20万年前の設計書に託された人類を進化させる7つの要素とは!?
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久々のアップで失礼します(笑)
「僕がアクセンチュアを辞めた理由」のYuichiです。今年はもうすこしだけアップしていこうと思います。
さて、いまさら言うまでもなく医療、農業、工業、様々な分野においてテクノロジーの発展が人類の人口爆発に大きな影響を与えてきたわけですが、人類の幸せに対しても同じく爆発的な影響を及ぼしてきたでしょうか。この問いについては大いに議論が分かれるところだと思います。 このギャップはいったいどこから生まれているのでしょうか。今回は、人類の「進化」について掘り下げてみたいと思います。人類進化の道は大きく二つ考えられます。それぞれを”右回りの進化論”と”左回りの進化論”と名付けてみました。
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外資系コンサルタントの僕が農業をはじめた本当の理由
昨日は、NHKあさイチさんの放送で数分ですが鎌倉での農業への取り組みを紹介していただきました。(8月20日放送 "JAPA"なび神奈川県・鎌倉市)
数分の放送の裏側では、念密な打ち合わせと何度も足を運んで僕の行動に密着していただき、1時間ほどはカメラを回していただいていました。
放送が終わったんでぶっちゃけますが、僕はもう何年も前にテレビを捨てたんで、長らくテレビを見ていないし受信料も払っていません、笑
でも、テレビの裏側ではこれだけ熱い思いを持って制作している方たちもいるんだなと感激しました。番組の制約がある中でも、僕の伝えたいことをできるだけ伝えてあげたいという思いで真摯に取材・編集いただいた沼尾ディレクターには本当に感謝し、敬意を表したいと思います。
番組では伝えきれなかった僕が農業に関わる本当の理由をここに記したいと思います。
今回の取り上げ方もそうですが、農家さんを支援しているというと、一般的には「農業」の再生という目的・文脈で理解されます。日本における農家さんの高齢化・労働者不足という課題は確かに存在し、僕が今やっていることは、ボランティアを集めて農家さん援農の仕組みをつくっているので、もちろんそういった課題の解決も狙っています。
また、「個人」のライフスタイル充実という目的もあります。自然に触れながら自分でつくった野菜はやはり一番美味しく感じます。また、「都会の台所は3日しかもたない」と言われている通り、バリューチェーンが最適化されたグローバルチェーンに依存した暮らしは、これから何が起きるかわからないこの世界においては逆にリスクでもあるので、まずはいかなる時にも自分たちの食料を確保できる状態にしておく=自給率を高めるておきたいという目的もあります。
でも、僕が農業に携わっている本当の理由は別のところにあります。
僕が農作業ボランティアの仕組みを通じてできる限り多くの一般市民が農業に携わる仕組みづくりを進めている本当の目的は、「個人」のライフスタイルでも、「農業」(= 「生産者/企業」)でもなく、「消費者」の改革です。
農業への消費者参加の仕組みをきっかけとして実現したい改革テーマは以下の4つです。
1. 消費者の” 目を開く”
2. 消費者が”あるべき文明の行方”を選択できるようにする
3. 消費者から”創造者”への移行を促す
4. マネー依存型経済から”信頼型交換経済”への移行を促す
1. 消費者の”目を開く”
僕たちの暮らしは、スーパーに行けば今食べたい野菜がなんでも手に入るし、蛇口をひねれば水は出るし、スイッチを押せば電気がつく便利な世の中です。
僕たち消費者は、「こんなに便利で、こんなに完全で、しかもこんなに安いんですよ」という企業の甘い宣伝文句を鵜呑みにしてそれを便利だから、安いからと当たり前に購買してきました。
でも、「世の中、そんな都合のいい話はない」。
それが、3.11でまざまざと突き付けられた真実ではないでしょうか。
農業をやってみると、その現実をまざまざと突き付けられます。
「ああ、ネギを今すぐ食べたい」と思っても、冬ネギは実は6月には植えてそれからずーっと面倒を見つづけてはじめて冬に収穫できる、そんなに手間と時間がかかってようやく食べられるものなんだな、ということを知れたりします。
「農薬を使っている野菜なんて絶対に食べないわ、でもこれはちょっと葉っぱに穴が空いていて汚いから買わないわ!」
農業をちょっとでもやってみると、おいおい、となるでしょう。たわわに実ったソラマメを大量のアブラムシが覆い尽くしている状況を目の前でみたときに、どう思うでしょうか。ソラマメはたくさん食べたい、でも、農薬は使いたくない。それはみんな同じです。でも消費者は都合のいいことをまるで当たり前のように要求してしまっていますが、それは傲慢そのものというものです。生産者はそういったジレンマと必死に戦ったうえで、なくなく微量の農薬を使い、そのおかげで消費者はようやくソラマメにありつけているということもあるのです。
