えす、えぬ、てぃ

好きなものの話をしよう

#つくのラジオごっこ(23.8.7更新)

#つくのラジオごっこ


メインはTwitter(@tsuku_snt)のspaceにて、友達と一緒にその時話したいことについてあーだこーだ言ってます。

ラジオ「ごっこ」という名前の通り、
ここ数年ラジオに何度も面白い!となってきた私が小さい頃やってたごっこ遊びのように好きな番組への憧れを詰め込みまくって話をしています。

どんな話をする上でも「好き」を核において話がしたい。その中で、"ラジオ"でしか見えないものがあると思ってやっています。



またAnchorのアプリを使ったひとりで喋る #つくのラジオごっこ もしています。

AnchorというアプリはSpotifyと繋がっていて短いですが、Spotify上の音楽を流せます。
なので、ここでは自分の「好き」とそこから考えたことを話しつつ、最後に延長線上にある「好き」な音楽を流します。


また #つくのラジオごっこ というハッシュタグを最近つけています。
メインがTwitterのspaceになるため、コメント機能がないのですが以前ツイキャスでお話をした時、コメントをもらいつつお話できたのがとても楽しかった記憶があります。
そのため、実際拾えるか拾えないか、そもそもリアクションがくるのか分かりませんが、ハッシュタグを作りました。良ければご利用いただけると嬉しいです。


ともあれ、どんな媒体・テーマ・やり方でも変わらず、「好き」の話をしていこうと思います。
最近すごく思うのは、私は自分の「好き」をアウトプットしながら自分の外に出たその「好き」を確認することが大好きなんだと思います。


よければ、お付き合いいただけたら嬉しいです。


ひとりでの #つくのラジオごっこ

エピソード1 "ラジオ"の話

エピソード2 エンタメの話

エピソード3 ブルーピリオドと表現すること、好きなものの話

番外編1 withセンパイ

エピソード4 THE TAKESの話


エピソード5 HIPHOPのライブを観て考えた話

#つくのラジオごっこ 日本語ラップ


日本語ラップって面白いな?!って話をソラちゃんに聴いてもらった回


#つくのラジオごっこ 雑談回


友達のしーくんとごった煮雑談をした回


#つくのラジオごっこ 畳屋のあけび


配信で観た畳屋のあけびが面白かった話をソラちゃんとした回


#つくのラジオごっこ アンサンブル・プレイ


2022年9月に発売されたCreepy Nutsさんのアンサンブル・プレイについての妄想を語る回


#つくのラジオごっこ 1周年だよやった〜!


なんとこの遊びを始めて1年が経ちました


エピソード6 伝わりますか?

今更ながらに伝わるって難しいな〜と思った話をひとりでしている


#つくのラジオごっこ 最近楽しかったこと


最近どう?何が楽しかった?の話をソラちゃんとする回



#つくのラジオごっこ(録音) 「好きに値する」ってなんだろう

色々あったので「好きに値する」ってことについて考え込むのにソラちゃんに付き合ってもらう回



#つくのラジオごっこ コチラハコブネ、オウトウセヨ


ポップンマッシュルームチキン野郎さんの22年12月公演「コチラハコブネ、オウトウセヨ」の感想をソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ FLOLIC A HOLIC


フロホリこと東京03さんとCreepy Nutsの公演についてソラちゃんと語りました



#つくのラジオごっこ 好きなチャンネルが増える話

「推しを複数作ってリスクヘッジ!」は無茶言うなと思うけど好きなチャンネルが増えるのは楽しいという話


#つくのラジオごっこ ノンバーバルパフォーマンスギア


ソラちゃんと京都でロングラン公演されているノンバーバルパフォーマンスギアについて語りました。



#つくのラジオごっこ エブエブと映画を贈ることwithなっぱちゃん

友だちのなっぱちゃんと映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」の感想を。それから、映画体験の話。


#つくのラジオごっこ 毛布みたいなエンタメ・カツ丼みたいなエンタメwithなっぱちゃん

なっぱちゃんと一緒に「救われたエンタメ」の話から毛布みたいなエンタメとカツ丼みたいなエンタメ、人が作ってることの話になりました



#つくのラジオごっこ あの頃のインターネットあるいは発信することされることwithづめこさん

前回エピソードでその人にとっての大切なエンタメの話を聴きたくなって2人目づめこさんに聴いてきました。インターネットやそこで出会ったあるいは運営していた個人サイトの話から何故かラップバトルの話まで?!

