社会通念に飼いならされて
「こうあるべき」という社会通念が、マイノリティたちを生きづらくしているのではないか。
松屋で先日観た万引き家族について考えていると、そんなことをふと思った。
物語は、ある親子がスーパーで万引きするシーンからはじまる。彼らの万引きはもはやパフォーマンスと呼ぶべきものであり、そのテクニックには清々しさすら感じる。
そう。彼らは万引きを生業としていた。父親は日雇い、母親はクリーニング屋で働いてはいるが、それでは生きていくには足りず、万引きで補っている家族。それは文字だけで見たら誰もがこうはなりたくないと思う姿。
ただ映像としてその風景を観ていたらその幸せにぼくは嫉妬すらした。
安定した仕事はない。明日クビになるかもしれない。そんな暮らしの中で、彼らは今日を確実にたんたんと生きていた。その中で大切なものだけは絶対に手放さない。大切なものを大切にするのだけは怠らなかった。そんな温かさにぼくは嫉妬した。
日曜の夕方に家で1人のんびりしている自分が、ひどく孤独なように感じた。1人でいるほうが好きだったはずなのに。
万引き家族を観てから、時間が経てば経つほどこの作品が好きになっていった。それと同時にぼくの中で波紋が広がっていった。その波紋の正体がわからず、ぼくはそれをもやもやと呼んだ。でもやっとわかってきた気がする。
「こうあるべき」という社会通念に苦しめられているのは、ぼくも同じだ。
「未婚でいるより、結婚したほうが幸せだ」「男は女を好きであるべき」「子どもは実の母に育てられたほうが幸せだ」「お金のない家庭は不幸だ」
こんな幾多もの固定観念に押しつぶされて、「こうあるべき」という姿に無意識のうちに引き寄せられる。
若者は、他の人からマイノリティと思われない程度のアイデンティティを見つけるのに苦労し、旅に出る。旅に出て何者かのようになった感覚でいたら、社会という波にのみこまれそうになる。いままでずっと "世間一般" の考える幸せを実現しようとしてきたために、自分の幸せを考えると途端にわからなくなる。
本当は自分は何がしたいのか。
変わりゆく社会の中で、とくに今の若者は考えているのではないか。そんな社会通念にがんじがらめにされたマジョリティたちが、スクリーン越しのマイノリティたちに羨望の眼差しをむける。正しくは羨望ではないかもしれないが、胸の中で波紋がおこる。それが万引き家族ではないか。
1億人もの人間が作り出すニホンという巨大な社会のなかでぼくができることは限られている。ぼくができるのは、自分の幸せを他人に押し付けない。自分の幸せを決めつけない。人の幸せは、人生は、人の数だけあるのだから。
チュウトハンパヤロー。
「このままじゃいっせいは中途半端野郎だ」
前勤めていた会社の人事に言われた言葉だ。仕事を辞めたいと伝えて言われた言葉。
普段はとても優しい人で、お母さんみたいな人だった。だから、てっきり次やりたいことに対して応援してくれると思っていた。そんな人から言われた言葉だからこそ、ぼくの記憶に残っている。
たしかに、前の職場ではとくに大きな成果を残せなかった。毎日欠かさず入り口近くの席で、出社してきた人に挨拶をしたことくらいだ。仕事の全容だって全て把握したとは言い切れない。仕事の面白さはそこから体感できたのかもしれない。
でもぼくはその職場で「中途半端野郎」だったことに誇りをもっている。
中途半端であること、それはすごく悪いことのように捉えられる。でも果たしてそうだろうか。中途半端という側面だけ見ていたらたしかに褒められたものではないのかもしれない。
でもほんとにやりたいことが横にあるのに、その気持ちに嘘をついて、ここまでやってきてしまったからもったいないと区切りがつくまで続けるのが正義なのだろうか。
ぼくは食べているパンがまずいことに気づいて、美味しいケーキを見つけて、ケーキを食べはじめた。食べかけをもったいないと言う人はいるだろうが、自分がハッピーなのはケーキを食べているときだ。
「頑張れ」「中途半端になるな」
なんて無責任な言葉たちが飛び交う。
でも彼らは自分の人生に責任をとってくれるのか。
「中途半端になるな」
中途半端になる場所があってもいい。
頑張る場所は自分が決めていい。
「中途半端ヤロー」
あそこでは中途半端だったけど、この場所で一流になろう。
「チュウトハンパヤロー」
