レポート:佐藤良明×柴田元幸トークイベント「『重力の虹』の(楽しい)苦しみ方」 (※追記あり)


11月29日青山ブックセンター本店で行われた佐藤良明先生と柴田元幸先生によるトマス・ピンチョン重力の虹』新訳刊行記念のトークイベントに行ってきたので、備忘をかねてレポートをあげておきます。
録音・撮影禁止だったので、汚い字のメモを元にまとめました。お二方の言葉どおりの採録ではなく、聞き取れた内容の私なりのまとめということでご理解ください。内容の60%拾えていればいいほうかと思います。聞き落としはもちろん、聞き違いも少なからずあるかと思います。勝手に補っているところもあります。お気づきの点があればご指摘いただけるとありがたいです。
いずれどこかの雑誌や書籍で活字になるまでの間に合わせ、ということで。

会場で配布された佐藤先生作の<重力の虹』配線図>も載せようかと思ったのですが、すごい力作なので、勝手に公開してしまうのはいかがなものかと思い直しました。佐藤先生がブログなどに載せてくださるまで、しばらく控えていようかと思います。しばらく。


***


(追記)
トークの内容が「新潮」に掲載されるという発表がありましたので、私のまとめは削除することにします。レポートを読みに来てくださった方、すみません。「新潮」でちゃんとしたまとめをお読みください。
https://twitter.com/crestbooks/status/540080261716008960
https://twitter.com/crestbooks/status/540080306813149184



動画と画像のリンクだけは残しておこうかな。


トーク内で紹介された動画と画像)

1.動画「ペーネミュンデからロンドンへ」
http://www.youtube.com/watch?v=s83SUmooj5k


2.ペーネミュンデの地図と、歴史技術博物館(通称ロケット博物館)の「第7試験発射台」の展示
http://www.peterhall.de/srbm/v2/development/dev312.html
https://www.flickr.com/photos/yetdark/8066443864
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Pr%C3%BCfstand_VII


3.動画:ノルトハウゼン近郊のロケット工場跡とドーラ収容所
https://www.youtube.com/watch?v=42YAgxHgBZQ


柴田先生がご自身の翻訳を朗読されたザック・スミスの『トマス・ピンチョン重力の虹』全頁イラスト解説』(Pictures Showing What Happens on Each Page of Thomas Pynchon's Novel "Gravity's Rainbow")に寄せたスティーブ・エリクソンの序文の朗読の原文はここで読めます。




一部だけ公開された佐藤先生の「『重力の虹』ABC」というパワポ資料、全部拝見したかったなあ。あと途中で終わってしまったマーヴィとチクリッツの駄洒落の話も。

ジェラルド・ハワード「『重力の虹』の思い出 〜ピンチョン A to V〜」翻訳(その3)

翻訳最終回です。

ちょっとほろ苦い後味。


関心もって読んでくださった方、ありがとうございました。

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(承前)


あれから31年後、すっかり変わってしまった文学的風景の中にいるまったく異なった人物として、私は『重力の虹』の再読にとりかかった。私は怯む気持ちを感じずにはいられなかった。これは中年の男の住める国ではないのではないか*1。全工程を踏破し、亀裂を生み分岐していく物語の枠組み、何十人もの奇妙な名前の登場人物、テーマや科学や象徴に関する圧倒的な素材群、そしてバロック的な統語法、こういったものをしっかり頭の中に入れておける精神的なスタミナが私にあるのだろうか。書かれた言葉の明晰さと直線的な発展のために捧げてきた職業生活が、私をこのマジカル・ミステリー・ツアーに参加する資格のない人間に変えてしまったのではないか。私自身この本をいいと思わなくなっているとしたら? 思考実験のつもりで私は読んだ――アカデミックなピンチョン産業がこれまで本やウェブで拡散させてきた批評、手引書、索引、カンニングペーパーなどに頼らないこと。自分とテクストの一対一。1973年とまったく同じように。ただしドラッグなしで。


最初の反応はこうだった。うわあ、こりゃすごい本だ。文章は豪奢で、今日の作家の誰ひとりとして成功するどころか試みてもいない高密度の引喩や含意、そして超絶的な機敏さをそなえていた。最大限の注意を払っていなければ、そして矛盾するようだが、キーツが言うように「気短に事実を求める」ことをやめなければ、すぐに迷路にまよいこんでしまう。守るもののない世間知らずの22歳ではもはやなく、さまざまな社会的責任を背負った54歳となり、やるべきことが山積みだった私は、読書の時間を午後10時の深夜枠に制限せざるをえなかった。ピンチョンの暗示的な語りの声に脳波を支配されたまま、私はよろよろとベッドにたおれこみ、現代の小説が提供しうる最も不穏な潜在的内容に満ちた不安な夢の夜へと落ちていった。それは奇妙な6週間だった。私は、自分自身の内部の<ゾーン>で秘密の生活をおくっているような感覚を覚えていた。


私は1973年当時よりも辛抱強さをうしなっていた。けっして意味不明なものを呼んでいるとは思わなかったが、この本には非常に私的で、閉鎖的に感じられるところがあり、私には、ピンチョンが主に語りかけている相手はピンチョン自身ではないかと思えた。だじゃれやユーモアのいくつかは遺憾なほどに馬鹿げたものだったし(例えば「『易経』の足」とか*2)、時代遅れになっていた箇所には多少いらいらした。おそらく、あのころ『重力の虹』を読んでいた私は、今の私よりも柔軟で、寛大で、口うるさくなかったのだろう。そしてまた、あの少年は頑張ってそういうふりをしていたのだろうとも思う。


しかし私は最終的には(いや読み終わる前から)、30年前よりもはるかにこの本に感銘を受けたのだった。アメリカ文学のすべての作品のなかで、この小説がカバーしている並外れた知的な領域の広さと学識の深さに匹敵するようなものは1つとしてない。そしてその宇宙的な規模のドラマ! ピンチョンは私たちのメルヴィル、私たちのブレイクであり、善悪、無垢(そのアメリカの変種)、そして経験について歌う私たちの叙事詩人だった。ヴィダルは、彼が呼ぶところの「研究開発」小説家に異議をとなえたエッセイのなかで、ピンチョンの散文のセンスについて言いにくいことを述べていたが、私は同意しない。ピンチョンの言語の使用域の素早い移動――叙情的な文体から、詳細な歴史記述、スカトロジカルな描写(彼は糞についての詩人でもある)、存在論的・ヒステリックな文体、ヤク中患者の文体、予言者・預言者的な文体へと次々に移っていく――は、名人芸である。いまや私には、ピンチョンの偉大な達成は、何を語り、何を行うにも十分なほどに柔軟な語りの声を作り出したことだったのだと思える。大小さまざまな事柄について言及するさいにみせる自由さにおいて、『重力の虹』の語り手は、ほとんど前近代的であるといってよい。私はようやく次のことを理解した。『重力の虹』は一般的に理解されている意味での小説ではなく、道徳的な教育のために書かれたテクストなのだと。このことは、ジョン・ウィンスロップの船に乗ってこの国へやってきて、反カルヴァン的論文「我々の救済の神秘的な代償について」を物して論争となりボストンから追放されたウィリアム・ピンチョンというピューリタンの先祖をもつ作家にとって、まさにふさわしい。『重力の虹』は、怠惰な批評家が非難するようなニヒリスティックな小説などではまったくなく、意味、しるしや前兆、そして教育の機会があふれるほど豊富に詰まった作品なのだ。


それはまた予見の力もあった。もちろん、『重力の虹』を、その未来予測がどの程度正確だったかという観点で評価することは、オーウェルについて、彼がどれくらいまで現実の1984年に近づいていたかという基準で評価するのと同じくらい無意味なことだ。だが、現在から振り返ると、はっとさせられる予見的な契機がそこに含まれている。<ゾーン>内のあるドイツ人の技師は、罪悪感が商品として大量生産される未来を予見する。「強制収容所は観光客の見世物になるだろう。カメラを持った外国人が群がってどやどややってくるだろう」[新潮社版下巻110頁、国書版下巻93頁]。この箇所は、ピンチョンが、IGファルベンのようなドイツの企業やそれらの戦時中の恥ずべき活動の歴史――そしてそれらとアメリカのビジネスとのショッキングな関係――を掘り下げていく箇所と同じくらい秀逸である。さらにいっそう秀逸なのが、デジタル化した世界と情報経済についての予想図である。つまるところこれは、ありとあらゆる現象を「ゼロと1」に還元しようとする人間の性向が強迫観念としてとりついてしまった本である。ふむ。チューリヒで、1人のロシア人の闇商人がスロースロップに愚痴をこぼす。「世の中が狂うのも当たり前だな。情報なんてのだけがリアルな交換媒体になっちまうんだから」。そしてこう予言する。「いずれはぜんぶ機械がやってくれる。名づけて情報マシーン。あんたは未来のウェーブだよ」[新潮社版上巻494頁、国書版上巻339頁]。じつに正しい。スロースロップの予知的な勃起現象や他のもろもろに対する超監視体制は、今日の私たちの生活――キーボードの一打一打がスパイウェアによって記録され、取り引きのすべてがデータバンクに蓄積される――を予見している。スロースロップの自我の崩壊と精神の統合失調は、現実のゼロと1の王国における私たち全員の最終的な運命ともみなせる。


数十年たって読んだ『重力の虹』は、ますますその存在感と適切さを増していた、というのが私の見解だ。ではより広く、この作品がアメリカ文学に及ぼした影響はどうだったか。まず言えるのは、あれから出版されてきた数々の小説のなかで、この本の本当のライバルになるものはなかったということだ。そこにピンチョンのその後の作品、『ヴァインランド』と『メイスン&ディクスン』も含めてよいだろう。どちらの作品も多くの優れたところがあるが、月にまでもっていきたいとまで思う者はいないのではないか。ウィリアム・ギャディスの『JR』は、名人芸的なパフォーマンスであり、非常に予言的な力をもつ作品だったが、それはやや形式的な離れ技という感じもしたし、一方彼のその後の作品は、人間の愚行に対する極端にスウィフト的な嫌悪が欠点となっている。別格なのは、戦後アメリカ文学におけるもうひとりの巨人、ドン・デリーロだ。デリーロは、ピンチョンと同じように、小説を、20世紀後半のアメリカ人であるということの特殊な存在状態を、その同伴物である恐怖、神秘、不条理とともに探求するための手段として利用したのだった。『アンダーワールド』は冷戦の意味についてのもっとも信頼のおける要約となっているが、デリーロの成し遂げた業績の大きさは、その作品と、その前の素晴らしい3作『マオ2』、『ホワイトノイズ』、『リブラ』をともに考察することでその範囲を確定できる。『重力の虹』と同じく、これらの小説は、アメリカの生活と、その根底にある広大なシステムを、科学とテクノロジーによって媒介され、可能となったものとして理解する。それらの小説は、完全なる安全と統制という夢がいかにしてパラノイアを生むのか、そしてそのような世界の中で、リー・ハーヴェイのようなフリーラジカルたちがいかに大混乱を巻きおこすのかを見せてくれる。デリーロはその気質とスタイルにおいてアポロ的であり、彼の小説に登場する技術官僚たちや妄想患者たちの秘密の共有者である。一方ピンチョンは冥府的であり、より暗い神々と触れている。私たちは、この両者のどちらかを選ぶ必要はないことに安堵し、100年後の人びとがこの2人の本を読み、私たちのこの奇妙な生活の輪郭と性質を理解してくれるだろうと確信するのである。


