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「僕の名は?」の本棚

新開誠監督の映画および同氏の小説『君の名は。』が大ヒットし、ブルーレイ・DVDも発売された。

 

筆者は小さい子供がいて、ここ3年ほど映画館へ行くことができていない。

仕方がないので「君」ではなく「僕」に焦点を当て、「不明瞭な主人公の物語」を3作紹介する。

 

【1】東のエデン

 

 

 

 

 

羽海野チカ キャラクター原案によるアニメ『東のエデン』の小説版である。

ヒロイン森美咲(もりみ さき)の前に突然、全裸で現れる主人公。両手にはなぜか拳銃と携帯電話。主人公にはそれ以前の記憶がない。

彼は自宅と思われるアパートで見つけた複数の偽造パスポートの中から、滝沢朗(たきざわ あきら)という名前を選び、咲と共に日本へ行くことになる。

 

東のエデン』は2009年4月にテレビで放送開始された。当時はリーマンショックとそれに伴う就職難や内定取消問題などがあり、当時の時代背景を色濃く反映しているように思える。

 

また作品中の重要アイテムとなる携帯電話「ノブレス携帯」におけるオペレーター「ジュイス」は、iPhoneに搭載されているSiriを想起させるが、SiriのiPhone初搭載は放送2年後の2011年、日本語対応は翌年2012年のことだ。

他にも物語中で登場するアプリケーション「東のエデン」や、未来予測システム「世間コンピュータ」など、今から思えば本作品がスマートフォンが広まる以前から集合知ビッグデータ、ARなどの流行を先取りしていることに驚かされる。

 

なお小説版はアニメ版で1冊、劇場版1・2で1冊として、脚本・監督の神山健治氏により小説化されたもの。この「映画脚本家が自ら小説化する」という形は、後の『おおかみ子どもの雨と雪』の細田守氏や、『秒速5センチメートル』『君の名は。』等の新海誠氏にも引き継がれている。

 

【2】スカイ・クロラ シリーズ。

 

 

 

 押井守監督により制作されたアニメ映画『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008年公開)は、ヴェネチア国際映画祭で上映されデジタル部門賞を受賞した。

原作である森博嗣スカイ・クロラ』は、この1作品だけを読む場合と、シリーズ作品である『ナ・バ・テア(None But Air)』、『ダウン・ツ・ヘヴン(Down to Heaven)』、『フラッタ・リンツ・ライフ(Flutter into Life)』、『クレイドゥ・ザ・スカイ(Cradle The Sky)』を通して読むのとは、全く印象が異なる物語となっている。そもそも森氏によれば『スカイ・クロラ』は、このシリーズの最終巻に当たるとされている。

 

よって時系列としては第2作『ナ・バ・テア』から始まる本シリーズだが、物語が進むにつれ、だんだん主人公である「僕」の存在が不明瞭になっていく。

それは『クレイドゥ・ザ・スカイ』において特に際立ち、主人公「僕」が誰なのかすら明らかにされていない異色作品となっている。またスピンオフ的な作品『スカイ・イクリプス(Sky Eclipse)』はシリーズの補完的な役割を果たしていると捉えることもでき、シリーズ全体がひとつのミステリ作品になっているとも言えるだろう。

  

 

【3】ハサミ男

  

 

殊能将之ハサミ男』は、その手口から通称「ハサミ男」と呼ばれることになる連続殺人犯と、それを追う刑事役との視点が交互に描かれるミステリ作品だ。

ハサミ男」は自らの手口を真似た模倣犯の出現により、それを独自に追うが、その視点では「私」とだけ記述され「ハサミ男」が誰なのかは物語終盤まで明らかにされない。

 

つまり本作品は「模倣犯は誰か?」と「主人公=ハサミ男=私は誰か?」の2つの謎を抱えた物語となっている。

この謎が明らかになったとき、私たちがいかに「思い込み」に捕らわれているかを思い知らされることになるだろう。なお本作は映画化(出演:豊川悦司麻生久美子 他)もされており、原作とは異なった工夫により作品の魅力を引き出している。

 

 

 

保育問題の本棚

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※以下の文章は投稿時の情報・筆者の認識に基づくものです。「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」等は2018年度より改定・実施が予定されています。