バジュランギおじさんと、小さな迷子

この映画を観たかったのだ、と反芻しながら思う。私はたぶん、この映画を、この人たちを、今見たかった。

 

 


なんで映画を観るんだろうと最近よく考え込む。例えば、4月のはじめに観たジッラの時もそうだった。なんで、はもう、ほとんど、私の中で答えが出ている。
これは、私の悪癖でもあるのだけど、物語でなら、と信じられる。現実や、自分の身近な人間関係、社会、生活ではうまく受け止められないこと、歪めてしまうことを映画というフィルターを通してならやんわりとあたたかく、大切に受け止められる。そんな気がする。だから、私は映画を見る。
思えば、数年前に映画館を「いざという時に逃げ込む場所」と感じてから今日まで、ずっとずっとそうだった。
そう思うと、今の私は、バジュランギおじさんと、ムンニー、そしてその二人が出会う人たちに出会いたかったのだ。私の、毎日のためにも。

 

 

 

印パ問題に関して、どちらかと言えばあまり知らず、ストリートダンサーで両国の関係があまり良くないことをぼんやり知った程度。
だからこそ、バジュランギの行動や表情、またお父さんの台詞にゆっくりとなんとなく、でしかもちろんないのだけど、理解する。
例えば宗教観として他の宗教との「相入れなさ」はこれまでも歴史やニュースを通して分からないままだったけど(そして今だって本当には理解しているとは思えないけど)それが、ただ過激な感情というよりも、生理反応に近いそれなんだな、と物語として触れながら思う。

 

 

 

私が、この映画を好きな点はいくつもある。
一つ目は、ムンニーを最初に警察署につれて行くシーン。
「捨てられたのかも」という警官にバジュランギが「それはない、この子を観ていればわかる」と言い、警官も「ああそうだな」と同意する。
喋れなくても、ムンニーがどれだけ愛されてきたか、大切にされてきたか、表情や容姿からわかる。そのことに、冒頭はぐれてしまう描写に心臓がじくじく痛んでいた私は「そうなんだよ!」と言いたくなった。そうなんだよ、愛されて、大切にされているんだ。だから、どうか彼女が帰れるように助けてあげてほしい。

 

 


更に言えば、ムンニーがバジュランギについていこうと決めるシーン。音楽と、自身の信じる神様への愛情がこもったシーン(このシーンの後の「スターのように踊っていたね」「ハヌマーン様への愛が溢れてしまって」のようなやりとりがだいすき!)に「この人は大丈夫」と思ったのかな、と考えると心があたたかくなる。
ムンニーの信じる神様と、バジュランギの信じる神様は違う。それをどれくらいムンニーが理解していたかはわからない。だけど、そこにあるあたたかなものは伝わるし、神様の違いを越えることがある。
そう思えると、嬉しい。嬉しいと思ってしまう。

 

 

 

眼差しが総じて優しい映画なのだ。
わからないこと、相入れないこと、信じられないこと。だけど、そんなものをバジュランギは越えていく。それは元々の彼の気の良さ、正直さに基づくものではあるけど、彼だってずっとそうなわけじゃない。
何度か「ムンニーがいることで大変なこと」も口にする。ただのお人よしではない。だけど、それでも、歌の中であったとおり、彼女を大切だと思う、幸せでいてほしいと思う、それはだんだんとバジュランギの中で大きく大切なものになっていく。
そうして、そんな二人の姿にひとが動く、心が動く。


そんなことはない、物語のフィクションの世界だからだと一蹴できないような(したくないような)力強さを持って、彼らは世界を動かしていく。
それは些細な変化で、だけど確かな変化だ。
そして何より、バジュランギ自身も変わる。
モスクのシーン、互いの神様を思いながら相手の幸せを祈ること、感謝すること。
自分の信じるものと、異なる存在が触れ合って、それぞれを尊べること。

 

 

それぞれの神様を讃える音楽が劇中登場して、それを聴きながらどちらの信仰も外野として触れる私はどちらも素敵だな、と思った。信仰を外野から語ることは出来ないのだけど、それでも、誰かの大切な気持ちを愛おしい、美しいと思う。そういうシーンが、この映画にはあるように感じて、私はそれも、大好きだったのだ。

 

 

ナワードさんの言葉を、ずっと考えている。
憎しみの方に飛びつくこと、愛は置いていかれること、届かないこと。
映画館で、一緒に観ていた観客が笑い、息を詰め、嗚咽を漏らしていた、あの時間のことも、思い出す。憎しみの方が、拡散されやすくて、残りやすくて伝わってしまう。だけど、そうじゃなくて、それだけじゃなくて、愛情や優しさ、誰かの笑顔のことを、祈る、そういうことだって確かに人間の一面だって、まだ、信じられる。そう思う。意地にも近い感覚で。

 

 

 

