cranky days

何でもない日々

涙の理由

久しぶりの更新。

前の記事を見返すと削除しようかと思うのもちらほらあるけど

こういうときもあったんだと懐かしむために消さずにおきましょう。

 

さて、本題ですが

8/29に山中湖で開かれるSweet Love Shower 2014に行ってきました。

理由はもちろん、andymoriの最後のライブを観るため。

ほんとうはワンマンを観たかったけどチケット取れず...

最後こそ観なきゃって思って先行で取ってたラブシャは問題なく行けました。

お金はかかったな...

でも結果から言うと、行って本当によかった。

あのときの自分の決断に感謝。

 

突然ですが、

自分は男性が何かを観たり読んだりして泣いたって言うのがあまり好きではありません。(女性だと全然許せるのですが...)

自分が言うのも好きではありません。

だから、基本的には「泣いた!」って言わずに「感動した!」って言うんです。

めんどくさいですよね〜。なんなんでしょう。

ポリシーというか、美徳というか。

 

そう、そんな僕が、andymoriのこのライブ、泣いたんです。涙が出たんです。

ポリシーなんてくそくらえですね 笑

涙が出るときって、何かの要因があるときに出ることが多いと思います。

寂しかったり、悔しかったり、悲しかったり、嬉しかったり。

でも、このときはそういうのがありませんでした。

もちろん、感情として存在はしていましたが、涙がでるトリガーの役目をはたすほどの大きさは持っていなかったです。

ただ、純粋に涙が出たんです。

本当の意味で感動をしました。

この20年間で本当の意味で感動したことなんて数え切れるほどしかないと思います。

もしかしたら、なかったかもしれません。

それほどの力のあるバンドだと思います。

僕にとっては。

 

そして本当の意味でラストではなかったandymoriのライブ。

行けるといいな。

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なんともいえない

死ぬことを考えると、どうしようもないくらいの恐怖に襲われる。

いま何かを考えたりしている自分の意識がないという恐怖。

この意識が消えた後どうなるのか考えると

宇宙の真理にたどり着けそうな気がするけど

途中であまりの怖さにやめてしまう。

小学生の頃くらいから、もっとも身近でもっとも遠いところにある恐怖。

 

謙虚であることを大事に生きているけど

死ぬときだけは謙虚さを解放したい。

 

 

本当の友達

実家に帰ってきて少し感傷的な気持ちになったので、2日連続での投稿。

ぼくには、本当の友達がいないと本気で思ってる。
本当の友達って何だろう。

よく、誰々といると気を使わなくていいから楽…なんて言われるが、果たしてそういう関係が本当の友達でありうるのだろうか。

気を使わないでいいなんて、そんなのあり得ないってぼくは思う。
本当の友達であればあるほど、気を使ってほしい。
本当の友達であるっていうのは、
ただ相手がしてくることに対しての許容する範囲が大きくなっているために、気を使わなくても平気だから、一緒にいて楽ということではなくて、
相手のされて嫌なことをしないから、それが自然とできるから(つまりそこで自然と気を使えてるから)、一緒にいて楽ということだと思っている。

もちろん、ぼくの理想とする本当の友達像の関係性をもっている人たちはたくさんいるとは思うけど、何故かぼくの前にはそういうことができる人が現れてくれないのです。
ぼくは、どちらかというと友達が少ない方ではないと思うが、本当の友達候補になった人たちは皆ことごとく、気を使うことをしなくなっていくので、あーもういいやって感じになってしまうのです。

この世界にはいろんな人がいるのだから、仲良くなるほど許容範囲が大きくなって、気を使わないから楽だっていうような関係性を好む人が一杯いると思うのです。
でもぼくは、やっぱりそれは嫌だ。
それだと、その人のことをどんどん嫌いになっていくと思います。
結局のところ、これはぼくの性格の問題なのだろうけど、
これまた、世界にはいろんな人がいるから、ぼくの考えがわかってくれる人もいると思うのです。