重力の虹』のより直接的な「影響」はどうだったか。アメリカの若手作家の中の「高IQ派」と私が呼んでいる人たちにたしかにそれが見られるように思う。聡明で、情報工学に通じたリチャード・パワーズは、ピンチョンから科学、数学、遺伝学、そして音楽などさまざまな領域から引かれた隠喩的な道筋にそって小説を構築する方法を学んだ。ウィリアム・T・ヴォルマンは、その野心的な目標と博識の射程範囲において、彼の世代でもっともピンチョンに似た存在である。とはいえ、彼はまだ形式についての問題を解決する必要がある。デヴィッド・フォスター・ウォレスはひょっとしたら、ピンチョンを除けば、アメリカ文学界におけるただひとりの正真正銘の天才かもしれない*3。大作『尽きることなき冗談』が出版されたとき、『重力の虹』の再来であるかのごとく騒がれたが、それにはそれなりに正当性がある。しかし『重力の虹』が外に目を向け、西洋の歴史の悲劇的なノイローゼから脱出する道を探っているところで、『尽きることなき冗談』は内へと潜りこみ、私たち全員がかかえている心の弱さと、自分に催眠術をかけて記憶喪失状態にしてしまう私たちの文化の性向へそのアンテナを向けている。最後に、ジョナサン・フランゼンは、ピンチョン的な感性を家族小説に結びつけ、『コレクション』で爆発的な効果をあげた。ただオプラ・ウィンフリーが話を持ちかけてきたとき、彼は別な意味でピンチョンの真似をすべきだったろう*4


しかし私は、『重力の虹』が、次第に訪れる人の稀な記念碑になっていくのではないかと恐れている。私の出版社にいる30歳以下のアシスタントと編集アシスタント16人――大変な読書家のグループである――に聞いてみたところ、『重力の虹』を読んだことがあるのはたった2人、ピンチョンの小説を読んだことがあるのはたった5人であった。その5人の話からすると、ピンチョンは文体のせいで読みにくいと感じており、ピンチョンが取り上げているテーマも、彼らにとっては総じて疎遠で、関係ないものと受けとめているようだった。もっともな話だ。ピンチョンの作品は、冷戦と軍拡競争、そしてそれらに反対する対抗文化の純粋な産物である。しかるに、これらの若者たちは、共産主義の崩壊以後、テクノロジーが想像力と個人の自由の王道とみなされる時代に成人した世代なのだ。事実上、『重力の虹』は過去のものとなりつつある――避けようもない宿命だ。30年経つうちに、この本は、ヴァルター・ベンヤミンが複製技術の発明前に制作された芸術作品がまとうとした「アウラ」のいくばくかを獲得している。残る問いは、この先、この本が決定的に古いと思われるようになる日が来るのか、あるいは、「古くならないニュースであること」というエズラ・パウンドの試験に合格するのか、ということだ。誰が知ろう。私が『重力の虹』にかんして絶対確実だと分かるのはこれだけだ。「これに比べられるようなものは何もない」ということ。


***


人生とはつらいものだ。このエッセイの準備中、私はコーク・スミスに久しぶりに会ってインタビューをするため、2004年10月14日に一緒に昼食に行く約束をした。その2日後、彼の妻シャイラ・スミスから電話があり、コークは心不全の徴候があるので経過観察のため病院にいると伝えられた。数年前から彼の調子はよくなかった。以前にうけた心臓切開手術は成功していたが、肺気腫が悪化していて苦しんでいたのだ。それでもその3週間後、コークから連絡があり、気分がよくなったので(翻訳すると全然よくないということだったが、他にどうすればよかったのか)、昼食は感謝祭後の月曜日にしようということになった。休日の2日前、Eメールを開くと、「コークは昨夜亡くなりました」という件名のメッセージがあった。こうして私はコークに話を聞く機会を永遠に失ったのだった。『重力の虹』の輝かしい出版の思い出について、また他のさまざまなことについても。


コーク…

*1:W・B・イェイツの詩集「ビザンティウムへの船出」の一行目「これは老人が住める国ではない」のもじり。

*2:新潮社版下巻671頁の注45を参照

*3:2008年に46歳の若さで亡くなってしまった。自殺と言われている。 http://chronicle.com/article/David-Foster-Wallace/41608

*4:オプラ・ウィンフリーのブッククラブと「ジョナサン・フランゼン事件」についてはここに詳しい。 http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/5565/1/gaikoku471733.pdf

ジェラルド・ハワード「『重力の虹』の思い出 〜ピンチョン A to V〜」翻訳(その2)


続きです。

重力の虹』のような小説も、たくさんの人の協力があってはじめて完成したんだなあとしみじみ思わされる。

翻訳は次でおしまい。

***

(承前)


2004年の夏のある金曜日、私はヴァイキング・ペンギン社の半分打ち棄てられたオフィスにこもって、『重力の虹』の分厚い編集資料のファイルをめくりつつ、忘れがたい午後を過ごしていた。忘れがたいというのは、過ぎ去ったオフィステクノロジー(カーボン紙、電報、手動のタイプライターで打たれたメモ)や、傑出していた故人たちの名前を――ヴァイキング社で長年文学アドバイザーを勤めたマルコム・カウリーから、同僚たち、良き師たち、そして友人達まで――そこで目にし、深く心を動かされたからだ。だがまた、ドロシーのようにカーテンの背後をのぞきこみ、20世紀の最も重要な小説の1つを打ち上げた発射台のレバーがどのように引かれたのかを確かめるという純粋な魅惑もあった。


ほとんどのピンチョンファンが知っているように、コーリーズ・スミス――みんなにはたいていコークと呼ばれていた――は、ピンチョンが駆け出しの作家だったころからの担当編集者だった。背が高く、ハンサムで、さりげなく貴族的な、オールドスクールの出版人(ツイードジャケット、フィルターなしのペルメル)で、その驚異的な業績、非の打ち所のない文学趣味、そして何食わぬ調子の、ときおりはっと驚かせる卑俗なウィット(「しかしその本には私がいままで読んだなかで最高の馬の交尾シーンが出てくるよ」と、とある販売会議上で、ある小説について真面目くさった顔で言ってのけたのが今でも忘れられない)でもって、かれはヴァイキング社の若い社員たちからアイドル視されていた。彼よりも親切で、正直で、率直な男はいない。小説編集の技の目利きたちは、コークをその世界のトップだとみなしていた。彼がともに仕事をしたのは、ピンチョンのほかに、ミュリエル・スパーク、ロバートソン・デイヴィス、ジミー・ブレスリン、ウィリアム・ケネディ、ハリエット・ドアー、マディソン・スマート・ベル、グロリア・ネイラー、そしてキャロリン・シュートがいる。私は1980年にヴァイキング・ペンギン社に入社したが、そのおよそ3時間後には私はコークのオフィスにいた。そしてそれがささやかだが素晴らしいピンチョンをめぐる冒険につながることになったのだ。忠実なるコーネル大学卒業生として、私はリチャード・ファリーニャの素晴らしい(かなり良い、というべきか)コーネル大学をモデルにした小説『ビーン・ダウン・ソー・ロング・イット・ライクス・アップ・トゥー・ミー』が絶版になっていたこと嘆かわしく思っており、そしてこともあろうに、彼の親友のピンチョンならペンギン社で復刊したら喜んで序文を書いてくれるのではないかと思いついたのだ。さすがピンチョン。彼は比類のない優しさにあふれた文章を書いてくれ、またスペイン語の動詞の時制の問題について電話で話す機会を――彼の声は60年代はじめの深夜のビートニクDJを髣髴とさせた――私に与えてくれた。しかしなんと。コークが教えてくれたところによると、1965年にファリーニャの小説がピンチョンに渡されたとき、彼は「ピンチョンのまがい物みたいだ」と言って(うわあ)、エージェントにつき返してしまったという。


1960年にコークがピンチョンの最初の短編のひとつ「低地」を文芸雑誌「ニュー・ワールド・ライティング」に掲載する権利を買ったとき、彼はフィラデルフィアを本拠とするその雑誌の出版元リッピンコット社の若き編集委員だった。同じころ、あの伝説のカンディーダ・ドナディオがエージェントとなって、題名未定、テーマも未定の1冊の小説についての契約が交わされたのだった。私は、やがて『V.』と呼ばれることになるその小説の編集段階で、コークとピンチョンの間で交わされた約20通の打ち合わせの手紙のコピーを持っている(どうやって手に入れたのかは秘密だ)。最終的に題名が決まるまで、かなりひどい案もいくつか、少なくとも一時的には検討されていた。『ベニー・プロフェインのヨーヨー世界』、『ハーバート・ステンシルの探求』、『操られた世界』(以上がコークのアイディア)、『漂泊の血』、『パラダイス・ストリートにて』、『そして彼はコケる』、『過ぎ去りしものの足跡』、『今夜は孔雀の羽の見よ』、『共和党はマシーンだ』(以上がピンチョン)。どのようにして『V.』という完璧に明瞭な題名に落ち着いたのか、手紙は語ってくれていない。コークは早い段階で、「偵察旅行」を兼ねて、彼の新しい担当作家をシアトルに訪ねた。ピンチョンはそこでボーイング社のテクニカルライターとして働いていて、大陸間弾道ミサイルミニットマン」の開発プロジェクトなどに加わっていた――来るべきV-2ミサイルの吟遊詩人にとって完璧なリサーチワークだ(興味深いことに、今は亡き詩人にして教師のリチャード・ヒューゴーは、ドイツに対する空爆作戦に参加した退役兵士であったが、彼も当時ピンチョンと同じ部署で働いていた)。コークとピンチョンの手紙のやりとりには、真剣さと、熱い情熱と、おどけた調子とがかわるがわるあらわれている。数多くの緻密な編集作業が双方の側で行われた。ピンチョンは、助言を受けることにすこしも抵抗を覚えない若手作家という印象を与える(「正直にいって、私は小説を書くことについてまだこれっぽっちも分かっていません。だからどんな種類の手助けも必要なのです」)。しかし同時に、そうしなくてはならないときには自分の意見を貫くほどには自信があった。ややショックなことだが、コークはどうやら、マクリンティック・スフィアを扱った部分はこの小説全体を無駄に「黒人問題」についての「抵抗小説」っぽくしてしまうと考えていたらしく、それを削除するよう提案している。ピンチョンはしかし、ありがたいことに、気を使いながら、しかしまたきっぱりとそれに反対している。


