ビデオゲームとイリンクスのほとり

ブログになる前の軽い話は以下で話してます。■Discord : https://discord.gg/82T3DXpTZK 『ビデオゲームで語る』 ■映画の感想は『映画と映像とテキストと』というブログに書いてます。https://turque-moviereview.hatenablog.com/ ■Twitter ID: @turqu_boardgame

映画などの感想についてはこちら『映画と映像とテキストと』で書いています。

 

 

ゲームの「不便さが楽しい」を考える

よくゲームにおいて「不便であることが楽しい」と言われることがある。それは、どのような場面で言われるかと言うと、次のような感想に対する反論として語られる場面をよく見る。

このゲームの"この要素"が、不便で楽しくない

「この要素」という部分には様々なものが代入される。例えばよくあるものだと「荷物の重量制限」などが入るだろう*1RPGというジャンルでは、主人公が持てる荷物の重量には上限が設けられている作品がある*2。一方で、ゲームによっては、重量制限がないゲームも多い。主人公のポケットやリュックに到底入りきらない量のアイテムを入れられる作品も結構ある*3。そういう作品と比べてしまうと、「重量制限」は不便な要素と感じるだろう。

こうした感想や評価を「不便否定言説」と仮に呼ぶこととしよう(略して、否定言説)。

そして、最初に掲げた「不便が楽しい」という言説は、否定言説に対する反論として語られる。こうした感想や評価を「不便肯定言説」と呼ぶことにしよう(略して、肯定言説)。

さて、この記事で考えたいのは、何が不便で何が不便でないのか?を決めることではない。そして、肯定言説と否定言説のどちらが正しいか?を決めたいわけでもない。多くの人にとって、不便さが楽しさにつながることもあれば、不快さにつながることもあることは、そこまで不思議なことではないと思っている。。例えば、次のような発言もよく耳にする意見だろう。

不便さと言っても、要はバランスだろう。そこを適切に見極めたゲームが良いゲームなんだ

これを「不便バランス説*4」と本稿では仮に呼ぶこととする。これは「不便さが本当に楽しいのか?を巡る議論」の一つの結論ではあるだろう。かなり否定しづらい説でもある。しかし、私はこうした結論を求めてゲームの不便さや楽しさについて考えたいわけではない。もう少し別の視点を示したい。そのためにどのように考えるか。それが「条件を考える」ということだ。私たちが「不便で楽しい」と言ったり、「不便で楽しくない」と思うのは、どのような条件でそう語るのか。それを考えたい。

否定言説が生まれる条件

何を不便と思うかは、人によって異なっている。例えば、ポケモンを作る開発会社「ゲームフリーク」のホームページでは、開発者による以下のコラムで次のように言われている。

操作性で考えてみると、
やりづらいとか、不親切とか、不便などと思うことがあっても、
その価値観は個人個人で異なっていて、
誰がそう思うのかが大切だと思うんです。
本当に、オーストラリアの子供がそう思うの?という疑問。
それこそが、大切だと。

便利というのは不便があってのこと。
不便だと感じることも、デザインの1つだ。と考えます。

-----第42回 2005.6.23 増田部長のめざめるパワー

これは当たり前の話でもあるだろう*5。例えば、否定言説に対して「私はそうは思わなかった」と返答することによって、簡単に反論することができてしまう。しかしこうしたやりとりにあまり意味はない。それは「不便さは人によって異なる」という当たり前の話を別の言い方で繰り返しているだけだからだ。そこで、「人によって異なる」という話に至らないように、もう少し抽象化して否定言説が生まれる条件を考えてみたい。

否定言説が生まれるのは、その発言者によって「不便でない状態」が想定されているからだと言える。この「不便でない状態」を便利状態と呼ぶとしよう。否定言説は、便利状態の欠如をプレイヤーが感じることによって生まれる。何が不便であるかは人によって異なるかもしれないが、否定言説が生まれる場合には常にこの便利状態が想定されていることが条件と考えられる。

便利状態が一切想定されていない否定言説は考えにくい。先の「荷物の重量制限があること」を否定する発言において想定されているのは、「荷物の重量制限がない(もしくはもっと制限が緩い)」という便利で快適な状態である。

そのため、否定言説は単純な「このゲームのこの要素は面白くない」という言説とは異なる。この発言の場合、「この要素」とは異なる「別の面白くさせる要素」が想定されているとは限らないからだ。別の言い方をすると「面白さ」は端的に語ることができるが、「不便さ」はそうではない、ということだ。明確に「不便でない状態」すなわち「より便利な状態」が想定された上で発言されている。議論がこじれるのは、その便利さの価値が、発言者にとっての固有のものか、あらゆるプレイヤーにとっても当てはまる普遍的な事柄なのかが容易に判断付かない点にある。しかし本稿ではそこには踏み込まない。まずは否定言説において便利状態が想定されている点を議論の出発点としたい。

さて「便利状態が想定されている」と考えることの価値はどの点にあるか。1つには、その便利状態は何に由来するものかを考えるキッカケになる点があるだろう。例えば以下のような否定言説があったとする。

令和のゲームで、荷物の重量制限なんて、この不便さはありえない

この発言の便利状態は何に由来しているのか。これはつまり過去の不便なゲームと現在の便利になったゲームとの差異から来ている。つまり不便であることが悪い、というだけでなく、「最近のゲームであれば進化しているべきなのに進化できていない」という点に問題があると指摘している。であるのであれば、この後の議論として、単に不便かどうかだけではなく、「ゲームは、重量制限を無くす方向に進化すべきなのか?」という論点で議論を深めることも可能だろう。

2つ目には、それはあるタイプの肯定言説をしりぞけられるという点に便利状態を考える価値がある。

例えば不便さの議論においてはたびたび、次のような肯定言説が語れることがある。

0008 名無しさん必死だな 2019/01/13(日) 00:04:31.07
究極便利なのは押したら全クリになるゲーム
でもそれじゃ何も面白くない

ハード・業界板のスレッド | itest.5ch.net

こうした「極端に便利な状態」を仮定する意見。これはゲームにおける不便さを肯定する一見するともっともらしい例え話に思える。しかし、これは誰も主張してない否定言説に対する反論にしかなっていない。この発言が対抗しようとしている否定言説には適切な「便利状態」の想定がない。つまり「ボタンを1回押しただけで、全クリになって便利である」という、ほとんどあり得ない想定を前提にしてしまっている。そのため、この肯定言説は適切とは言えない(しかし全く価値がないわけではない。ここは注意すべきところ)。

