スポーツの日本史/谷釜尋徳

 

 

 日本におけるスポーツの変遷を研究されている方がたどられる日本におけるスポーツの通史です。

 

 スポーツというと明治以降に入ってきたものというイメージを持たれる方もおられるかもしれませんが、カラダを動かす愉しみというのは、人の営みの自然な姿としてあるでしょうし、幾分現在のスポーツと趣は異なるかもしれませんが、かなり古代からスポーツと言える形態のカラダを動かす愉しみはあったようです。

 

 そんな中で、じゃあスポーツと言えるものは何なのか、ということを冒頭で定義されていて、毎年その講義を始められる際にそういった議論を学生とされているようですが、この本では「競争性のある身体的あるいは知的な遊び」とされています。

 

 後年、ハンティングがスポーツとなったように、狩猟も生活の糧であると同時に競技性をはらむこともあったでしょうし、中大兄皇子中臣鎌足の出会いとして知られる蹴鞠もその時期にはすでにそれなりの広がりがあったからこそ、そういうエピソードとして残っているんだろうということを指摘されています。

 

 また、奈良時代にはすでに相撲が成立していたようですし、そういう楽しみとしてのスポーツが貴族階級の専有物だったワケではなかったようで、平安期から鎌倉期に描かれたとされる日本最古の漫画と言われる鳥獣戯画の中に庶民が打毬というホッケーかゲートボールのような協議に興じる様子が描かれていると言ことで、幅広い階級でその頃にはスポーツが楽しまれていたことの証左だということを指摘されています。

 

 そういう愉しみとしてのスポーツが急速の進化を遂げたのはやはり太平の世となった江戸時代だったということで、それまで戦いの手段であった剣術などが型といった形式美を追い求めるようになって、スポーツとして幕末期には武士に限らず庶民も剣道を習い事としていたようですし、興行としての相撲は見るスポーツとしてかなりの人気を博していたようです。

 

 ということで、明治期に西洋のスポーツが導入されて隆盛を迎える素地はすでにかなりデキていたということを指摘されているのがかなり興味深いところで、自然の営みとしてのスポーツにそれほど差がなかたっということの証左かもしれません。

 

 ということで、そもそもスポーツというモノがどうだったのかを考えさせられるかなり興味深い書籍であり、あらゆるスポーツに興味を抱かれる方すべてに一読して欲しいところです。

 

 

知ってはいけない2/矢部宏冶

 

 

 以前、日米地位協定などの取り決めで実は日本はアメリカの反植民地的な位置づけにあることを明白にした衝撃の『知ってはいけない』を紹介しましたが、その続編があると知って手に取ってみました。

 

 この本が出版されたのが2018年で、韓国の文在寅政権において、北朝鮮との統一がかなり現実的に視野に置かれたということがあって、概ね世界中で好意的に受け入れられていた中、日本だけが足を引っ張るような動きをして奇異の目で見られていたということを紹介されていますが、その理由として在韓米軍が撤退して、その動きにつれて日本の駐留米軍がいなくなってしまうと、その権力基盤を失いかねない自民党が慌てたということらしくて、しかも当時の首相が、日本の反植民地的な地位を永続させることになった地位協定の自動継続を決めた岸元首相の孫、安倍晋三だったということが象徴的だとされています。

 

 また、米軍の核兵器持ち込み承認の密約についても検証されているのですが、外相すら蚊帳の外において、岸元首相やその弟佐藤栄作が、腹一つでアメリカからの屈辱的な要求を受け入れた過程を紹介されており、それも国内で何か言われて、後世にアメリカに何か言われても「なかったこと」にするという唖然の子どもっぽさで、韓国に対して「ゴールを動かす」と、どの口が言うんだ!?と思えるほどの、おおよそ近代法治国家のトップとは思えないことをしていたということで、岸・安倍一族が日本に及ぼした害悪を誰かつまびらかに並べてほしいモノです。

 

 また、正編でも取り上げられていましたが、基本的に米軍が望めば日本の「どこにても」基地を置くことができるというのが事実なんだそうで、また米軍が海外に向けて出撃するのに、事前の日本政府の許可が必要ないという、他国では考えられない取り決めがあるということで、アメリカがどこかと戦争を始めて、日本から出撃するということになれば、自動的に日本もその交戦国の「敵国」とされてしまうということで、中国の台湾侵攻が現実的なモノとなりつつある中、どれだけの人が、特に政治家などの指導層が、その重大さを認識しているのかが、心もとないところです。

 

 そういう「不平等条約」もいち早く国際社会に復帰するための方便として仕方がないとは言えなくもないですが、明治期の高官が、江戸幕府が結んだ「不平等条約」についていち早く条約改正の努力を重ねたのに対し、自民党は逆にそれを自身の権力基盤としているとすら思えるほどで、それだけ考えても自民党が日本に対してなしてきた害悪の大きさがうかがえますが、ホンキで糾弾する動きが広まらないのがフシギで仕方ありません…