彼らは非常によい仕事をした。1963年に出版された『V.』は、今では20世紀に書かれたもっとも良質な長編処女作の1つとみなされている。その3年後、リッピンコット社は『競売ナンバー49の叫び』を出版する。この作品は、当時『V.』の優美なコーダ部とみなされていたが、ほんとうは来たるべきオペラ的作品の優美な前奏曲のようなものだったのだ。そのときまでにコークはリッピンコット社を去り、そして編集者というものがそうするように、彼の発見した新星を引き連れてヴァイキング社に移ったのだった。


1967年1月24日、ピンチョンは「題名未定の小説」の執筆に関して、印税と印税前払金などの最終条件は原稿納品時に合意するという条件で、ヴァイキング社と数万ドルのオプション契約を結んだ。納品は、楽観的なことに(ヒッヒッヒ)、1967年12月29日の予定となっていた。これはつまり、このときすでにピンチョンはこの小説のかなりの部分をすでに書いていたということを意味していないだろうか。私が調べたファイルには、そのとき社内に原稿を読んだものがいたかどうか、あるいは企画の長さはもちろん内容について知っていたものはいたかどうかを示す証拠はなにもなかったのだが。出版人としての私の推測だが、ピンチョンとコークはそれまでに、第二次世界大戦の末期のドイツのロケットミサイルをテーマとした小説について、ごく大づかみな会話ないし手紙のやりとりをしており、ピンチョンの人気作家としての立場や、ヴァイキング社がいかに熱烈に彼の作品を出版予定リストに載せたがっていたかを考えると、それで十分だったのではないだろうか。


時は流れ、1969年の1月21日のこと。おそらくピンチョンに関してもっとも明敏かつ献身的なアカデミックな批評家であるエドワード・マンデルソンに宛てて、コークは次のように書いている。「私たちはこの数か月、彼の新しい小説の原稿が届くのを待っています。…彼がよりによってロサンジェルスで何をしているのか知りませんが、ちゃんと執筆していると思いたいところです」。10月20日、再びその知りたがり屋の批評家に宛てて、「申し訳ありません。ピンチョンの小説に関する進捗はありません」。1970年3月5日、ピンチョンはコークに、4月1日の締め切りは守れそうにないことを侘び、1970年7月1日に延ばしてもらえないかと頼んでいる。彼はコークの寛容に感謝を示し、手紙の末尾に、彼だけが口に出せるなんたるアイロニーであろうか、その小説が『競売ナンバー49の叫び』以来の最大のゴミになるのではないかという心配を記している。さらに時はたち、1972年1月27日、コークはカンディーダ・ドナディオに宛ててこのように書いた。「法外な喜びをもって、トマス・ピンチョン氏の小説の納品に際し彼に支払われるべき*****ドルの小切手を同封いたします」。題名未定の小説が到着していた。契約書の署名通知欄の「梗概」には次のように書いてあった。「第二次世界大戦末期とその直後のイギリスとヨーロッパにおける、大勢の型破りな登場人物たち――ほとんど全員がV-2ロケットに取り憑かれている――についての無軌道で広範囲な物語」。


それにしてもなんという巨大な未題の本だったろう!初読だけでかなりの時間を要した。当時コークの助手をしていたアリーダ・ベッカーが教えてくれたのだが、原稿が届いてからまもなくのある日、コークのオフィスにピンチョンから電話がかかってきたという。しかしコークは外出していたので、ピンチョンは彼女にその本をどう思うか尋ねた。彼女は注意深く、とても楽しみながら読んでいるが、とても時間がかかる本なのでまだ読み終えていない、とこたえた。「とても長いんですもの」、と説明した彼女に対して、ピンチョンは誇らしげに、「それ全部自分でタイプしたんですよ」と言ったそうだ。私が調べたファイルには明らかに抜けがいくつかあって、ピンチョンからの手紙がやけに少なかった(誰かがおそらくちょろまかしたのだ。あーあ)。編集作業に関する手紙は、とくに『V.』関連の手紙に比べると非常に少なかった。しかし、この本については大規模な編集は事実ほとんど行われなかったようだ。聞いたところによると、カットしたほうがいいのではないかという意見が当初おずおずとピンチョンに伝えられたが、かれはその検討を拒んだという。編集者として言えば、私もどこから手をつけたらよいか、どこをカットしたら物語りの筋と象徴の隠れた重要なつながりを断ち切ってしまうか分からなかっただろう。ヴァイキング社の誰もがそうだったのだと思う。だから、ピンチョンが納品した未題の小説――途中ある時点で『思慮なき快楽』という仮題がつけれらた――は、『重力の虹』の読者が読んだ当のものと、少なくとも99%は同一のものである。


一行一行を緻密に検討する作業は、ヴァイキング社の校閲部のチーフだったエドウィン・ケンベックに任されていたが、彼はこの叙事詩に登場する十分に評価されていない英雄の一人なのだった。彼が書いたピンチョンへの手紙は、あたたかく、打ち解けた調子で、そしておどろくほど微に入り細をうがったものだった――彼はこの本を「了解した」のは明白だった。そして彼とピンチョンは明らかにうまが合った。私はヴァイキング・ペンギン時代のエド・ケンベックを知っているが*1、感じのよい、物腰の柔らかな人物だったことを覚えている。言葉の鍛冶屋としての優れた技術のほかにも、彼はある一つの大いに役立つ能力をこの重要な仕事に投入した。第二次世界大戦中、ケンベックは第8空軍のB-17の無線通信士として従軍し*2ドレスデン作戦も含め、35回のドイツへの爆撃任務を遂行していた。彼は生の体験から多くの技術的誤りを訂正することができた(スピットファイヤーは戦闘機であって爆弾を積むことはなかったし、B-17による空爆作戦は早い時間に行われたので午後の東の空に飛行機が見えることはありえなかった)。ある手紙で、彼は1944〜45年のロンドンへのV-2ロケット爆撃で自分が体験したことを伝え、ピンチョンに次のように請け合っている。「とはいえやはり、スラングのようなごくわずかなことを除けば、あなたが書いたこの場面の描写は全くもって真に迫っていると言わねばならないでしょう」。


ケンベックの手紙は、1つのやや重要な解釈上の問題を解決してくれる、といってよい気がする。広く知られた解釈では、この小説のナンバリングされていない章と章とを区切る視覚的装置となっている7つの四角形の並びは、映画のフィルムの上下に穿たれたスプロケット穴を意味しており、この小説をある種散文で書かれた映画として映画的に「読ま」なければならないことを示している、とされている。違うのだ。ケンベックは一通の手紙で、第二次世界大戦に従軍した兵士が送った検閲済みの手紙――当時「Vメール」*3と呼ばれた(またしても例の文字)――に開けられた「複数の長方形の穴」についてはっきりと言及している。ドナルド・バーセルミにこの本を1冊送ったとき同封した手紙では、ケンベックは、ポワリエの書評ではじめて広められたこのスプロケット穴理論についておどけた調子で言及し、「私が文学史に寄与していたものを、自分ではちっとも知りませんでした」とコメントしている。時に長方形は単なる長方形だし、もしかしたら検閲済みであることを示す跡かもしれない。


この小説の校正は、ピンチョンのコーネル大学の同窓生で、ファリーニャの小説にも登場している社会批評家カークパトリック・セイルの妻のフェイス・セイルによって行われた。当時メタフィクションの温床だった「フィクション」誌の編集者もしていたセイルは、早い段階でピンチョンの原稿を読んだ一人で、膨大な原稿の文体上、正書法上、句読点上の複雑なからみあいと取り組み、すばらしい仕事をした。彼女は平均的な校正者よりもはるかに深く編集作業に関わったと聞いたが、資料の中にそれを示す証拠は見つからなかった。その後校正者として輝かしい経歴を残したセイルは、1999年に亡くなった。もし彼女が生きていれば、私はきっと彼女のスタイルシートを見せてもらいたいと思っただろう。


そして題名という厄介な問題があった。ヴァイキング社の最初のプレスリリースでは『思慮なき快楽』が採用されたが(この題名は小説のなかで2回出てくるフレーズからとったものだ)、これを歓迎した人は誰一人いなかった。ケンベックは、こうした状況でだれもがおちいる半ばやけっぱちの態で、どれもいまいちなこんな案を出していた。『時の権力者』、『見捨てられし者の天使』、『統制』、『スロースロップの巧妙な逃走』(これはいいかもしれない)。申し分のない『重力の虹』という案をもってきたのはピンチョンだろうと私は考えている。しかし、カバーの広告文を必要最小限にするという方法を考えついたのはケンベックで、このおかげで、この本の冒頭の一文が「イシュマエルと呼んでくれ」以来最も有名なものになったのだった。


そして現実的な問題があらわれた――どうしたらこの700頁余の本を、現役大学生や大学卒業後まもないピンチョンの読者にとってはなはだしい負担にならない程度の値段で出版することができるだろうか。『V.』と『競売ナンバー49の叫び』は、それぞれ大量販売用のバンタム社版で300万部以上売れていた(ここでしばし、この数字が60年代のアメリカの読書レベルについてなにを語っているかを熟考してみよう。ほら、みんな死にたくなるでしょう)。コーク・スミスがブルース・アレン(「ライブラリー・ジャーナル」で『重力の虹』の書評をした人物で、この本の価格のことでヴァイキング社に苦情の手紙を書いてきた)に宛てて書いた手紙によると、もし当時前代未聞の10ドルという価格で売れば、ヴァイキング社は、収支を合わせるために3万部以上を売らなければならなかった。参考までに、『V.』と『競売ナンバー49の叫び』のハードカバー版の売り上げはそれぞれ1万部だった。では、数百万人の資金難のピンチョンファンのごく一部にでも本を届けるにはどうしたらよいか。コーク自身がユニークな戦略をあみだした。紙と書式は同一、装丁だけが異なる4.95ドルの自社のペーパーバック版と、15ドルの「ぶっちゃけ高価格のハードカバー版」を出版する、というものだ。これは賭けだった。コークいわく、「大学生のピンチョン読者は、この小説のためなら5ドル札を喜んで手放してくれるかもしれない――あくまで『かもしれない』ですが――と私たちも考えております。なんといっても、彼らはその額ならLPレコードのために何度だって払うのですから」。もう一つの賭けは、書評者に関してだった。彼らはペーパーバック小説を真剣に取り上げることはほとんどなかったからだ。しかしコークはこう書いている。「ピンチョンが無視されることはないと私たちは、もちろんあなたと同じように、感じております」。


