晴耕雨読

晴耕雨読

忘れてしまうから残す

0428 27歳になっても泣いている

急に色んな不安に襲われて泣いている。今後の生活のこと、仕事のこと、お金のこと、未来のこと、結婚のこと、子供のこと、友人のこと。そして家族のこと、母のこと、父のこと、祖母のこと、祖父のこと。そのどれも、そのどれもなにひとつ上手くやれていない気がして、でもこの世を自ら離れる勇気もなく、しばらくすれば勝手に来るだろう眠気に負けて寝て起きればまたなんとかかんとかで日々を過ごしていくだけで。生きるのが辛いとか辛くないとか、もうそういうのではない気がする。辛いとしてもそれでも生きていくしかないのだと、自分に関わる全ての人を不幸にしている気がするけれどそれでもだってもう生きているんだからやっていくしかないんだよという気持ちで日々をやりくりしているような気が、今はしている。自分以外の全員、うまくやっていって幸せで元気でいてほしいよという気持ちをつよく、つよくつよく、握りしめながら。




12月末に急に働けなくなった。ベットから動けなくなるとはよく聞くものだけれど、そんな、そんなまさか、体が硬直する訳でもなかろうに、とむしろ馬鹿にしてしまっていたくらいにもそう思っていたのに、まさかだった。無理だった。もうなにもかもが無理で、誰とも話したくなくて、それなのにまだ「でもぜんぜん大丈夫なんですよ」とへらりと笑って言いたかった。誰にも話せない、そう思った。そう思ったし、そうなってしまった経緯や今現在の自分の状況を話すことなんて無論、ひとつたりとも誰にもできなかった。

でも振り返ればいつもそうだった。周期はばらばらでも、いつもいつもそうなっては全てを諦め、人生がピタリとその時点で急ブレーキをかけて止まって。でも少しすればまたへらりへらり、と笑える日がやってきて、ああ大丈夫、まだやれる、まだやっていける、と前向きになってどこへでも走っていこうとして。でも、少しするとすぐ、何かにつまづいて、転んで、まだ散歩したいんだと駄々をこねる犬のようにそこからドシンと動けなくなって。




27歳になったこんな夜だからなんなのか、ぽろぽろと涙はまだまだ止まらない。泣きたいのはこっちだよ、と、そう言われてもおかしくないほどに、またぽろりぽろりと涙が流れては枕を濡らしていく。窓の外はもう少しだけ青い。その光を視界の中で感じながら、新しく仕事を始めますという母からのメッセージを読み返してはまたつよくつよく、きっとうまくいきますようにとつよく、願ったりしている。

1215 今年はどんな年でしたか

なんにもできなくなる期間が時々ある。なんにもできない、と、なんでもできる、をいつも交互に繰り返しているような気がする。どう自分で上手くコントロールしようとしても、どう自分で自分の機嫌を取ろうとしても、どうしてもなんにもかんにもできなくなるタイミングがあって、でもそのうちなんでもできるようになる瞬間ももちろんいつも訪れて。なんなんだろうな、これ。みんなあんのかな。でもただモチベーションの上がり下がりがひどすぎるだけなんだよなあきっと、と思いながら、そう騙し騙ししながらなんとかのらりくらり、死なない程度にのらりくらり交わしながら過ごしていたらそのうち12月になっていてもう今年もやはり終わるらしい。たぶん1年の4分の1くらいは上手く空気が吸えない日々を過ごしていた……、そんな気もするのだけれどちまちまなんだかんだ更新していたインスタを見ている限りでは楽しそうに1年を謳歌しているらしい自分もいて、なんだかよく分からない。鎌倉探索をし、スカイツリーにも初めて登り、大阪にも何度か帰り、ラーメンをたくさん食べ、IKEAに行ったりバーベキューをしたり、また鎌倉に行って、猫カフェにも行ったりして、2回目の野毛飲みや、夏のスイカ、夏の祭り、夏の大人数旅行、タコスパティー






