知ってるだけじゃダメです

ぜんぜん知らなかったことってあんまりない。が、「こんなに○○だったとは」「意外に○○じゃな」とは毎日思ってる。

セットリスト

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バット・ビューティフル

バット・ビューティフル

 

 

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要は出版社がとろいということだ

 

note.mu

自分の一冊の購買をどう出版社に声として届けるか、読者に考えさせてる時点でダメなんだよ。要は出版社が、その本がどう売れてるかを見る能力、聞きとる能力に欠けていて、リアル書店からの注文数と返品率しか見てないからだ。出版社の鈍さに書き手と読者が腹を立てていると考えるべきだ。

何かを勝手につなげてしまう(のが快感)

『刑事司法とジェンダー』と

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

 

↑どうでもいいがこの書影、すごい変型版の本に見えるので良くないと思う(ふつうの四六ソフトです。表1のテキストが横書きなだけ) 

『超嗅覚探偵NEZ』3巻(完結巻)と

超嗅覚探偵NEZ 3 (花とゆめCOMICSスペシャル)

超嗅覚探偵NEZ 3 (花とゆめCOMICSスペシャル)

 

 NHKスペシャル「未解決事件 File.05 ロッキード事件」第1部・第2部

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をほぼ同時に全力で楽しんだ結果、ちょっとわかったことがあるので書く。

警察と検察は、事件の捜査において公判維持を究極の目的として動く。再犯防止も被害者保護も、公判維持に比べたら副次的なものに過ぎない。たとえば捜査の過程で、再犯の防止に決定的な役割を果たすような新たな知見が得られるチャンスがあったとしても、警察や検察は追求しない。裁判は先例主義で、先例の積み重ねで秩序をつくっている。その秩序や論理を覆すものは(たとえ再犯防止や被害者保護に資する建設的なものであったとしても)裁判所に受け入れてもらえないからだ。

ここまでは事実としてわかった。たぶん本質や、関係者の実感からずれてないと思う。

ここからは推論。

1.  新たな発見を是とし、目的とし、アウトプットするのは研究者の領分であって、現場者(研究者に対応する言葉がないのでつくってみた。教育学者が研究者としたら教諭は現場者)にはそれが許される範囲が非常に狭いのかもしれない。だとしたら研究の成果を積極的に理解して取り入れ、現場の改善につなげる役割を現場者だけに負わせるのは酷だ。研究者と現場者を接続する接続者になりうるのは誰か、どのように接続者を機能させるかを考えるべきなのではないか。

2. 警察も検察も、公判維持を最大の目的として動いているが、それを疑問に思っていないわけではない。それが再犯防止や被害者保護から遠い仕事であることはわかっていて、でも社会の乱雑さを「ちょっと片付ける」役割を果たしていることもわかっている。使うべき掃除道具をものすごく限定されて掃除させられてるようなもの。だから、再犯防止や被害者保護を優先できていないことを責めてもクリティカルヒットにはならない。われわれも、彼らに通じる言葉を持たなければならない。

 

そして1.と2.のどちらにも、出版社はかかわっていけると思う。

 

本を読む、マンガを読む、テレビを見る。どんなにすぐれた作品でも、手に取るときの目的は暇つぶし。でも、偶然何かを同時に読んだり見たりすると頭の中で発火して何かが起こることがある。これはスゴイ快感なんだけど、結構な確率で起こりますよ。なんと手軽な快楽か。

人生に文学を取り入れるといいって言ってる人がいるみたいですね。不用意にアニメをディスって怒られてるみたいですね。その人は、わたしに何かを教えることはできないと思う。わたしはもう知ってるから。みんな、その人よりたくさんのことを知ってると思う。その人が知らないだけだ。

まさかBLTサンドにはまるとは

わたしはデブである。

見た目ももちろんそうだが、いちばんデブなのは思考である。とにかく炭水化物が食べたい。米ならなおいい。餅など最高だ。白いごはんはおかずを呼ぶ。できる限り多くのおかずをできる限り多くのごはんで山ほど食べたい。人より食べたい。いちばんおいしいときに食べたい。熱々で食べたい。熱々のときに全部食べたい。いま食べたい。早く食べたい。早く食べ終わってもっと食べたい。