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2016年は保育問題、とりわけ待機児童問題が大きく取り上げられた。

ただ筆者としては、まるで「保育所に入れた者勝ち」のような空気には、やや違和感を覚えている(もちろん、やむを得ず保育所に子どもを預ける必要がある場合は、そのための場所は必要だ)。

以降(あるいはそれ以前から)、待機児童については対策が取られている一方、その対策が保育の質的悪化を招いている場合もあるようだ。

 

そもそも保育所とはどういう場所なのか。

それを知るのに最適なのが近藤幹生『保育とは何か』(岩波新書)だろう。

 

 

本書によれば、保育施設(施設型保育給付)は大きく3種類ある。

 

1つは「保育所」で、厚生労働省が所管し児童福祉法を根拠とする『保育所保育指針』に基づき運営される。ちなみに全ての保育所で0歳の乳児が預けられるようになったのは1998年のことで、それほど昔の話ではないそうだ。

 

2つめは「幼稚園」で、文部科学省が所管し学校教育法を根拠とする『幼稚園教育要領』に基づき運営され、4月1日時点で3歳(または4歳)の幼児から就園できる。保育所の待機児童問題が起こっている一方で幼稚園は定員割れが問題となっており、統廃合などにより施設数は減少している。

実際、筆者が住んでいる市も2020年を目指し4歳、5歳の教育無償化が掲げられており、その財源は定員割れをしている公立幼稚園の統廃合により賄う施策が予定されている。

 

3つめに、上記2つのタイプの保育が一体的に運営されることが期待されている「認定こども園」だ。

 

保育問題というと保育所をはじめとする「施設型給付」だけに焦点が当てられがちだが「地域給付型」と呼ばれる保育サービスや、育児サークルの存在もある。

例えば育児経験者・シルバー人材による低価格のベビーシッターサービス、市町村から助成を受けている育児サークル、保護者が同伴し無料で利用できる子育て支援センターなどだ。

 

筆者の妻は最後に紹介した子育て支援センターを毎日のように利用していた。

保護者が同伴していれば、家のリビングより広く、たくさんのオモチャが無料で利用でき、読み聞かせなどのイベントもある。また保育士が常駐しており育児相談も気軽にできる他、保護者も同じ空間にいるため、同じ年齢の子ども、または同じ年齢層の親同士が知り合う場にもなる(保育所で親同士が仲良くなる機会はあまりないのではないか)。

さらに0歳から5歳までの子どもが同じ空間で遊ぶことで、例えば筆者の子ども(執筆時2歳半)は2歳くらいの年上のお兄さんとの関わり方などを自然と身に付けているようだ。

 

ところで、現状の保育所は制度的には「保育に欠ける子ども」のための施設と位置付けられている。この表現についても様々な意見があるようだけれども「保育に欠ける」とは、どのような状態だろうか。

本書で挙げられている例を紹介すると、母親は朝5時に起きてゴルフ場で2時間働いてから帰宅して朝食を作り、その後すぐにスーパーで働いている。父親は自動車修理工場で働いているものの収入が少なく、退勤後は夜10時頃までコンビニで働いて、なんとか生活が成り立っている。

このような状態では、当然、育児をする時間はない。

少なくとも現時点では、保育所は「両親が働かなければ生活できないなどの事情がある家庭の子ども」のための福祉施設であり、「子どもがいることで働けない親」のための施設ではない。

 

一方で、幼稚園の教育と保育所の託児の機能が統合されている「認定こども園」では「保育に欠ける」ではなく「保育が必要な」子どもを受け入れる施設とされており、必ずしも親が働いている必要はない。

 

 

 

ただし、認定こども園にも問題があるようだ。

それは<制度>は「保育所」「幼稚園」という枠組みから変化できても、そこで働いている保育教諭や保護者の<認識>は簡単には変化できないことから生じているように思える。

例えば、幼稚園ではPTAが存在するなど保護者の役割が一定存在し、行事への参加なども多くある。一方、保育所に子どもを預けている保護者は働いていて保育所での行事に参加することは困難だ。

認定こども園では保護者参加型が目指されているそうだが、全ての保護者が運営に参加可能なわけではない。また幼保連携により、園内の子どもをとりまく家庭事情等は多様化せざるをえない。