あの言葉はぼくのことを思って言ってくれたのだろう。でもぼくはこの場所で中途半端になることを決めたのです。ぼくたちは花じゃない。咲く場所くらい自分で決めろ。
モクヒョウ
塾という空間で働き始めて早いものでもう1ヶ月が経とうとしている。
本当に多くのことを任せてくれる職場で、もうすぐ一通りの業務を経験し終わる。入社1週間くらいで、講師の面接もした。何を聞いたらいいかわからずたじたじで、けっきょく先輩に変わってもらったが。そのあとも先輩は何がだめだったのか、手順を追って指導してくれた。
まだまだ力不足を痛感する場面が多く、生徒に質問されても答えられないときは悔しい。
それでも「ありがとう」と言ってくれたり、すごくいい顔で「先生、自慢してもいいですか?」なんて言いながら丸ばかりがついた回答用紙を持ってきたりしてくれるとうれしい。
この子たちの力になってやりたいと思うし、力になれていると感じると自分の存在意義が見出せてとてもうれしい。
「先生、また見せにきてもいいですか?」
なんて言葉を聞くと、教育という世界に入ってよかったなあと思う。
モクヒョウ
そんな空間で働くというか生きている中で、ぼくは1つの目標ができた。
半年後、塾の校舎長になる。
会社では半年というのが別に異例でもない。
十分にあり得る期間だ。あらためてそんな環境にいれることに感謝する。
そしてやっぱり
自分が理想とする学びの空間を自分でつくる
ということがしたいなあと思っている。
ブログという場で発信するのは、
自分に言い聞かせるためでもある。やりたいこと多すぎる好奇心旺盛人間のぼくは、なんにでも飛びつく。やりたいことをやりたいときにやって、会いたいときに会いたい人に会う。そんな性格だから計画性など皆無だ。
でもいまは選択と集中の時期かな。
この目標を最優先にして、これから半年は生きていこうと思う。
十回口にすると書いて、叶う
夢を叶えるため、目標を叶えるため、ぼくは少し口うるさいくらい言い続けよう。明確な目標ができてあとは逆算するだけだ。ああわくわくするなあ。人生楽しいなあ。
今日も空が青い。
今日もどうやら生きている。
ねえ。
ぼくには名前がある。
森越一成
とても気に入っている。「一つのことを成す」そんな想いがこもっているらしい。森越と呼ぶ人がいたり、いっせいと呼ぶ人がいたり、いっちゃんと呼ぶ人がいたり、はたまた団体の影響でぶらんちなんて呼ぶ人がいたりする。
名前って不思議だ。
いつも苗字で呼んでいる人を下の名前で呼ぼうとするとちょっとドキドキする。慣れてしまえばなんてことないんだけど。いつも呼ばれていない名前で呼ばれるとどきっとする。
お父さんのことを初めて親父と呼ぶ瞬間。そこにはいつも名前を呼ぶときにはない感情の振れ幅がある。
ものが先か。言葉が先か。
こんなテーマの文章を誰しも現代文の文章で読んだことがあると思う。
たとえば「りんご」というものがあったとき、物体があるから名前をつけるんだけど、ほかの「みかん」とか「なし」と違うというのを認識できるのは、名前があるから。
外国では虹を6色と言う人たちがいる。それは「藍色」という言葉がないからだ。言葉がないから青色と藍色は同じものだと認識する。白と黒という言葉しかなかったらぼくたちの世界はいつまでもモノクロのままだったのかな。
これはとても面白くて、
ぼくという人間はたとえ名前がなくても実在しているのだけど、でもいまのような人間になっていなかったと思う。一成という名前をつけられて、ぼくは一成っぽく生きてきた。一成にフィットするように生きてきた。
それはもちろん意識などしてこなかったのだけど、いろんな人から名前を呼ばれるたびに一成を無意識的に意識して、一成っぽく生きてきた。
名前の力は強い。
言葉の力は強い。
でもその話とは逆説的だけど、ぼくは言われると好きな言葉がある。
ねえ。
ねえ。という言葉からはじまって何気なく連鎖するLINE。ねえ。と呼ばれて、まったくぼくのこととは気づかずに、「君のことだよ」なんて言われてはじまる恋があってもいいかも。
そのよそよそしさと、適度な距離感。でも確実に距離のある相手には言えない親しみをもちあわせた素敵な言葉だと思ってる。
ちゃんと名前を覚えてほしい。ぼくがぼくである限り。でも10回に1回くらいはこんな雑さでぼくのことを呼んでほしい。
ねえ。
【ネタバレあり】彼女がその名を知らない鳥たち。
先日、また素敵な映画と出会ってしまった。
それが