例えば次のような否定言説には「2、3時間程度でクリアできる」という便利状態が想定されていると考えられる。

60時間も70時間もかけてゲームをプレイするのは辛い。忙しい中でそんなにプレイ時間を確保するのは難しい

こうした十分に想定可能な便利状態を前提にした議論であれば対話する事はできるだろう。逆に言えば、極めて想定はしにくいものの「ボタンを1回押すだけでクリアできるゲームを求めている人」が事実として大勢いるのであれば、先の「極端な発言」も価値あるものになるだろう。

いずれにしろ、「ボタン1回でクリア」や「面倒ならゲーム辞めてしまえ」のような極端な(不便)肯定言説は適切な否定言説への対抗となっていないと考える。本稿の最初の前提は「肯定言説は、否定言説への反論である」というものだった。そのため、否定言説の条件を、肯定言説も満たしている必要がある。

こうした「極端な肯定言説」は、本稿の議論から除外したいと思う。

肯定言説は何をしようとしているのか

では、次に、肯定言説は何をしようとしているかを考えよう。

それは、「その不便さによって、そのゲームの価値が(そこまで)減るわけではない。時にはむしろ上がるのだ」ということを主張しようとしている。不便さがその作品の価値を低めるという評価への対抗を行おうとしている

そして「肯定言説」には2つのタイプがあると考えられる。

「不便さの価値を認めない」タイプと「不便さの価値を認める」タイプの2つである。

・不便解消論

まず「認めないタイプ」から考えてみよう。「不便さの価値を認めない」のに、肯定言説になりうるというのは変な主張をしているように思えるだろうが、ここで私が想定しているのは次のようなやり取りである。

A「このゲームは、ムービーをスキップできなくて不便だ」

B「いや、右側のトリガーボタンと×ボタンを同時に押すことで、ムービースキップできるよ」

このBのような肯定言説は、不便さの回避手段を伝えることで、その不便さの解消が可能であることを伝えている。しかし、決してAの語る不便さを「そのゲーム作品に必要な要素」だと認めているわけではない。別にムービーをスキップできないことがその作品の価値を高める要素だとBも思っているわけではない。ゲームにおける不便さの議論において、その不便さがちゃんと解消できるものであるパターンは少なくない。これは何も操作の話だけではない。例えば次のようなドラクエでありそうなケースを考えてみよう。

A「ボスの〇〇が倒せないけど、いちいちレベル上げするのが面倒くさい」

B「そのエリアにいるなら、△△の洞くつでメタルスライムを倒しまくれば楽だよ」

このやりとりでBは、決してコツコツとレベル上げをすることが正しいと思っているわけではない。面倒であれば、簡単にレベルが上げられる方法を採ればいい。それでゲームが楽しくなるのであれば、それでよいと思っている。このBのような発言を「不便肯定言説」と呼ぶよりかは、「不便否定否定言説」と呼んだ方が適切なのかもしれないが、分かりにくくなるため、あえて「(不便)肯定言説」に入れることとしたい。

いずれにしろ、このタイプの肯定言説では不便さは解消される(べき)存在であり、その不便さは事実上問題にならないことを伝えている。つまり、それが作品の価値を低める要素にはなり得ないと主張している。そして対抗された否定言説は次のような発言につながることが考えられる。

A「だったら、最初のチュートリアルにそのスキップ方法も書いておいてくれよ」

とか

A「そういうことは、ちゃんとゲーム内にヒントとして分かるようにしておいてよ」

という発言だ。

こうした否定言説は、もはや不便な要素の否定というよりかは、便利状態の提示の仕方の問題へと議論が移っている。それはチュートリアルの問題になるだろうし、ゲームにおける学習のさせ方の適切さの話になるだろう。そのため、否定言説も肯定言説も、自然と不便さ自体の議題から離れて別の議題へと進むことになる。

またこの議論において重要なのは、話者同士の間の溝を埋める根源的な難しさが存在しない点にある。なぜなら何が良い状態であるかについて、つまり便利状態の判断において、AとBとの間で完全な合意ができる可能性が高いからだ。このような形で不便さを解消していくタイプの肯定言説を不便解消論と呼ぶことにする。

・不便価値論

では、先に挙げたもう一つのタイプを考えることにしよう。繰り返すと「不便さの価値を認める」タイプのものだ。私は、このタイプの議論が、不便さの議論において本丸だと考えている。具体的に見てみよう。

A「このゲームでは、ファストトラベル(地図からの高速移動)が好きなタイミングでできない。転送装置までいちいち移動しないとファストトラベルができない。その移動が面倒だ」

B「いや、安易にファストトラベルができず、キャラをいちいち移動させる必要があるからこそ、冒険している雰囲気を味わうことができるんだ」

Bの言説は、Aが考える不便さによる作品のマイナスの価値をプラスに変更させることを目的とする肯定言説である。Aはファストトラベルの使いづらさを否定的に捉えているが、Bはそれを肯定的に価値あるものとして捉えている。このような議論を、不便解消論と区別するために、不便価値論と呼ぶことにしよう。

そして、不便価値論には二つの方法があると考える。1つ目が不便さがもたらす別の肯定的な価値を1つ1つ加算的に積み上げていくことで、マイナスが補償されるという考え方。これを補償説*6と呼ぼう。

そしてもう1つが、その不便さこそがむしろ良い価値となりうるのだという考え方。これは、マイナスである不便さにマイナスを掛けることで、劇的にその不便さの価値をプラスに転倒させようとする。これを補償説と区別するために、転倒説と呼ぼう。

議論がやや混み入ってきたので、ここでこれまで登場させた用語を整理した図を付けたい。以下のような布置で私は考えている

f:id:tuquoi:20240503110331j:image

・補償説

まず補償説から考えよう。補償説は、不便な要素によって、他のより良い価値が生まれることを示し、作品全体としてマイナスからプラスに価値を変えていく考え方だ。重要なのは、補償説は不便さをネガティブな要素として認める点にある。先の会話例で言えば、ファストトラベルが好きなタイミングでできないことは確かにマイナス要素だとBも認める。しかし、その要素によって、別の良い面が生み出さているとBは考える。例であれば「冒険している雰囲気が味わえる」という肯定的な価値が生じていると主張する。「冒険の雰囲気」以外に別の種類の肯定的な価値が語られる場合もあるだろう*7

