Vers une architect -建築家を目指して-

現代建築三代巨匠になるべく、建築家、建築作品、建築本等を自分なりに噛み砕いて言語化をする とか言ってみる

建築家 ブルーノ・タウト (Bruno Taut)

ブルーノ・タウトBruno Julius Florian Taut188054-19381224日)は、ドイツの東プロイセンケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。鉄の記念塔(1913年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。

表現主義とは、20世紀初頭にヨーロッパで見られた建築様式である。抽象的な幾何学建築とは対照的に、主観的・有機的なデザインを基調としていた。ガラスやコンクリートといった素材のもつイメージや性質を生かした造形が特徴で、ベルリンを中心としたドイツ語圏で見られたドイツ表現主義、およびオランダのアムステルダムを中心としたアムステルダム派がある。

 

ガラスやコンクリートといった素材のもつイメージや性質を生かした造形が特徴で、ベルリンを中心としたドイツ語圏で見られたドイツ表現主義、およびオランダのアムステルダムを中心としたアムステルダム派があります。

 

1933年、ナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、前年にあった上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、1933年に来日し3年半滞在した。日本では建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより転地し、1938年に当地で没した。

 

タウトは、学生時代建築現場で見習いとして働いたり、卒業後も建設会社で2年間、石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働いた。

(Wikipediaより)

 
ブルーノタウト 経歴

188054

ドイツの東プロイセン ケーニヒスベルグ(Konigsberg)生まれ

 

1897年~1901

ケーニヒスベルグで建築工芸学校(Baugewerkeschule)にて学ぶ。左官を学んだ。

 

1902 

ハンブルグアルトナ (Hamburg Altona) のノイゲバウアー建築事務所に勤務、ヴィースバーデン (Wiesbaden) のFMファブリー建築設計事務所勤務。

 

1903年~1904 

ベルリンのブルーノ・メーリング (Bruno Mohring) 建築設計事務所勤務

 

1904年~1906 

シュツットガルト (Stuttgart)のテオドール・フィッシャー (Theodor Fischer) 建築設計事務所勤務

 

1906 

ベルリンから北東に50キロメートルほどの場所にあるコリーン出身のヘドヴィック・ヴァルガスト (Hedwig Wollgast)と結婚、ベルリンに戻る。

 

1908

ベルリンのハインツ・ラッセン (Heinz Lassen) 建築設計事務所

 

1909

独立。フランツ・ホフマン (Franz Hoffmann) とタウト&ホフマン共同設計事務所

 

1910

ドイツ工作連盟 (Der Deutsche Werkbund) 会員になる

 

1913

ドイツ田園都市協会 (Deutsche Gartenstadt Gesellschaft) の主任建築家となる。

 

1914

ケルンの工作連盟博覧会に参加、「ガラスの家」発表。

 

1913年~1914

弟のマックス・タウトが参加し、「タウト兄弟&ホフマン共同設計事務所」を開設

 

1921年~1924

マクデブルグ市 (Magdeburg)の建築顧問となる

同士とフリューリヒト (Frühlicht) という芸術建築雑誌を出版する

ここで「すべての建築は色彩を持たなければならない」という「色彩宣言」を行う

 

1924

ベルリン住宅供給公社ゲハーグ (GEHAG)の主任建築家として活発な活動を行う

 

1926

建築家連盟「環:リング」の会委員となる

 

1931

ソ連のモスクワ・インツーリストのホテルコンペに参加

米国AIA The American Institute of Architects)の名誉会員に推挙される

 

1931

プロシャ国ベルリン芸術アカデミー会員

 

1933

日本へ移住、主に高崎の少林山達磨寺の洗心亭に住み

「日本美の再発見」「日本文化私観」「日本-タウトの日記」などを著す。

熱海の日向別邸の内装を設計。

 

1936

トルコへ移住、イスタンブール芸術大学の教授になる

 

1938 1224

トルコにて死去