だけど、それだって間違ってないと最後のバジュランギとムンニー……シャヒダーの表情をお守りに思っているのだ。

ミルクレープと考える


ドトールのミルクレープが好きだ。
生クリームが得意じゃないこともあるのかもしれないけれど、ミルクレープを見ると安心する。し、じゅわりと滲む感覚が食べているとあって、私はそういうことが、とても好きなんだと思う。
そんなわけで、頭がふらふらとしているなかで、ドトールに行った。
ただもう、ミルクレープにしか用がないのである。自分の扱いにくさだと自覚はあるけれど「こうしたい」を強く思うとそれ以外へのガッカリ感が人一倍強くなってしまう。
だから普段はなるべく「こうしたい」や「この段取りで」と思い過ぎず、まるで他人をあやすように気を逸らしながらおそるおそる行動することがある。
だけども今日は合間合間に「ミルクレープ」と思い過ぎていたので、それ以外の選択肢をなくしてしまっていた。もちもちのロールケーキやシュークリームなど、自分の好きな食べ物を代替え案にして考えてみたけど、みればみるほど、頭の中はミルクレープでいっぱいになっていた。

 

そんなわけで、少し散歩がてら、ドトールへと足を運んで、ミルクレープを頼む。直前、ショーケースを見て、なければ店員さんと話す前に店を出ることも考えた。取り扱い注意状態の自分が凹むリスクは最大限なくしたい。
そう思いながら、吃りがちになるのにうんざりしつつ、音楽のバリアを張ってくれているイヤフォンを外して「ミルクレープはありますか」と聞いた。
初心者マークを胸元につけた店員さんは「あ、」と言う。それで、ああないのか、と思う。落下に備える時のようにお腹にぐっと力を入れる。ただ、隣にいた店員さんが「ちょっと待って」と店の奥へと引っ込んだ。見守るようにふたりで視線を動かして何か、箱を持ってきた店員さんにレジ前に立っていた初心者マークの店員さんが言う。
「あ、ありそうですね」
その声が、嬉しそうで、なんだか、私が嬉しいことのはずなのに、なんでだよ、なんて思いつつ、にこにこにしてしまった。ほんとですね、ありがとうございます。そう言って、ケーキを待つ。待ちながら、会計をする。
ふたりで試行錯誤しながら大切に私のミルクレープを準備してくれる。
その様子を見ながら嬉しそうな「ありそうですね」を思い出していた。いい人だな、と思う。
いい人だし、ここから先、良いことがあって欲しいな。保冷剤を断って、またのろのろ、家に帰りながら思う。

 

傷付くことを、考えている。
世間というものを聞くとどんよりと重たい気持ちになるのは、きっと私がそこに馴染めないかつ、その馴染めないことへの引け目のようなものがずっとずっと、あるからだと思う。
最近、そのことに向き合う場面が積み上がりに積み上がってしまい、どうにも、歩き方が思い出せない。
仕事でも、プライベートでも「自分はおかしいのか」と考え込む時間が増えた。
自分なりにおかしいを埋めようと色んなことを試しているけど、どれもこれもうまくいかない。そうこうしてると疲れや苛立ちが溜まって、前ならやらなかったようなミスや不誠実で、にっちもさっちもいかなくなる。


おかしいって言っても、それ、そういたいんでしょ、と言われた。
それは「変わっていたくてそういう振る舞いをしているんでしょう」ではなく
好きなものも、譲れないことも、それっておかしいんじゃないかって思うことも、日々の過ごし方も、全部自分なりの「好き」を詰め込むんだものでしかないのだ。

 


「そんな風に考え込むのは、しんどくないですか」「今すぐは変えれないかもですけど、変わった方が過ごしやすいんじゃないですか」

 


うん、すげえそう。分かる。そしてそもそも「しんぞうなひと」がいることが迷惑なんだろうなってことも想像はできる。
だけど、私は考えたいんだよ。考えることを正解だって信じられてもいないけど、考えて、考えた結果、何も言えなくなっても、やりたいんだよ。
ミルクレープ、ありそうですよ、と嬉しそうに笑ったつもりなんて、あの店員さんはなかったかもしれない。勝手な感情移入の逆、感情反映なのかもしれない。だけどそれを嬉しいな、と思う自分を明日も好きでいれますように。
好きで、というか、まずは、許すところから。

ジッラ 修羅のシマ

やり直せることを、ずっと考えている。
ジッラを最初に観たのは配信で、それが映画館で観れるということで、楽しみにして映画館に向かった。

 

向かって、観ながら「ああそうだ、こういう話だった」と正直に言えば、冒頭、気持ちがしんどくなった。
主人公は地域を支配するギャングのボスに息子として育てられた、右腕的存在。ギャングで、警察を毛嫌いしており、そんな彼が父のために警察に潜入することから、物語は大きく動き出す。