ふつうに節制を知っている人が読めばこの文字列だけで吐き気するだろうなあ。そのくせ、どか食い欲が菓子類にはあまり向かわないという一事をもって、自分がむしゃむしゃ妖怪であることを脳内で否定していたのである。

まあいまもデブなんですけど、上記の思考法からは徐々に脱却できていると感じるここ3か月である。きっかけは大風邪を引いて、非常に珍しくも一時的に食欲が減退したこと。

大風邪を引いたため家人が弁当を買ってきた(献立立案および調理を主に担当しているのはわたしなので)。わたしは半分しか食べられなかった。おいしそうな弁当なのに惜しいなとわたしは思った(このへんがまさにデブ思考ど真ん中)。食べるのを止めて、ふと「わたしはいまどのくらいお腹空いてるかな」と考えた。自分の腹具合を感覚で探ってみた。そして天恵のごとく閃いたのである。

満腹している。

じゅうぶん腹一杯になっている。

重ねてわたしは気づいた。食事中に脳内にあったのはいつも「目の前にある飯に食べる価値があるか?」「YEEEEEEEEEEEEES!!!!」というやりとりのみ。わたしはほとんど、自分がどのくらい満腹しているかを腹に問うたことがなかったのである。体ではない、脳が指令し、脳が喰っていたのだ。

 

わたしはよく噛んでものを食べるようになった。いままでのペースだと体に様子を訊ねる暇がない。また、体と対話した経験があまりに薄いので量の見当がつかず、ひとまず白飯を半分にしてみた。以来もうすぐ3か月。結構続いているものだ。体重はそんなに減らないが、できるだけ安くできるだけ大量に喰おうと血走らない暮らしはけっこう快適だ。

ここまでが前置き。

デブ思考の真逆にある食べものとはなにか。いろいろな方面が考えられると思うが、その最右翼はカフェめしであろう。1000円で皿にちんまりおかずが載ってて同じ皿に箱根山*1並みの白飯がちんまり盛られたプレートなんぞ喰えるか勿体ない、とデブ思考キャリアは考えるものである(腹の許容量を超えて食べるのこそ飯が勿体ない、とは絶対に考えない)。

そのようであったわたしがなんと週に二回ランチでBLTサンドセットをいただいております。よく噛んでいただいております。結構毎回満腹させていただいております。

BLTサンドというものがどこでもこんなにトーストさくさく(ホットサンドではなく、トーストでつくられたサンドなのである)マスタードマヨぴりりベーコンほどよくしっとりの逸品なのならこの世は天国だな! と感じていたのだが、数軒試したところでは、職場最寄りの喫茶店のBLTサンドが不動の一位から退く気配がない。うまい。縷々述べたごとくの事情の上でBLTサンドを食べはじめた以上、コメダコーヒーの草鞋の如き巨大サンドに新たな可能性を求めるわけにもいかない(台無しである)。

自分がそんなにこのBLTにはまっていることにもしばらく自覚がなかったのだが、仕事中ときどき「BLTサンド」で検索してしまっていることに気づき愕然としている。

わたしはたぶん妖怪ではなくなった。

でもひょっとして、新たにBLT妖怪になってしまったのか。

東京23区西部でBLTサンドのおいしい店教えてください。禁煙もしくは完全分煙だと泣いて喜びます。

 

出版社の裏切り事例

秋田書店による景品水増し不当解雇事件」が、会社と元社員との間で和解をみたとのこと。

www.seinen-u.org

なんかこういう、こういうというのは出版社の労使関係のゆがみが刊行物に波及して著者や読者を裏切る事例のことだが、定期的にあるなと感じる。

記憶にある事例を整理しておこう。

学研パブリッシングのムック「自然農法で野菜づくり」DTPがひどすぎて2刷に交換・改版刊行(2013年4月発覚)

hon.gakken.jp

問題箇所の大半は誤植(漢字などの1字まちがい)ではない。もっとひどい。

蛸巻日誌 2nd 同僚が買った本がヤバい(校正的な意味で)

