのこと。ホットする。

 ナースが実にまめに血圧、体温、血糖値、などのデータを収集にくる。隔日位に採血するし、ドクターは完璧に患者の体調を把握している。

 点滴の種類の充実も大したものだ。全身麻酔のときに背中から痛み止めを注射したと思うが、術後は凄く細い点滴の管を背中に固定し、UFO のような形の容器から送り込むのだが、おへその辺りに抱いているのがシンドカッタ。結構重量があり、ドレインと一緒にぶら下げるのは苦痛だ。

 点滴は体液を補う液のパックと、抗生物質のパックを吊るして、トイレに行き、リハビリで廊下を
歩くのも
煩いもの。

 でも、それが無くなったときは嬉しかった。最後まで残ったのは、ドレインという腹腔に溜まる廃液を体外に吸出す管で、先端にはゴムマリを潰したような形状で、元の形状に戻ろうとする力で廃液を吸出すのだ。

 中身は毎日カップに移し計量。術後3日は一杯になり、その後は少量となり、次の日、とうとう抜いてくれた。トマトジュースが入っているようで、可愛かった。抜くのは少し気持ちが悪かったが、その後はばんざーいである。

 後は傷の治り次第だが、術後10日から二週間の予定だったが、恐らく、早めに退院と期待している。

大腸癌手術のあと

 医療設備、治療、看護がこれ程整っていたとは驚きだった。

 然し、術後の体調の変化はこんな筈ではなかった。

 今回は二つのことを書いてみる。

 その前に、今日配達された、TVホスピタル 3月号に毒蝮三太夫さんのインタビュー記事があり、
大変な手術を乗り越えられたことに感動した。
自分と同じ81才で同じ3月生まれと伺い、改めて親しみを覚えた。

 病歴は12年前、腸捻転で入院してから大腸癌と分かり、約40日という、超長期入院から生還、完全に癌に勝ったのは流石だ。

 さて、手術は20日で、五時間という少し長めだったが、本人は全身麻酔で全くなにも記憶にない。

 術後は聞いて無いよ、と云いたくなることばかりだった。然し、大腸癌を知らない多くの人に読んで貰いたい。長くなるので三回に分けて書く。
今日書き始めたのは、身体に繋がった管が全部取れて気分爽快だからだ。

春分の日めでたく生還

 手術そのものはとんでもない1日だった。
まな板の上の鯉だから、とにかく待ちましたよ。
午後1時半の予定が、前の患者さんたちの手術が
長引き5時からになった。

 手術本番は手術室七つもあって、スゲーと驚いた。先ず、赤ちゃんがお母さんのお腹のなかにいるみたいに、頭と膝がくっつくように、又は
海老のように、背中を丸め、背中から痛み止めの注射を打つ。そのあとはどーなったか全然わからなかった。

 テレビとまるで違い、数を数えるどころか、知らないうちにオペは終わった。先生が手術終わりましたよ。此処はICUですよ。といわれて、周りを見ると家族が覗きこんでいた。何と驚いたことに、五時間もかかり、10時だった。

 実は、直前まで凄い夢をみていたことに気がついた。多分、切り取った大腸のきれはしを、臍から引っ張り出すことからの連想だと思うのだが、麻雀のイーピン、リャンピン、サンピンがぞろぞろ、穴を通りぬけようとするが、孔にひっかって出ない。それが物凄く辛かった。

 ところが、これは腸からだと思うが、内容物が逆流してきて、吐きだしたいのが詰まっていたみたいで、出たら楽になった。

 この吐瀉は喉の筋肉に後遺症を残し、痛みが残った。

 次の朝は春分の日だった。雪が降ったというのも驚きだった。

 次回は術後の体験を綴る。入院の暇潰しだが、お役に立てば幸いだ。

市の無料健診を軽視するな

 自分は立川市に20年住んでいる82才男性。

 誕生月には無料健康診断を受けていた。

 持病は無いが、男の厄年の42才で四十肩になった。周りを見てもそんな人間はいなかった。

 ゴルフでも人より筋肉が硬いと感じ、先輩にゴルフに向いてないと云われた。

 高校生位から正座が苦しくなった。

 父親が42才で心臓病で死んでいる。

 長生きをするのが人生の最大の目的であり、かつ、死ぬ直前まではぴんぴんしていて、突然死が理想である。

 だったら、もっときちんとからだのケアをしてくるべきだった。

 昨日、大腸癌手術の説明を医師から受け、更に、ネットでも勉強して、いかに予防と言うか、早めに手を打つことが大切かを思いしり、何故立川市の健康診断で医師から聞かれたことをもっとちゃんと考えたり、調べたりしなかったのか、毎年前立腺癌や大腸癌の検査を受けなかったのか、これは子供たちや40才を過ぎた人たちに言い残しさなければと思った。

 高血圧や高血糖、高コレステロールなどを軽く見てはいけない。体重増加もいけない。運動やトレーニングはするべき。

 決定的なことは、検査とその結果にたいするアクションである。

 異常があったら、必ず、大病院の専門医の指示に従って検査を受ける。

 本当に初期に見つけると、今の医療では軽く済む
のである。

 今回の大腸癌の手術は患者さんの皆さんが我慢出来るのだから、自分も出来るとは思うのだが、早期に手を打っていたら、という後悔が強い。

災害の記録

 東日本大震災が7年前で原子力発電所事故の影響がまだまだ続いていることは痛ましい。

 災害は忘れた頃にやって来る、といわれている。

 気になって大きな災害を調べてみた。


 伊勢湾台風 1959(昭和34)9/26 死者5,238
 阪神淡路大震災 1995(平成7)1/17 6,435
東日本大震災 2011(平成23)3/11 18,434

 自分も親しい人も幸い事故に巻き込まれなかった。

 然し、米国にいたときのことは、今でも肝を冷やす。

 それはアメリカ同時多発テロである。ニューヨークの世界貿易センタービルが二棟ともジャンボ機を衝突させて、砂の楼閣のごとく崩れ落とされたのだ。他にワシントンのペンタゴン国防省にも1機落ちた。死者は3,025。

 何と自分は貿易センタービルの48階で仕事をしていたが、帰国して数年後のことであった。
会社も自社ビルを建てて引っ越したあとだった。

 天災、テロも怖いが、戦争が一番恐ろしい。
3月と言うと、1945(昭和20)東京大空襲では東京が焼け野原になった。

 自分の家はロシア大使館のそばだったから、爆撃を免れた。

 東京だけで116,959の死者。全国では559,197名が亡くなった。

 忘れないようにブログに書いてみた。 合掌