「やっぱり有機野菜がいいわ、でも安いのがいいわ!」
耕運機、ビニールハウス、農薬、化学肥料などを使った慣行農法によって、ようやく安くて美味しい野菜がいつでも食べられるようになったのです。そして、その状況をずっと支持し続けててきたのは僕たち消費者なのです 。そうやって大量生産大量消費に最適化した慣行農法用向けにつくられた土は痩せてしまいました。
一例ですが、北米の五大湖周辺の「世界の穀倉地帯」は、典型的に工業化された大規模農場です。ここでどんな農業が行われているか。半径1㎞ある巨大な自走式散水管に地下水を大量に汲み上げ、大量の化学肥料をいれ、高圧をかけて注入し、ザーッと散布する。巨大トラクターで耕耘してから飛行機で種を播き、成長したら巨大コンバインで収穫。最初から最後まで農場主は土に触りもしません。実は、この農園は、20年の使い捨てです。二度と豊かな土に戻ることはなく、砂漠化します。そしてまた新たな土地を文字通り食いつぶしているのです。
この状況を見た日本人が、「ひどいじゃないか!」というと、あるアメリカ人関係者は、「それは消費者である日本の責任だ」と言い放ったという話があります。日本は穀物自給率29%と低く、その多くはアメリカからの輸入に依存している状況です。飼料用トウモロコシにいたっては、実に90%近くを米国から調達しています。
スーパーで買い物をするときに、野菜だけでなく、豚肉を買う際に(米国産の飼料を用いていることを知らずに)このようなひどい環境破壊に自分が加担しているのだ、ということを自覚している消費者はどれだけ存在するでしょうか。僕たち消費者はまったくの盲目のなかで消費活動をしていることがわかってくると思います。
米国の大規模農園ほどではないにしても、一般的な慣行農法で痩せてしまった土は、再び微生物の多様性を取り戻し、肥沃な土にまで戻すのに最低3年~10年はかかると言われています。その間、生産量はガクッと落ちることは避け難いし、無農薬、有機農法、不耕作農法など、はじめのうちは少なからず手間がかかり、大規模にやるのは難しい。
そういった「都合のいいことはない」という真実を消費者が理解しなければ、本当に素晴らしい取り組みをしている小規模農家さんを持続可能にすることはできません。安い買い物はできても、安全で安心な食が守れないのです。
これから、グローバル企業が遺伝子組み換えの振興市場として日本を狙ってくることは間違えありません。そのときに「都合のいい話はない」このことを知っておかなければ、「食料版3.11」のようなことが起こることも否定できません。
また、昨今は健康ブームによって、「オーガニックにハマり、暴走する女たち 」と呼ばれるように、「フードファディズム」(食べものや栄養が健康と病気に与える影響を、熱狂的、あるいは過大に信じること)という現象が起きています。
ビジネスや社会にいきずまりが起きたときに起きる現象といわれています。そういう時代に起こる「なにかにすがりたい」という消費者心理は、巧みにビジネスと政治に利用されます。こういったことにも、消費者は抵抗力をつけておかなければなりません。「偏った話には裏がある」わけです。
原発の製造プロセスに消費者が入り込むことは難しいですが、野菜づくりのプロセスに入り込むことははるかに障壁の低いことです。
農業に関われば、「都合のいい話には裏がある」、「偏った話には裏がある」、ということを身を持って体感できる。一旦、その感覚を体得すれば、食だけでなくあらゆるものには裏があることが見えてきます。
2. 消費者が”あるべき文明の行方”を選択できるようにする
「文明人は地球の表面をわたって進み、その足跡に荒野を残していった」
ヴァーノン・ギル・カーター&トム・デール共著「土と文明」
先ほど紹介した北米の穀物地帯の話は、なにも近代社会の例外話ではなく、これまでの歴史の中で、人類は幾度となく肥沃な土地を荒野に変えては捨て、発展し、また新たな土地を争い、食い荒らし、滅亡するというパターンを繰り返してきました。豊かな土壌に満ちていた古代文明の多くが砂漠化しているという歴然たる事実がそれを物語っています。
農業は、文明の始まりであると同時に文明崩壊の始まりでもありました。
消費量を増やし、増える人口に対応すべくますます生産量を増やすための効率的な仕組みをつくっていった、それが文明です。そして、文明がその創造の源となる土(環境)を無視してしまったことから崩壊へと向かう、それが典型パターンでした。
農業に触れるということは、自然と人間の関係性がいかにあるべきか?を否が応でも考えずにはいられません。