そういったギャップは、保護者同士はもちろん、保育所経験者の保育士と幼稚園経験者の幼稚園教諭の間でも大きいようだ。

 

以上のような多様な保育サービスがある一方で、利用希望が集中しているのが保育所である。

しかし、待機児童を解消するための無理な施策が、逆に子どもが受ける保育や保育士の労働環境を悪化させている面もあるようだ。

2014年7月に刊行された猪熊弘子『「子育て」という政治』(角川新書)はそれをいち早く指摘していた。

  

 

 分かりやすい例として挙げているのが横浜市が2013年に行った「待機児童ゼロ」発表だ。しかし「待機児童」の定義は自治体により様々で、実は希望通りの保育所に入所できていない子どもは1746人いることも合わせて公表されていた。

しかし横浜市はこれを「保留児童」と定義することで「待機児童ゼロ」と発表したという。

 

著者は横浜市の保育政策を一方的に非難しているわけではない。2010年に3万8331人だった入所児童数を2013年に4万7072人にまで増やしたことなど待機児童解消のための施策について一定の評価はしている。

その一方で、0歳児1人あたり面積を2.475平方メートルにまで自治体判断で緩和(国の最低基準が3.3平方メートル、多くの認可保育所が5~5.5平方メートル)したり、高架下や道路沿い(過去に2度自動車が追突した建物の跡地)に保育所を作ったりなど、無理な施策については批判している。

 

 さて、そのような無理な施策により、保育の現場が崩壊していると指摘するのが『ルポ 保育崩壊』(岩波新書)だ。

 

 

 

とりわけ本書で指摘されているのが私立、つまり民間企業による保育所運営問題である。保育に株式会社など民間組織が参入すること自体は問題とは限らないものの、以下のような事例が記述されている。

認可保育所の収入は定員による上限がある一方、運営コストの7~8割を人件費が占めることから給与がコスト削減の対象となりやすく、職員平均年収が200万円程度など、通常の企業に比べ待遇が低くなっているという。

さらに、勤務する保育士に弁当持参を許可せず子どもと同じ給食を食べることを強制させ、その給食をグループ会社が作り収益源としている保育所があるとしている。また同グループに保育士派遣会社も保有しており、保育士の給与からピンハネする構造となっているそうだ。

 そういった待遇により、ベテラン保育士は退職し、新卒の離職率も極めて高い状況にあるようだ。1年ですべての保育士が退職した保育所も紹介されていいる。さらに非正規職員の比率が増加しており、本書では正規職員がゼロの保育所についても書かれている。

 

また先に紹介した本『保育とは何か』の著者であり大学教員でもある近藤幹夫氏は、知人が「新卒の保育士50人を集めてもらえば1人の基本給を5万円上乗せする」といった交渉を持ちかけられたことを明かしている。保育所の増加に対して、保育士は次々と離職するため、新卒の大量採用によって補っている構造と思われる。

こうした状況により保育経験豊富な保育士が圧倒的に不足しており、子どもが受ける保育の質を悪化させているようだ。

 

本書ではどの保育所か明らかにされいないが、以下のような事例も紹介されている。うち多くが株式会社をはじめとする民間運営の保育所のようだ。

・認可に必要な部屋面積を確保しつつも、管理を楽にするために柵を使って部屋の2分の1や3分の1といった範囲に子どもを押し込めている保育所

・施設内に園庭がない場合は近隣の公園を園庭として用いることになっていながら、半年間働いた間に1度も公園へ散歩に行かなかったという保育士の証言。

・新設開園2日前に内装工事をしておりクラス担任も決まっていない保育所

・スケジュールに追われ、子ども押さえつけ無理やりごはんを掻き込む保育士。

・コスト削減のために食器などを家庭から持参させる保育所

・障がい児など「要支援児」には別途補助金が与えられるが、実際にはその補助金に当たる保育士を配置していない保育所

 

このような問題は、時間の経過と共に解消されていく可能性は高いものの、少なくとも現時点では(少なくとも私立の)保育所は「入れたもの勝ち」と安易に言える状況ではないのではないか、という気がする。

ウェブ残念化論(あるいはウェブ▲2.0)の本棚

梅田望夫ウェブ進化論』が刊行されて10年が経った。

実のところ僕は未読なのだけれど、あまりに多くの本で紹介されすぎて、読んだ気分になってしまうほど有名な本だ。

 

