3か月前のツゴウノイイ夢についての走り書き
書かねばならぬ、今朝の夢のことを。中二病的な発想から逃れるために。または、いまだにくすぶっている感情に決着をつけるために。
夢を言語化するという作業は実に難しい。夢という非構造的なものに言語という構造を与えるから。言語的に掬える部分だけは何年も先に残すことができる。ここで書こうとしているのは甘酸っぱい雰囲気。ただツゴウノイイ夢。
「ツゴウノイイ」とは何だろうか?思うにそれは、あちらがスッパリと諦めてくれる浮気のことではないだろうか。
浮気自体もあちら側の主導で、浮気関係の解消もあちら側の自由意思で。こちらが誰かを主体的に裏切るということなしに甘い汁だけをすするという構図。責任が転嫁できること。しかも相手は追いすがってきたり、脅迫したりしないのだ。自らの意思で。潔いはツゴウノイイの一つの条件である。
ここでは彼女(三人称)のことをAと呼ぼう。
今朝の夢は、まさにAに対してツゴウノイイ関係をせまりうるシチュエーションだった。つまり「うる」というのがミソで、あくまで「そういう雰囲気にたまたま放り込まれた」という言い訳が幾重にも可能な環境が急に差し出されたのだ。夢とはそういうツゴウノイイもので、ツゴウノイイ展開だからこそ、そこに強い誘惑が発生する。これは一般論としての言い訳ではあるが、ある特定の場面でも言い訳として用いようという意図はない。*1
さて、あのどう転んでも許されそうな雰囲気の中で、Aはかたくなに流されなかった。Aがこちら側に突きつけた条件はツゴウノイイの真反対であり、「浮気」の補集合としかいいようのないことであった、と思う。ここを含めて文章がふんわりしているのは、夢をムリヤリ言語化しているからである。
「付き合う直前が一番幸せ」とはよく聞く話だが、それはあらゆるツゴウノイイ展開に転がり「うる」からではないだろうか?
仮固定。「王子様と幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」の前借り。これから誰かと交際しようという者は、その関係が破綻することなど予測すらせずに付き合うのだ。その能天気さがなければアカの他人と交際しようという狂った行動には走れまい。
結局、ツゴウノイイ夢を言語化することはできない。言語化できないものは実現することができない。
*1:また、本稿には特定の個人を擁護する意図があるわけではないことを念のためお断りしておかねばらない。
出しそびれたファンレター ~村山由佳『ミルク・アンド・ハニー』
2つの覚書【ホワルバ再考#3】
せっかくWHITEL ALBUM2 EXTENDED EDITIONを買ったというのに、「はじめから」のボタンすら押せていない。もう半年以上経っている。
今回はとりあえず思いついた2点について忘れないように書き残しておく。
1 冬馬かずさは「WHITE ALBUM」を歌わない
「WHITE ALBUM2 ORIGINAL SOUNDTRACK~kazusa~」を聴き返していて、実際に「WHITE ALBUM」をかずさが歌うことはないと感じた。最初に聴いた時もまったく同じ感想を持った。
「二人会えなくても平気だなんて」なんてかずさは絶対に言えない。
歌声・声色はディレクションの結果であり、このアルバムは、強がりを言えないという制作側の解釈を明確にする。
2 気になった文の引用
非人称化されること、あるいは、ディオニュソス的八つ裂きによって或るひとつの個体性がシャープに研がれるのであれば、分身的な自他関係をぎりぎりまで近接させながら、それでも懸隔維持する「同性愛」や「近親相姦」の共同性がありうる(…)。
千葉雅也『動きすぎてはいけない』280頁(2017年)河出書房新社
私は、3人の関係は性愛的に先鋭化したために破綻したと考えた。それゆえに疑似家族的な関係に希望を見出し、見出したまま思考を放棄した。
上の一文を読んで、かつての問題意識を思い出した。直感を忘れないために残しておく。
最近つけ始めた日記の序文
今日において日記とは、決して読まれたくないものであると同時に、いつかは誰かの目に触れることを期待して書かれるものである。
誰かに読んでほしい内容であれば、ツイッターやブログ等で公開すればよい。逆に、誰にも読まれたくないのであれば、そもそも書かなければよい。
それでも書きたい=読んでもらいたい時は、自らのパーソナリティに紐づかない形で――要は匿名でブログに書けばよい。ネット上で公開しないにしても、電子データだけであれば処理のコストないしリスクはぐんと低くなる。親族が「機械に強くない」のであればなおよい。