農業を始めたときが、人類の自然破壊の始まりです。肥料もやらず、耕さない、何もしない、科学の存在を真っ向から否定して確立した自然農法の創始者福岡正信さんですら、自らの農法を「懺悔の念で伝える」と著書に記述しています。自然に手を入れない限り農業は成り立たないし、完全に自然を壊さずに人類が生きていくことはできないのです。
ですから、農薬を使わなければそれでいい、有機農法であればいい、というのも問題に対する思考停止です。また、もっと極端に過度に環境に配慮していることが必ずしも「万人に対する正解」とも限りません。(その結果、人が苦しみながら生きづらい世の中になってしまうのなら)地球にも優しく、人にも優しい、その選択の線をどこに引くべきか?それに唯一の答えはないのです。その線は、人それぞれで違います。なぜなら、それは一人一人の生き方・考え方そのものだからです。だから、企業のいいなりになるのではなく、それぞれが人生の様々な選択を通じた実践において、苦しみながらもジレンマの中でそれぞれの答えを見出していく。それが、結果的に地球と人間の総体としての正しい姿に向かうのだと思います。
みなさんは、森の中で深呼吸をすると気持ちがいいのはなぜだろう?と考えたことがあるでしょうか。
僕はひとつのとてもシンプルな仮説を思いつき、それで納得したのですが、「そうか!」と気づいたときの感動はいまでも忘れられません。
僕は、呼吸を通じて自然と人間が一体になっているからだと考えたのです。当たり前のことです。
小学校の化学で習ったとおり、呼吸は、二酸化炭素を排出し、植物はそれを受け取って、光合成という仕組みで酸素を人間に返します。小さな相互のインプットとアウトプットを通じて人間と自然はひとつの一体化したシステムとなっているのです。そのとき気持ちいいと本能的に感じるのは、小さいけれどもお互いの生命にとって欠くことのできない強い結びつきと循環が存在するからなのだと思ったのです。自然は人間が鑑賞するものではなく、支配するものでもなく、人間の一部であり、また人間は自然の一部なのだと改めて感じた瞬間でした。
しかし、かといって近代化で獲得した科学技術の全てを否定するべきではないとおもいます。ただ、これからの人類の発展を考える際に、人間と自然のあり方をどう考えるべきか、その思想がとても大切になってきます。人がますます自然を克服し、支配するために科学を活用するのか、あるいは人間と自然が共生する世界のために科学を活用するのか。僕個人としては後者の世界に住みたいですし、これまでの人類の歴史から考えてみても、やはり、人間も含めた地球の持続可能性を目指すならば、後者を目指すべきというのは間違えないのではいかと思うのです。ラブロックのガイヤ理論を適用するならば、人類が地球の持続可能性に寄与しない存在になったときには、人類が滅亡するような調整作用が起きるだろうということです。
先日の畑仕事のことです。早朝から3人で2時間かけて、タンクからジョウロに水を汲みながら、植えたばかりの人参に水遣りをしていました。畑とタンクを何度も往復し、ようやく終えて帰宅したときに、思わぬことが起きました。雨です。「いままでの作業はいったいなんだったんだろう!?」と思う一方、農家さんとは「自然にはかなわないよね、仕方ないことだよ。逆に降ってくれてよかったね」という会話をしました。
農業に消費者が携わることで、いかに自然の恵みが豊かで、それは使い方次第で人工的エネルギーよりもはるかに効率的であることに気づき、一方で自然の驚異は避けられないものであることを悟り、だからこそ、それを農薬や厚い壁で排除するのではなく、不自由な側面も受け入れて生きるという選択を”消費者が選べるように”なっていくのではないか、という期待をもっています。
3. 消費者から”創造者”への移行を促す
日本のサラリーマン人口は全体の47%とほぼ半分近くの割合です。これらの人たちは、企業という枠組みの中で、ある専門領域に特化して労働をし、対価としてもらった給料を使って消費するという生活をしていると思います。言い方を変えれば、一つのことは自分でつくれるけれども、あとのことは他人任せ、という社会をつくりだしました。お金さえあれば全部他人がやってくれる、自分では何もしなくていい。ビジネスの世界では、「これからはクリエイティビティーが重要だ」といわれていますが、これまでの社会システムは人間の個性と創造性を排除することをしてきてしまったのではないでしょうか。
「百姓」とは、百の姓と書きます。要するに昔の農家さんは自分でなんでもできたクリエイターだったわけです。 無名であっても日々の暮らしの中で気づくフィードバックの積み重ね、そして村の中や代々伝わる工夫に満ちた叡智の積み重ねが、結果として美の境地となり、文化となりました。それが開花した時代のひとつが江戸時代でした。 詳しくはまた別の機会にしますが、これから持続可能な社会を目指すという時代においては、「全員が創造者となるべき」だと考えます。仕事を創出するという観点だけでなく、成長しない時代のリスクヘッジという観点でも重要だと考えます。