↑が告発者(最初の報告者)の記事。DTP技術者のブログ。問題箇所の指摘とともに、事態の進行についても追ってくれている。

社会的な影響は、以下あつかう他の事例に比べて小さいと思う。実際版元である学研パブリッシングは「一部に誤植がある」程度で済ませているし、販売中止・回収はせず希望者は2刷と交換するというのは落丁レベルの対応で、たしかにその対応が過小だとは思えない。

ただ、実例は告発者の記事を参照いただきたいが、出版(とくに編集と組版の)関係者にとっては目を覆う、これを校了した編集部は全員労基署摘発余裕即診断書休職レベルの残業休出状態だったんですよね? そうですよね? でなきゃこんなこと起こらないですよね!? と一人ひとりの肩つかんで揺さぶりたいレベル。

いまもamazonの「なか見検索」に残るこのムックの奥付見るかぎりでは、社員編集と、このムックの元になった雑誌もやっている編プロとの共同編集になっている。この編プロはいまでも同じ雑誌の編集をやっているようだ。

制作の段階として、「問題」が生じたのはDTPの時点であることはまちがいない。ただし、DTP技術者は校正者ではない。DTP作業の第一段階が終了して、このくらいの荒れがあるのはまったくめずらしいことではない。したがってこの時点では問題でもなんでもない。編集者にとっては素材をDTPを担当するデザイナーに渡すのは第一段階、DTPが最初に出てきて第二段階、さあ赤ペンもってスタートだ、というところ。しかしこの本はそこで校了して印刷しちゃった、というおおおおおおい!! どこに目つけてんの!!

 つまり、これは編集者にとっては見慣れた状態だ。ただし校正の途中段階としては。だからこそ刊行物として見たときのショックが大きい。トイレ入ったらうんこが便器に鎮座してるみたいな。見覚えあるけど堂々と他人のを目の前に出されたらショックでしょ。流せよ! 流せよ!!!

 単なる「誤植」あつかいになったために、経緯の検証がなされた形跡はなく、もちろん発表もされていない。ただし背景に、スケジュールの尋常でない逼迫や編集担当者の過重労働が感じられる事例だった。

ぴあの「ももクロぴあ Vol.2」印刷部数虚偽報告(2013年9月発覚)

corporate.pia.jp

印税支払を減らすため、印刷部数を実際刷ったものより少なく権利元に報告。本体定価933円のもの10万部を6万部と偽ったわけだから、印税5%としても186万6000円。10%ならむろんこの倍。けっこうなもんだ。

その後、社がつくった特別調査委員会で過去の刊行物を調べ、20点について「印刷部数と契約部数に齟齬があったもの」が見つかったそうだが、これはない話じゃない。もちろん、実際の印刷部数が契約部数を下回り、かつ契約部数通りに印税が支払われているなら、だ。

プレスリリースのなかで「今回の事案の本質的な原因について」の項の冒頭に「特定社員における事象の発生が多いこと」が挙がっている。これ、まさか現場の社員のことじゃないですよね。いや、懲戒内容を見れば現場の社員にもっとも厳しい罰が下っているので、現場の社員を指していることは明らかなんだけど。

どこがおかしいかって、起こっていることが現場の担当者の発想じゃないからだ。10万部刷って6万部分しか印税払わず200万円儲けるっていう発想が、現場の社員から出るはずがない。まずその200万円は本の売上と必要経費の差額として社の手元で浮くお金で、現場の社員には一銭も入らない。それに10万部刷ったことは、印刷所の請求が回るし配本を決めたりする以上少なくとも会社は知ることになるし、印税率も社長名で交わされる契約書に明記してある。印税は契約書に基づいて経理担当者が手続きするから、編集であれ営業であれ担当者のところは通らない。これは社員数人の小出版社でもないかぎり共通だと思う。