 

ウェブ進化論』の紹介で必ず触れられるのが「ウェブ2.0」という概念で、これは今では当たり前になった「ネットの双方向性」により、社会がそれ以前から変化していくことを指す。

平成生まれの方などは「双方向でないインターネット」のほうが想像しにくいかもしれないが、例えば企業ホームページなどは一方通行の情報発信の性質がいまだに根強い。

双方向が「今では当たり前になってしまった」ということは、この本で紹介されていたことが現実になったと言えるだろう。

 

ところが、多くの場合『ウェブ進化論』はネガティブな意味で紹介される。その理由としては、あまりにもウェブに期待しすぎた、あるいは期待を持たせすぎた点にあるだろう。

ただし、その「前向きな期待」が全面的に間違っていたわけではない。この「前向きな期待」に沿った本には、例えば以下のようなものがある。

※『一般意志2.0』の単行本は2011年11月刊であり、以下の3冊は概ね『ウェブ進化論』から2~3年間隔で刊行された時系列順だ。

  

 

 

 

 ところで、2016年4月9日にアップした記事で中心的に紹介した本、堀内進之介『感情で釣られる人々』では、「感情の動員」という言葉が多用されている。これは参考文献として記載はされていないが、津田大介氏の著書『動員の革命』のタイトルを意識したフレーズではないか?というのが僕の推測だ。

 

 

しかし、 双方向性を持ったウェブ、とりわけSNSソーシャルメディア)を伴った社会は、既にその「残念さ」も露わになってきた。

もちろんソーシャルメディア以前にその「残念さ」が存在しなかったわけではない。例えば内田樹『街場のメディア論』ではネットではなく既存のマスメディアについて「残念さ」に通じる内容が書かれている。

 

 

ここでいうウェブ情報、主にネット記事の「残念さ」とは例えば以下のようなものだ。2016年には「WELQ問題」や「フェイクニュース」などが大きなトピックになった。そしてネットで盛り上がるのはテレビのワイドショーと同じような芸能人の不倫だったりする。また現在では「インターネットによる双方向性」を大いに活用した「メルカリ」などのフリマアプリの問題が指摘されている(なお、僕はアプリ運営側よりも、利用者側の問題が大きいという立場だ)。

東日本大震災での「デマ」が非常時における問題だったのに対し、2016年以降に指摘されているのは平常時にそれとなく身の回りにある問題であることに注意が必要だろう。

 

 さて、前置きが長くなったけれど、「ウェブの残念さ」について書かれた本としてここで紹介するは中川淳一郎ウェブはバカと暇人のもの』だ。ページの最初をめくるとなかなか衝撃的な構成になっているが、いたって真面目な本である。

2009年4月刊行にも関わらず、冒頭から「Web 2.0ってどうなった?」と疑問を呈する。以降も、まるで未来を見てきたかのように現在に至るまでのネットの「残念さ」について記述されている。

目次小見出しを一部を紹介すると

「さんまやSMAPは、たぶんブログをやらない」

「ネットの声に頼るとロクなことにならない」

「これからも人々は大河ドラマ紅白歌合戦を見続け、「のど自慢」に出演する」

「ブログに書く理由は「タダ」だから」

といった具合だ。

 

 

 この同年に、既に紹介した津田大介Twitter社会論』で「140字のつぶやきが世界を変える」と論じられ(そして一部は確かに実現し)「前向き」に信じられてきたのだった。

しかし現在・現実は中川淳一郎氏の指摘に近いのではないか。

とりわけ、インターネットの世界で育ち、それを前向きに作り上げてきた家入一真氏(読書に関するサービス「ブクログ」の開発者でもある)が『さよならインターネット』という本を刊行するに至ったことは興味深い。

 

  

本書にあるように家入氏がインターネットにおいて「自由と可能性に満ちた世界は閉ざされつつある」「やさしかった世界は消失した」と感じるのは「ウェブ2.0以前の世界」を知っているからだろう。この本では、引きこもりだった中学生時の1992年に電話回線でパソコン通信をしていたころからのネット社会の変化が書かれている。ただし家入氏は完全にインターネットに別れを告げようというわけではない。