消費者が農という生産行為を経験するということは、とても簡単で有益な創造へのきっかけになると思います。自然の法則を体感しながら効果的効率的な生産方法を模索していくということは、クリエイターにとってなによりも勉強になることだと思います。
現在 畑のボランティアにきているメンバーは畑作業をしながら、「これらの野菜をどうやったら美味しく食べられるかな?」などと楽しそうなブレストで盛り上がっています。鎌倉野菜は多品種つくるのが特徴で(これも、グローバル企業に対抗した種を守る、多様性を守る、という動きになればいいのですが)、見たことも食べたこともない、カラフルな野菜も多くつくっています。また、料理というのはあらゆる複合的な知識や感性を要求されるので、クリエイティビティのよい教育に成ると思います。そうやっていくと、このお野菜には、どんな食器が合うかな?お花も飾りつけてみようかな?、テーブルのディスプレーはどうしよう?・・・そうやってどんどん身の回りを健康で美しい環境にしていくモチベーションと活動が自然に起こっていく、ということを実際に目の当たりにしています。自然と触れあうことはクリエイターにとってとても大切だというのはよくいわれていますが、農業は、それに加えてわかりやすいお土産(食べると美味しいという)があるので、学びがますます促されるのです。
4. マネー依存型経済から”信頼型交換経済”への移行を促す
畑のボランティアを通じて知り合った仲間たちとは、じゃあこのとれたて野菜をつかって持ち寄りパーティーをしようよ!となります。ときには、「俺は今日、釣りに行ってアジを釣ってくるよ」という話があって、「じゃあ、畑から野菜もっていくから」ということで、即席パーティーが開かれたりします。食べ物の新鮮さ、そして自分たちでつくったものである、その思い同士が交換されるという喜び、そしてほとんどお金がかからない。
海山がある豊かな田舎では当たり前のことだと思いますが、こういった生活をしていると、豊かさとは何か?を改めて考えさせられます。都会では、どうやって調理されたかわからない料理を、おしゃれな空間の中で、雑誌に載っていたから多分美味しいのだろうと思いながら、高額な料金を払って食べる。それが、果たして本当の豊かさなのかどうか。
誰かを訪ねるときに、デパートで菓子折りを買っていくよりも、自分でつくった野菜を持っていくととても喜ばれるし、距離が近づくのを感じます。そして、相手からも何かを与えたいという気持ちが自然とあらわれてくるのを感じます。
僕が思い描く未来は、ものの経済→サービスの経済の次は、「心の経済」になるというものです。
これからの社会は、全員が創造者になる時代と言いましたが、そういった創造者が、各人の想いを相手にアウトプットする。そして相手は、その想いに応えるように自分の想いを返す。そういう心と心の経済が始まるのだと夢見ています。
農家さんの実態ですが、つくられたものの平均1/3が捨てられているそうです。しかも、遠方へ出荷しなければいけないがために、今食べごろの野菜が規格外となって捨てられる、ということが当たり前に起きています。十分美味しいのに形がおかしかったり傷がついているものについてはいうまでもありません。これらを仲間で食べていて最高に幸せであっても、実態経済には反映されないので、今の世の中の尺度では豊かであることにはカウントされないことになっています。「新しいことは都心からは見えにくくなっていて、むしろローカルから新しいことが始まっているのだ」と言われている所以はこういったところにあるのだと思います。
しかし、こういった豊かさに気づき始めている人たちがいる中で、遅かれ早かれ、現代のマッチングやプラットフォームのテクノロジーが組み込まれることで、経済にも反映されてくる時代になっていきます。
先ほどの「心の経済」という流れと人口減・高齢化社会でますます顕在化してくる需要と供給の不均衡。これらをポジティブに解消していく事業・経済が立ち上がってくる。ちまたでは、ギフトエコノミーとかシェアリングエコノミーとかいわれているものです。
しかし、これらを支えるプラットフォームビジネスも、やはり欧米の仕組みだけもってきても決してうまくいかないと思います。
マネー依存型社会では、人と人は不信をベースに金で繋がっていた社会でした。これからは、人と人の心の絆で繋がっていく、そうやって信頼関係のある土壌が築かれていくことでプラットフォームビジネスもますます発展していくのではないでしょうか。そういったことに長けている国はどこか?