現場の社員に、著者に対して印刷部数ごまかすモチベーションが発生するとしたら、社の手元でいくら浮いたかが社員と社の間で共有され、奨励されていたとしか……

いずれにせよ、いまはやってないことを願う。

秋田書店のマンガ雑誌読者プレゼント景品水増し・告発者不当解雇(2013年9月発覚)

同時だったのか! 印象に残っているわけだ。

秋田書店の社員嫌がらせ使い捨てブラックぶりは業界に鳴り響いていたが、読者に対するモラルのなさもすげえな……と絶句する事件だった。

ぴあの印税ごまかしもそうだが、雑誌で景品を用意しないで懸賞を行うなんてことは、会社ぐるみであれば非常に簡単なことなのだ。かんっったんにできてしまう。著者にも読者にも、見抜く方法はほとんどない。だからこそ、やってないことを信じてもらうには業界全体がぜっっっったいにやらないこと、それしかなかったのだ。そのブラックボックスというかパンドラの函が同時に開いちゃったのが2013年9月だったというわけ。

にしても「1個しかない景品が50人に当選したことにして、毎月毎月当選発表に載せる架空の名前を49人分考えさせられてた」ってのはなかなかレベルの高い拷問だ。意義がまったく感じられないことについて、作業の手を動かすことはできても、何かを思いつくのは不可能ですよ。

スクウェア・エニックスのマンガ『ハイスコアガールSNKプレイモア権利キャラクター無断使用(2014年8月発覚)

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当事者の公式説明がないので、もっとも客観的かつ専門家による記事として、安藤健二によるハフィントンポストのものを挙げておく。

著者は「(編集部が)許可を取っているものと思っていた」という。だが、実際には連絡されていなかった。そして他に作品に登場するメーカーには(事後承諾であり揉めたという報道もあったが)許可をとっていた。SNKという元のメーカーがすでに倒産している(SNKプレイモア著作権管理を引き継いでいる)とか、他のメーカーとはちがう事情もあったようだが、そのあたりは不明。

これは現場担当者がぶっ外れていた例だと思うが、その最たる発露は、単行本の最終ページがコピーライト表示に充てられており、そこにはSPECIAL THANKSとしてけっこうな大きさで各メーカーの名が挙げられていたことだ。その中にはもちろんSNKプレイモアもあった。いや、許可取ってないんだよね? なんで?

この事件は発覚したときすでに刑事告訴がなされていた。連載停止、既刊全巻回収に至るわけだが、悪意をもって取り上げている作品でもないのになぜここまでこじれたのか。労使関係のゆがみがあったのかどうかはわからんが、傍目にも担当者の判断力の不調を感じた。

2015年8月に(おそらく裁判所外で)和解が成立した。その時点では版元著者ともに復活の意思を見せていたが、連載は止まったまま(2015年10月末現在)。

発覚のきっかけが、TVアニメ化が決定し、アニメ制作会社から権利元に連絡をとったことというのが切ない。もっと伸び、広がり、力をつけて愛されるはずだった作品を、他でもない出版社の不手際がへし折った。まだ発展する余地が残されているのが救いだが、懺悔のつもりで奉仕せねばならんよ版元は。

有斐閣の「著作権判例百選」第5版で旧版編者の名前を外す(2015年9月発覚)

判例百選シリーズは、法学の初学者から専門家まで必ず知ってる使ってるという超定番。そのシリーズのよりによって「著作権」巻が著作権訴訟の訴訟物になっちゃったとさ、という皆さん大好き出オチ物件。

8割の判例について旧版と事例も記述も同じなら、旧版の編者に連絡を取らない、名前を外すなんてのはまったく理の通らない話だ。だいたいなぜ新版で外したのか? 金銭上の理由だろうか? 旧版の製作途中に揉めでもしたのだろうか?