夢を見ない男 松坂大輔/吉井妙子

 

 

 2021年に現役を引退された松坂大輔投手のメジャー移籍までをカバーしたクロニクル本です。

 

 松坂投手というとあまりにも高校時代の活躍が鮮烈過ぎて、プロに行ってから、さらにはメジャーに行ってからも相当な活躍をされているにも関わらず、どこか物足りなく感じてしまうところが逆に恐ろしいところで、特にメジャー移籍後はケガの影響もあって、どうしてももっとやれたはずだと多くのファンが思ってしまうところが、本人にとってもファンにとっても不幸なところがあったような気がします。

 

 ただ、改めてメジャー移籍までのNPBでの活躍ぶりを振り返ってみると、高卒即ローテーションで最多勝まで獲得し、7年間ほぼトッププレイヤーとして活躍しただけではなく、第一回WBCでは優勝投手となりMVPも獲得されるなど、やっぱり凄かったんだということを改めて思い起こさせてくれます。

 

 この本ではメジャー移籍の過程と、元日テレアナウンサーの柴田倫世さんとの結婚に至る過程に多くの紙幅を割かれていて、主要なテーマとされているようです。

 

 特に結婚に至る過程が興味深く、6歳年上の奥様にアプローチする過程で、人間的に格段の成長を遂げ、プロのアスリートとしての心得を身に着けることになった様子を紹介されていて、そういう意味で奥様の果たされた役割というのが計り知れないほど大きかったんだな、と思います。

 

 また、後年のケガだけではなく、傍目からは順風満帆に見えた中でも、言われのないバッシングを受けるなどの逆風を浴びながらもあれだけの成績を残したところが恐ろしいところで、昨今、高卒即一軍となることすら珍しくなったことを見ると、NPBの競技レベルの向上もあったんでしょうけど、当時の松坂投手、イチロー選手、清原選手たち、高卒即トップレベルで活躍した選手たちの凄みを改めて確認させられた次第でした。

テロルの昭和史/保阪正康

 

 

 『昭和史』の半藤一利さん亡き今、残された「昭和の語り部」である保坂さんが昭和史におけるテロルの歴史を語られます。

 

 この本を書かれた契機となったのが、やはり安倍元首相の銃撃だということですが、最近の状況が、戦争に突入していく昭和初期の状況に似てきているという指摘があちこちで見られる中、悲劇を防ごうという意識も働いているのかもしれません。

 

 昨今、社会を取り巻く状況が戦争の突入していく昭和初期に似てきているという指摘をあちこちで目にしますが、安倍元首相の襲撃しかり、ロシアのウクライナ侵攻に対して、それを上回る暴力で撃退することを「よし」とする風潮など、動機に問題がなければ「暴力」の行使を容認するような空気が、我々国民の中にも出てきているんじゃないかということで、大正から昭和初期のテロルの連鎖と似たような状況が生じかねないという危惧を指摘されています。

 

 昨今の政治不信同様、昭和初期においても政財界の腐敗への不満が国民の間に渦巻いており、「純真無垢」な若手将校たちがそれに立ち向かったということで、5.15事件~2.26事件に至る一連のテロを世論が支持していたということがあるようで、安倍元首相の襲撃についても、山上被告の減刑を求める動きがみられるように、行動自体よりも動機を重視してしまうところに、日本人のメンタリティの危うさがあることを警告されているのが印象的です。

 

 そういうテロルの連鎖が結局国全体の破滅に追い込む戦争への導いたという側面があるように、こういう時だからこそ「暴力」に対して厳しい目を向けなくてはいけないということを思い起こさせてくれるモノでした。

ChatGPTの衝撃/矢内東紀

 

 

 ChatGPTの出現は文字通り「衝撃」だったワケですが、今後こういった生成系AIがどういった影響を及ぼすのかということを考える上でも、生成系AIにどんなことができるのかということを知っておくのは意義があると思い、手に取ってみました。

 

 メディアで扇動的に報じられているほど、何でもできるというワケではなさそうで、特に最新情報を交えたトピックにはGPT-4の時点でもかなり弱点を抱えているようで、弱点を数え上げれば、まだまだだと思う向きが、特に過度な品質を求めがちな日本人には多いような気がしますが、現時点で「できる」ことだけを考えても、積極的に活用を考えれば、大半のオフィス業務に取り入れることができそうです。

 

 この本で取り上げられているだけでも、

  ・翻訳

  ・要約作成

  ・企画書作成

  ・会議のアジェンダ作成

  ・戦略策定

  ・タスク管理

  ・課題解決

  ・コピーライティング

  ・ウェブサイト作成

など、「オレ、要らんなん!?」ってなるなんちゃってビジネスパーソンが多々おられるのではないかと思えるほどです。

 