紛れもなく日本でしょう。
最後に、ここで「僕がアクセンチュアを辞めた理由」に繋がります。
資本主義経済システムのアップデートは、持続可能性の獲得に向けて企業サイドにおいて重要課題となっており、そういったB to Bの改革も進み始めています。
一方、B to Bの課題解決の限界としてのCの問題。すなわち消費者が変わらなければ企業は変われない、というところを自身の取り組むべき課題として僕は位置づけています(B to C)。消費者が変わることで、企業が変わる、そして社会にとってよい企業だけが生き残る社会になるという仮説。
農業に消費者が関わるということは、消費者が生産プロセスに関わるということ。しかも、持続可能社会において重要になる自然との共生のあり方が問われる生産に関わるということ。
農業への消費者参加は 、モチベーションに寄与するお土産もあり、参入障壁が低い。例えば「自然保護」や「反XX」という枠での取り組みはどうしても、入り込みにくい雰囲気があったりするのではないでしょうか。でも、畑はわかりやすい。「美味しい!が世界を変える!?」消費者の意識改革には最もレバレッジが効く取り組みのひとつと思っています。
特に、女性の参加が効果的だと思っています。現在農作業ボランティアメンバーの9割は女性であり、後世へ問題を先送りにしてはならない、という危機感に対する潜在的な意識の高さというのは、女性性にあるのではないかという仮説を持っています。いずれにしても、女性の意識と消費活動が変われば、近所の奥様が変わる、子供が変わる、そして最後になくなく夫が変わる、笑。これからは、女性が社会を変えるドライバーになると確信しています。
日本の小規模農園を支援する企業さま、安全で安心な農を追求する農家さまや製造・小売企業さまには、ぜひ畑への消費者参加の仕掛けづくりが有効であることをお伝えしたいとおもいます。畑に興味のあるボランティアの方々が、新たな消費者運動の中心となり、これからのあるべき経済市場の中心になることをサポートしていければと思っています。
これまでの資本主義システムの大きな欠陥の一つは、消費者が企業の生産プロセスを評価・監視するガバナンス機能をにもたなかったことにあると考えています。そのことが、強欲化する消費者と暴走する企業を助長させてきたのではないでしょうか。
消費者が生産側に組み込まれる仕掛けをつくる。これが今後の資本主義システムのアップデート項目の一つだと考えています。
消費者参加型の”共創”による商品開発、顧客による商品レビュー・レコメンド、消費者が特定企業の購買にコミットするCSA(生協モデル)、など、様々な仕掛けづくりが進んでいます。
しかし、これもまた、仕組みだけでは決して解決しません。消費者が今までと同じ価値観の消費者である以上、消費者によるガバナンス機能は、あいもかわらず企業のまやかしの罠にはまり、形骸化してしまうでしょう。
みんなで農業をはじめましょう。
日本人全員が農業に携われば、この国は再び世界一豊かな国になると信じています。
by Blue Soil Consulting
~ 進化するための土壌をつくる~
【イベント告知】7月24日(金)これからの生き方を考える「アシュラBar」でお話します
昨今の政治、経済、社会の状況を見ていると、2015年いよいよ大混乱期が本格的にはじまってしまっているのかもなあ、という感があります。
資本主義社会が確立していくなかで、思想の方向性が共通認識になってきつつあって、生き方も住まい方も働き方も教育も科学も経営も経済も国家も文化も社会も、それぞれ信じてきた道筋があって各論の発展をひたすら追求していればいい時代でした。しかし、今となってはこの確立されたシステム全体において、問題が他の問題と因果関係によって結ばれ、それが網目のように連鎖しており、ひとつひとつの問題解決では対処不可能というくらい問題の複雑さが増しています。
そんななか、世界政治経済について、環境問題について、TPPについて、憲法9条について、日本の成長戦略・イノベーションについて、教育について、高齢化社会について、地方再生について・・・山済みの問題に対してそれぞれ各論について議論し、解決していくことはもちろん必須です。
しかし、それ以前に根本となる思想・・・「我々人類はこれからどう生きるべきか?」この問いに対してどれだけの賢者と大衆の人たちが身を削って時間を費やし活発に議論し、叡智を結集して方向性を見出そうとしているでしょうか。
この思想如何で、それを実現ためのHOWー生き方、住まい方、働き方、教育、科学、経営、経済、国家、文化、社会・・・すべてのあり方はがらっと変わります。思想が入り乱れている時代に、各論が最適解に収斂することはない。昨今の混乱にはこのような背景があるのだと考えています。
マスコミ、政治家、SNSから流れる様々な”思惑”をもった情報濁流のなかで、自らがしっかりとした思想という羅針盤を持たなければ、荒波にのまれてしまいます。