こうして準備が整ったので、ヴァイキング社は、当時のアメリカの出版社ならどこでもやっていたように、いつものやり方で打って出た。すなわち、高級志向の文学的期待と興奮をあおることである。資料ファイルに保存されているゲラ刷りと献本の送り先のリストは、1973年前後のアメリカのエリート文学界を写した詳細で生き生きとしたスナップショットになっている。宣伝や噂が広まることを狙って製本した校正刷りを送った先は、アービング・ハウ、アルフレッド・ケイジン、レスリー・フィードラー、フランク・カーモード、ケン・キージーウィリアム・ギャディス、ベンジャミン・ドゥモット、ポール・ファッセル、ジョン・アップダイク、ジョン・チーヴァー、ジョージ・プリンプトン、ライオネル・トリリング、リチャード・エルマン、カート・ヴォネガットといった人たちだった。ファイルには、コークの顧客だったジョセフ・ヘラーとマリオ・プーゾの名前が手書きで書かれたメモが1枚入っていたが、その名前の脇には「『V.』を読破しようといまだ奮闘中」と書かれていた。リチャード・ポワリエには、当時ヴァイキング社で働き始めたばかりの名編集者エリザベス・シフトンから原稿のかなり初期のコピーが送られた。献本を受け取った人のリストはさらに長く、それはいっそう広大な作家や書評執筆者のネットワークを張りめぐらしており、まだ存命の人も惜しくも物故してしまった人も含め、出版業界の非常に多くの人びとの名前も載っているのだった(死がこんなにも多くの人を亡きものにしていたなんて知らなかった)。面白いことに、最近亡くなった俳優のジェリー・オーバックや、社交界向け楽団のリーダー、ピーター・ダッチンもリストに入っていた。そして悪戯っぽく愉快な献本が1冊あるので、ケンベックが書いた同封の手紙を全文引用しておこう。それはメリーランド州ジャーマンタウン(!)のフェアチャイルド・インダストリー社に宛てられている。「拝啓フォン・ブラウン博士。トマス・ピンチョン氏の『重力の虹』を1部お送りいたします。著者謹呈」。


30年前のやり方はこういった具合だった。仮にピンチョンが隠遁していなかったとしても、当時は著者朗読会の会場などはほとんどなかったし、本の長さや難解さからして、ジョニー・カーソンやディック・キャベットのテレビのトークショウで討議するというのも馬鹿げていた。著者を使った販促という禁断の技はまだその揺籃期にあった。それは書評家の仕事だったし、いつでも彼らはそれをやってきたのだ。『重力の虹』の出版日は1973年2月28日だった。あちこちの書評欄のトップに載った忘我状態の記事のおかげで、3月9日までに、ヴァイキング社のプレスリリースは大喜びで、1時間に700冊の注文を受けたとアナウンスした。初版2万3000部、重版が1万2500部、3版が2万5000部が出たあと、出版社はさらに5万部を刷るための紙を大急ぎで注文した――今振り返ってもまったくもって驚くべき数字だ。その年、ヴァイキング社は恐ろしいほど好調だった。同時期に出版して商業的に成功したものに、フレデリック・フォーサイスの『オデッサ・ファイル』と、ピーター・マースの『セルピコ』の2冊があった。マディソン街625番地のホールはめくるめく喜びでふくれあがり、ちょっとつついたら破裂しそうなほどだった。ヴァイキング社の社長で発行者だったトマス・ギンズブルグは、5月の初めロンドンにいたが、彼に宛てた素晴らしい電報が2通、このファイルに収められている。1通はヴァイキング社のやり手の宣伝部長リッチ・バーバーからのもので、その内容は簡潔。「ピンチョンは大喜び、フレディは煮えきらず、マースはかんかんにご立腹です」。もう1通は、ピンチョンその人からで、こう書いている。「親愛なるトム・ギンズブルク。どこにいるのだか知りませんが、お伝えしたら喜んでくれるかと思いまして。私がナンバーエイト、わが友フレディーがナンバーツーでした」*4。つまり、少なからぬ人が20世紀でもっとも難解とみなしているこの小説が、血沸き肉踊る暗殺スリラーや、脚光を浴びた警官の実話をもとにした小説よりも、あるいはそれら以上に売れたのだ――優れた出版手腕による驚くべき偉業である。『重力の虹』は、ニューヨークタイムズのベストセラー小説リストに4週間とどまり、ペーパーバックとハードカバーあわせて約4万5000部売れた。1年後に出版された大量販売用バンタム社版は、10年間で約25万部売れた。


もちろん賞のノミネートは確実だった。当時は、全米図書賞の発表は授賞式の前に行われていたので、ヴァインキング社は『重力の虹』が小説部門賞をとったも同然だということを前もって知っていた。ピンチョンが本当に姿を現すという期待をもっている人はいなかったが、小説の発行者は、彼があっさり受賞を拒否してしまうのではないかと――実際1年後にいささか回りくどい理由からアメリカ文芸アカデミーのハウエルズ賞を辞退したように――気を揉んでいた。アーウィン・“世界一の権威”・コーリー教授をピンチョンの分身としてもぐりこませようという霊感に満ちたジョークを思いついたのはギンズブルグだった。その当時コーリーはときどき深夜のテレビトークショウに出演していたが、フロックコートをはおり、一重結びのボウタイをつけ、マッドサイエンティスト的な髪型をした躁病患者といった風采で、茶化した博識をまぜながら英語のセンテンスをみごとにこんがらがらせてしまうのだった。哀れなラルフ・エリソンが、ピンチョンだと彼が思いこんだその男に賞を手渡す役目を負わされた(「私たち…みなさんも私と同様混乱してしまっていたら申し訳ありません」)。ピンチョンがどんな見た目なのか誰も知らなかったことを思い出してほしい。だから、観客席から壇上に跳びのった髪もじゃの男をピンチョンだと思ってもまったくしょうがなかったのである。ああ、コーリーが傑作のスピーチを始めたとき(そのテクストはウェブですぐに見つかる)、会場のホールはじつに愉快な混乱でいっぱいになったことだろう。全裸の男が会場を駆け抜けたとき、コーリーは見事なアドリブで言ったのだった。「たった今観客席を走っていったクノップフさんにも感謝の言葉を捧げたいと思います」。


これに対して、ピューリッツァー賞のエピソードは、明々白々のつまらないジョークだった。これについてはジョン・レナードが書いた「ニューヨークタイムス・ブックレビュー」のコラムが一番うまくまとめている。その年受賞作なしと決めたとき、理事会は、ヴォネガット、マクゲイン、ヴィダル、シンガー、チーヴァー、マラマッド、そしてガードナーといった候補者までももろとも無視したのだ、とレナードは指摘している。その辛辣な記事の結論はこうだ。「かつてくだらないか退屈なだけだったピューリッツァー賞の運営の面々のふるまいは、いまや醜聞となった。理事会も、コロンビア大学の評議会も、雁首そろえて国語の短期補習授業を受けるか、そうでなければ授賞ビジネスからとっとと手を引くべきである」。ピンチョンの読者はみな、簡潔に次のような結論を出した。われわれのヒーローは、当局が扱いかねるほどにはっきりとしたやりかたでものごとの真実を語ったのだ、と。


***


つづき

ところでファリーニャの"Been Down So Long It Looks Like Up to Me"のタイトルのかっこいい定訳ってないものかしらん?

*1:ヴァイキング社は1975年にペンギン出版に買収されヴァイキング・ペンギン社になった。どうでもいいことだが、ペンギンがバイキングの荒くれどもを引き連れよたよた歩いている図を想像するとたのしい。

*2:ここに乗る。 http://www.azcaf.org/pages/crew/radio

*3:Victory mail。参照: http://postalmuseum.si.edu/exhibits/past/the-art-of-cards-and-letters/mail-call/v-mail.html http://en.wikipedia.org/wiki/V-mail

*4:ラグビーのポジションのことか?

ジェラルド・ハワード「『重力の虹』の思い出 〜ピンチョン A to V 〜」翻訳(その1)

原文はこちら
ヴァイキング・ペンギン出版の元編集者ジェラルド・ハワード氏が、ピンチョンの『重力の虹』の思い出話や制作秘話?を語ったもの。2005年にこのbookforum.comというサイトで発表されたと思われる(これがどういう種類のサイトなのだかよく知らない。このとき同氏はランダムハウスグループのダブルデイ・ブロードウェイ出版の編集長だった)。いろんな話が出てきておもしろい。
2006年にこのテクストをみつけていつか訳そうと思っていたらこんなに時間がたってしまった。長いので分載。翻訳の許可とかはとってないので、怒られたら消します。
誤訳が山ほどあるかと思うので、ご指摘いただけたら大変有難いです。
続きは後日。


1973年、トマス・ピンチョンの『重力の虹』が私の脳髄を直撃し、そう、V-2ロケットのごとく爆発した。それは当時私がまさに求めていた本、自分の精神と魂の状態について教えてくれる本だった。時は1970年代。国は水中深く沈んでいたし、私もまたそうだった。タールのようなブラックユーモア、圧倒的な難解さ、猖獗を極めるパラノイア、加速するエントロピー、吃驚仰天の倒錯、終末論的な恐怖、技術と死と邪悪な<統制>の結託した力の陰謀としての歴史――こうしたものすべてが最高だった。私は、大学卒業後1年目の日々の屈辱や、時代の文化的、政治的な退廃よりは、1冊のアメリカの小説によって精神を打ち砕かれるほうを好んだのだ。