いずれにしろ、補償説は不便さをネガティブに捉えながらも、それ以外にもたらされる別の肯定的な価値を提示することで、マイナスが補償され、最終的にはプラスの価値がもたらされていると示す*8。補償説であることを明示的に表現するとすれば、Bの発言は次のように言い直すことができる

【補償説】

B「確かに、任意にファストトラベルできないのは不便で面倒だよね。でも、そのことによって、冒険しているんだ!という冒険の雰囲気や味わいを感じ取れるから、利点も多い。総合的に見て、その不便さは我慢する価値があるよ」

さて、この補償説においては、議論の争点はどこになるだろうか。1つは定量化することについてだろう。不便さが一体どの程度の不便さだとみなすのか。これは否定言説の難しさでもあるが、肯定言説として補償説を取る場合には、より明確に問題化する。補償説で、別の肯定的な価値を引っ張り出すとしても、それがどの程度の価値であるかを不便さと比較できる程度には定量的に示す必要がある。そうでなければ、不便さのマイナスを補償するという議論に進む事は難しいからだ。

例えば、不便さが-20点で、冒険の雰囲気向上が+30点だとして、この不便さには差し引き10点の価値があると補償説によって主張するとしよう。しかし、そこで言われる「-20点」や「+30点」という定量化(点数付け)自体が妥当であるかどうかの判断には、多くの議論が必要になる。これが1つ目の争点である。

2つ目の争点が、別々の要素をそもそも比較したり、総合したりすることができるのか?という問題である。先の例の通り、不便さが-20点、冒険の雰囲気が+30点であることについて、話者の間で合意できているとしよう。しかし、果たして単純にそれを足し合わせて+10点として評価していいのかどうかは、また別の議論が必要になる。例えば不便さが-15点を超えてしまったら、多くの人がゲームをやめてしまうのだとしたら、いくら+30点という肯定的な価値が後々もたらされるとしても、その良さを味わう前に多くの人がゲームをやめてしまう。そうなっては意味がない(=単純に足し合わせることはできない)と考えることもできるだろう。この異なる価値をどのようにして総合的に評価するかというのが、2つ目の争点である。

・転倒説

もう一つの転倒説について考えてみよう。補償説と同じファストトラベルが議題だとしよう。しかし転倒説において、Bは不便さをマイナスの価値として認めない。これが補償説との違いである。「不便であること自体が、その作品の意義ある(プラスの価値を持つ)表現なのだ」と主張する。一見すると不便さはマイナス要素に見えるかもしれないが、これはマイナスなのではなく、むしろプラス要素なのだと語る。

一見無理筋に見えるが、こうした主張は少なくない。というか、「不便が楽しい」の最もホットな主張の多くはこの転倒説だろうと考える。例えば『あつまれ どうぶつの森(あつ森)』(2020)では、自分の家に配置する家具などを自分で作成(クラフト)することができるのだが、そのクラフト要素の操作性については、非常に不便であるとの意見が多かった(私も結構そう思った)。しかし中には次のような意見もある。

どうぶつの森シリーズって不便さや思い通りにならない方が面白くないですか? あつ森は便利すぎると思いました。

ーーーーどうぶつの森シリーズって不便さや思い通りにならない方が面白くないで... - Yahoo!知恵袋

ここまで覚悟の決まった肯定言説は決して多いわけではないが、「スローライフなんだから不便さに文句を言うのは違う」という意見は少なくない。上記を踏まえて、先のファストトラベルに対するBの発言を転倒説として明確にすると、次のように言い直すことができる。

【転倒説】

B「いや、好きにファストトラベルできないからこそ良いんじゃないか。そのストレスを味わってこその冒険の味わいだし、このゲームの魅力だろう。」

一見すると、補償説とあまり違いが無いように見えるかもしれないが、重要なのは、転倒説では、不便さそのものを作品評価においてマイナスの価値をもたらすものだと認めていない点にある。転倒説では、「不便さそれ自体」をマイナスとして評価することに反対している。なぜそんなことが可能になるか。「不便」とはそれ自体にマイナスの価値が付属している。このこと自体を転倒説でも否定することはできない。不便とはマイナスである。ではそのマイナスをプラスに変更してしまうというマジックはどのようにして可能になるか。それは、作品のアイデンティティと関連させることによって可能になる。どういうことかをもう少し詳しく説明する。

転倒説はいかにして可能になるか

転倒説が成立するための条件を次のように考える。具体的に2つの作品を例にとって説明したい。

ディアブロ4』(2023)というゲームでは、より強いアイテムを探してひたすらダンジョンを潜り続け、敵を倒し続ける作品である。この作品では、アイテム収集と敵との戦闘をいかに効率的に実施していくかが重要になる。代わりに、その世界の雰囲気を味わうとか、ストーリーを味わうという価値は相対的に重要視されていない。この作品では、どの場所にあっても拠点に戻るファストトラベルが可能であり、そのことによって効率的なアイテム収集・鑑定・整理が可能になっている。この作品が、特定の場所にまで行かないと拠点にファストトラベルできないという仕様であったら、それは不便であるし作品としてもマイナス評価せざるを得ないだろう。

一方で、『ゴッドオブウォー:ラグナロク』(2022)という作品では、ファストトラベルは特定の場所に配置されている転送装置にまでいちいち移動しないと、ファストトラベルができない。しかし、本作では『ディアブロ4』と違い、重厚なストーリーや世界観などが重要視されている。しかもこの作品はムービーシーンと通常のプレイ画面との間で一切のカットが入らない演出「ワンカット演出」が採用されている。プレイしている間はずっとワンカットで撮影されているように全編が表現される。この演出がプレイヤーのゲーム世界への没入感を高めていると言えるだろう。*9

そのため、『ゴッドオブウォー:ラグナロク』ではファストトラベルしている間もローディング画面を出さないように工夫されている。詳しくは注釈に書くが、要は本作がこだわる「ワンカット演出」のために、ファストトラベルの仕様が不便なものとなっている。*10

ゴッドオブウォー:ラグナロク』の不便さを擁護をする時に、転倒説と補償説では、大きく違いが出る。転倒説では、この作品のコンセプト*11と共に、その不便さを肯定的に評価する。そして「任意でファストトラベルできる」ようにしてしまうと、『ゴッドオブウォー:ラグナロク』の目指す「ワンカット徹底演出」が崩れてしまい、この作品のアイデンティティ(同一性)を喪失させるものとして考える。それは単にマイナスとかプラスだという話ではない。便利にファストラベルできる『ゴッドオブウォー:ラグナロク』は、もはや『ゴッドオブウォー:ラグナロク』ではない。