今回は、そこまでディープな話まではしつくすのは難しいかもしれませんが、ご依頼がありましたアシュラワークプロジェクトさんのイベントで「これからの世の中をどう生きていくか?」について、まずはエントリー的なセッションを行いたいと思います。頭を柔らかくして、飲み屋で一杯ひっかけながらというくらいゆるい感じでみなさんとご一緒に考えてみたいと思っています。
今回は、生き方・働き方について悩んでいたり、これから就職を考えている学生さん、副業、転職、退職などキャリアのあり方を考えている若手ビジネスパーソンを念頭に構成を考えていますが、本ブログ読者の方ともこの機会に交流できたらと思っています。みなさまとお会い出来ることを楽しみにしています。
<アシュラBar>
【イベント内容】
7月24日(金)19:00~21:30
・プロジェクト・ゲスト・参加者の紹介
・ゲストプレゼン
・ワーク(ワークライフポートフォリオの実践)
・まとめ
【会場】
ソーシャルビジネスラボ(東京都 中央区日本橋蛎殻町1-21-6)
東京メトロ日比谷線「人形町」駅A2出口・東西線「茅場町」駅4a出口から徒歩7分
【参加費】
3000円(軽食付き)
【ゲスト】
山下 悠一(やました ゆういち)プロフィール
2015年春まで外資系コンサルティングファームに従事
卒業時に新しいパラダイムの必要性を訴えたブログ記事
「僕がアクセンチュアを辞めた理由」が3日間で12万PVを記録し大きな反響を呼ぶ。
鎌倉で仲間たちと畑を耕しながら、地域プロデュース、社会事業を営み、新しい経済社会を生み出すべく、社会を耕すSocial Cultivatorとして活動。
Blue Soil 主宰 http://www.u1style.jp/
aosola 青空空間 代表 http://www.aosola.jp/
七里ヶ浜 自治会理事
七里ガ浜 商店会副会長
【参加希望の方はこちら】
https://www.facebook.com/events/484150848406452/
人類史上たった1回しか存在しない「転換期」は1970年だった!?
「歴史的転換期」とはいったいいつなのか?
「歴史的転換期」と言われて久しいですが、いったいいつが本当の転換期なのか、知りたくないでしょうか。
いろいろなところでそう言われているので、多くの人はなんとなく今が転換期っぽい!と思っていると思いますが、ここのところずっと変革期だ転換期だと言われなれてしまっているので、むしろ自ら変わろうという意欲が先延ばしにされてしまっていないでしょうか。
いっそのこと「今日が歴史的な転換の日なので、さあみなさん変わりましょう」と神様が言ってくれるとありがたいのですが。
そこで、この疑問に対してたった1本の曲線で、単純明快にひとつの回答を与えてくれるものがあります。
「ロジスティクス曲線」です。
ロジティクス曲線とは、生物学でよく使われるもので、ある環境に生物が置かれるとS字型の流れを経て増殖するということを示したものです。生物の増え方は、最初はゆっくりと増える助走期(1)、そしてあるときから一気に増える大爆発期(Ⅱ)、それからうまくいくと安定的に推移する安定平衡期(Ⅲ)の3つの過程を経ます。すべての生物は環境のなかで「うまくいけば」このような絵を描きます。
「うまくいけば」と書きましたが、うまくいかない場合があります。「愚かな生物」は、環境を再生不可能な環境にして食いつぶしてしまうことで、Ⅲが緩やかな右肩上がりではなく、減少して最終的には滅亡します。
この曲線を「修正ロジスティクス曲線」と言います。
人間も地球という有限環境の中で増殖してきた生物なので、例外なくこのどちらかの曲線を描くだろうということです。
本当に人間も例外ではないとすれば、大爆発期というのは生物の歴史の中でたった1回しか起きないということであり、変曲点の年代がいつかは特定できるはずだということになります。
社会学者の見田宗介さんは、その変曲点は1970年であったという自論を述べています。
根拠として
・人口爆発国といわれた、メキシコ、韓国、タイの人口増加率を見てみると、共通して1970年付近で人口増加率が減少していること
・そして、世界全体での5年間移動平均でみると、人口増加率(平均年率)は、1965年-1969年の2.1%をピークに急激に減少してきていること
『現代社会はどこに向かうのかー生きるリアリティの崩壊と再生』(弦書房)より
そう考えると、現代は、ロジスティクス曲線のⅡ→Ⅲへの過渡期であるということがよく理解できます。
ちなみに、日本の人口の曲線を見てみると・・・思いっきり修正ロジスティクス曲線を描くことが予測されています。
われわれは「愚かな生物」ではないことを証明したいところです。
二つのベクトルが存在する今をどう生きるべきか?
