おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「なにもしてないのに偉そうに言うな!」というアクティヴィズム・マウントについて

 「そのように批判してばかりいるあなたは実際になにをやったんですか? 現場をしらないあなたになにがわかるんですか?」── 書き言葉や話し言葉による言説によって批判ばかりしているひとにはその論法はおなじみとなっている。「おまえは批判ばかりしてなにも行動していない!実際なにをやったのか?」と。

 わたしはそのような論法はエイブリズムであり、ある種の功績主義(優生思想)に加担していると思っている。あしきアクティビズムである。実際に行動して「功績」を認められているひとには発言の権利があり、そうではないひとにはその発言権の資格がない(なにもしてないのに偉そうに言うな!)。このような「橋下論法」に与するひとたちは暗にそう言っているのにひとしい。

 

 ヘンリー・シューの『基本権』(法政大学出版局,2023年)に「道徳的分業」という概念がある。生存権のような基本権はすべてのひとに保証されているが、その権利を実現化するための相関的義務(道徳的義務)はひとそれぞれの置かれた境遇によって割り当てられる。これをシューは「道徳的分業」とよんでいる。ほぼノブレス・オブリージュにちかい規範倫理である。

 ひとそれぞれに生きていくための条件は平等ではない。この根源的不平等を是正しなければ恵まれているひとはさらに富み、恵まれていないひとはさらに貧しくなる。だから、アクティビズムにもその条件は反映される。日々の生活に困窮しているひとにデモ活動を要求することはできない。一方、生活に余裕のあるひとたちはその余裕をアクティビズムに費やすことは可能である。この差を公平や公正の観点から考慮するならば、すべてのひとにアクティビズムを要求するのは不公正であろう。

 ならばなぜ「おまえは批判ばかりしてなにも行動していない!」などと言えるのだろう? 傲慢ではないか? そういって憚らないひとたちは、さぞかしアクティブになにかを実践しているのだろう。そのような活動ができない余裕のないほとんどのマジョリティは毎日毎日、生活していくために「奴隷労働」をせねばならないのである。そのような労働者(底辺生活者)にたいする想像力はあるのだろうか?

 もし、自分が実践しているアクティビズムを誇りたいのならこう考えてみてはどうだろう。ほんらい、アクティビズムとは活動したくてもできないひとのぶんを代弁するためにこそあるのであると。社会運動とはそもそもそういうものであったはずだ。