しかし、補償説では「任意でファストトラベル」を一つの部品のように考える。それを取り外したり、取り替えたりすることを可能だと考え、その部品を変えても『ゴッドオブウォー:ラグナロク』という作品のアイデンティティは失われないと考える。そのため、その不便さはそれ単体で見た時に単純にマイナス要素であると判断される。そして他の肯定的な価値で補償され、最終的にはプラスになるのだと主張するのが補償説による擁護である。もちろん、不十分な補償説では他の価値との組み合わせによって「別に任意にファストトラベルできたらいいじゃん。便利じゃん。」となる可能性もある。補償説は、あくまで別の肯定的な価値との釣り合いによって不便さが評価されるからだ。

補償説では、コンセプトと不便さの要素がある程度分離できると考える。関連は持つかもしれないが、その関係は絶対ではない。しかし転倒説ではそうではない。不便さの要素とコンセプトは分かちがたく結びついている。逆に言えば、この絶対的な紐帯(結びつき)こそが、マイナスをプラスにするというマジックを可能にする条件である。これにより、本来マイナスでしかなかった不便さがプラス評価へと変換できるのだ。仮に、コンセプトと不便さの要素が、ある程度分離可能であると考えよう。そのように考えた瞬間、それがたとえ僅かであっても、転倒説は補償説へと変わってしまう。コンセプトに多少の悪影響はでるかもしれないが、その不便さを少し緩和することでゲームが総合的には良くなる(もしくは、惜しくも良くならない)。これはもはや補償説である。転倒説のように劇的に不便さの価値の転倒を行うためには、その作品のコンセプトとの密接な関係が必要になる。不便さの喪失が、その作品の存在を脅かすのだとすれば、不便さを単にマイナスと捉えることはできない。その作品がその作品であるために必要な条件だからだ。

そのため、転倒説での議論の争点は以下の2つになる。1つは、そもそもそのコンセプト自体にどれだけの価値があるのか?という点である。車の運転を徹底的にシミュレートするというコンセプトのレースゲームがあったとしたら、そのゲームにはエンジンをかける度に「毎回キーを指して回すという操作」が設けられるかもしれない。そのコンセプトを了承する限り、「毎回キーを指して回す操作」はプラスの価値を持つだろう。しかしそもそもそのコンセプト自体の価値が低いと考えるなら、転倒説による擁護は難しくなる。例えば「レースゲームにおいて、車が走り出す前の操作を頑張ってシミュレートをすることに、そこまでの価値があるのか?」というような反論があった場合、そのコンセプト自体の価値が問われている。そこに適切に反論できなければ、転倒説を維持することはできないだろうし、逆にそのコンセプトの価値を説得的に説明できれば、転倒説は有効な理論となるだろう。

またもう1つの争点は、コンセプトと不便な要素との紐帯についてである。その紐帯が本当に分離不可能なのか。これには当然議論があるだろう。『ゴッドオブウォー:ラグナロク』を転倒説によって擁護する人に「いや、ワンカットを徹底する演出の価値は認めよう。でも、ファストトラベルをもっと任意で便利な仕様にしても、ワンカットにすることは可能だったのではないか?」という言い方で反論することは可能だろう。先のレースゲームの例でも「車の運転の徹底的なシミュレート」は別に良いとしても、「毎回キーを指して回すという操作」が本当に必要かどうかを議論することはできる。例えば、毎回ではなく、最初の一回以外はスキップできるようにしても良いのではないか?というように。こうした妥協ができないと考えるならば、「毎回キーを回すこと」が「徹底的なシミュレート」と分かち難く結びついていると主張することになるだろう。いずれにしろコンセプトと不便な要素の結びつきが争点になる。

 

改めて、補償説と転倒説の議論の争点の違いをまとめよう。補償説では、それぞれの価値の定量化とそれぞれの価値の比較・組み合わせが争点になる。一方で、転倒説では、作品のコンセプトへの評価。そしてコンセプトと不便さとの結びつき(必須かどうか)が争点になる。

うまく考えられていない点

以上のように、ゲームにおける「不便が楽しい」について考えた。この考えについては本当は参考にすべき先行研究の類がいっぱいあるだろうと思っているので、思いつくままをただ書いてしまって少し恥ずかしい。「悲劇の快」や「苦痛のアート」など、おそらく参考になる議論は多くあると思う。

また、その他に以下の4点の問題点があると考えている。

①「不便」という言葉が何を表しているか曖昧である。ある種の感情を指しているという気もするし、プレイヤーにとっての状況(状態?)であるようにも思う。特に、本稿で「面倒」という言葉で表しているものを、素朴に「不便」と同じ概念のように扱っているが、本当はもう少し丁寧な説明が必要だろう。例えば、ゲームのあるクエストをクリアするのに、同じものを100個集める必要があり非常に手間がかかるとしよう。この状態は「面倒」という言い方で表現するだろうが、「不便」とは言わないように思う。先に挙げたドラクエの例などは典型的な「面倒」の例であって、「不便」とは少し違うと思う。なので、ここでは「不便」を概ね「(余計な)手間がかかる」ぐらいの広い意味で使ってしまっている。この点は改善(もしくは追加説明)の余地があるように思う。

②アートに見られる悲しさや苦痛や恐怖と、本稿での不便という概念とは、「不快なもの」という点で似ているが、少し違うと考えている。しかしその点があまり考えられなかった。一方で、これは少し面白い点でもあると思っている。フィクション鑑賞で感じる悲しさや苦痛などは、「本物」の悲しさや苦痛とは違う(かもしれない)という議論がある。しかし、ゲームで感じる不便さについて、「本物」の不便さとの違いを考える必要が無いように思える。それゆえ、既存の「不快なアート」の話題と少し異なり、議論がむしろスッキリするように思った。ただ、ここは本当にそうなのかちゃんと考えられていない。フィクションで感じる「不便」と本物の不便はやはり距離があるのかもしれない。この点もまた課題があるように思う。

③他のメディア(アート形式)で、「不便」をどのように考えるか、という点についてもあまり考えられていない。②の話も関係するが、ゲーム以外にも映画や小説や音楽について「不便」を考えることが可能かもしれない。ただ、それについては難しいなと思って放棄してしまった。小説における不便さとは何か?例えばそれは、「この長編小説は、長すぎて読むための時間が確保できない」というようなことかもしれない。ただ、どうもゲームの不便さと事情が違うように思える。いや同じかもしれない。もしかしたらこの不便かどうかというのは、ゲーム固有の問題かもしれない。いずれにしろ、その辺りは十分に考えることができなかった。