この曲線を頭に描いておくと、世の中の状況が非常にクリア見えてくると思います。
Ⅱの大爆発期のベクトルをイメージして目指している人と、Ⅲの安定期のベクトルをイメージしている人にますます明確に分かれつつあるのが現代だというふうに見えてきませんか。
前者は資本主義システムの踏襲によって無限成長を目指す(目指さざるを得ない状況に置かれている)人たち。
もちろんこういう人たちを動かしている少数のブレインたちは激しい競争社会のなかで生き残っているエリートでありバカではないので、地球資源が有限であることくらい百も承知です。そこで、さらなる周辺国を求めるグローバル化と周辺世界をバーチャルに求めるデジタル化というおそらく”最後の市場”の創造を目指しているわけです。(その先には火星という周辺などもあるかもですが。)
Ⅲのベクトルをイメージしている人たちは、スローライフ、ダウンシフト、オルタナティブなどのコンセプトを提唱している人たちです。
Ⅱのベクトル派自体、地球資源を食いつぶさないやり方であれば、決して間違えではないと思います。結果的にうまくⅢに移行できる可能性もでてくる。一方、成長こそ絶対という思考停止に陥れば人類滅亡への道筋は一気に近づくリスクもあります。
逆にⅢのベクトル派は、Ⅱ的「成長」を否定するあまりに「現状維持」を支持することでこちらも思考停止に陥り、やがて衰退を招くリスクがあります。
僕は、Ⅱ的ベクトル派とⅢ的ベクトル派すらも共存することで、はじめて安定が生まれ、人類の存続が成り立つのではないかと考えます。
ただ、その際どちらの派にも共通するビジョンや価値観を明確にしておくことが大切な気がします。
何れにしても、持続可能な社会を目指すことに変わりはないのですが、どのような持続可能を目指すべきなのか?ということです。
つまり、今やはり一番議論しておかなければいけないのは、テクノロジーやお金や原発というアウトプットを批判することではなく、「人間らしく豊かに生き続ける」というは一体どういう状態なのか?
そのビジョンの共有ではないでしょうか。
自殺、無差別殺人、ボランティアへの参加、農業への関心。
見田さんは、これら現代を象徴する兆候の共通点を、人として生きること=リアリティへの回帰として解釈していました。
正解はないのですが、わたしたちはどう生きたいか?
Ⅱ時代における、幸せの方程式は、「経済成長=幸福」でした。
他の生物同様、成長こそ喜びというわかりやすい時期だからこそ、ここまで急激に増殖・発展してきたのだと思います。
Ⅲ時代における、幸せの方程式は一体なんでしょう?
変曲点を迎えた今、これだけは言えることはこの方程式は変更しなければいけないということです。
安定平衡期における豊かさとは何か?
成長・発展への過度な依存思考・体質からいち早く脱却しなければ、
これからの時代では、多くの人にとって幸せになれる確率は減ってくるはずです。
追伸:僕がアクセンチュアを辞めた理由
3月27日に掲載した記事「僕がアクセンチュアを辞めた理由」が、3日間で12万PVと大きな反響をいただきました。
北はオホーツクの自然エネルギーをやってる方から南は最後の楽園とも言われる高知のオルタナティブ幡多地区から、グローバルではNYやLAはもとより、地球の裏側アフリカのウガンダやセネガルで起業されている方まで、本当に様々な方々からコンタクトをいただき、またあれから今もなお毎日のように問い合わせやオフィスにふらっと会いに来てくださる方がいらっしゃって、東京でも何人もお会いさせていただきました。
やはり社会のオルタナティブへの関心の高まりというものをひしひしと感じました。
また、こんなにインターネットの恩恵をダイレクトに感じたのはわりと初めてのことで、ダイレクト(メール、FB)とインダイレクト(Twitter, はてなブックマーク)では明確に反応の差がでてこれまた興味深い体験でした。
みなさんの見えるところに、「自分の旗」を一旦はたてられたので(肩書きをレバレッジした最後の恩恵に感謝しながら・・・)、ここにコツコツと家を建てていこうと思います。当ブログの位置付けも、そういう意味で二段階目に移行していきたいと思います。
当ブログは、アクセス数を稼いで収益を上げることを目的としたメディアを目指していません。(半分はこのように更新頻度が低いということの言い訳ですが、笑)
現時点では、目的・領域を以下のように考えています。
◻︎このブログの目的は?