 モチロン、完璧に仕上げられるわけではなく、ChatGPTが作ったモノを見て調整を入れた上で、ということにはなるのでしょうけど、これだけの業務で叩き台を作ってくれるだけでも大助かりで、特にこういった企画系の人材が多くない中小企業やスタートアップ企業などでは大きなパワーとなるはずで、如何にこういったモノを使いこなすかによって、かなりこれまでと比べてビジネスのステージが変わるような気すらします。

 

 ということで、やはりAIに仕事をとってかわられる人から、AIを使う人への脱却は多くの人にとって喫緊の課題であり、そうじゃないと食いっぱぐれでしまうことになりかねないことがよくわかる内容となっています。

自衛隊の闇組織/石井暁

 

 

 この本2018年の出版なのですが、昨年書店で平積みしてあったのが気になって、手に取ってみました。

 

 作者は共同通信の記者で、自衛隊内に非公式の諜報組織があることを知って長らく取材を重ねられてきて、一時は生命の危機をほのめかすような取材の中断要請もあるなど、かなり緊迫した取材だったようですが、無事日の目を見て報道されるまでの過程を紹介した内容になっています。

 

 「脅迫」された直後には”知の怪人”佐藤優にも相談されたようで、諜報活動に長けた佐藤さんは、「電車を待っているとき、決してホームの一番前には立つな!」という背筋の凍るような「忠告」をされたようです。

 

 そういった諜報機関はかなり昔からあったようですが、その存在を知る人は自衛隊の幹部クラスでもかなり限られた人の身だったということで、当然総理大臣や防衛大臣もその存在を知らなかったということで、シビリアンコントロールの原則を覆す存在だということで、かなり大きな問題をはらむ組織であり、身の危険にさらされながらもジャーナリストの良心に従って、初心を貫かれたようです。

 

 その組織というのは陸上自衛隊に関連する組織だったということで、諜報のための要員を育成していたことで知られる陸軍中野学校の系譜をひく組織らしく、やはり陸軍の「暴走」の伝統もしっかりと受け継いでいたのは、笑えないところです。

 

 もともと石井さんは、自衛隊の幹部クラスに個人的に酒を酌み交わす仲の方が多かったということで、そういった人脈を辿って、報道に至るまでの裏付けも重ねていかれたようですが、個人的な会話の中から「別班」のことを切り出されるところの緊張感は、ウォータゲート事件を報道した際のワシントンポスト紙のウッドワード、バーンスタイン両記者のエピソードを思い起こさせるヒリヒリしたモノでした。

 

 最近はメディアの権力ベッタリの姿勢ばかりが目につきますが、こういった圧力に負けないホンモノのジャーナリズムが未だに息づいていることを知って、心底安堵させられる想いでした…

人はどう老いるのか/久坂部羊

 

 

 以前、『人はどう死ぬのか』を紹介した元医師で作家の久坂部羊さんの『人はどう死ぬのか』の続編的な著書です。

 

 久坂部さん自身、高齢者医療クリニックでの勤務経験があるということで、この本の前半で認知症患者と向き合った経験を語られているのですが、暴れだす患者や何かとキレる患者に対し、久坂部さん自身がブチギレ寸前になり看護師に止められて事なきを得た経験を語られていますが、経験豊かな医師がついついキレてしまいそうになるほど壮絶な現場のようです。

 

 後半は『人はどう死ぬのか』と被る部分が多いのですが、やはり日本の医療というのは「やりすぎ」の傾向が強く、どうしても「あきらめる」ことを勧めると、患者本人よりも家族から医療放棄的な非難を浴びる可能性が高い様で、ついついそういうことを言い出すことを躊躇してしまうことが多い様で、単なる延命治療で無用に患者を苦しめる結果になることをわかっていながら、そういう医療行為をせざるを得ない状況に多くの医師が苦しんでいる現状を紹介されています。

 

 昔の老人は達観したところがあって、静かにお迎えが来るのを待つといった姿勢があって、それを周囲も理解していた部分があったと思うのですが、先日紹介した『ゼロコロナという病』でも指摘されていたように、ただただ「死」をタブー視して避けようとする死生観の「幼稚化」のせいで、無用に苦しまなければならないようになっているようです。

 

 また、メディアなどで「老い」をネガティブに捉える傾向が強くアンチエイジングみたいなものが礼賛されることがあって、それもある意味「死生観の幼稚化」の一面と言えるのかもしれませんが、「老い」を熟成みたいに捉えて、その人生の最終期を静かに、かつ豊かに過ごすように、徐々に受け入れていくことがその後の充実につながるのではないの!?ということを、我々も早めに受け止められるようになりたいモノです…