その前の年、私はピンチョンの母校でもあるコーネル大学を、実際には役立たずの(すくなくとも就職という意味においては)英語学の学位をとって卒業し、生まれた地に近いブルックリンのベイ・リッジに舞い戻り、茫然自失とし、混乱していた。「サタデー・ナイト・フィーバー」の主人公トニー・マネロが住んでいたのとまったく同じ通りで大人になったと言えば、私の苦境を理解してもらえるかもしれない。大卒の募集を求めてマンハッタンの歩道を6週間――今ならたじろいでしまうが休憩時間に読むために安値で売っていたナボコフの『アーダ』のハードカバー版を持ち歩いていた――歩き回った後、私は広告産業の歴史のなかでもっとも不機嫌でやる気のない訓練生として仕事にありついた。ありていに言って、私(と哀れな私の両親)は私自身を扱いかねていたし、世界は救いの手をさしのべようとはしてくれなかった。


ほかに選択肢もなかったので、私は読書することで落胆の沼から脱出しようと決めた。ニューヨーク市のアウターボローにおけるメタフィクション・セラピー――うまくいきそうもない戦略だった。しかし幸運なことに、私は一人のすばらしいガイドかつ遊び仲間をみつけることができた。それもナローズ沿いのバスケットボールコートというもっともありえなさそうな場所で。私は夕方や週末、そのコートに、ほかの2つの鎮静剤、つまりゴールリングとマリファナを求めて足しげく通った。やがて判明したのは、コートの常連でピーター・カルダイムという名前の痩せぎすの男が、バンクショットの名人だっただけでなく、最近ダートマス大学を卒業したばかりで、作家志望で、同時代の先鋭的な文学について包括的な知識を――特にトマス・ピンチョンについて――もっていたということだった。こうして、情熱的な読書と会話、そしてドラッグについての同じような趣味に養われ、人生を変えてくれるるあの変革的友情のひとつが始まった。少なくとも私の人生はそれで変わった。今日にいたるまで私は、私たちが共有した文学的指導に従ってきたのである。


よく冗談で言っていたのだが、私たちの読書リストは3つの原則に基づいていた。ドナルド・バーセルミより直線的なものはダメ、ハリー・クルーズよりゴシック的で自棄っぱちでないものはダメ、ウィリアム・ギャディスより魅力的なもの、濃密でないものはダメ。もっと強いワインと狂った音楽を求めて、私たちは初期から中期のアメリカのポストモダニズムの密集地にむかって一直線に飛び込んでいき、バースとアビッシュ、クーヴァーとエルキン、リードとスケニック、マシューとギルバート・ソレンティーノ(ベイ・リッジ生まれ!)、ウィリアム・ギャスとジョン・ホークスたちがさまよう遊園地のびっくりハウスのなかで迷子になったのだった。私たちの読む本の重要な1グループとなっていたのは、60年代の破綻以降にわれわれの祖国で生き残ること、という特別に男性的な問題に関連していたものだった。だから、ハンター・トンプソンの『ラスベガスをやっつけろ』、フレデリック・エクスレイの『あるファンの思い出』、トーマス・マクゲインの『影の中の92』、そしてロバート・ストーンの『ドッグ・ソルジャー』はわたしたちの試金石だった。私たちは、ドン・デリーロの初期作品『アメリカーナ』と『エンド・ゾーン』(核戦争の隠喩としてのフットボール―正確だ!)を発見し、興奮を抑えきれなかった。


もちろん、私たちはお決まりのビッグネームはほとんど相手にしなかった。ソール・ベロウは、問題作『サムラー氏の惑星』で常識外のところにいってしまっていたし、ジョン・チーヴァーとアップダイクはあまりにも郊外的すぎた。ゴア・ヴィダルは、こともあろうに陰謀たっぷりの歴史小説を書いていた(素晴らしいエッセイではあったけれども)。マラマッドは鎮静剤だったが、私たちのような種類のそれではなかった。2人のビッグネームだけが私たちの怒りを逃れていた。フィリップ・ロスは、『ポートノイの不満』で彼が引き起こしたすばらしい厄介ごとのすべての結果として。そしてノーマン・メイラーは、機械に対する彼の全方向的な怒りによって。


私たちは独断的で、事情通を気取っていて、たぶん鼻持ちならないやつだったと思うが、これから世に出ようとする若い文学世代というものはそういうものではないか。私たちは批評するために読書をしていたし、そうやって私たちが好んだ、しばしば不快ではあるがしかし常に挑戦的な作品を選び出していたのだ。アメリカの現実は、「われわれの感覚を愚鈍にし、むかつかせ、怒りを抱かせる。しかしそれは結局のところ、自分自身の貧しい想像力に対して覚えるある種の恥ずかしさの感覚なのだ」と、フィリップ・ロスは宣言した。だから小説は、内容と技法に関して極端にまで行き着く必要があったのだ。同様にスーザン・ソンタグは、ハイ・ロウの区別や美的な道徳主義を否定し、単純な感覚を擁護し、解釈を禁じたとき、「マシュー・アーノルドは死んだ」と宣言した。当代随一の哲学的批評家ウィリアム・ギャスは、小説は言語によって構成されるという必ずしも明白ではない事実にわれわれの注意を向けさせ、その含意を華麗に取り出してみせた。もっとも有名なところでは、ジョン・バースのエッセイ「消尽の文学」は、モダニズムの時代の末端にふさわしいように思われたアイロニカルでパロディ的な自己意識についての理論と美学を宣言したのだった。


これらの思想は、私たちが第一世代のポストモダニズムの森を走り回るときの知的な道具だった。奇妙でまた満足だったのは、いかにこれらの作品が、私たち教育のあるベビーブーマー世代がもっている卑劣さと裏切りの感覚と完璧に同調していたかということだ。それから、今日に負けず劣らず、文化的な戦争が戦われた。しかし戦場は内的なものだった。私たちの精神と魂の内部での戦争だったのだ。


そしてそれから、ピンチョン司令官が登場したのだ。たった一人の亡命政府、山岳地帯からアメリカの意識の首都へと鳴り物入りで、究極の武器――『重力の虹』を携えて。ピーターと私は二人とも『V.』と『競売ナンバー49の叫び』を熱狂と崇拝と畏怖とをもって読んでいたし、またそれに同行する批評もたくさん読んでいた。私たちは熱力学の第二法則を正確に引用できた。ハーバート・ステンシルの第三人称の文章が『ヘンリー・アダムズの教育』をモデルにしていることを知っていた。「ダイナモと聖母」といったフレーズは達者になった私たちの口からさらりと出てきた。他の数多くの60年代の古典的作品と同じく、これら2つの小説は単なる読書体験ではなかった。それらは、読書の側の態度の根本的な変更というものを要求するように思えた。私たちはマクリンティック・スフィアの金言「冷静を保て。しかし心遣いを忘れるな」を具現化しようと試みたし、エディパ・マースのように、読解不能になった世界に対するめまいとパニックに打ち勝つための方策を見つける努力をした。アメリカの小説家のなかでピンチョンだけが、この奇妙で新しいポスト啓蒙主義時代の複雑さと内的な力学を制御する手段をもっているように思えたのだ。


だから、「エスクァイア」誌にまもなく『重力の虹』出版という広告をみつけたとき、私はただちに本屋にすっとんでいって、ヴァイキング出版社のオリジナル・ペーパーバック版を4.95ドルで買い求めた(感謝を込めて書いておくが、明らかに出版社の誰かがピンチョンの読者は金がないことを理解していたのだ)。この明るいオレンジの本のすべてに私は惹きつけられた。カバーアート、必要最小限のミニマリスト的なデザインのカバーのコピー(つまらない宣伝文句などはなく、あの忘れ難い冒頭の一文、「キーンという音が大空をよぎる」だけがあった)、亡きフォークのヒップスターにして小説家リチャード・ファリーニャへの献辞、ヴェルナー・フォン・ブラウンからとられた黒くアイロニカルなエピグラフ。これはすごい作品かもしれない、と思わずにはいられなかった。


そしてその通りだった。虚偽、腐敗、そして地政学的な策謀に満ちた世界についての、表面に見える混沌が幾重もの陰謀を覆い隠している歴史についての、拘束から解き放たれ、死に仕えるテクノロジーについての『重力の虹』の描写は、1945年以降アメリカの生活が恐ろしいありさまで押し流されていくなかで私たちがしがみつける手がかりをあたえてくれた。この本のアンチ・ヒーロー、空襲下のロンドンでの彼の数々の情事がV-2ロケットの着弾点を予測するタイローン・スロースロップは、ナサニエル・ウェストのレミュエル・ピトキンと、ジョーゼフ・ヘラーのヨッサリアンをモデルにした、古典的などじで不運なキャラクターである。ここにはノーマン・O・ブラウンのエロスとタナトスのビジョンが、見事に小説の言語となっていた。スロースロップは、不幸にも巨大で、非人称的な(あるいは三人称複数の“彼ら”だろうか)力の手中にあるが、ミッキー・ルーニー的な勇気を奮い起こし、世界の現象のなかに意味のパターンを読みとろうと奮闘する――彼は自分のピューリタンの先祖のように、「空に顕現するものに対する奇妙な感受性」を備えているのだ。マーケッティングの対象にされつくしてきたベビーブーマーであれば、スロースロップが生まれながらに秘密裏に行動療法の実験対象とされてきたというメッセージに、自分を重ね合わせなかったものはいないだろう。私たち全員がそうだったのだから。


スロースロップがその中を駆け回っているこの小説は、アメリカの小説がそれまで試みてきたこと、達成してきたことのすべてを要約しているように思えた。それは多価値的で、多声的で、多形倒錯的だった。他方で、その内容はファンタスマゴリー的、ハイパーリアル、シュールレアル、サトゥルヌスの祭りのごときどんちゃん騒ぎだった。『白鯨』と同じく、無意識にハイとロウを混合しつつ、形式主義やジャンル区分を完全に叩きのめしていた。ピンチョンは、ホラーシーンや猥褻な性的なシーンに、ミュージックホール的なバーレスク、散文で書かれたバズビー・バークレー制作のミュージカル、巨匠が描いたがごとくの真正さを有する歴史的場面の光景、チーチ&チョンやファイヤーサイン・シアターによるコメディ・アルバムでみつかるような古くさくてくだらないだじゃれのユーモアを交互に織り交た。このくだらないユーモアが私たちにとっては最高だった。私たちはときおりマリファナを吸っていたし、線的な思考から外れて自由に漂うのは、『重力の虹』の迷宮めいた複雑にアプローチするのに実りのある心の状態だった。