ところが、日記は紙媒体として残る。そこには書き手が紙媒体を選択した意図を見ることができる。
つまり、書き手は日記を紙媒体として残す。書き手が意図的に残した文章であるという点で、日記は遺書と同じように機能する。
あるいはこのように言い換えることができる。
日記とは、日々更新する暫定的な遺書である。
以上はあくまで日記についての一般論である。「日記」という体裁をとっている限り本紙にもあてはまる。
しかしそれは、本紙が私の遺書そのものであることは意味しない。
本当に遺書をしたためる必要があれば、そのままズバリ「遺書」というタイトルと内容にするだろう。少なくとも今は、遺書を用意する積極的な理由をまったく見出せない。
結局、本稿の趣旨は生半可な覚悟で人の日記を盗み見てはいけないという牽制の一点にある。
<一部を加筆・修正>
ソクラテスかプラトンか、はたまた届木ウカ
唐突だが、私は月ノ美兎委員長が大好きだ。
いままで見たことのある「バーチャルYouTuber」の中でも、一人でしゃべり続けることが格段に上手い。それに加え、話すだけで面白いエピソードに事欠かない。「過去の切り売り」*1はラジオ系媒体ではありふれた手法であるが、委員長の語り口と相まって、何物にも代えがたいコンテンツとなっている。
また、漫画やアニメについての嗜好に同世代的な親近感を覚える(彼女は「16歳の女子高生」のはずなのに!)。委員長のMAD動画にやたらと懐かしいノリが多く、本人もまんざらでもなさそうなところが個人的にとても嬉しい*2。
そして、半ばアクシデント的に垣間見える素の女の子らしさに、ドキッとする。みとらじ第2回放送での私服お披露目と彼ピッピ“呼ばわり”は、<月ノ美兎>というキャラクターの極致であった。詩子お姉さんとのコラボも、シチュエーションを含め非常に面白い企画だった。一方で、放送終了間際の、始めたばかりの一人暮らしの寂しさを吐露した場面では、彼女が自分と地続きに生きてるように感じた。計算しつくされた<月ノ美兎>ではない月ノ美兎が時折現れてしまうライブ感が、彼女に対してガチ恋一歩手前の感情を持っている一番大きな理由である。
バーチャルYouTuberを特集した『ユリイカ』7月号を買ったのは、ひとえに委員長の漫画と文章が読みたかったからである。なお、巻頭の随筆(?)を読むまでこの雑誌が何の・どのような雑誌だったかを都合よく忘れていたことは秘密である。
4コマ漫画は期待以上の内容だった。また、届木ウカとの対談*3では、届木の強い思想性との対比で委員長のエンタメ志向が浮き彫りになっており、実に彼女らしいと思った。せっかくであれば委員長単独の文章も読みたかったが、彼女の本領は動画でこそ発揮されるであろうから今後の配信に期待したい。
さて、その「届木の強い思想性」である。
一読した限り、届木のエッセイは特集の白眉であった。<届木ウカ>が何者であり、どこを目指しているかが、たった4ページの中に極めて理知的に凝縮されている。
たとえば、外野の「現実を見ろ」といった嘲笑に対して、届木は「<主体としての体験>が欠落している」と指摘したうえで以下のように毅然と言い放つ。
だからこそ自分は「VRアバター=真の魂の交歓」であると表明せねばならない。外見や種族や生まれなどの神や両親から背負わされた咎を脱ぎ捨てて、自ら「自己」をデザインした身体をボディトラッキングやリップシンクによって体と完全同期した僕達は、生まれた時に他人から背負わされた肉の檻をまとって生きる人間よりも、魂としてのノイズが少なく純度の高い「本物(リアル)」に近いことになる。それこそ「イデアの自分」なのだから(略)。
届木ウカ “個人バーチャルYouTuberという「自身のイデア」”、『ユリイカ』平成30年7月号、62~63頁
届木の文章は「バーチャルYouTuber」論を超えて、存在論や現代社会の多様性問題までも射程に入れる。そもそも、同誌で何度も触れられているとおり、「バーチャルYouTuber」とは便宜的なカテゴリ、記号にすぎない。カテゴライズすることによって零れ落ちてしまうことがあまりにも多すぎる。届木のイデア論はその最たるものだと感じた。
様々な「バーチャルYouTuber」がYouTubeの枠を超えた活動を目指していると聞くが、届木の活躍についてはより一層注目していきたい。
最後にどうでもいいことだが、私の一番好きなバーチャルYouTuberはダークエルフのケリン。小学生のころに読んでいたコロコロコミックみたいにおもしろくて好き。
ひと月前の読書メモと注釈
