暇だ、退屈だ。
そう感じては、何かをやらなければいけないような気持ちになる。
大人になってから、退屈な時間を過ごすことに罪悪感を抱くようになった。
子どもの頃は退屈がここまで苦痛じゃなかった気がするけど、そんなに毎日が楽しかったかな?創造に満ちていたのかな??
見るもの全てが新しく初めてのものだったから、毎日わくわくしていたのかもしれない。大人になった今ほど要領もよくないから、目の前のことに一生懸命取り組むだけで自然に時が過ぎていったのかもしれない。
とにかく、大人になると、時間を無為に過ごしている感覚に陥る。そしてそのことに、いたたまれなくなる。
時が過ぎるのは早く感じるのに、いや早く感じるからこそ、何も成し遂げられない日々に、ただただ時間が消費されていくことへの虚しさを感じる。そうして早く過ぎ去っていった時間を振り返っては、焦燥にとらわれる。目の前の人生をがむしゃらに生きるよりも先に、計画だと嘯いて、もう人生の残り時間を計算し始めている。
コロナの流行が始まって、この無作為感、虚無感はいっそう強くなっている気がする。
そこで手にとったのがこの本。
現代フランス思想研究者の國分功一郎さんの本。
文庫本出たんだね・・・欲しい
人がどうして退屈を感じるのか、退屈によって人はどうなってしまうか、退屈を克服する鍵はなにかということを、文化人類学、考古学、経済学、消費社会論、動物行動学、過去の哲学者の理論など、様々な切り口を使って紐解く。
暇と退屈を乗り越える鍵は、贅沢を取り戻すことにあるという。
贅沢を取り戻すことが、暇と退屈を乗り越える鍵になる。
贅沢とは「浪費」すること。
浪費というとあまり良くないイメージの言葉のようだけれど、この本で言うところの浪費とは必要の限界を超えて物を受け取ることらしい。
つまり、対価と同じくらい、もしくはそれ以上の物を受け取ること。
浪費では物を過剰に受け取る。
物の受け取りには限界があるので、満足がいつか必ずやってくる。
これと対比されるのが、「消費」だ。私たち現代人は浪費による贅沢を享受できず、消費する事しかできていないのだという。そしてその消費は観念的であるがゆえに、私たちは満足することがない。終わりがない。消費とは物を受け取らない姿勢なのだ。
確かに流行の食べ物、イベント、音楽、ファッション…。今もてはやされているからという理由だけで消費しているものがどれだけ多いことか。若い頃、流行の服を次から次へと買っていたけど、まさにこれだったな。一つ服を買ってもまた次のシーズンには可愛い服が出てくる。流行の追求に終わりはない。
これではいつまで経っても消費のゲームは終わらない。
満足することがないから、さらに消費は続く。そこに退屈が現れる。
今の私にとってはTwitterの世界もこれに通じるものがある気がしている。次から次へと起こる政府の横暴、行政の不作為、有名人の不祥事・・・。一つ一つについていくのが精一杯。一つ一つの出来事からじっくり何かを考えて、受け取ることがない。
私たちは消費家ではなく浪費家にならなければならない。
そのためには、物を味わうこと。
私たちは手に入れたものを味わうことを疎かにしている。
これは思い当たる節が・・・。IK◯Aで買ったキレイな塗料が塗られたラック、ニ◯リで買ったプラスチック製の収納ボックス・・・。間に合わせで買っただけで全然思い入れもないし大切じゃない。時が経って愛着が湧くこともない。
(IK◯Aもニトリも大好きなんだけど…)
私の拙い読書経験や人生経験から心に浮かんだことは、今この時を贅沢に生きるということ。
贅沢に生きるとは、この時間を受け取ること。未来や過去に逃げ込まないで、今と向き合うこと。
私たちは、日々が同じことの繰り返しでつまらないと嘆くばかりで、今、この時を過ごしていない。
将来のためにと大義名分を掲げ時を過ごすことは、今を犠牲にすることだ。
北村薫の「ターン」のことを思い出した。
事故に遭った主人公は意識不明の重体に陥る。その主人公の意識の中では事故当日の1日を延々とループする。
同じことの繰り返しと思われる日々の中で、創造の種を蒔くこと。それが未来と自分をつないでくれる。
あとジム・ジャームッシュ監督の映画「パターソン」も。
バス運転手のパターソンの、型にはまったような、ともすれば変わり映えしない日々を描く。だけどそこにこそ光るものがある、もう少し日常を愛してもいいかもしれない。そう思わせてくれるいい映画だった。
日々が同じことの繰り返し、ということを歌った歌も数え切れないほどある。
日常にひたむきに向き合うことが私たちを幸せに導いてくれるのだと思う。