なんせ、ギャングである。めちゃくちゃ悪いことをする。いや、もちろん、大将ことヴィジャイさんの映画であり、その主人公なので、バリバリのギャング描写の中にも悪い奴をシバき、街の人を助かるところもある。だけど、主人公シャクティ自身がはっきりと口にする「俺は良いやつではない」。


そのとおりだ。街に蔓延る犯罪に対して「友達がやってる」ことだと見逃すように恫喝したり、父を取り締まりにきた警察に暴力をふるう。それ以外にも「良い人じゃない」描写を観ながら、そうだったなあ、と思っていた。

 

これは、私の問題である。私のコンディションや思考が、彼の「改心」をただ良いこととして受け止められるか不安になった。
暴力や、誰かを虐げることについてここ最近考えていて、そこに直結したこと。また、彼自身はこのあと「改心」するけど、でも、それでも、と思ってしまった。それでも、傷付いて、苦しんで、人生が変わってしまった人はいる。
ヴィジャイ大将の映画だからこそ、「彼が正しい」前提だからこそ、どう観るか、2回目のストーリーが知っている中で、ほんの少し複雑なものが絡んでしまった。

 

だけど、それも観進めながら溶けていくような気がした。

 

彼が変わるきっかけとなる爆発事故。その描写は、2度目であっても、いやむしろ、2度目の今回こそ、目を背けたくなるような気がした。誰かが、誰かの利益のために全く無関係にも関わらず、いやむしろ無関係だからこそあっさりと、命や生活を奪われること。
例えば病院の描写など、そのショッキングさがより伝わるように描かれていることに私は画面を食い入るように見つめてしまった。
その一連のシーンは主人公の改心をただ「良いこと」として描こうとしていないんじゃないか、そう思った。
シャクティが、あるいはシヴァンが今まで見てこなかった「暴力の結果」をまざまざと見せつける。見ていて苦しくなるようなシーンや事実、それにシャクティ……ヴィジャイさんが、ぼろぼろと涙を流す。

 


マスターをきっかけにヴィジャイさんに出会った私はついつい「ヴィジャイさんの涙」に特別な思い入れを持ってしまう。初めてスクリーンで観たジッラは特にその「ヴィジャイさんの涙」が美しく、また、特別なもののように思えた。
今まで気付かなかったこと、あるいは目を背けていたこと、彼自身の目を覆っていたものが一つ一つ、剥げていく。そこから何をどうするのか、観るのか、感じるのか、そして行動していくのか。
生まれ変わるようにその涙一粒一粒が、彼を変えていく。


とは言っても、生まれ変わる、じゃない。なかったことにはならない。
だけど、その時思った。やり直せないことの方が、ずっとずっと、辛い。
やり直せない。でも、きっと彼が暴力をふるい、直接的ではなくても苦しめた誰かはもう「やり直せない」人たちだっている。でも、だからと言って、彼らがやり直さない理由にはならない。

 


シャクティは完全に「変わった」わけではない。警察を動かすのに多少ズルいことだってする。だけど、彼は鏡に映った自分から目を背けたくなるような生き方はしない。あの日流した涙に恥じるようなこともしない。そうしてそれを、大切な人に伝えていく。

間違えない方が、そりゃ、良いのだけど。でも、そうできない。そうできなかったどうしようもない恥ずかしさや消えてしまい感覚を捩じ伏せて、生きて、生きながら正していく方がずっとずっと、難しくて、そして大切なことなような、そんな気がしている。

 

 

やり直せる、と思った。やり直していく、そうして、自分の誇る自分でいる。
今まで観てきたヴィジャイ作品とはほんの少し違う、だけど、変わらないいつもの大好きな結論をこの映画もくれた。そう思うのだ。

あまろっく


「ここでこの時観たこと」
そのことが、奇跡のような瞬間を生むことがある。私が、映画を観るために極力映画館に足を運びたいと思うのはそんな経験を何度かしたことがあるからだ。
そしてこの「あまろっく」もあの日、あの場所、尼崎で長く愛されている「塚口サンサン劇場」で地域のひとと観ることができたことも含めて、そんな経験の一つになった。

だから、あの映画を観たあの一日の話から、書いていきたい。

 

日曜朝一上映。とはいえ、熱烈に愛されている映画館であり、また、作品ごとに唸りたくなるような愛情をもった上映をしてくれる塚口サンサン劇場のことなので、土日朝一の上映が埋まっていることは結構ある。
しかしその日、映画館にいる人たちはどこかいつも見かけるような光景と違っていた。
映画を観慣れたひとたち、というよりも、あちこちから「映画いつぶりだろう」や「この映画館、小さい頃来てたわあ」なんて会話が耳に飛び込んでくる。それで確信した。ああ、この人はきっと、あまろっくを観にきたんだ。
心臓がどきどきした。とんでもないことが、起ころうとしている。そんな気がした。

 