④本稿の主眼とも言える転倒説においては、「不便さ」のマイナス面を抹消しようとしていて、プラスとマイナスの両立についてあまり考えられていない。苦しみがそのまま快感となるようなマゾヒスティックな欲望を前提としなくても、プラス(快)とマイナス(不快)の両立は、フィクションや芸術作品に非常に多くみられる特徴であるし、むしろ両立していることがより高いレベルの快感をもたらすという考え方には一定の説得力がある。しかし本稿の転倒説ではそのことについてほとんど考えられていない。

転倒説への欲望

「不便が楽しい」という議論は楽しい。この楽しさは何に起因しているのだろうと思っていた。私は今はそれが不便価値論の転倒説にあると考えている。おそらく補償説のような議論に対して、プロのゲーム開発者などは強い興味や関心を持てると思うのだが、ユーザーはなかなか興味を持ちにくいのではないだろうか(それは製作者が自分以外の他人がどう感じるか?という点に真剣になっていることなどが背景にあるだろう)。ユーザーがこの手の議論で主張したいと欲望するのは、転倒説ではないかと思っている。

「不便が楽しい」議論は、どこか常に噛み合わない議論になるか、人によってマチマチだよね、となるか、不便バランス説のような結論に収束しがちである。そしてモヤモヤだけが残る。「人それぞれとか、バランスが大事とか、俺はそういう話がしたかったんだっけ?」と議論が終わった後に思うのだ。

本稿は、転倒説を提示することによって、「不便が楽しい」議論の焦点がより明確になることを望んでいる。私は「便利なのに楽しい」と語るとき、それはその作品にとってのアイデンティティや目的やコンセプトなどについての主張なんだろうと考える。そのことがこの記事で少しでも示せていたら、うれしいなと思う。

*1:その他には「武器や防具に耐久値がある」とか「どこでもセーブができない」などを「不便な要素」の具体的な例としてイメージしている

*2:荷物の重量制限があるゲームとして、『スカイリム』(2011)や『バルダーズゲート3』(2023)などを挙げることができる

*3:荷物の重量制限がないゲームとしては『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』(2017)などが挙げられるだろう

*4:不便バランス説の例は以下のスレッドの18,34,41,46,67などを参照。ハード・業界板のスレッド | itest.5ch.net

*5:誤解のないように補足すると、このコラムに価値がないというわけではない。

*6:この名前は以下のブログ記事から借用した。Matthew Strohl「アートと苦痛を与える感情」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

*7:例えば、ある程度の移動を強いられるからこそ、その移動によって敵とも遭遇することになり、それによって適切にレベルアップやアイテム入手が図られるため、自然な形でキャラクターの成長が促進される。これによって面倒なレベルアップ作業は必要なくなることに価値があるのだ、というような議論である。これはメカニクス上の利点として語られるパターンである。不便価値論というのは、ゲームとしての雰囲気やフレーバーという側面での利点が語られやすい傾向にあると思われるが(先に述べた「冒険の雰囲気」とか)、それだけではなくゲームメカニクスとして貢献する場合も当然ある

*8:補償説は最終的にプラスにならない場合もあるだろう。例えば、マイナスがそのままマイナスになるのではなく、プラスの価値によってそのマイナスの量が目減りする、と主張するケースも考えられる。これもまた補償説の一種であると考える。しかし最終的にプラスにならないのであれば、論理的にはやはり便利にした方が良いと結論付けることになるだろう。それは否定言説に賛同する意見ではある。ただ「否定言説の主張ほど、悪い(マイナスが大きい)わけではない」という主張をすることに意義があると言えるだろう。

*9:なお、「全編ワンカット」の異常さについては、映画ライターによる以下の記事などで紹介されている。リンク先の記事は本稿で紹介している『ゴッドオブウォー : ラグナロク』の前作『ゴッドオブウォー』についてである。『GOD OF WAR』“全編ワンカット”の狂気 その恐るべきチャレンジに迫る|Real Sound|リアルサウンド テック

*10:普通のゲームであれば、地図などから目的地を指定して、ファストトラベルを実行すると、次にローディング画面に切り替わり、読み込みが終われば目的地に到着している場面がパッと描画される。しかし『ゴッドオブウォー:ラグナロク』では、転送装置の場所にいちいち移動することが求められ、しかも転送装置から単純に目的地を選べばいいだけではない。転送装置の扉をくぐり、その中の異空間の道をわざわざ歩かせる仕組みとなっている。その異空間を歩いている間に、バックグラウンドでローディング処理が実行されている。ローディングが終わったところで異空間に出口の扉が出現し、それをくぐり抜けると目的地に到着している。その間、一切画面の切替わり(カット)は入らない。他の一般的なゲームであればローディング画面との切替え(カット)で済ますところを、わざわざ特殊な仕組みのファストトラベルとすることで、ワンカット表現を維持している。この異常とも言える「ワンカット徹底演出」へのこだわりのために、途方もない努力がされている作品である。

*11:ここでコンセプトと言っているものは、その作品がその作品として成立するために必ず満たしていないいけない構想、組み立て方を意味する。

『FF16』の後半の物語はつまらないのか?ミュトスとロゴスについて

週末批評に寄稿した以下の記事とは別にストーリーの内容についての記事になります。

加速する “JRPG” の到達点──『ファイナルファンタジー16』がそれでもムービーにこだわる理由|すみ | 週末批評

「『FF16』の前半は面白かったんだけど、後半になってつまらなくなった」という意見がある。私自身は別記事などに書いた通り『FF16』を絶賛するし、後半も面白いと思うけど、この意見はとても興味深い。そしてある意味、ここが1番、『FF16』の物語評価で差異が出るところだろうと思う。

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後半のイマイチなポイント

『FF16』後半の物足りなさを象徴するキャラクターは、まず第一にバルナバスだろう。主人公クライブのライバル的な存在かと思い期待した人も多かったはずだ。しかしラスボスのアルテマを狂信するマザコン男というかなり弱っちいキャラに収まってしまい、思ったより魅力的には思えなかった。

f:id:tuquoi:20240211090421j:imageバルナバ

そのほかに、ミスリルパーツ集めクエストの凡庸さも、後半の印象の悪さに繋がっているかもしれない。このクエスト、サブクエを単純に集めただけのような構成で盛り上がりに欠けた。この2点だけではないが、『FF16』の後半がつまらないというのは十分理解できる意見だ。

また、多くの人が指摘していることではあるが、ラスボスのアルテマが「普通すぎた」という印象を持った人も多いだろう。あまりに単純な悪に見えるし、やろうとしていることがエヴァの「人類補完計画」の真似事のようでもあり、「凡庸」と感じる要因となっても不思議ではない。私としても「『FF16』は敵の魅力が今ひとつなんだよな」という意見には賛成する。

f:id:tuquoi:20240211090457j:imageアルテマ

ただ、『FF16』後半のストーリーにも魅力はあると思っている。ラストの「泣き」の入るところを除いてもちゃんと魅力があるストーリーである。まあ、個人の妄想的な解釈なので、笑って読んでもらえればと思う。次から順番に語っていこう。

クライブがロゴス?

