遠くへ行きたい

勉強たのしい

井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る

 

昨日、高校時代の同級生2人とお茶してきた。片方は院生で、もう片方は学部生。

院生の方とは数か月前にも一度、別の仲の良かった4人組でご飯を食べに行ったのでそこまで久しぶりという気はしなかった。

学部生の方は卒業以来連絡すらとっていなかったけれども、たしか2ヵ月前にとある駅のホームでばったり遭遇していた。

その時は10分程度しか話せていなかったけれど、彼女の気さくでおおらかな人柄もあってやっぱり久しぶりという気がしなかった。

 

退職が決まってから高校や大学の同級生に会うのは今回が初めてになるので、それはつまり「友達」に「面と向かって」今無職なんだーと話すのが初めてということになる。私は無神経なくらいにナイーブなので、こういう時、相手にどういう意図があろうと少しでもひっかかるリアクションがかえってきてしまうと後々家で何度も反復して頭の中で再生しては自分で勝手な想像をして自己嫌悪に陥りがちだ。

「もったいない」って言われたらどうしよう、「社会でうまくやっていけなかったの」って思われたらどうしようとか。

 

けれども実際にかえってきたのは「へー」という反応。

それでそこからどうするの、なんか別に違うことやるの、やるなら何やるの?という感じ(ここはニュアンスなのでやっぱり私の想像かもしれない)。私が「退職した」のあとに何を続けるのか二人とも待ってくれていた。これは本当に目から鱗だったし、今まで退職の話をした中でいちばん嬉しいリアクションだったかもしれない。

 

あとあと話していた中から推測したことだけども、2人がこんなリアクションを自然にとった理由はおそらく3つある。

1つは、2人とも「働きたくない」と思ってる(具体的に言うと2人はどうも起業家肌みたいでただ「これやれ」「あれやれ」って言われるがままに働きたくない)から。

2つは、2人とも私が働くとは思ってなかったみたいだから。

3つめは、2人とも「生きていくために選べる手段は労働だけじゃない」と思ってるから。

 

特に最後の「生きていくために選べる手段は労働だけじゃない」というくだりがとても面白かったんだけど、2人ともなんとかして楽して稼げるものはないかと探して調べていて、懸賞金目当てに俳句を30句作ってみたり世界一周旅行を当てるためになんだかよくわからない面接を受けてみたり、はたから聞いててなんだそれ⁉と思ってしまうような面白すぎるアクションを色々としていたらしい。

でもたしかに、ここ自分の今後を考えたり旧友の現状を聞いたりして「働くだけが全てではないよなあ」とはわかっていたのだ。

ただ、私の両親はどちらも「生活のために働くのが当たり前」と思っている人間であること(もちろんこれに対して間違ってるだとか時代に合わないとか思わないし、そのおかげでここまで育ててもらえたことに本当に感謝している)、働いていた会社が終身雇用制・がっちがちの年功序列制・「こういうことになってるからこうする」が当たり前の会社だったということもあって、だんだんそういった柔軟で労働から自由な発想というのを肌が忘れてしまっていた。

 

「働かないという選択」という話をするたびに思い出すのが母校である私立高校のことだ。私はそこで国際系に特化したクラスに在籍していて短いながらも留学に行ったりしていたんだけど、同じクラスの子たちはみんな本当にのびのびしていて、視野が広く、選択肢が多く与えられていてあるいは自分から作り出したり選んだりすることができる子ばかりだった。クラスやコースを越えて誰とでも仲が良く「仲良しグループ」なんてものがあまり目立たなかったし、よく邦画やドラマなんかで見るじめじめしたスクールカースト限界集落っぽさは、少なくとも私の目の届く範囲では見当たらなかった。

 

同じクラスだった仲の良かった子そうでもなかった子の現状を風の噂で聞いたりすると、上京したり海外に留学した子が当たり前のように何人もおり、いまどこの国にいるのかもわからない子がいたりする。日本で行きたい道に行けなかったので海外で再チャレンジしたりする子もいる。短大を出て結婚した子もいるし、働かないでフリーターになった子もいてる。昨日会った学部生の子は「大学がつまんないから」と言って卒業したらイギリスの大学院に行くことを考えてるという話をしてくれた。