元裁判官の大学教授、著作権の専門家をあえて敵に回すほどの理由が見えないので、これも不気味。

有斐閣は発売延期でおさめるつもりだったようだが、昨日(2015/10/28)出版差止の仮処分が決定された。

www3.nhk.or.jp

リブレ出版のマンガ雑誌「特濃b-BOY①調教特集」同人誌原稿無断掲載(2015年10月発覚)

www.libre-pub.co.jp

どんな名前の雑誌であろうが、シリアスな問題に直面することはあるわけで。

それはともかく、超弩級の担当者ぶっ外れ案件。編集部にも著者にも両面外交でホラを吹きまわり、著者の同人誌から原稿取って雑誌に掲載。著者は一部始終をツイート。即ばれて回収、本人は懲戒解雇という流れ。

超弩級ぶっ外れ案件ではあるが、もっともわたしの同情心をかき立てるのがこの事例なんですよ……編集者には、とにかく問題を起こさずに、考え得るすべての行動をして、著者を丁寧に校了まで運んで届けること、途中で何があっても、その事態は自分のところで受けとめて届けきるのが能力の証明っていう考え方が根付いちゃってるのよね……もちろんその弥縫の方向性が彼女(だろうたぶん)の場合致命的に見当違いだったのだが。

気むずかしい著者、スケジュールが読めない著者、気が合わない著者、それぞれに対応して、さも大変じゃないように受けとめきるのが美徳とされている以上、取り得る行動の範囲が自分の中でどんどん広がって、最終的にはただ自分のためだけに、何も起こってないふりをするためだけに、編集部にも著者にもホラ吹きまわるその最中の心境、それは我がことのように、むしろ我がことそのものに思えてくる。

彼女は懲戒解雇になった。それに際して、以下の条件がついている。

・はらだ先生に対し原稿執筆がキャンセルになったにも関わらず、当該編集者自身の独断で原稿の改変・改題を行い、無許諾で掲載したこと、また、はらだ先生と弊社に対し、事実経過について事実とは異なる内容を伝え、はらだ先生と弊社との信頼関係を損ねたことを、真実と認めること。
・また、上記を踏まえて懲戒解雇を受け入れ、今後、出版業をはじめとするコンテンツ制作業に従事し同様の問題を起こさないことを誓約すること。

「真実と認めること」それは彼女にとって非常に困難だっただろう。それが自分で作りだした圧力だったとしても、ものすごい圧力を感じながら必死でやっていたことすべてが徒労でありむしろ悪行だったことを自覚しなきゃいけなかったんだから。

そして二つ目の条件の「今後」以降、これはふたつの意味にとれますよね。彼女はこのあと、出版業をはじめとするコンテンツ制作業に従事できるのかどうか。

「従事できない」ではないと思いたい。

気持ちとしてもそうだし、一つの会社を懲戒解雇になっただけで、彼女の将来にそれを課すことができるのか疑問だし。ああそもそも、またこの仕事に関わらなければ、「同様の問題」をふたたび起こすのは不可能だ。

最後に、減俸・降格になった社長部長デスク全員女性なのが、そんなこと言ってる場合じゃないが、嬉しくなってしまう。女性誌だって大きい会社ならデスクも編集長も大半男なことが多かろうから。

※「彼女」は複数の出版社を渡り歩いて同様のスキャン同人誌無断掲載事件をたびたび起こしている札付きである、との指摘もあったようだ。そうなのか。初犯であることを前提に考えちゃった。そうなると外面のいいサイコパスに編集部がどう対応するか案件に化けてしまう。

エイ(木世)出版のセブンイレブン向け廉価ムック「日本酒入門」原著者無断二次使用(2015年10月発覚)

10月26日発売の『日本酒入門』に関する件 |エイ出版社ニュースリリース

いまのところ最新事例。発覚したのは、版元が「複数刊行致しました日本酒関連のMOOKおよび書籍」とさらっと十把一絡げにあつかったうちの1冊の著者による告発だった。

ameblo.jp

↑著者の最初の告発。あっという間にバズった。著者はその後も事態の報告をつづけ、回収が未徹底であること、版元のニュースリリースが謝罪文の体を成していないことなども怒りとともに公表している。