まず、『FF16』の後半というか最終盤で1番個人的に驚いたのは「クライブがロゴスと呼ばれたところ」だった。なんのこっちゃというところだが、クライブが序・中盤くらいで、ミュトスと呼ばれた時に「ああ、じゃあ、ロゴスが出てくるんやな」と予想した人は多かっただろう。

f:id:tuquoi:20240211090535j:imageクライブはロゴス

とはいえ、『FF16』のミュトスとロゴスが、ギリシャ哲学などで語られるような意味で使われているかどうかはハッキリしていない。そのあたりのことは、意識的かどうか分からないが、曖昧なままであるからだ。すごく素朴に言ってしまうが、Wikipediaにある通り「ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた」言葉だ*1。ロゴスはロジックやロゴの派生元の言葉であり「理性、論理、言葉」ひいては「知性、学問、科学」を意味することもある。
 一方、ミュトスは神話を意味する英単語”myth”から分かる通り、(これまた雑で恐縮なのだが)宗教的、神話的なものを意味する。「神話から科学へ」の意味で、「ミュトスからロゴスへ」なんて言い回しがされることもある。 この二つ(ロゴスとミュトス)は対立するイメージが強いため、最初にクライブがミュトスと呼ばれたところで、その対比を知ってる人の多くは「ああ、じゃあラスボスのアルテマがロゴスなんやな」と思っただろう。少なくとも私はそう思った。この2つの対比を知っている人なら、まあそう思うのではないか。
 で、このミュトスとロゴスの対立という話であれば、実に普通で凡庸な物語だ。最後は神的な存在を殺して終わり、というよくある神殺しの物語。その手の話は結構、この対比フォーマットに乗っている。ラスボスに、自らの「正しさ」を恃む傲慢な態度、というスパイスを加えれば、いっちょでき上がりだ。
 で、『FF16』は正にそういう物語にも見える。めちゃくちゃありがちな物語に見えるのも不思議ではない。しかし私がこの『FF16』がその手の物語と「ちょっと違う」と思うのは、ラストバトル前に「クライブ自身がロゴス」と呼ばれたところなのだ。ここでは神であるアルテマに等しいものとなった程度の意味でも解釈できるが、クライブ自身がロゴスと呼ばれることで、クライブは「ロゴス=知」を仮託された存在であることも示唆している。ベースプロットとしては「合理性=ロゴス」の塊であるアルテマを倒すという話ではあるのだが、そのために必要だったのも「ロゴス」だった、という点に捻りがあると感じて面白かった。

『FF16』のロゴス重視

なぜ「ロゴスの獲得」が重要なのか。普通のJRPGであれば、「主人公は優しさや絆のような謎の超パワーで、ラスボスである神をやっつける」という話が多い。それはつまり、ミュトス的な超パワーでロゴス的なラスボスをやっつける話だということだ。けれど『FF16』は違う。
そもそも「知=ロゴス」の重要さを、『FF16』はラストにだけいきなり登場させているわけではない。後半からずっとロゴスの積み重ねを描いてきている。それをよく示すのが、ミドやヴィヴィアンの存在だ。ミドは大学に通い科学(機械工学)を学び、ヴィヴィアンは大学の先生だった。大学とは正に「人類の知性」を象徴する施設だ。

f:id:tuquoi:20240211090639j:imageミド

ミドはその大学で得た知識によって高速船を作り上げ、クライブを支える。ヴィヴィアンもまた学問的な分析によってメインクエストの方針を示す。『FF16』はその「知」を使って、魔法やクリスタルという「知ではないもの」の呪縛から逃れる物語でもある。

f:id:tuquoi:20240211090654j:imageヴィヴィアン

そしてジョシュアは人類の来し方を探る「歴史研究者」とも言える。ロゴスと言っても理系的な知だけではなく、人文的な知がジョシュアに託されている。ラストでジョシュアの力を吸収して、クライブはアルテマと互角の力を得たが、これは召喚獣の能力だけでなく、ジョシュアの「知」を獲得することにより、クライブのロゴスとしての完成を意味するのではないか。現に、この後から「クライブがロゴス」と呼ばれるようになる。

f:id:tuquoi:20240211133945j:imageロゴスとなったクライブ

なぜ『FF16』では「知=ロゴス」の獲得が重要なのか。それは「知」により魔法を使わないで済むようになるからだ。逆に言えば魔法に頼っていたから、鍛冶で使う炉やふいごのような「知=科学」さえ確立できなかった(この辺りはブラックソーンのサブクエで描かれる)。魔法という便利すぎるものによって、人類はその進歩を止めてしまっていたのが、『FF16』という世界の現状だった。それを変えたのが、クライブたちの戦いなわけだ。
 ラストのエピローグで子供が火打石で火を起こしている場面が感動的なのは、そうした「科学」が浸透し、人類が歩みを進めていることが分かるからだ。