今年はどんな年だったのだろうか。楽しい年だったのだろうか。でもきっとずっとそれだけじゃなかった。でも上手く書ける気もしなくて、今はまだ、書きたい気もあんまりしない。ベットに沈んだまま、それこそズンと沈んだ気持ちで書こうとするとマイナスなことばかり浮かんでよくなさそうな気もする。




みんなはどんな1年でしたか?ついこの間忘年会という名の集まりをしたけれどそういえばそんな話にはならなかったなと思い返す。でもそういえばちょっと風が強かったけれどピクニックを一瞬だけでも一緒にしてくれた友人とは「今年はどんな年だった?」「今年の漢字は?」とかって話したんだっけ。あの時の自分はそれに、なんて答えたんだったろうか。気持ちが何故かいつも以上にふわふわと浮ついていた、そればかりが思い出されて上手く思い出せなくて、あー、めちゃくちゃ好きな時間だったのに。やっぱりあの時間の会話を録音でもして誰かに書き起こしてもらうんだったな、とか訳の分からないことをまた思ったりする。どこかのだれかとまた今年1年の振り返りを、海辺にでもどこか落ち着けるところに行って「寒いね」なんて時々言いながら、カイロをポケットの中で転がしながら、話したい気も、なんとなくするな。今年はどんな年でしたか。

0925 みんなどうせ結婚していくんだろ

ヴィレヴァンで働いていた時は決まった時間に休憩を取っていた。朝にワーキングスケジュール、ワースケをつくり、「休」の字を丸で囲んだ決められた1時間が休憩時間だった。今の飲食店は暇や手隙になったら休憩を回す、というやり方で、土日は特に、休憩できるかどうか、回せるかどうかをハラハラバタバタドキドキジタバタ、としながらなんとかやっていく。今日は15時に休憩をもらうことができた。そのふう、と近くの公園のベンチに座って一息ついた時、近づいてきたきれいなお姉さんに絶妙な視線を向けられ、なんだ?と思いながらも微笑み返したら後々思い返してみるとさっき店に来ていたお客さんだったことに気付き、反省。忙しいと目の前のことをこなすことに精一杯で、お客さんの顔を見ているようで見ていなかったりする。惜しいことをした。「あー!さっき店に来てくれましたよね」なんてにこやかに言えれば常連になってくれたりしたかもしれないのに。あのお姉さんの立場になって考えても、なんか若干でもモヤついてしまうな、と、ため息をその時はハァ、とついた。





今年で26歳になった。周りの友人ももちろんそれだけ歳をとっていく。歳をとって、どんどん次々に結婚していく。しまいには子供を産んでもう2歳だ3歳だなんだ、とインスタのストーリーにあげている人も全然、むしろたくさん居るように感じられて、とはいえ別にだからと言って自分はどうして……だなんて今まで実はあんまり思ってこなかった。彼女たちには彼女たちの人生、生き方、暮らし方、未来があり、わたしにはわたしのそれらがあるだけだし、むしろ「結婚向いてないからわたしはもうしないかもなあ」なんて思っていたりなんかもしていたくらいで。猫買おうかな、なんて前回か前々回かにブログを書いたばっかりでもあるし。




それが何故か、今、自分の近くにいて時々遊んだりしているまだ結婚していない友人たちが続々と結婚していくことを考えたら、急に、どんより落ち込んでしまっていて。これは落ち込んでいるのか?え、なんで落ち込むんだ、と考えてみたら、落ち込むというよりも、どうやら、“寂しい”、という感情らしかった。その「寂しいかも」という話をしたのがほんとうに昨日のことなのだが、2日間も引きずっている。みんなどうせどんどこ結婚していくんだろ、とやさぐれてさえもいる。この、変な “寂しさ” 。最近、「酒ってさ、百害あって一利なしやで、ほんまに」と言われたが、むしろ寂しいという感情こそ百害あって一利なしだと思ったりする、この妙な、そして嫌な “寂しさ”。でも確かに、結婚をせずして誰かとずっとこの先も一緒にいる、というのは圧倒的に不可能だろう?という話、なだけなのかもしれない。たとえいつまでも友人関係で居られたとしても、それはもう、学生だったあの頃、マクドやファミレスでひたすらだべるだけだった純粋なあの時間、あの瞬間に到底なりはしない。わたしもわたしで「結婚してるんだし」「子供いるんだし」と早めに帰るように促す気遣いを意識的にも無意識的にもしてしまうことだろう。