セブンイレブンやローソンで、雑誌ラックの手前に出版社ごとの簡易什器が下げられ、PHP研究所講談社の書籍が置かれているのはよく見かける。当初は店売書籍のうちコンビニ需要が見込めるものを流していたのだと思うが、最近はコンビニ専用の書籍がふえてきたように見受けられる。コミックはずいぶん以前からコンビニ向け廉価版を刊行していたわけで、実用書の対応は遅いくらいだったのかもしれない。

実用書において顕著な問題は、手間(これは時間、著者を含めた外部のマンパワー、写真などの誌面要素、ぜんぶを含めた概念で、要はお金)がかかるわりに読者が払ってもいいと思ってくれる額が少ないこと。コンビニという場ではその額はさらに減るだろう。しかも「安いのにいっぱい載ってる」という情報量への期待が大きい。じり貧。

そこから容易に、コンビニ向け商品に手間(くどいようだがイコールお金)をかけられない→すでに製作費を払って制作が済んでいる複数の書籍から引っ張ってきて、引っ張って切り貼りする編集の手間賃(やっすい)だけ払って、安い本作っちゃおうぜというナイスアイデアが出ちゃうわけである。だろう(推測)。

今回の告発者である著者は「フリーランスだから、下請けだから舐められた」という点を強調しているが、版元にとってはそれは本質的ではないと思う。

  • もう支払いが終わった既刊はつまり自社コンテンツ(そんなわけないのだが)という勘違い
  • トラブルを回避するのに先に手間(二次使用料を請求されるリスクがあっても原著者に連絡して許可取るとか)をかけた方が結果的に得だと思えないほど状況(金銭的/時間的)が逼迫していた
  • 先に出した書店売りの既刊とコンビニ廉価本とは読者が被らないからたった半年前の本から引っ張ったっていいじゃないと甘く見た

なんかが先で、つまみ食い対象としてその著者の本が選ばれたことはその先にあることなんじゃないかと。……いや、この辺の判断がイチイチ甘いことの根本に、フリーランスや下請けである書き手への軽侮があるのかもしれないな。否定できない。

コンビニ廉価本ってあの値段でどうやって成り立ってるんだろう、という素朴な疑問に、そりゃそうですよねーという回答の一端が示されちゃった事例だった。

 

じゃ、だれが神様なのか

なんか人ごとみたいに偉そう書いてしまったが、以上の事例全部、わたしが「ああああああ」と思っちゃったものばかりだ。その度合いに差こそあれ、まったく無縁だと言い切れるものはひとつもない。やらかしたらどれだけ痛いかわかるから「ああああああ」ってなる。それはニアミスをやってるからです。実体としても、意識の上でも。

編集は上司を末端とする社の意向と書き手との間に板で挟まれやすい仕事で、社の意向は切り離しがたく売上と結びついている。労働条件の悪さやなんかが引き金になって判断力を失い、どちらかを過度に優先しはじめると以上の事例みたいな大事故が発生しやすいのだと思う。以上の事例には書き手の偏重事例ないですけどね。

とはいえ、バランス良くというのは簡単だが、コンテンツを作る仕事はのめりこんでナンボの部分もあるので、最初からブレーキ引いていたら生まれるものがない。

社(編プロの人にとっては版元編集ってことになろうか)も、書き手も、神様にして信仰するわけにはいかない。じゃだれを信仰して、指針にして、仕事すればいいのか。これは決まっている。読者だ。読者を神様にすればいい。

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これは三波春夫オフィシャルサイトで「お客様は神様です」というフレーズの真意について説明した記事。このことばが、歌手と聴衆二者の関係しか射程に入れていないこと、三波が、神に奉納するように心を昇華して毎度のステージに立ちたいと願っていたことが簡潔に説明されている。いかに暴虐であっても許される、だって神だから、という人口に膾炙した用法は不本意だったようだ。

編集者が心に住まわせる読者は特定個人ではない。ある種理想化された読者だが、その理想は自分が都合で左右できるようなものではない。その意味で「神様」。刊行物は供物であり、つねに自分にとって供物にふさわしいものでなければならない。精進潔斎して供物には臨むべきで、寝不足ふらふらで赤ペン握るなど許されないことである。