本当の友達とかいらないって強がったり、
でもやっぱり本当の友達がほしいと夢見たり、
もっと気楽に生きられたらどんなに良いでしょう。
細い神経にばんざい。



平等の真価

今日はひさしぶりに高校の頃の友達とご飯を食べた。
話の中で、その人の長所をあげようということになって
ぼくの長所は、みんなに平等であるとか、優しいとか、の言葉をもらった。

それは自分の本質的なところであると自覚もしているし、ある意味狙ってやってるところもあるから、周りからそう思われるのは当たり前なのかなと思う。
弱い者を助けてあげたいみたいな、でもちょっとこの俺かっこいいみたいな、正義とナルシストが混ざりあった気持ちで日々を過ごしているような気がします。

ただ結局のところ、ぼくの心はとても深くとても黒くて、妬みや僻みが勝ってしまったら制御ができないくらいに突っ走ってしまうし、自分がやれることをやろうとしない人にまで手を差し伸べてあげないし、聖人には絶対になれません。

だけどぼくは、自分の力じゃどうしようもないことのために困っている人には、必ず手助けをしてあげれるような人間でありたいと思います。
そういう人をみると何故か無性になにかをしてあげたくなるんです。その範囲としては、自分の手の届くくらいでしかないのですがね。


こすいこと

最近こすいなと思うことがひとつ。

 

ぼくがバイトしている本屋では中古本も扱っていて

今のキャンペーンでお客さんが5冊以上の本をお店に売って

そのときに10%の買取りアップ券を使うと100円の商品券を

配布するということを行っています。

(この10%買取アップ券はお店で何かを買うと必ずもらえる)

 

それでぼくがこすいなと思うのは地道に5冊ずつ売りにくる

お客さんがいること。

例えばこの人は500冊を売るのに10回に分けて来ることで

計1000円分の商品券を手にいれるわけなんですが

別に何も悪いことはしてないし、

本を売りに来てもらおうという企業の思惑みたいなのに合致してるし

悪く思うようなことはひとつもないと言い切れるかもしれません。

 

ただぼくの中には、『こういう行為はしたくない』という道徳心みたいな

のがあり、今回のはそれに触れてしまうのです。

 

実際問題として、このお客さんは地道に努力(毎回5冊持ってくること

は意外とだるいでしょうから)をすることで得をしているわけなので

一般的にみたらちょっぴりすごいこと何だろうなとは思いますし、

こういう人間が社会的にも成功するんだろうなとも思います。

 

だけど、その得を狙ってやってることが嫌なことなのです。

100円商品券がもらえるのはたまたまのお得感なんです。

ぼくからしたら、こういうのは本を5冊以上売ってそのときに買取アップ券を

使ったらたまたま100円商品券が貰えた!みたいなお得感でいいと思うのです。

まあ1、2回は狙ってやってもいいとは思うのですが

それを何十回も狙ってやるようなものではないと思うのです。

 

何度も言いますが、このぼくが嫌いな行為は企業の思惑と一致してるし

いろいろと間違った行為ではないことははっきりしています。

ましてや、お客さんがちょっとした得をできるすばらしいことだと思います。

ただぼくの道徳心みたいなのに触れるからどうしてもこすいと

思わざるをえないのです。

 

こういう人間ではありたくないなと。

 

という一個人の愚痴でした。

 

ちなみに『こすい』というのは「悪賢い」または「けちである」という意味です。

 

 

 

 

 

風邪

をひいた。

1人暮らしで、ましてや彼女もいないから
風邪をひいてちょっときついときの
寂しさはなかなかに精神的ダメージを受ける気がする。

このまま誰も自分のことを助けてくれないんじゃないかと錯覚する。

でもこういうときに限って親が優しくしてくれて、ちょっと安心する。

バイトだるいな〜

始発に揺られ

ぼくは基本ひとり大好き人間なので家にこもってる方が好きだ。
でも今日?昨日?みたいに友達と飲みに行って、カラオケオールなんてパターンも悪くない。というか楽しい。
たまにの場合だけど。

こんな感じで楽しめるのも学生の間だけなのかと思うと、もう少しみんなと騒がしいことしたいな〜て思うけど

結局はひとりで家にこもることに落ち着くなと思う、始発に乗っている朝です。