友情はいつだって恋愛には勝てない。恋愛にはないなにかが友情にあることはあるだろうけれど、結局総数で見ると絶対的になにも勝てしやない、なにも勝るものがない。いつだって後回しで、恋だ愛だ好きだ愛してるなんかより優先されることはきっとない、そういうもの。だってただの情だから。ただの情が、 愛なんかに勝るわけがない。情だけで誰かを繋ぎ止め続けたいと思うのはきっとそれは傲慢で、それはたぶん、大人じゃないし。結婚だけが人生のゴールではないこともよくよく分かっているしそういう時代の風潮だってあるけれど、でもだからといって此方側の人間がわざわざ結婚していく人達のことを虫けらを見るような目で見たり蔑んだりできる訳では到底ないし。同じ世界で生きているから、どうにか折り合いをつけなければいけない、そういうものだ。知っている。そういうものだとわたしだって知っている、もう26歳だ、知ってるに決まってる。それでも何故か、何故か無性にどうにかこの友情が、この情だけが末永く続いてくれるだけでいいのに、と。何も変わらないままで居られないこともわかっているけど、それでも何も変わらないままで居たいんだよな、と矛盾にも、そして強欲にも、そう思ってしまう。





みんなどうせいつかは結婚していく。どうせいつか結婚して、子供を産んで、その子供もすごい速度で成長していったりする。いつのまにか学生時代にある程度の勝手なイメージを膨らませていた20代後半、30代、そして40代になり、そしてそんな淡く幼い学生時代とは全く別物の世界を形成していく。わたしはその時なにをしているだろうか。彼ら彼女らの結婚を心より祝福し、涙し、家で待つ愛猫のためにコンビニで颯爽とビールを買って帰る、そんな日々を、無事に、なんてことのないように淡々と送ってくれていればいいけれど。わたしには未だに、自分がどこぞの誰かと結婚をしてそういう生活をする未来が、どうにも見えそうもない。もしや見えないから、寂しい、のだろうか?でもそんな寂しさなら、わたしは要らないのに。

0824 鳥肌が波打つ

かなり久しぶりに本屋に行った。欲しかった本を探して向かったのは横浜そごうの紀伊国屋書店で、グルグルとほとんどのコーナーを見て回る。新書、文庫、雑誌、カルチャー本、啓発本、政治、IT系、哲学書、資格本、医学書、絵本、児童書。気分的に読みたい気持ちが浮かんだ本を手に取っては数ページ眺めて戻したり、目次を見てちょっと気になるページを読んでみたり、おそらく何日も誰にも見つけられていなかったのだろう奥に面出しされているにもかかわらずホコリを被った本を手に取っては右手で表紙をさすってやる。買いたかった本、鉄塔さんこと賽助先生の最新刊『今日もぼっちです。2』は無事に見つけた。でもその第1巻がその棚のどこにもなくて、検索機で調べてみても在庫は1巻だけ“なし”になっていた。残念。重版が決まったってTwitter(Xだけど)で見たけどまだ入荷してないのかあ、1をまず読みたいけどなー、の気持ちでとりあえず2の最初の数ページを読んでみたらでも鉄塔さんに似つかわしくない“ナンパ”がどうとか、と書いてあって初手で心を掴まれたのでワハ、と笑って買う。帰りにあと1周するか、と回っている間にアセクシャルについての本が目に付いた。相変わらず自分がそれと呼べるものなのかどうかの踏ん切りはずっとつかないままで、その本に書かれていることもネットで調べられるものとさほど変わったことは書かれておらず、ふう、と何も無い宙を一瞬見つめて息を吐く。まあなんでもいいんだけど、でもなあ、と横で別の本を熟読するおじさんを横目にその本をそっと戻し、それでもうなにか満足したのかわたしは本屋をすぐ、後にした。左手に最近つけている時計を見ると5時とか6時とか。だいたい2時間くらい居たようだった。外はまだ明るい。