神であるが故読者は厳しく、わたしが供物を作る過程でなにをしてなにをしなかったかを見通している。そして、無駄な努力に対して加点してくれることはない。アンテナに引っかからなければ完全に無視する。神に「わたしに同情しろ」などとはいえない。

存在しないプレゼントの告知記事を校正するとき、ぎりぎりでDTP入稿したページががったがたのDTPで上がってきたとき、コンテンツにかかわった人のすべてが奥付やクレジットになっているか確認するとき。供物にしずかに向き合う瞬間が皆無だったとは思えない。そのときに心の裡に神様がいれば、ベストの判断ができる確率が上がる。

建前の話をしてるわけじゃない。むしろ経験知やノウハウに近いと思う。とはいえ、「読者が一番」なんて建前だと思わなければやっていられない環境もあるのだろう。さいわいいまわたしがいるジャンルは、わりと真顔で「読者のために」が言える場だ。ありがたい。

思い出した事例を箇条書きでぱっと並べるだけのつもりが、各事例についていろいろ書いてしまった。もうあんまりこの事例を追加したくはないもんだ、お互いに。おわり。

だけの人

この本を読んでいる。

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目次

 プロローグ(石埼 学)
第1章 ユートピアと人権―従来の人権論の意義と限界(石埼 学)
第2章 人権教育再考―権利を学ぶこと・共同性を回復すること(阿久澤麻理子)
第3章 セクシュアリティと人権―「沈黙する主体」と「沈黙の権力」(志田陽子)
第4章 家族と人権―「家族」神話からの解放(若尾典子)
第5章 スティグマと人権―精神保健福祉法批判(石埼 学)
第6章 「原理論の語り」と人権―フィンランドの無住居者政策(遠藤美奈)
第7章 ヘイトクライムと人権―いまそこにある民族差別(金 尚均)
第8章 記憶の記録化と人権―各々の世界の中心からみえるさまざまな憲法観を考えるために(榎澤幸広)
第9章 「語り」をめぐる権力と人権―被差別部落女性と発話の位置の政治(熊本理抄)
エピローグ 人権・その根源を問う(遠藤比呂通)

 各章で検討の対象になっている人びとが、どのように権利を奪われてきたかはある程度知られていると思う。この本はさらに、彼らがどのように黙らされてきたかを語る。どのように、人権を求めること自体を封じられてきたか。

わたしは個別の問題について語るべき知識を持っているわけではないが、第6章を読み終えた時点で全体像が見えてきた気がするのでメモしておく。

フィンランドにはホームレスの人はいない

第6章には、フィンランドが何年にもわたる社会施策でどうやって「ホームレスの人」の人数を減らしたかが書かれている。その施策ひとつひとつももちろん興味深いのだが、わたしがまず蒙を啓かれたのは次に挙げる箇所だ。

フィンランドで日本にいう野宿者問題が語られるとき、「ホームレス」にあたる言葉(koditon。直訳すれば「家なし」)は使われない。1960年代まではこの語も使われていたが、70年代には行政によって意図的に、「住居なし」(芬:asunnoton 英:houseless。以下、無住居者)という語に切り換えられていった。

その理由には、「住居を持たない人びとに一定の人格的属性を付着させる定義から離れるのが望ましい」ことがまずあるという。「ホーム」のない人、「一定の生の背景を欠く、社会から切り離された根無しの人びと」という「人格的属性」をふくむことばをやめて、単に「住居のない人」と考える。ことばから、まずそうしていく。

単に住居のない人には、その人が入れる住居があればいい。その後政策は、アルコールや薬物、未就労などの問題を解決した人が、ステップアップの結果として住居を手に入れる「階段モデル」を捨てて、ひとまずすべての人に、自分の名前が書かれたドア(=住居)を提供し、さらにサポートが必要な人にはサポートをするという「ハウジング・ファースト」まで発展していく。