f:id:tuquoi:20240211090727j:image火打石で火を起こす子供

科学によって火を起こすのは魔法より面倒かもしれない。けれどベアラーを奴隷化し「物扱い」して火を起こさせるより、遥かに良い。遥かに人間的である。
 このように見てみると、既存のJRPGでよくある「合理的で理屈っぽい傲慢な神様を、なんだかよく分からない友情・絆という不条理パワーで倒す物語」と『FF16』は大きく異なっている。『FF16』は「知=ロゴス」がないとダメで、「不条理パワー=ミュトス」だけだと勝てないと言っているのだ。
このことを補強するのが、『FF16』における魔法の立ち位置だ。大抵のRPGで魔法は「知性=ロゴス」に属することが多い。しかし『FF16』では魔法は「神話=ミュトス」に属している。『スカイリム』で魔法は「ウィンターホールド大学」で教えられていたことを思い起こして欲しい。しかし『FF16』では、魔法は大学で学ぶものではなく、遺伝かクリスタル(謎物質=ミュトス的)を介して使うものだ。この「魔法」というものの位置付けの特殊さは注目に値する。
しかしこれも、現代の、そして現実の世界では当たり前の話だ。「魔法そのもの」は、「学問」や「知性」でありえない。ある意味、『FF16』はめちゃくちゃリアル世界の理屈を描いているとも言える。ファンタジー作品なのに。いや、だからこそ、最後にファンタジーを消し去る展開と整合する。「ファイナルファンタジー」のタイトル回収とは、そういうことなのだ。
そしてハルポクラテスという語り部もまた「ロゴス」という観点で興味深い。羽ペンという言葉(ロゴス)を書き記す道具がクライブに託されるのも、ロゴスの継承を意味するのだろう。そしてスタッフロール後のカットシーンで出てくる書物はロゴスの塊とも言える。

f:id:tuquoi:20240211090810j:imageラストの書物

歴史を探究したジョシュアが、言葉(ロゴス)によって、ファイナルファンタジーという神話(ミュトス)を書き残す。ロゴスの中だけで、ミュトスが生き残るのだ。この構図も非常に面白い。ロゴスに囚われたミュトスと考えれば、そこから更なる続編を考えたくなってしまう。

ミュトスとロゴスの合体は「答え」か?

ミュトスとロゴスの合一を果たした究極体であったクライブ。彼はなぜ死ななければならなかったか。ミュトスとロゴスが合一を果たして、「最強」になったのなら,その凄い力を使って良き世界を創れば良いのでは?と思うかもしれない。しかしそういう物語を描かないことこそが『FF16』の信念だった。そんな都合のいい「魔法」のような解決策はない。苦しみながら、少しずつしか世界は良くなっていかない。

このことを示すのが、アルテマとクライブの最後の会話だ。

f:id:tuquoi:20240211090848j:imageアルテマとの会話

すごい力で他者をひれ伏させることが人の生き方ではない。時にはすごい悲劇が起きたとしても(例えば暴力的な革命とか)、人は一歩一歩改善させつつ進んでいくしかない。魔法で物事を一挙に解決させることが「答え」じゃない。クライブの覚悟はそういう意味で重い。「苦しんでもいい」と言うわけだからだ。
しかしここで、『FF16』は、ある意味、人間の理性を信じて、それに託すだけではない面も見せる。理屈(ロゴス)だけで世界は進むのではない、という面も見せるのだ。そして、実はそのことを多くの人は薄々理解している。不合理なもの(ミュトス)を内包しながら人は生き、それをどこかで許容して生きている。それはクライブも同じなのだ。アルテマの超傲慢な完全生命魔法「レイズ」を、超個人的な弟の命を助けるという、極めて私的な目的のために利用するのだ*2。それは見ようによっては、人類に対する裏切りなのかも知れず、とてつもなく不合理なことなのかもしれない。しかし正にそういう不合理さを見せるところにこそ、ロゴスとミュトスの溶けきらない混交という描写が成立しているのであり、それがおそらく『FF16』の一つの倫理のあり方なのだろう。

なぜアルテマは「殴られた」のか?

ラストの「殴り」のシーン。これはびっくりした人も多いだろう。拳で行くか?と。しかしこれもまた『FF16』らしいバランス取りなのだ。ロゴスという理性とミュトスという魔法が合体した先にあるものは暴力であり、その象徴としての拳なのだ。

f:id:tuquoi:20240211090913j:image殴られるアルテマ

ロゴスという知を活用しつつも、融和や包摂によって物事が解決するわけではない。熟議を通した理性ある対話によって平和を築くことの限界。そして一方でゲームというメディアでは求められる「力」を、キレイにだけ見せないようにしたいという誠実さ。暴力を誤魔化すようなことはしないという覚悟を、最後に剥き出しの暴力「拳」として表現する。これぞ、ロゴス重視からの急転直下の逆張り!と言ったところだろう。とても『FF16』らしい。ロゴス重視だからこそ、ロゴスに偏りすぎないようにしたいというバランス感覚が、クライブに「拳で殴る」という野卑さを感じさせる行為をもたらしたのだろう。
だからこそ、一層、最後にクライブは死ぬしかなかった。ミュトスとロゴスの二つを合わせて「究極」になって人を導けばいい!のではない。人らしく生きるとは、そういう「究極的な暴力」に頼ることでは「ない」と『FF16』は言いたいから、彼は死ぬしかなかった。
『FF16』が現代的なのは「ロゴス」を引き受けたところだ。「ミュトス」だけではダメだと分かっている。コロナ禍や地球温暖化など、今や意外に多くの人が「知」というものの重要さを、そして『FF16』開発者も肌身で感じているからこその「ロゴス重視」なのではないか*3。それゆえの逆張り的な「殴り」。いずれにしろ、人間の作り上げた「知の体系」が本作では意識的に重要な立ち位置となっている点は確かだろう。それはFFシリーズで、科学と魔法の両立した世界を描き続けてきた、その従来のFFシリーズらしさを現代的に描き直した描写とも言えそうだ。

クライブは生きているのか?

なおネットではクライブの生存説がよく唱えられている。私自身は上記のように作品を解釈しているため、彼は死ぬしかないと考えている。石化して失われることに意味がある。

とはいえ、『FF16』は娯楽作品である。この後、「実は生存してました、てへ」とあっても不思議ではない。まあ、「それはそれ」だろうと思っている。

*1:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%82%B9

*2:ただ、ゲーム内でレイズの力によってジョシュアを助けたかどうかは、ややハッキリしない

*3:なお、魔法は「知」ではない、かどうかは本編だけからだとよく分からない。もしかしたら魔法を研究するゲーム世界の中の大学の機関もあるのかもしれない。ただ、それを示す描写が極端に少ない(ほぼない?)。もしかしたら、魔法を「知」と捉えていたのはアルテマだけだったかもしれない