読者はこの本から、膨大な量の最新で適切な情報を収集することができた。ズートスーツ暴動とマックスウェルの悪魔キルギスの光とヘレロ族の反乱、ウーファーの撮影スタジオとドイツの表現主義映画の歴史、麦角菌のもつ幻覚性の特性とそれのヨーロッパの歴史への影響、アウグスト・ケクレの夢の中でのベンゼン環構造の発見、そしてとりわけ幾トンもの鋼鉄、燃料、爆薬からなるパッケージを数千マイル彼方のあなたの頭上に致死の正確さで速達郵便で届けるプロセスについての物理学とテクノロジーと解析幾何学微積分学。子どものころソ連の原爆攻撃に対する避難訓練をさせられていた私たちは*1、これらのことを真剣に受け取った。ナレーションはスロースロップについてこういう。「自分の名前がロケットに記されているのではないかという妄想がスロースロップの頭から離れなかった。もしかれらがほんとうに自分に命中させるつもりならば」[国書版上巻40頁]。わが意を得たり、だ。


ピンチョンの語彙はとほうもなく難解だった。「夢の(oneiric)」、「解除反応(abreaction)」、「三叉スプーン(runcible spoon)」、「破瓜病患者(hebephrenics)」、「無律法主義者(Antinomian)」、「狗僂病(rachitis)」、「不完全意欲(velleity)」、「見捨てられし者(pretelite)」といった、日常会話ではとても使えないような単語を何十個もメモしたノートを私はいまだにもっている。精神的支柱のない70年代を漂う読者にとって、これらがいったいなんなのかを、雄弁な説教術でもって私たちに説明しようとするピンチョンの語りの大胆な姿勢は、刺激剤であり、ライフラインであり、しるしであり、啓示であった。


「忘れてもらっては困るが、<戦争>のほんとうの仕事は売買だ。殺戮や暴力は治安維持のためであり、専門家でない連中に任せておけばよい。…ほんとうの戦争とは市場の祭典だ」[国書版上巻143頁]

「この<システム>は、<生産性>と<利益>は時と共に増加し続けると主張し、手に入れるだけで与えようとはせず、ほんの一握りの必死になっている輩が利益を得るように<世界>から膨大な量のエネルギーを奪っていく。人類の大半だけでなく――世界の大半、動物、野菜、鉱物もその過程において浪費されてしまう。<システム>はそれを分かっているかもしれないし、分かっていないかもしれないが、<システム>は時間を買っているだけなのだ」[国書版下巻46ページ]

「つまり、今度の戦争は政治的なものではなく、政治はまったくの見世物にすぎず、民衆の注意をそらしただけであり…そのかわりに秘密のうちに戦争を導いていたのは、テクノロジーの要請であり…人類と技術の共謀であり、戦争というエネルギーの爆発を必要とする何ものか、『金なんかクソ食らえ。[<国名>を入れよ]の生活が危機に瀕しているんだぞ』と叫ぶが、しかしおそらく裏の意味は、『夜明けはそこまできている。夜の血が必要だ。資金、資金、ああ、もっともっと…』と言っている何ものかなのだ」[国書版下巻、171頁]


この作家は、ランドルフ・ボーン、C・ライト・ミルズ、マックス・ウェーバーと交信していたのだ。私は激しい同意で首を振りすぎてむちうち症になるところであった。


たしかに『重力の虹』は読むのに骨の折れる本だった。一度にたくさん読むと、人物、出来事、含意のごったまぜがいったい何を意味しているのかほとんど分からないまま過ぎてしまう。しかし間をおいて読めば、かならず驚きで息を呑む箇所に出会うのだった。不味いイギリスのキャンディでスロースロップを窒息させかかる二人の老女の傑作コメディ、カティエ・ボルヘシウスとプディング准将が行う衝撃的なスカトロジー、ロジャー・メキシコとジェシカ・スワンレイクがクリスマスに地方の教会を訪れたときに起こるグレゴリオ聖歌の抑揚のついた顕現の瞬間、批評家ジョン・パワーズをして「あらゆる小説のなかで最も痛切な省略技法」と言わしめた、スロースロップが親友マッカー・マフィックの死を知ったときに呟く「早駆け…」というセリフの胸の張り裂けんばかりの衝撃。最も忘れがたいのは、スロースロップが催眠鎮静剤の点滴を打たれながら、ローズランド・ダンスホール――レッドすなわちマルコムXマリファナを売り、ステージではチャーリー・パーカーが「チェロキー」の超進化版の録音をしているナイトクラブ――のトイレでハーモニカを落とす幻覚を見る不滅のシーンだ。スロースロップはそこで便器の中へと入っていき、白人のアメリカの人種的想像力の排泄物で濁った深みへと入っていく。その内面の旅は、ラルフ・エリソン、ジェームズ・ジョイス、ジグムント・フロイトそしてレスリー・フィードラーとの即興演奏バトルのようにも読めた。驚くべきことだった。


リチャード・ズーラブという名のニクソンとおぼしき人物が経営するロサンジェルスの映画館をロケットミサイルがまさに破壊せんとする恐るべきラストに私とピーターが競り合いながらたどり着いたとき、わたしたちは、これはアメリカ人が書いた、いや何人の作家であろうと、今まで読んだなかで最高の小説であるという確信をお互いにたしかめあった。それは私たちの、私たちの時代の、偉大な書物だった。予言的でかつ教育的なテクストで、戦後の歴史の意味について語られうることすべてを要約していた。この信念に関して文学界のより広い範囲で多くの支持が表明された。今日まで、私はこのときほど賞賛の批評が席捲していく感動的な光景をみたことがない。リチャード・ロックは、当時あの並ぶもののいないジョン・レナードが編集していた「ニューヨークタイムス・ブックレビュー」の華々しい一面に寄せた書評記事でこの作品を激賞した。クリストファー・レーマン=ハウプトは、日刊のニューヨークタイムス紙のほうで、もっと変わった表現をしてみせた。「もし明日流刑で月へ送られ、5冊だけ本を持っていってよいと言われたら、この本がその1冊でなければならない」という締めのことばは有名になった。もっとも重要だったのが、リチャード・ポワリエが一般向けの『サタデー・レビュー』誌に書いた見事なエッセイだ。ポワリエは、この本をより広い西洋文学のコンテクスト――『ファウスト』、『白鯨』、『ユリシーズ』――にしっかと位置づけ、超心理学統計学、映画といった文学外の領域から素材をもってくることによって文学を刷新しようとするピンチョンの努力について、何人かのお偉方の神経を刺激することになるだろう、と正確に予言したのである。「文学がこれらのいずれよりも優れているとするならば、それを証明できるのは『重力の虹』と同じくらい文体的に幅広い作品しかないだろう」。ポワリエのエッセイは、いまなおこの小説についてなされた唯一最良の批評であり、これからなされる論評すべてにとっての離陸点でありつづけている。


重力の虹』は、1974年に全米図書賞の小説部門を、奇妙な判定割れの結果、I・B・シンガーの『羽の冠』とともに受賞した。聴衆がとまどったことには、授賞式では、「難解語」の芸の名人アーウィン・コーリー教授がピンチョンの代理で、あるいはもしかしたらピンチョンその人として、賞を受け取り、会場を笑わせたあと、半分しか意味の分からない茶化したスピーチ*2を始めた。その冒頭はこんな具合だ。「しかしながら、わたくしが、えー、リチャード・パイソン氏に代わりまして、彼の偉大な貢献に対するこの経済的遅延を、あー、ではなく、支援を、お受けするにあたり、また彼が貢献したところのいくつかのミサイルから引用いたしますと…」云々。それは70年代のこと、男が全裸で壇上を走り抜ける一幕もあった。この名演出がおそらくピューリッツァー賞の理事会の(私は可能なかぎりもっともゆるい意味でこの言葉を使うが)愚か者たちの念頭に浮かんだのかもしれない。彼らは、ピューリッツァー賞小説部門の選考委員会――委員は(なんと)ベンジャミン・ドゥモット、エリザベス・ハードウィック、そしてアルフレッド・ケイジンだった――が全員一致で『重力の虹』に賞を与えるべきと推薦したにもかかわらず、それを無視することに決め、代わりに受賞作なしとしたのだった。誰もがピューリッツァー賞というものはばか者たちにお皿を1枚あげるのとは違うことだと信じることができた数十年前のことだ。


話はベイ・リッジに戻る。その後、私はより精力的にピンチョン探求に邁進していた。『重力の虹』を一度読み終えた後は、また6ヶ月かけて再読した。ニューヨーク公共図書館で、「エポック」、「ニュー・ワールド・ライティング」、「サタデー・イブニング・ポスト」(!)に掲載され、まだ本になっていない初期の短編や、「ニューヨークタイムス・マガジン」に載った秀逸なノンフィクションの作品「ワッツの心への旅」などの黒ずんだコピーをとった。私は、スタンリー・キューブリックが『重力の虹』の映画化をしなければならないという確信に捉えられ、私もどうにかしてその仕事に一枚噛めるのではないか、などと考えていた。結局なにもできなかったわけだが、私は今でもこのアイディアは最高のものだと考えている。私はあいかわらず読みに読んでいたが、次第にそれは漠然とセックスの後の気分に似たものになっていた。もし文学が消尽されていたならば、死にゆく星であったならば、『重力の虹』は確実に超新星だった。興奮させ、爆発的なものすべてを凝縮し、壮麗な終末の展示となる超新星。1976年の全米図書賞を受賞したウィリアム・ギャディスの『JR』は、この壮大な小説上の企図全体の最後の余波のように感じられた。ピンチョンの小説は、ポスト・ヒューマニズムの達成の頂点として、科学と技術によって完全に変容した世界の美と恐怖についにふさわしいものとなった作品として、私の頭の中に住みついてしまった。人間の想像力にはまだ価値がある。しかしそうなるためには、ラディカルに変化しなければならない――大胆な挑戦のなかにくるまれた大きな慰め。そうこうするうちに私は出版社ではじめての職を得、やがてヴァイキング・ペンギン社の編集補佐になった。そうしてこれが――コモディウス・ヴィクスの傍らを流れ――ピンチョンの長年の担当編集者であるコーリーズ・M・スミスとの最初の出会いにつながるのだった。


***


つづき

伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』メモ:<プロヴィデンスの「星の智慧派」教会があったのは丘の頂ではなかったのではないか問題>について

ツイッタに書いたのを転載。あんまり更新してないのもなんだし。

唐突で、しかもかなりどうでもいい瑣末な話であるが、<プロヴィデンスの「星の智慧派」教会があったのは丘の頂ではなかったのではないか問題>について思案していたので、ちょっと書いておく。(もちろん『屍者の帝国』の話です) posted at 17:51:52