その後、適当に入った喫茶店でだらだら本を読んでいたら19時で空もどこも真っ暗になっていて、それはそれでまだ夏なのか、と思う。鳥肌が波打つ、泰然と屹立する、憤懣やるかたない、烏羽色の瞳とジャンパー線のような睫毛……賽助先生の『君と夏が、鉄塔の上』に出てくる妙な語彙をノートにメモしながら、鉄塔さん、こんな爽やかそうな少年の恋の物語なのにやけに難しい言葉を使うもんだ、と、それこそ鳥肌を波打たせながらわたしはまたワハ、と笑った。外に出るとむわり、と熱気がまとわりついてきて、夏はまだ終わらないんだなあ、と、また思う。9月はもう、すぐそこだ。

0811 月が綺麗

猫と暮らすこと、本気で考えようかなあ。そうなんとなく決めて口に出したりしてみたらなんとなく今までよりうっかり生きやすくなった気がして、「あ、未来があるってこういうこと?これだけ?」と呆気にとられているここ最近。今住んでる部屋があっという間にあと1年で2年の契約縛りを終えるので、それと同時に猫と暮らせたらいいなとただ、ただなんにも考え無しに思いついてぼんやりいいなあと思っているだけだったのに。それでも、ずっと今までモヤがかかったままだった見えない未来にぽん、と猫が浮かんでいるのが見える気がして、なぜかそれだけで自分の進むべき道が見えたかのような錯覚に陥っているので自分が簡単で安直な人間なだけなのか、実は人生なんてそんなもんなのかなんなのか。だって、未来なんて正直どうでもいいと思っていた。今を生きるのでずっとずっと精一杯で、それは死にたいと他力本願にでも願っていたあの日々をいつまでも引き摺っているだけのなんの生産性も産まない思考回路から来るもの。人間なんていつか死ぬ。今日明日明後日を生きるので精一杯なんだから未来なんてずっともっとどうだっていいと26年間、口にはあまり出してこなかったけど心の中にはずっとあった。だけど、たったこれだけで心が軽くなるような気がするなら、なんだ、今までの自分って全員馬鹿みたいじゃん、と自分で自分を笑ってしまうではないか。誰かもっと早く言ってくれたらよかったのに。でも上手い生き方なんて誰も教えてくれないんだよな。教えられても実践できなきゃ教えられたって言わないし。


岩見拓馬の『月が綺麗』をYouTubeで聴く。8月10日でちょうど30歳になった友人が「これいい曲なんだけどさ」とぼそり、と話していた曲だ。良すぎてなんだかちょっと笑ってしまう。いい歌を歌うならいい歌を見つけ出すのも上手いのか、なんて独り言を頭の中に浮かべていると心地いいギターのイントロが終わって歌が聴こえてくる。『いい気分で 線路沿い歩いて』の歌詞。ふ、と深夜1時にアイスを買いに行ったその日の夜が思い起こされて、4人の1番前を歩きながらわたしはそういえば空をぼんやり見上げていたな、と思い返す。でも、その日の夜の空に月はいなかった。そういう夜もあるんだよなーちょっと寂しいけど、なんて思いながらわたしはチョコモナカジャンボを買ったんだったっけ。30歳おめでとうね。いい30代になりますように。みんなでぼちぼちやってこ。わたしも猫を飼うまでは死ねないかもなあ。