再読の喜びは同じ本で何度も違う味が楽しめることにある。その意味で、奈須きのこ『空の境界』ほど再読に適した作品を私は知らない。
そもそも、あの本を一周目で「読んだ」と言えるほど理解できる人間がこの世にどれほどいるのだ。人物像も世界観も時系列も、ほとんどを意図的に隠匿した「俯瞰風景」を一読して、何がわかるというのだ。本作はまさに周回を前提としたものといえる。
また、奈須の晦渋な表現もそれに拍車をかける。当然のように出てくる衒学的な専門用語と、入れ乱れる独自用語の数々。それは知識の有無以上に「きのこ節」に対する慣れの問題として私に立ちはだかる。私はまずそれらを装飾と割り切ってページをめくる。慣れてくるとそれらの中にまぎれた装飾を装飾として意図的に排してページをめくる。最終的にはその用語が装飾としてそこにあることの意図に「気づかされる」*1。奈須自身がどこまで博識で、どこまでが奈須の意図なのかはわからない。しかし、読者である私は「博識」であることを、奈須の無意識の意図を読み取ることまでをも要求される。
前述のようなメタな読みとは別に、私は物語世界へと没入する。なんの留保もなく一人称が式へ変わり幹也に戻り、はては第三者へと視点が移動する。ここは前述の慣れが必要な部分であるが、そこを超えた先にあるのは自分が何者にも感情移入しないまま物語世界へと没入するという感覚である*2。
そのようなこともあり、私はこの世界の外縁を物語外で上手く思い描くことができない。もちろん、「殺人考察(後)」後の、幹也と式の「『未来福音』へと続くその後」を想像する余地は十分にありうる(本作のエンディングとは、まさにそういった可能性へ開かれるということである)。しかし、私が漠然と『空の境界』を思い描く際の時系列はそこではない。正直に言えば、どの章が該当するかを具体的に言うことができない。そうであるがゆえに、私には奈須が書いた原典を読み返すこと以外に本作の世界を堪能する術がないのだ*3。
君の意思をたべたい【ホワルバ再考 #2】
懐かしいと思った。
人との関わりを厭う主人公と、余命幾ばくもない、明るく積極的なヒロイン。主人公を連れまわすヒロインに、やれやれと付き合う主人公。ノベルゲーにはまっていたゼロ年代の終わりを思い出す。あるいは、一番多感だった中学生のころに読んだ三田誠広『いちご同盟』*1。いずれにせよ、住野よる『君の膵臓をたべたい』に対する感想は、冒頭の一言に帰着する。端的にこういう物語は大好物だ。
私を「WHITE ALBUM2 ~introductory chapter~」の絶望から救った「シスター・プリンセス」(アニメ版1期)から、乱暴に要約すれば以下のような希望を見出せる。
いつかは終わりが来ることがわかりきっている。それでもなお、我々はこの関係に留まり続ける。故に我々は幸福である
私はこの希望を何年も温めてきたが、最近になって疑問が生じてきていた。すなわち、「『それでもなお』に現れる私の(自由)意思というものは本当に存在するのか」と。國分功一郎『中動態の世界』に出てくる、自由意志をめぐるアレントについての議論は、その疑問をさらに深めた。残念ながら、『中動態~』の精読が進んでいないこともあり、これについての結論はまだ出せていない。
さて、強引を承知で言えば、『君の膵臓~』はシスプリのような物語である。ちょうど、島を出るまで12人の妹たちと「兄妹」*2であることを航が選んだように、彼らはヒロインが死ぬまでのあいだ、「友達」とも「恋人」とも呼べない「曖昧な」*3関係性を最後まで続けることになる。そんな彼らの出会いを、主人公は偶然だったと口にする。それに対してヒロインは反論する。
「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」
――そうであれば、3人の出会いは3人の意思だったのか。春希が「WHITE ALBUM」を最後の曲に選んだことも、かずさがそれに合わせることを選んだことも、雪菜があの日あの時間に屋上へ足を運ぶことを選んだことも。3人の出会いが3人の意思であったならば、3人は3人のままに留まることができたのではないか。
そんな淡い期待を粉砕する論理はいくらでも存在していて、それらへの反駁を全て準備できているわけではない。それでもなお自説に拘泥してしまうのは、『君の膵臓~』のように、限定的なシチュエーション(限界事例といってもいい)では「曖昧な」関係性が成立しうるからだ。そして、私は「3人が3人に留まるべきだった」と言いたいわけではなく、「3人に留まることを選択し得た」可能性に希望を見出している。言い換えれば、その選択肢が存在し得なかったことに私の、WA2icの絶望はある。