上映前、飲み物を買いに映画館内の自販機に寄った際、ご夫婦と少しだけお話しした。
そもそも私は、江口のりこさんが好きであり、また予告やフライヤーからびんびんに「この映画はきっと私が好きなやつだ」と予感していた。
百発百中とまではいかないがこの感じの「びんびん」の予感は当たる。そんなことを思いつつ、飲み物を買う私に「尼崎のひと?」とご夫婦が話しかけてくれた。なんだか、それにもわくわくが募る。映画を観たいと思うこと、それが自分の街の景色があること。そんなきっかけが生まれるのは、なんて素敵なんだろう。

 

劇場内に集まった老若男女(ちょうど小学生のクラス単位での鑑賞もあり、かなり観客の幅は広かった)が、劇中のテンポのいい会話に笑い、息を飲む。時々、映る景色に嬉しそうに店の名前や地名を言う声がする。普段なら気になる話し声が気にならなかったのはきっと、その声があのスクリーン向こうにある生活と地続きだったからだ。

 

ああ、この映画の中に出てくる愛おしいひとたちは「生きて」いるんだな。勝手ながら、映画館で一緒に観たひとたちの気配にその確信が強くなった。この街で生活する、ご飯を食べて、笑い怒り、泣いたりもする、全てのひとたちのなかに、彼女たちもいるんだ。

 


映画の主人公、江口のりこさん演じる優子に私は「分かるよ」と「ああもう」を繰り返し感じていた。父に対しての「ああはなりたくない」から頑なになり、決して間違ってはないけどどんどん和を乱し居場所をなくしていく彼女の姿に冒頭からううううと唸りそうになりながら観ていた。それでも引き込まれるように見てしまったのは、江口のりこさんの軽快な台詞運びが楽しく、カラッとしていたからだ。その中でも、彼女の痛みやかさぶたがようやく出来始めたばかりの傷が軽くなるわけじゃないあたりが、本当にすごい。


そうして、観た後、鶴瓶さんのラジオに出演された江口さんの話を聴きながら、考えていた。
物語に思うところはあったということ、撮影中、ずっと怒っていたこと。だけど、周りの人に支えられた瞬間があったということ。

分からない。実際に私はその場にいないし(当たり前だけど)ただただ、この映画のことを「好きだ」と思っただけである。
一瞬、思った。私は、この映画のことを好きだけど、面白いと思ったけど、それで良いのかな。


だけど、数日経って思う。良いだろ、別に。面白かった、好きだった。
例えば作られる間に誰かが大きく傷付いたなら誰かが不当に扱われていたなら、と最近の色んな出来事に思う。それをただ、楽しむのは辛いな、と思う。
思うけど、思った上で、でも、あまろっくのこの映画の見ている時間を好きだ、と改めて思う。
そうしながら、優子だったんだなあ、と思った。怒る、怒る。そして、その怒りはそれ自体は、真っ当だし、分かる〜となりながら、ちょっと和を乱してて、だけど、私は、そんな優子さんが、好きなのだ。

 

ところで、鶴瓶さんと松尾さんという好きな人ふたりが演じる「竜太郎」は近所にいてほしいおっちゃん堂々第一位である。あるのだけど、それすら「物語上だけで起こり得る奇跡」にしない。劇中描かれる彼の姿は、フィクションの世界ではなくて、きっと、この街に生きるひとの姿だし、そしてそれが何より、この尼崎、関西という街へのエールにも、ひとそのものへの賛美にも感じた。それは、まさしく「人生に起こることはなんでも楽しまな」というお父ちゃんの言葉がこの映画全体に通じる、ということのような気がするのだ。
とんでもなくファンタジーで、あり得なかったり、「物語のご都合主義だな」と思う瞬間はある。あるんだけど、あるからこそ、「物語上だけで起こり得る奇跡」で終わらない。そう思う。
それは、ストーリーラインで成立することもあれば、そこにただただ、生きているひと、その姿で思うことだってあるのだ。

 

何かを楽しいと思うこと、面白がること。
そうして、目の前の人を大切にすること。

 

この映画を観てる途中、女性ふたりの描き方が心地よく、そしてどんどんふたりのことを好きになっていくことに気付いた。
まだまだ、このふたりの関係が深まるさまを見ていきたい。深まるけど、分かりやすく戯れたりはしない、だけど、この二人が互いに互いを大切にしてることは、わかるんだ。


ああうん、そうだ。
自分の何か大切な瞬間に「大切なんだ」と寄り添えることを、愛と呼べたらいいなあと思う。


誰かを大切にしたくて、笑っていてほしい、ご飯を一緒に食べること、その人を思うこと。
そういうことを、愛と呼べたなら、たぶん、私はとてもとても、嬉しい。

 