『バルダーズゲート3』と生魚を食べられないヨーロッパのおじさん

今年、アメリカのThe Game Awards(TGA)というビデオゲーム 界で最も有名な賞イベントにおいて、Game of the Year(最優秀作品賞)を獲得したのは『バルダーズゲート3』だった。既に『バルダーズゲート3』はその前哨戦とも言えるイギリスのGolden Joystick Awards賞で、GOTYを獲得しており、『バルダーズゲート3』がTGAにおいてもGOTYを取る可能性は高かった。しかし、TGAの今年の授賞式時点(12/7)において、日本で『バルダーズゲート3』がまだ発売されておらず、多くの日本人にはその賞レースの白熱具合が今ひとつ肌感覚で理解できないところがあった。

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その『バルダーズゲート3』がようやく2023/12/21に日本でも発売された。噂通りのすごい作品だったが、この作品に対する戸惑ったような日本での受容のあり方が実に興味深かった。Amazonレビューでは以下のような評価になっている(2023/12/25現在)

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5点満点中、3.1点。かなり低い評価だ。ちなみに、今年賞レースで1位を張り合ったのは、任天堂の発売する『ゼルダの伝説 ティアーズオブザキングダム』。その同じAmazon評価は以下の通り。

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4.8点。かなり高い。

もちろんAmazonレビューが客観的な評価だと言いたいのではない。ただ、ネットなどを見ていても、多くの人が『バルダーズゲート3』に戸惑っていることが、よく分かる。

神ゲーだと聞いていたのに……」

「おもしろくない」

「これが今年最高のゲーム?」

「そんなに面白い?」

『バルダーズゲート3』に対するそんな声が、やや遠慮がちに聞こえてくる。「思ってたんと違う」と、一言で言えばそうなのだろうが、しかし、この戸惑いこそが異文化が接するあらゆる場面でありそうな「何か」を示している。

わたしは、この日本における多くの『バルダーズゲート3』への戸惑いの様を見た時に、以前、テレビで見た日本料理を海外の人に食べてもらう番組を思い出した。その時に出演していたヨーロッパの実に人の良さそうなおじさんの顔を思い出す。

その番組(NHKだったような気もするが、違うかも)では、ヨーロッパの(ベルギーだったか、チェコだったか、どの国か全然覚えていない)ある街の夫婦に日本料理を食べてもらう企画だった。奥様は料理好きのいかにも人の良さそうな感じ。夫のおじさんも実に善良そうな人だった。その2人が日本料理を食べるのだが、奥様はなんでも食べる。「おいしいわ」なんて言って、朗らかに食レポをする。おじさんの方も基本的にはそういう明るい振る舞いだったのだが、そのおじさん、絶対に生魚だけは食べなかったのだ。番組側も生魚を食べようとしないおじさんに何かツッコミを入れるわけではない。ただ淡々とその2人を映していた。

わたしはその姿を見た時に

「わかるよ!わかる。絶対、生魚食べたくなかったんだよな。そういう文化が他所にあることは理解するし、別に不味いわけじゃないんだろうけど、どうしても食べたくなかったんだよね」と思った。

そのおじさんは生魚の料理(刺身だったと思う)を食べたことがないのかもしれない。しかし妻がそれを美味しそうに食べてることに文句を言うわけでもなく、自分が食べないことに言い訳するわけでもなく、ただただ彼は食べなかった。何も言わずに食べなかった。その姿に私は、言いようのない共感を感じてしまった。そして思った。彼は良い人だと。知らんけど。ちなみに断っておくが、私は刺身も寿司も大好きだ。

『バルダーズゲート3』は、テーブルトークRPGのシステムを継承した、非常に独特の作りをしている。ドラクエやFFのような日本のRPGとは全然違う。キャラクターに可愛らしさはほとんどなく、ゲームとしての難しさにおいても、日本のRPGと比較するとかなり厳しい。だから、口さがない人の中には「日本のヌルいRPGをやってる人には辛いかもね。この手のゲームは自分の頭で考えて、発想力や自主的に工夫する努力が必要だしね」などと嫌味を言ったりする。

もちろん、そういうシステムの違いや難易度やユーザーに対するホスピタリティのようなものの違いは大きい。そこが『バルダーズゲート3』を受け入れられない人にとって障壁になっている面もあるだろう。しかし、本当に問題なのは、それが突発的に目の前に現れた異文化だったという衝撃であり、そのことこそが重要なのだ。面白いとか、面白くないとか、そういう話よりも、一歩手前にある状況にこそ、目を向けるべきドラマがある。

Amazonレビューに思わず低評価を書き込んでしまう日本人が多くいたことは、あの番組で見たヨーロッパのおじさんと同じなのだ。「これは食えない」と彼らは思った。同じRPGだから、遊べるだろう、あんなに評価されてるし、面白いんだろう、そう思って買ったに違いない。しかし目の前に突如として出されたRPGはこれまでの生活習慣からあまりに外れた異物だった。

某匿名掲示板では「こんなのクソゲーやん。全然おもんない」と息巻いている人がいる。それに対して「アホには遊べないかもな」と煽る人がいる。あれが悪い、これが不親切だ、わかりにくい、いやバカなお前が悪い、分かってないから楽しめない。言い争われるそれは全て一面の真理ではある。しかし、『バルダーズゲート3』が楽しめない日本人の衝撃、その爆心地たる本当のグラウンドゼロについては語られない。

それは生魚を食べられなかったあのおじさんの沈黙と同じなのだ。なぜ食べられないのか、を説明することはできない。仮に食べたとしても「食べられない」と結論することもあるだろう。食べられないのは、その料理がまずいからとかそういうことではないのだ。自分の文化や慣習から外れたものに対する純粋な距離感と忌避感。良いとか悪いの話ではない。この距離感を縮めるのは、繰り返して、何度も何度もその文化を長い時間をかけて味わうしかない。どこかでそれが自分の一部になるまで慣れるしかない。

人によっては、そういう異質なものをどうしても受け入れられないということがある。別にそれでいいのだ。所詮は娯楽の話だから。しかし、ビデオゲームという、一見すると「国境を越えられそうなメディア形式」において、こういう異文化交流にありがちな「衝突」が見られたことが、どこか面白い*1

生魚を食べられないことの人間らしさ。それがゲームでも起きるのだという、実に当たり前の話。『ドラゴンエイジ』や『ディヴィニティ:オリジナル・シン』では目立つことのなかった衝突の現場が、今回は多く見られたことが、『バルダーズゲート3』GOTY受賞の、(日本における)一つの大きな意義だろうと思う。

*1:一方で、そういう異文化である日本のゲームを受け入れてくれる海外ファンが大勢いることも思い出したい