「ホームレス」じゃなくて「住居のない人」。住居がない「だけの人」か。それはおもしろいな、とわたしは思った。

たとえばわたし

たとえばわたしは、結婚している。小さい子どもがいる。女である。働いている。太っている。

わたしがどんな人間か、いままで何をしてきたか、この情報で輪郭がえがけるだろうか。

えがかない方がいいと思う。

わたしは結婚している「だけの人」である。なぜ結婚しているか、結婚によって何を得ているか、何を失っているか、これだけではわからないと思う。

わたしは小さい子どもがいる「だけの人」である。その子どもがなぜいるのか、いるからどうなのか、これだけではわからないと思う。

わたしは女である「だけの人」である。これだけでは何もわからないと思う。

わたしは働いている「だけの人」である。何時から何時までどんな仕事をしているか、条件に満足しているか、その仕事は楽しいのかつらいのか、これだけではわからないと思う。

わたしは太っている「だけの人」である。標準より体重が重く、体が大きく見えると思う。なぜ太っているのか、どんな人柄なのか、太っていることを自分でどう思っているのか、これだけではわからないと思う。

ていうか、わかられたくない。

「だけの人」の前につくなにかを属性と呼ぼう。わたしについて並べた以上の属性は事実だが、その属性を持っている→ということは→こう考えているはずだ、これを持っているはずだ、こういう過去があるはずだ、という発展を一つとしてしてほしくない。女だ→ということは→こうなはずだ、と一つも展開してほしくない。その展開が、わたしに対して好意的な動機からのものであっても、絶対にしてほしくない。

また、その属性を持っている→ということは→こう扱ってもいいんだ、あるいはこう扱うべきだ、と思われ、そのように扱われるのはいやだ。それが一見よいことであってもいやだ。

これらの矢印に既製の名札をつけよう。「ゲスの勘繰り」。

ゲスの勘繰りを撲滅すればそれで済むんじゃないだろうか

たとえばシングルマザーの人は、配偶者を持たずに子どもを育てている「だけの人」である、と考えてみよう。鼻の穴がでかい人が、鼻の穴がでかい「だけの人」なのと同じ。

家計の支持者および育児を含む家事の担当者を一人欠いているわけだから、なんだかの助けを必要とする可能性があるだろう。ここまではゲスの勘繰りじゃなく、当然の推論。しかし、目の前の人がその「助け」を求めているとは限らない。「だけの人」だから。

シングルマザーであるという現状からは、どういう事情でシングルマザーになったのかはわからない。いまそういう現状にある「だけの人」。

かわいそうじゃなくていいし、一生懸命でなくてもいい。配偶者のいない理由が未婚でも離別でも死別でもいい。ただシングルマザーな「だけの人」に対して、シングルマザーであるがゆえの何かを(よい心根や、逆に後ろ暗い事情とかも)期待しなくていい。

そしたらシングルマザーの人は、自分はシングルマザーな「だけの人」だと思って、必要な援助を求めやすくなると思う。黙らされなくなると思う。わたし鼻の穴がでかいから、人にどう思われてもしかたがない、とは思わないだろう。それと同じ。

その結果生活保護を得たとする。そしたらその人は、シングルマザーで生活保護を受けている「だけの人」になるだけ。なんなら、鼻の穴がでかくてシングルマザーで生活保護を受けている「だけの人」。お? 違和感感じましたか? 鼻の穴とシングルマザーちがうやろ、と思いましたか? その違和感こそを「ゲスの勘繰り」と名付けてはどうか。で、恥じて、いずれはなくしちゃえばいい。

これがたとえばセックスワーカーの人でも、外国籍の人でも、「だけの人」って考えてはいけない理由が思いつかない。わたしにとっても、どんな相手にとっても、「だけの人」って思って思われることが、気持ちよく生きる方法として有効なんじゃないかと思う。逆に、ゲスの勘繰りが人権抑圧諸悪の根源な気がしてきた。

ジャストアイデアです

ただし、これは冒頭に掲げた『沈黙する人権』を読んだことでどうしても書きたくなっただけの、わたしにとってのいいアイデアにすぎない。このアイデアを持って、ネットに流れる論争や、国の政策を裏付ける言葉なんかをしばらく読んでみようとおもいます。おわり。