円城さんの描写。プロヴィデンス市の「円丘をなす」「フェデラル・ヒルを囲む林」乃至「森」があり、下から見ると「頂から伸びる奇妙にねじくれた復興ゴシック調の尖塔が林の上に覗いている」。林を抜けると「円丘の頂き」に「周囲より6フィートは高く持ち上げられ」た高台に黒く巨大な教会が聳える。 posted at 17:54:37

一方、ラヴクラフト「闇をさまようもの」の描写。主人公が大学近くの坂道にある住まいの窓から西側の下町方面を見下ろすと、「フェデラル・ヒルの幽霊めいた円丘(hump)がもりあが」り、ひしめく切妻屋根や尖塔のなかに「くろぐろとした巨大な教会」が建っているのが見える。 posted at 17:56:10

主人公は引き寄せられるようにダウンタウン方面から、イタリア人街となっているフェデラル・ヒルの坂道を登り、しばし道に迷った後、細い坂道のはずれの広場の奥に、「まわりより優に6フィートは高い」盛土の高台の上に建った、「ゴシック復興期の最も実験的な初期の形態」の教会をみつける。 posted at 17:58:15

ここでラヴクラフトは、教会が丘の頂にあったとは書いていない。むしろ街並みに隠れて見つけづらい様子。部屋から「とりわけ高い土地に建っているrest on especially high ground」と見えたのは先の6フィートの土台のことで、丘の頂に目立つようにそびえてはいなそう。 posted at 18:02:18

ちなみに、円丘(hump)の円とは、なだらかな丘の頂上が浸食でまるくなっているという意味で、円墳のように全体が円形というわけではないようだ。これは以下の地形図を見てもわかる。 posted at 18:05:41

1887年のプロヴィデンスの地形図 http://t.co/wPMLm1O7 ナラガンセット湾の奥、これも湾のようなプロヴィデンス川のそのまた奥にCove Depot(港湾物流センター?)が目立つが、その南西の、等高線を見るとほんのすこし高くなっている一帯がフェデラル・ヒル。 posted at 18:07:18

プロヴィデンス川沿いがゼロメートルだとすると、フェデラル・ヒルの一番高いところで18メートルくらい、緩い勾配で、上部はかなり扁平。東京で言うとちょうど桜田門のほうから国会議事堂のほうへゆっくりとのぼっていくかんじだと思われる。淀橋台東縁斜面ですな。 posted at 18:10:16

これは1935年の測量地図 http://t.co/fhMBaoUN  等高線が10ft(30センチ)間隔なので分かりやすい(Depotは消えている)。ブロードウェイの両側がフェデラル・ヒル。川向こうのブラウン大学のあるカレッジ・ヒルよりかなり扁平だと分かる。 posted at 18:12:49

ラヴクラフトがモデルにしたといわれている教会がこれ http://t.co/xvtfatn5 フェデラル・ヒルの一番高いところにあるが、頂きにそそり立つイメージではない。この教会は92年に取り壊され、今はこうなってる http://t.co/UcrMWx3N posted at 18:19:45

こちらはイラストだが、6フィートの土台と鉄柵のイメージがうまく描けてる。 http://t.co/5f8X2pyC posted at 18:21:33

というわけで、下から見上げて丘の頂に教会の尖塔が黒々と見える、という円城さんが描いた構図はちょっと不可能っぽい。また、1879年時点でフェデラル・ヒルの周囲を林ないし森が囲んでいたという可能性もなさそう。せいぜい教会の周りに木立があった程度か。 posted at 18:26:07

以上、小説の筋とはなんの関係ない、我ながらおそろしくどうでもいい話でした。「アリョーシャの青い石は、<輝くトラペゾヘドロン>だったのかどうか問題」のほうが考えてよっぽどワクワクする話である。おしまい。TL汚し失礼しました。 posted at 18:28:23

*追記(2012.9.15)

1857年、オリン・B・エディの報告。星の智慧派の者等、結晶体を見つけることにより召還をおこない、独自の言語をもちたりと。
(…)
1880年頃、幽霊の話もちあがる。(…)

ラヴクラフト「闇をさまようもの」)

ピンチョン『逆光』書評紹介:「複素数的なテクスト〜『逆光』の世界の数学的な遊戯〜」

 

「架空(イマジナリー)」と彼女が笑った。「もっといい言い方があるんじゃないの?」
"Imaginary," she laughed, "not the best to way to put it!"(『逆光』下巻21頁)


                          * * *


 さて、『逆光』のドイツ語圏の書評を読んでいたらいくつかおもしろいものがあったので、気ままに紹介してみることにする。
 『逆光』のドイツ語訳は2008年5月出版だが、この書評はその5ヵ月後にliteraturkritik.deというオンライン書評サイトに掲載されたもの。原文はこちら。『逆光』のテクストの特殊性を論じたもので、他の書評ではこの点に触れているものがなかったので、なるほどと思わされた。
 ポイントは、タイトルが示すように、『逆光』のテクストの構造は数学でいう”複素数”になぞらえうる、ということ。かつて大数学者ガウスが「すべての方程式はa+biという形の解をもつ」と定義をすることにより、数の概念を拡張し、数学を新たな段階に引き上げたのと同じことを、ピンチョンは文学の領域で企てているのではないか、という見立てがある。
 それはまず、想像(イマジナリー)の世界の擁護ということであるが、それはたんに現実とは異なる「もう一つ世界」を守るということではなくて、世界というものは常にイマジナリーなものとリアルなものの複合という形の解をもつのであって、そのような形で世界の概念を拡張すること、それを通じてこの現実をも豊かにすること、これが文学の本来の役割である。・・・筆者の主張は概ねこんな感じだろうか。ピンチョンの”ポストモダン”は気まぐれやお遊びじゃなくて、むちゃむちゃ正統的なんだって!文学の歴史のどまんなかなんだって!(これはぼくの魂の叫び)
 ハミルトンの四元数の解釈についてはややハズしているようで、不満である。<時間>が問題にされねばならないはずなのに、触れられていいない。それと、『逆光』の根本モチーフに関わる重要な科学的なテーマということなら、光学、電磁気学量子論、そして特殊・一般相対性理論など19世紀物理学の諸問題について当然触れるべきであったろうが、それもない。そこまで要求するのは欲張りすぎというものだろうが。

 著者のサーシャ・ペールマンは、ミュンヘン大学アメリカ文学の研究者であるが、2008年6月にミュンヘン大学で開催された「国際ピンチョン会議」の主催者でもある(洒落たつくりのウェブサイトがある)。ここで行われた研究発表がまとめられて、2010年に書籍化されている(高すぎ!)。会議のときはペールマンは発表を行わなかったようだが、本にはどうやらここで紹介する書評をベースに拡張したとおぼしき論文が序文として掲載されている。こちらは英語である。上記の不満な点はもしかしたらここで解消されているかもしれない。

 前フリ的な話をしている前半3分の1はカットした。



複素数的なテクスト
トマス・ピンチョン『逆光』の世界の数学的な遊戯〜
サーシャ・ペールマン


(・・・)
  ピンチョンのそれまでの作品と同じく、『逆光』にも科学的なライトモティーフが存在する。今回文学テクストにイメージ、アイディア、構造を提供しているのは数学である。そしてまた、数学それ自体が文学的なメタファーになってもいる。ただし、このように言ったからといって、『逆光』を、ある程度数学に造詣があれば完全に理解できるような実話小説(Roman à clef)の類だと考えてはならない。また、エドウィンアボットの『フラットランド』(1884年)のように、数学で扱われるさまざまな観念を物語でやさしく説明してくれるというものでもない(同書は、風刺のために数学的観念を用いている面もあるが)。

  『逆光』が、文学と数学を結びつけ、これについて語ろうとするのは、この二つが世界についての想像力にとって重要な意味をもつ分野であるからにほかならない。ピンチョンは、自分自身で書いた『逆光』の宣伝文のなかで、「この小説は、この世界そのものではないにしろ、小さな改変を一つか二つ加えたらもしかしたらありえたかもしれない世界を皆様にお目にかけます。畢竟これが文学の主な目的だとおっしゃる人もございます」と語っている。いうまでもなく、これはあまりにも控えめな説明であろう。加えられた改変は小さなものでも、一つ二つといった規模でもないし、そもそも改変される世界は一つだけとも言えないのだから。しかしここにおいてすでに、『逆光』という作品の鍵になっているのは、複数の世界を想像し、それら想像世界を相互に、またこの現実世界とも関連づける可能性(の条件)の探求にほかならない、ということが暗示されている。『メイソン&ディクスン』では、地図作製法(ないし<平行地理学」>)が、現実世界の上に想像上(イマジナリー)の世界の層を複数重ね合わせ、そうすることによって基礎にある現実の世界へのまなざしを変化させ、ひいては不変の基礎とみられていた現実を疑わしいものにするという機能を果たしていた。『逆光』では、このような世界と世界が交わる消失点は、数学によって提示される。そしてこの数学的イメージはまた、この小説についてのメタフィクション的な注釈として読むこともできるのである。

  『逆光』は、複合的なテクスト(complex text)である。こう言っても、ピンチョンが意図している二重、三重の言葉の意味の遊戯に入りこまなければ、決まり文句のようにしか聞こえないだろう。この表現で言わんとしているのは、複雑で込み入った(complicated)小説だということではなくて、「複素数」(complex number)と同じような意味で、「複素数的なテクスト」について語りうる、ということである。この類比表現は、『逆光』の<怪物博物館>の場面でさりげなく使われている。博物館には、数学者のハミルトンが、ダブリンのブルーアム橋に、後に彼の名がつけれらることになる有名な公式をポケットナイフで刻みつけているシーンを再現したパノラマ展示があるが、そのナイフが次のように描写されている。「半分現実で、半分虚構の、いわば『複素数的』ナイフ」(part real and part imaginary, a 'complex' knife one might say)[邦訳下巻132頁]、と

  (…)このリアルな部分とイマジナリーな部分の複合体という「複素数性」の解釈を、『逆光』自体に適用することができる。というのも、『逆光』の世界はまさに、ある部分は現実、ある部分は虚構の、つまりは複素数的な複合体だからである。同じように、先のナイフのくだりの直前で、パノラマとは「半分『本物』で、半分『絵画的』あるいはあえて言うなら『虚構的』」(part 'real' and part 'pictorial', or let us say, 'fictional')な、「二重の性格をもった空間」(zone of dual nature)[邦訳下巻131頁]であると言われているとすれば、イマジナリーなものとフィクションとが、同一視はされないものの、限りなく接近することになる。