 ちなみに家入氏を含む1976年前後に生まれIT業界で活躍する人々は「ナナロク世代」と呼ばれる。mixiモンスターストライク運営)も、2ちゃんねるも、グリーも、DeNA(モバゲー運営)も、はてなも、この世代によるものだ。

d.hatena.ne.jp

 

なお『さよならインターネット』では、その一人である家入氏が衝撃を受けた新入社員の言葉として

「インターネットが好きというのがよくわからない。ハサミを好きって言っているみたいで」

というものが紹介されている。

 「ウェブはバカと暇人のもの」かもしれないが、「バカとハサミは使いよう」でもある。

僕もバカの一人として、ハサミをよりうまく使っていきたいものだ。 

『進撃の巨人』から『ファイアパンチ』まで~敵は「ソト」から「ウチ」そして「セカイ」へ~

社会現象になった諌山創『進撃の巨人』のマンガとしての特徴的な点はいくつもあるが、1つには「壁」の存在が挙げられる。

 

 

 作者のデビュー時の年齢は23歳で、その若さが話題になった。

壁の中で守られている人類という設定は、外部と断絶された「学校」を想起させる。ならば壁の外とは「社会」だ。

若者が社会あるいは大人(自分達を喰い物にしようとする巨人)に反旗を翻す物語の比喩として『進撃の巨人』の魅力を見出だすことは容易だ。

ところが物語は途中から様相を変える。敵は壁の中から現れる。それは巨人であったり、政治的中枢部であったりするが、敵は中の社会(ウチ)に潜んでいたのだ。

 

「敵が社会の中(ウチ)に潜んでいる」という物語設定は、他の人気マンガにも見られる。

 

例えば『亜人(あじん)』は、人間社会の中に「亜人」と呼ばれる通常の人間とは異なる(しかし人間と見分けがつかない)生命体が潜んでいるという設定だ。

  

また『東京喰種(トーキョーグール)』でも、「喰種(グール)」と呼ばれる生物が人間社会に溶け込んでいる。

 

亜人』や『東京喰種』は『進撃の巨人』ほどの社会現象にはなっていないが、3作品ともアニメ化、実写映画化がされた(またはされる予定)ので、人気作品と言って良いだろう。

 

 さらに『ファイアパンチ』も、主人公など一部の人間が「祝福」と呼ばれる超能力を持っている。

 

 これら4作品には、別の共通点もある。

それは主人公自身が「本人の意図することなく」、巨人になり、亜人であり、喰種になり、祝福者である点だ。

そのためそれぞれの主人公は、社会の異物として物語に存在しながらも、同じ異物である巨人、亜人、喰種、祝福者と戦うことになる。

この「異物」を「少数派」と見れば、ヘイトスピーチLGBTといった「マイノリティ」に関わる社会問題との関連を見出だすこともできるかもしれない。マイノリティは、自分ではどうにもできない事情により少数の側に立たされている人たちだ。

これらの作品の主人公たちもマイノリティの側に立っていると言えるだろう。

 

そういった共通項を持つ物語群の中で、『東京喰種』は、その続編『東京喰種:re』において、物語の重要なファクターである「隻眼の王」が明らかになると大きな反転を見せ、その敵は再びソト、それも「セカイ」に向けられることになる。

「人間と喰種が憎み合い争うセカイ」が『東京喰種:re』の新たな敵だ。

 (ここでいう「セカイ」は、『新世紀エヴァンゲリオン』に代表される「セカイ系」とは異なる)

 

 

「セカイ」との闘いは、「氷の魔女」に支配されたセカイを舞台とする『ファイアパンチ』においても強烈に描かれている。

また『進撃の巨人』も、21~22巻にかけて、その物語が大きな反転を見せ、敵は再び壁の外、それもこれまでとは異なる大きな「セカイ」に設定されることになった。

 

これらの共通して見られるように思える物語転換にも、社会状況が何かしらの影響を与えているのだろうか。

※『ファイアパンチ』においては「セカイが敵」なのは初期設定であり、転換ではない。

※『進撃の巨人』が当初から壁の外を目指していたこと、『東京喰種』が初期に「人間と喰種との融和」に触れていたことから、原点回帰とみることもできるだろう。

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