映画を見終えて、始まる前に話した夫婦に会った。三人で「ああ、本当に、このみんなでこの映画を観て良かったね」と泣きそうになりながら、笑いながら話した。二人が言う。
「また、この映画館で」
私は、なんだか、その一言が全部だったようなそんな気がしている。

 


ひとは、一人では生きていけない。この映画を観た後ならば、その言葉がとんでもなく優しくあたたかな言葉に思えるのだ。

あさ

改札で、誰かが引っ掛かる。そのすぐ後ろ、走りながら階段を駆け降りたひとがいたから「ああ大丈夫かな」とドキドキした。案の定、何度タッチしても改札を通れず、後ろのひとがイライラし出す。
結局、駅員さんが「先に通してあげて」と促した。通り抜け走るその人が、迷惑そうに振り返る。

 

次は通れるといいな、と思いながら眺めたら、さっきまでのはなんなのかと思うくらい、あっかり、通れた。その人が、そっと、見てないと気付かないくらいさりげなく、柱を蹴って、歩く。

 

少し怒りながら歩く、その人を気味悪そうに何人かが振り返った。その人がどんな顔をして歩いていたかわからない。ただ、その背中に苦しいよなあと思った。朝から、そんな思い、したくなかったよなあ、と思う。
ムカつくし恥ずかしいし、かなしいよな。

 

そりゃ、公共の何かを蹴るのは悪い。悪いのだけど、その誰かに直接ぶつけないように、でも溢れた気持ちに、なんとも言えない気持ちになってる。
それでも蹴るな、は、本当に、本当にそうなんだけどさ。

 


わかるよ。
わかるよ、なんて言葉薄くて気味が悪くて自己陶酔かもしれないけど。わかるよ。

 


せめて、少しでも良い日でありますように。こんな朝だったことを忘れて、笑える日でありますように。痛む足が、早めに痛くなくなりますように。

"梅田サイファー と chelmico" at 心斎橋JANUS

楽しいな、と思うと同時に「ああそういや最近こういう感じ、なかったな」と気付いた。

 

 

 


"梅田サイファー と chelmico" at 心斎橋JANUSに行ってきた。

 

 

少し前から無性に「クラブで音楽聴きたいなあ」とぼんやり思っていた。頭を空っぽにする時間がいるのではと自分でも思ってたし周りにもちょっと考えない時間作った方がいいよ、と言われ、それな〜と心底思っていた。そしてそれってクラブないか、あの感覚なんだよな、なんて考えていた、そんな土曜夕方。

 

 

 

初めて足を踏み入れた心斎橋JANUSはミラーボールがあってDJブースがあってステージがあって、お客さんたちがお酒を片手に楽しそうにかかる音楽に身体を揺らしていて「まじかー!」と思った。
chelmicoが気になっていた私にとって大好きな梅田サイファーとのツーマン、しかも好きなラジオDJである板東さんが関わってるとなると、最高じゃん!とほぼ直感的にとったチケット。

 

 

 

そしたら、まさしく「行きたかった」場所じゃん、と体温が確実に上がった。残念ながら整理番号は後ろの方。背の高い観客も多いからほぼ演者は見えないかも。だけど、そんなことが少しも気にならなかった。そんなことよりも、ひたすら踊っていたかったしいい音楽で頭がふらふらになる感覚に浸りたかった。そして、始まる前からここは「そんな場所」だとわかった。

 

 


始まった板東さんのかける音楽と煽りのトークにどんどん会場の熱気が増していく。ワンドリンクで受け取ったビールが美味しい。なんで、ライブ会場で飲むビールってあんなに美味しいんだろう。

 

 

 

期待値マックスで始まったchelmicoのターン。
ステージに上がると同時に「可愛い…!」となる空気感。しかも、その「可愛い」は「強い」と同義だと思う。魅力の強さ、可愛いという武器。
元々友だちが好きだと話していた印象からなんとなくアルバムをダウンロードしていて夜道にふわふわ聴くのが好きだったchelmico。歌い出して「あ、これもう大好き!」と確信に変わった。
「なんとなく好き」が「絶対大好き!」にスイッチが切り替わる、そんなステージが大好きだ。

 

 

 


楽しそうでハッピーで明るくて、でもそれはなんか、適当だとかそういうことでもなくて、芯のある見てて思わずこっちまでニッコニコになる明るさ。それが、chelmicoの音楽にはある気がした。
知らない曲のコールアンドレスポンスもこっちだよ、と手を引いてくれるから戸惑わない。
何より、そうしてふたりの音楽に手を引かれて身体を揺らしているとどんどん無重力になるような、あんなに重かった身体が気にならなくなるような、そんな気がする。

 

 

 