  ピンチョンのフィクションは、「イマジナリー」という考え方を、文学的なファンタジーという意味でも、数学における虚の意味でも用いており、いわばそれらを相互参照させることによって擁護しているといえる。冒頭で触れたように、批評家はしばしばある小説について現実味を欠いていると非難するし、文学のほうでも、その想像世界が現実からあまりにも隔たっている場合、そうした非難に対して自分を正当化する必要に迫られる。ところが、非常に現実的な学問であると一般には思われている数学の世界では、虚数について、それが厳密に考えて現実には存在しないという理由で、扱うのは時間の無駄だと考える人など誰もいないであろう。文芸批評家はこの点で、新たな世界について新たな規則で思考することがどれほど有益であるかを、数学者に説明してもらわなければならない。ピンチョンは、数学における世界の拡張のイメージを『逆光』でさかんに活用しているが、それは、世界を現状(status quo)に還元してしまうことは常に諦めと放棄を意味するという、彼のほかの作品で繰り返されるメッセージの1つの変形版なのである。こうした想像力は、ピンチョンにおいては常に、世界をオルタナティブに考えることを禁じるイデオロギーに対抗する政治的な手段でもある。ピンチョンにとって、オルタナティブを許さないような現実は硬直を意味する。

  このように、ごく基本的な経験や観念さえも別様に思考するという可能性の真価を探るために、『逆光』では、数学における「虚」(イマジナリー)の考え方が援用される。虚数(イマジナリー・ナンバー)は、まさしく想像力に挑戦を突きつけるものであり、数学になじみがない人にはあらゆる自明な規則に矛盾しているように思われる。実数(リアル・ナンバー)の領域では、二乗して-1になる数は存在しない。すべての平方数は正数になるからである。i^2=-1が成り立つような虚数単位「i」の導入によってはじめて、そのような方程式の解が可能になる。虚という考え方は、世界の拡張を意味している。この拡張は、世界の記述ではなく、われわれの現実性を構成している思考の慣習を有用な仕方で打ち破ることを目的としている。虚数は、”不可能”な演算に基づいてはいるが、しかし、虚数と実数の複合体である複素数(コンプレックス・ナンバー)「a+bi」にみられるように、実数と関係をもつものである。虚数が、それまでの数学と全く別な新しい数学を意味するものではなく、伝統的な思考法に逆らうことによって数学をより豊かにしているのとまったく同様に、ピンチョンが描く想像上(イマジナリー)の世界も、読者が現実と呼ぶ世界から完全に分離してはいないのである。

  かくしてピンチョンのフィクションは世界の拡張を行う。世界というものは、考えられているほど統一的で単一的であったことなどおそらく一度もないのであるが、しかしそれは、世界が自らのもうひとつの(あるいは複数の)バージョンに重ね合わされたときはじめて明らかになる。『逆光』の中では、アイスランドの隠れた人々についての記述など、そうした世界と世界の並存関係がはっきりと示されている例である。ここでは数学と光学のイメージが統合されている点が注目に値する。「<隠れた人々>は氷州石の力によって隠れているんです。自らを現実と思いこんでいるこの世界の中を彼らが動き回れるのも、彼らの光に重要な90度のひねりを加えている氷州石の力のおかげです。それによって、彼らは私たちの世界と平行して存在しながら、見えずにいることが可能になる」[邦訳上巻204頁]。

  氷州石がもつ複屈折の光学的効果は、文字の二重像を実例として示されることが多い。『逆光』の初版のカバーデザインはまさにそれに着想をえたものだろう。文字の世界のこうした多重分割は、この小説の中では、世界そのものの分割になる。あるいは、常にすでに複数の世界が存在しているのであり、あるひとつの世界バージョンについての物語は数あるうちの一つにすぎないということが、氷州石の比喩で洞察されているといったほうがよいかもしれない。氷州石が、「現実の下部構造」[同上]であるとされ、「通常の緯度と経度のネットワークではとらえられない夢の構造」[邦訳上巻386頁]を明らかにする能力をもっているとされるのは、そういうことである。

  上の引用個所で特に大事なことは、氷州石が光を正確に90度回転させるという性質をもっていることである。というのは、実数に虚数単位iをかけることは、横軸上に表現される実数を縦軸方向に90度回転させることにほかならず、こうした操作によって、複素数幾何学的に可視化したいわゆる複素平面(complex plane)が創造されるからである。『逆光』の中で、氷州石がこの世に現れたのは、虚数が発見された時期、すなわち「数学的創造の二重化」(doubling of mathematical creation)が行われたのとほぼ同じ時期であるということがはっきりと言及されている[邦訳上巻204頁]。この二つの革新的発見は、世界の限界についての想像力を読者に要求すると同時に、ピンチョンが行う創造的複製についての比喩ともなっている。いわば、ピンチョンのテクストそのものが複素平面になっているのである。

   こうした観点のもと、『逆光』は、虚数の活用をさらに進める。ハミルトンの四元数である。四元数は、複数のオルタナティブな世界が想像可能になるようなひとつの空間を与えてくれる。i^2・j^2・k^2=i・j・k=-1となるようなさらなる3つの数i, j, kを実数に加えることで、周知のxyz軸をもつ伝統的なデカルト座標系に対立する別の座標系を思考することが可能になる。このようにして『逆光』は、イマジナリーな場所のみならず、それらを内包するイマジナリーな空間をも創出することになる。『逆光』に登場する四元数の理論家たちは、他の「システム」との戦いで敗北を喫することになるが、にもかかわらず、かれらのオルタナティブな空間は文学的テクストの的確な比喩となり、現実に対する想像力の意義を再度強調するものとなる。ijk座標系の擁護者たちは、自らの劣勢を自覚している[邦訳上巻826頁]。xyz座標系の擁護者たちにしてみれば、空間に1次元を、時間に3つの次元を割り当てるようなijkの輩に、空間に関する解釈権限と物質的権力を譲り渡すわけにはいかない、というわけである。

   『逆光』は、人間に備わる空間概念の基本システムにさえ一つのオルタナティブを用意したうえで、その抑圧を支配側の政治的行為として解釈する。この小説は、自らの世界観の根本的なオルタナティブを通して自分自身を徹底的に考え抜くという思考実験を行うのであるが、それはたとえばこんな具合である。まず、人間がベクトルとなって次のような変換プロセスを経るというアイディアが開陳される。「まず最初にいる場所は現実的な実数の世界、そこから長さを変えて、仮想的な虚数の座標系に入り、最大3つの異なる方向へ回転し、新しい人間――つまり新たなベクトル――になって現実世界に戻る」[邦訳上巻835頁]。そして一人の数学者が、なんとこの変換を実演してみせるのである。彼はレストランから消えたかと思うと、「ちょっとちがった人物になって」、マヨネーズの壷に片足をつっこんだ状態で台所に出現する。他の箇所でもこうした例はたくさんあるが、この小説ではこんなふうに書かれたことがそのまま実現してしまうので、抽象的な数学理論も、あるときは哲学議論、あるときはドタバタ劇にと(この両者はいつもきれいに区別できるとは限らないのだが)、さまざまな方面におもしろおかしく展開されていくのである。

  『逆光』におけるこうしたイマジナリーな多元宇宙の中心的人物は、おそらく「偶然の仲間」たちであろう。かれらは、他の登場人物にまして世界と世界のあいだを行き来し、他の世界間旅行者とも遭遇する(ここでいう世界には、時間的に異なるだけで、空間的には”現実の”世界と一致するような世界も含まれる)。かれらが小説の中のどの世界に属しているのかということは、最後まではっきりとしない。「偶然の仲間」たちは、ほかの登場人物たちが読んでいる少年向け冒険小説シリーズの主人公であるのに、登場人物たちにとっての現実世界にも登場するのである。それゆえにかれらは、ルー・バズナイトという人物とはじめて出会ったとき、彼にむかって、<偶然の仲間>のことを知らないなんて、子どものときになにを読んでいたのですかと、やや憤慨しながら尋ねることができるのだ。

  「偶然の仲間」たちもまた、小説の中ではある部分現実の、ある部分虚構的な「複素数的」な人物であるようにおもわれる。そしてかれら自身、組織から離反し、しばらくの間飛行艇乗りからハーモニカ学院の生徒になった後に、自分のアイデンティティに確信がもてなくなる。あたかも、この小説の複素平面上における世界の分裂状態を読者につねに思い出させておくために存在するかのごとく、「偶然の仲間」たちは、『逆光』の虚構の世界に、半ば虚構として、半ばあまりにも現実的に登場する。かれらは、『逆光』の世界の現実をまったく感知しないこともあるし、陰鬱な予感だけを感じることもある。物語の半ばころ、ベルギーのイープルとメニンを結ぶ道の途中で、かれらには平和な風景しか見えていないところに、一人のタイムトラベラーが、フランドルは歴史の共同墓地となるだろうとかれらに語る[邦訳上巻859頁]。そして物語の終わり近くで、かれらは下界で起きていることを鮮明に目撃することになる。またかれらは非ユークリッド空間における真の放浪の旅というべきものを経験する。飛行船で高く上昇しつづけているはずなのに、いつのまにか再び下降しているという事件があるとき起こる。そしてそこで、かれらがかつて訪れた世界はすべて、この地球の複数のオルタナティブなバージョンであったということを発見するのである。

   かれらは<反地球>にいるが、同時に<本当の>地球にもいる。そしてそのような状態のまま、かれらは第1次世界大戦に遭遇する(彼らが船上で<下方の直接法的な世界>との関係を断っていた間は、それに気づかなかったのであるが)。ピンチョンは、このようなやりかたで、複数の世界の遊戯のなかでも、それらの世界の現実が、その複数性ゆえに残酷さを減らすわけではないということを読者に思い起こさせる。イマジナリーな部分があれほど祝福される一方、複素平面的なテクストにおけるリアルな部分がくりかえし前面に現われてくる。『逆光』の読者は、この小説の実部と虚部をはっきりと区別し確定したり、首尾一貫して評価することはできないだろうし、またなにがなんでもそうしようとは思わないだろう。むしろ、「偶然の仲間」たちのように、現実世界ではijkならぬxyzへの固着ゆえにけっして受け入れられることのない虚と実の困難な共存のなかに、すすんでみずからを再発見することだろう。この拙文のささやかな洞察とは、本来、複素数性をもってしてはじめて、この単一な現実の世界に出会うことができるというものであるが、これをして、『逆光』が複素数的であることの証明とすることが許されるであろう。