このように「選択できる」というのはやっぱり「私立の高校に行けて、なおかつ留学にも行かせてもらえる家庭環境にある」という後ろ盾の存在も起因するところは大きいのだろうけども、彼ら彼女らはちゃんと「探して調べる」力が備わっているのだとも思う。

自分がやりたいことをやろうとするにはどこに行けばいいのか、そこに行くには何がどれくらい必要なのか、どれくらいかかるのか、そしてそれがだめだった場合にどういったバックアップがあるか(特にここが重要だと思う)をちゃんと把握しておくことができるのはとても強い。なぜなら、調べてみると案外、大抵のことは絶対にルートが用意されているから。なんでもすぐに調べられる現代社会、すごい。

 

自分の常識というのはその時属しているコミュニティーに依るところが本当に大きいと思うのだけど、いざそこを飛び出してみるといかに自分が井の中の蛙だったかがわかる瞬間がある。昨日がまさにそうだった。あまりにも衝撃で半分くらい会話に参加できずぼーっと考え込んでしまった。でも楽しかったよ。

あと、労働でなく学問を選んだ人たちの会話はやっぱりものすごく面白い。そういう人たちは議論するのが好きな人が多くて、一つの議題に対して延々と意見を言う・聞く・まとめる、ということができる。正直まとまらないことの方が多いけど。労働してると議論する機会ってあんまりないので、思考が停止しがちなのだ。これが働いてる時いちばん辛かったことだった。

閑話休題。この話に特にオチはない。なぜなら昨日話したことについてはまだ考え中だから。さしあたって、労働せずともお金を手に入れる方法がたくさんあり、それによって夢をかなえられる社会というのは良い社会なのではと感じた。

 

以下、それに関して思いだした過去の記事。またこれについても考えたい。

matome.naver.jp

 

 

 

なんかしとかないと本当に死ぬ

 土曜日にはあった意欲が昨日の時点では既になくなっており22歳無職の私がやる気まで失くしたら本当に終わりだぞと思い立ったのでブログを始めることにした。

 なんでブログかと言うと、自分の頭を整理してアウトプットして、後々に読み返すことのできるコンテンツがよかったから。今まで日記もどきもつけていたけども、字を書くのと打つのでは手のスピードがやはり格段に違って打つ方が頭の中で起こってることに比較的追いつきやすいのと、大学院に入るまでにタイピングに慣れておかないといけないと思ったし。

 

 一応今月いっぱいまでは社員ではあるけども、来月からいよいよ私は正真正銘の無職になる。思えばこれまで22年間、大人たちの期待に応え(相対的に見て)真面目に勉強し進学校に通いクラスでは常に上位に位置し有名私立大に進み大企業に入社し口答えや反抗期もなくぬくぬくと幸せに過ごしてきたというのに、ここに来て突然「一般的な」「王道の」「レール」とやらからあっさりと外れてしまった。まさか半年で会社を辞めるとは思わなかった。じんせいってなぞ。

 きっといつか会社を辞めて学問の道を選んだことを後悔する日は来るだろう。後悔するに決まってる。だっていい会社だったもん。給料はそこそこいいし休みも多かったし。

 

 でも、これからの残りの人生どうやって生きるのって考えたら、安定してなくっても自分がやりたいことがしたいって答えしか出なかった。ので仕方ないのだ。かっこよさげなことしか言えないけども、私はめんどくさがりでキャパシティが少ないのでやりたいことしかできないというのが結論。

 で、このような人間は膨大な自由と引き換えに将来への不安が常につきまとうことになってしまうので、まじで、なんかしとかないと死ぬ。休むのはいい。けど、止まるとまじで死ぬ。会社に勤めてると最悪何もしなくても給料は貰えるけど、社会からちょっと外れた人間は自分から動かないと何も貰えないのだ。

 学問の道で食っていけるようになるまでこれから凄い時間と労力がいるだろうしなんならめちゃくちゃ頑張ったところで食っていけないかもしれない。でもそれはそれで仕方ない、自分で選んだことだし。

 とりあえずさしあたっては勉強しような。勉強しないと死ぬから。