アルバムで大好きだった三億円を聴きながら、あーそうだよな、と思った。
楽にならないね、になんだかグッときてしまったり。でも、そう思う自分を押し殺して「仕方ない」と思ってた感覚に「仕方なくなくない?!」と言われたような気がした。そうだわ、仕方なくないわ。

 

 


満足してないわけじゃない、なのになんで毎日こんなにクソみたいだなって思ってるんだろう、何に怒ってるんだろう。
でも逆になんでみんな平気なんだろう。
そんなモヤモヤをchelmicoの歌声が吹き飛ばした。

 

 


やりたい!楽しい!欲しい!遊びたい!
そんなまっすぐでキラキラしたものがたくさん溢れる、そんなステージ上からの熱に気がつけばめちゃくちゃ笑っていた。
そうだよね、そうだわ。
そうして、MCの中でふたりが本当に音楽が好きなこと、こんな空間が好きなこと、そして観客のことを大切にしてくれていることが伝わってきて、幸せだなあと思った。

 

 

 

こんだけまっすぐで楽しくて、好きなものを大切にしていて、だからこのふたりってこんなに可愛いんだな。そうして、だからこそ、こんなすげえ音楽が作れて、誰かのことを笑顔にできるんだな。

 

 

 

 

そんなことを考えながら過ごす時間はあっという間で、そうしてやってきた梅田サイファーのターン。

 

 


今度は頭を沸騰させるみたいに(曲を知ってるからというのももちらんある)飛び跳ねてステージを埋める梅田サイファーにブチ上がる。
久しぶりだ、と思う。後から彼らも「梅田サイファー」としてのステージは久しぶりでは、という話を聞いてそっか、と思ったり。でも、久しぶりでも、少しぶりでもいつだって梅田サイファーは最高だ。

 

 

 

考えない時間を作るって難しいなあとここ数日、考えていた。
まじで「頭の動きを止める」が下手くそで、銭湯とか行って強制的に何もできない時間を作るかあと思っていた矢先。ああそうだ、梅田サイファーって私にとって「頭空っぽに踊りまくる」の時間だったわ、そんなことを思い出す。

 

 

 

酸欠になるような気持ちで「この音楽が、この瞬間が楽しい!」それしかなくなる。
例えば何が最高だったかとか、この時のこの人がとか、そういうことを覚えておきたいのに(特に今回はセトリがあまりにも最高だったから!)終わったらぽっかりと幸せな穴が空いてる。
それは嫌な感覚じゃなくて「楽しい」だけの一色の愛おしい穴なんだ。そして頭が常にぐるぐる動いておえーってしがちな私には必要な穴で、だから、今、この時間があってよかった、と途中心底思った。楽しくて訳わかんなくてただただぶち上がって手を挙げて身体を揺らして飛んで、跳ねる。
それは、私にとっては奇跡のような時間なのだ。

 

 

 

その中でも、今回、KBDさんのMCは頭の中のぐるぐるが熱湯で茹でられるなかで、なんか、深く深くに刺さった。
音楽により集中するために仕事を辞めたこと、こんなに熱中できることがあることが幸せだということ。
ボヤけた視界でもキラキラしてる笑顔が見えた。いつだって、楽しそうなパフォーマンスが魅力的なKBDさんだけど、その中でもとびきりの笑顔だったし、最高に格好良かった。

 

 

 

そうだよな。
スッキリした頭だから尚更、思った。楽しまないと、やりたいと思うこと、熱中すること、とめられらんないこと。そうだよ、そういうこと、大事にした方がいいし、そういうものがある人生って、最高で、幸せなんだよな。

 

 

そこからはもう、ずっと最高で、ぶちあがって、この瞬間があってよかった、がずっと続いていた。

 

 


そして最後、彼らのメジャーデビューアルバムの一番最初の曲である「BIG BANG」で、熱気に満ちたステージは終わる。
この曲が好きだ…美しい楽器の音色も清々しい空気感も、全部全部、初めて聴いた時から大好きだ。
何より、初めて聴いた1年前から時間を重ねて、その「最高の景色」はとんでもなく増えた。そしてこれからも増え続けると確信している。

 

 

アンコール、最高のステージを作り上げた人たちが集まってマジでハイをfeat chelmicoで歌い上げる。名乗り上げのようなこの音楽で、また心臓がバクバクする。それから流れるチーム友達にも、笑って歌って、ブチ上がる。
音楽が好きで好きで、イカした、最高の人たちがそこにいた。

 

 

楽しいことで頭をいっぱいにする。考え続けるために動き続けるために、それがいる。
だって、何かを呪ったり恨んだりしてると呪いの装備をつけられたみたいにどんどん体力やエネルギーを奪われるのだ。
そう、頭の中が楽しいでいっぱいになって、確信する。だってもうどこにも行けないと思っていた、重たい身体がこんなに軽くなってる。
それが十分、答えじゃん。