主演が蒼井優と阿部サダヲ。この時点でもういい映画かもしれないと思ってしまうところがすごい。阿部サダヲに関してはぼく自身あまり出演作品を観ていないが、蒼井優に関しては「オーバー・フェンス」を観て魅了された。ふつうに蒼井優が演じるさとしに恋をしてしまった。しょーじき蒼井優の容姿はそれほどタイプではないが、恋をしてしまった。それほどさとしは魅力的だった。
そんな蒼井優が主演ということで期待度も高かった本作。
映像作品として、素晴らしいとしか言いようがなかった。エンドロールが流れているとき、この作品好きだなあと思わせてくれる作品だった。
作風で好き嫌いが別れる映画だとは思うが、蒼井優と阿部サダヲの演技力はもちろん、その2人の演技を最大限に引き出す演出がところどころで際立った。
本作を観て素直に思ったのは、
「自分より大切だと思える人に出会いたい。」
ぼくはまだ自分が1番かわいくて、自分が1番好きだ。だがこの作中で阿部サダヲ演じる陣治は、愛する人に必死に生きて欲しいがために、自分の命を自ら断つ。
「おれを生んでくれ」
という言葉を残して。こんな言葉言えない。
こんな映画の終わり方は今まで初めてで、とても衝撃的だった。「あなたはこれを愛と呼べるのか」というキャッチコピーの通り、死んでしまったら意味がないじゃないかと思う人もいるかもしれない。でもぼくは「紛れもなく愛だ」と思ってしまった。
愛した人に生んでもらう。それは愛した人から無償の愛をもらえるということ。それは陣治にとって1番の幸せなのかもしれない。陣治は死ぬことによって1番の幸せを手に入れた。
あなたは自分の命を投げ打ってでも生きて欲しいと願う人はいますか?
ぼくも子どもができたら自分より大切な人ができるのかもしれない。でも現時点で自分の命を投げ打ってまで生きて欲しいと思える人はいない。それだけが愛の形ではないのだけど、その事実がとても悲しくも思えるのだ。
この作品が最も優れていると思うのは、終始クズばかりがでてきて、「生きづらさ」を感じる作品でありながら、1番最後にこの世で考えうる最高の愛の形を提示してくる点だ。陣治から十和子に対する愛が溢れるシーンが次から次へとスクリーンに映し出され、愛。愛。愛。愛だよ。愛と呼べるよ。最低な男じゃない。ここに誰よりも愛のある人間がいるよ。ということを観客に叫ばせることに、広報の段階から仕込んで成功させたなんと入念な映画だろう。
「自分より大切だと思える人に出会いたい。」
そのとき欲張りなぼくは、彼女と寄り添うように生きていく生き方を選ぶのだろうけど。
学ぶって気持ちいい。
ぼくはいわゆる優等生だった。
自慢じゃないけどとか言っても自慢に聞こえるから、自慢だけど、大学は名古屋大学だ。あ、でもそんな威張れたもんじゃないか。東京の人は知らないか。
ただぼくは小学校のころから、容姿や恋愛やスポーツやアートで敗れた相手に対して勉強という武器で立ち向かって、幾多の敵を倒してきた。ぼくにとって勉強は他のコンプレックスを守る武器のようなものだった。
でも大学に入ると、学ぶことをやめ、周りに流されていわゆるウェーイ大学生を満喫した。楽しかったなあ。あれはあれで。
でもいま思うのは、ぼくは学ぶことが好きだ。大学生時代、就活中はずっとなぜか否定してきた。でも小中高と12年間ぼくはずっと欠かさず学んでいた。塾という場所で仕事をはじめて、挫折しながらも一生懸命になって学ぶ高校生たちに囲まれて思い出した。
未知なことと出会える、既知と既知がつながる、「学ぶ」という行為が好きだ。
「学ぶ」とか「勉強」とか言うと拒絶反応を示す人がいるかもしれない。でも本来知らないことを知るって楽しいわけで、だから子どものころ石の下をほじくり返してダンゴムシを発見したり、知らない隣町まで自転車をすっとばしたりした。自分だけが知っていることを「秘密」と呼び、身内しか知らない秘密基地を作ったり、大切な人にだけ秘密を話したりした。
「学ぶ」とか「勉強」って呼び方が悪いのかなあ。さいきんでは「エデュケーション」と「エンターテイメント」を掛け合わせて「エデュテイメント」なんて言ったりする。うんこ漢字ドリルとかがまさにそうだよね。それぐらいの気軽さがぼくは好きだなー。小さいころ、泥だんごを作ったように、秘密基地をつくったように、粘土で誰もわからない芸術作品をつくったように、学ぼうよ。
あー、ぼくはまだ教育について、ぜんぜん知らない。勉強しなきゃだ。
学ぶって気持ちいい。