誰か、この声を聴いてよ

星野源のライブを見ながら、この日記を書いている。ああこの人のライブが、音楽が、表現が好きだと思う。踊るように歌うように揺蕩うように、ライブを楽しむ。ああ、このひとの表現がこの世にあって良かった。

 


静かに、傷付いていたのかもしれない。そんなことを予定していた映画をキャンセルして布団のなか、唸ることしかできない日曜日に思う。なんなら酔ってふわふわした時間、友だちに「もうどうでもいいしなんでもいいよ、ともかくただ、寝たいよ」と言ってしまったことだってそうだ。傷付いて嫌だなってことを煮詰めて、八つ当たりのように人にぶつけてしまう、そんな自分であることが一番かなしい。

 

 

普通そうじゃないよと言われること、普通に歩くことが難しいと思うことが多くて、苦しい。
さらには最近「大切にしたいな」と思うこと、ひとが増えた。大切にしたい、柔らかなもので包んでいたい。だけど、その「したい」はそうできていないことの裏返しだ。
大切なものがいくつもあるのに、少しも、大切にできていない気がする。
そんなことが、ずっと苦しくて悲しい。

 

 

本当に、生きるのが下手だな。

 

 


そうも思うけど、別段、そのことに対して絶望もしてない。あーやだな、とは思うし布団に沈んで過ごすことも多いけど、だからなんだというのだ、と開き直るような気持ちもある。そんなことを今ぼんやり思ってる。

 


落ち込む速度がゆっくりになったな、と気付いたこと、好きなものや良いなと思ったことをゆっくり文にすること。悲しかったことを言葉にしながらそれだけで終わるのが悔しくてなんとかこう、ポジティブにだな、と頭を捻ったこと。
それもこれも全部、楽しかったな。

 

 

 

好きなドラマも観ていた。唸るような日曜日を楽しいものにしたくて、ドラマを観て湯船を溜めて、好きなスパイスカレーをつまみにお酒も飲んだ。
その中で、コントが始まるを観て「自分にとっての10年」の台詞を聞きながら、考えていた。何があったら勝ちなのか、負けじゃないのか、別の競技での勝ちは「負け惜しみ」になるのか。
好きなドラマがあること、音楽があること、ラジオがあって、観たいお芝居のことを考えられること。
たぶん、私は日々の中で「かなしい」を感じることこそ多いけど、「楽しい」の引き出しをたくさん持ってるんだな。
そんなことを考えながら、私にとっての10年や自分の毎日を勝ちか負けかについて考える。

 


ブルータス、お前もか、で書いた「がっかりしてしまった」相手とこの間、ゆるゆる歩きながら話したことがあった。「怒ってるかと思って」と言われて、「怒ってたよ」と返した。
怒ってた、結構まじでくだらねえ奴だったことにがっかりして、いちいちそれ以降の言動にも最低を見つけて、そして何よりそんな自分にも心底、がっかりしていたよ。
だけど、気が付けば「最低だったとしても友だちなのは変わらないよ」と言っていた。むかつくし、どうなん、と思うけど、でもそうして怒った私にも君は怒る権利があるし、それもこれも全部ひっくるめて、私は君とまた、酒飲んだりバカ話ししたり、音楽の話がしたいよ。

 

 

 

「これがあれば人生はうまくいく」みたいな言葉がずっと苦手だ。
んなもんねえよとずっと思ってる。何かが劇的に好転するようなことがあるとしたら詐欺かなんかだと思う。そう思いたいだけで、劇的な好転なんてものは、絶対にないと思う。ただ、逆に人生がいきなり暗転することはある。終わることも怖いけど、何より、終われず、暗転のまま生きていくことだってあるよなあ、と思う。
そう思うと好転と暗転のバランスの悪さになんとなく納得のいかない気持ちにはなるけど、でも、劇的な好転はなくても「ああ楽しい」や「生きててよかった」と思える瞬間はあるんだろうと思う。


それは全部、何かの一瞬、大きく変わることなんかじゃなくて、日々、積み重ねてきた地味で何気ない、些細すぎて記憶に残らないような何かの連続なんじゃないか。そう、祈るような気持ちで思ってる。

 

 

3月が良い1ヶ月になるといいな、と書いて始めたこのわがまま日記。書き終わる今日、どっちだったかな、という結論は出ていない。悲しいこともムカつくことも、びっくりするくらい楽しいことも嬉しいこともあった。
結局「良い1ヶ月」という結論で一色にするには惜しい気がする、というのが答えじゃないか。だけど、だからこそ、その上でギリギリ楽しいや面白いが勝ち越しした、そんな1ヶ月だったと痩せ我慢も含めて、思う。

 

 

 

大丈夫、私にはずっと面白いと楽しいがある。