オルタナティブな社会システムー経済、経営、個人のワーク&ライフ、コミュニティーに関する、R&D(思想・モデル、事例の研究)、具体的な試行・実践の記録、他プロジェクトの紹介・ネットワーキングと共同マーケティングを目的とします。
◻︎既存ムーブメントとの違いは?
オルタナティブに関するムーブメントが今、全国各地でふつふつと沸き起こっていることを肌で感じています。一方、課題仮説としては「自分よがり」か「ネガティブキャンペーン」に終始してしまうものも多いのではと考えています。
僕が考えていきたいのは、オルタナティブな「システム」です。グローバル資本主義経済におけるシステムデザインの何が欠陥だったのか?「否定」を「必然に」変えるドライバーは何なのか?
よく、 ”スローライフいいね”、と声をかけてくる人などはおそらく勘違いされているようですが、逆説的に聞こえるかもしれませんが「儲かる」仕組みを重要視しています。「啓蒙」(メディア)だけでも社会を変えることはできるとは思いますが、僕がフォーカスするのはサステイナブルを最低限保証するための「事業」です。パーマカルチャーを農的生活ではなくて、経済・経営システムにまで昇華しようとしている方、事業、経営モデルは日本では僕の知る限りまだほとんどないのではないでしょうか。(もしいらっしゃったらぜひご紹介ください)アメリカのパーマカルチャースクールには、スローライフではなく、ビジネスへの応用を目的として政治家や起業家が多数参加しているそうです。
気の合う仲間だけでコミュニティをつくるだけでなく、単なる現状批判に終始するだけでなく、社会システムを塗り替えるムーブメントにフォーカスしたいと思っています。
◻︎既存メディアとの違い
一つは、単なる事例集的なメディアにはしたくないと思っています。それなら既に多数あります。
これからの社会システムの変更は、トップダウン型ではなかなか起こり得ず(そもそもそれを司るとされてきた国すらどこへゆくのかわからない状況であり、グローバル大企業については言うまでもなく)、全国各地ゲリラ的に起こっているしこれからもそういうものだと思っています。
そういった中で、やはり大切なのは、均一的な手法の展開ではなく多様な事業の成功事例創出です。
最終的には、そのために必要な知恵・人材・資金を持ち寄って・互いにシェアする。そのための、メディアを超えたコミュニティに昇華していけたら何よりと考えています。
◻︎フォーカスする事業領域
宇沢弘文先生がいうところの「社会的共通資本」である自然環境、教育・医療、制度資本(主に金融)、社会基盤です。
理由は、これらが市場万能主義では絶対に最適化されない事業領域であり、そういう意味ではグローバルジャイアントたちに対するニッチ(ゲリラ)戦略が成立しやすいからです。
このことは、「破壊的イノベーション」で有名なクレイトン.M.クリステンセンも、ソーシャルセクターへの「触媒的イノベーション」によるブレークスルーとして論じています。(ハーバードビジネスレビュー2015年5月号別冊参照)これは、ソーシャルセクターにおけるイノベーションの考え方として是非とも抑えておきたいポイントです。
最後にもう一度繰り返しますが、知恵と人と資金を出し合ってソーシャルセクターへのイノベーションをどんどん創出していくために、根本的な課題認識を共有する方々と協力していけたらなによりと思っています。そうして実践とシステム化、モデル化、そして実践検証・・・のサイクルを積み重ねていけたらと思います。
僕の足元の小プロジェクトは、予防(未然)医療、農に関する新しいビジネスモデル、ローカル商店活性化、高齢化住宅地における福祉事業などです。
これからも、あくまでリアルな繋がりにこだわっていきたいと思いますのでご興味ある方は、ぜひtwitter、FB、メールなどでアクセスください。ディスカッションしたい、一緒にやりたい、取り組みをブログでとりあげてほしい、などありましたら、どうぞ遠慮なくご連絡ください。
余談ですが、先日も、突然アポなしで会えるかどうかもわからないのに会いにきてくださった菜食プロデューサーの方がいらっしゃいました。大変ありがたかったのですが、こういう自然な出会いが僕は大好きです。波乗り仲間とも約束なんか絶対しませんが、「波があるときには自然と会える」んですよね。この感覚がたまりません。
今後とも宜しくお願いします。
今年はなんだかワカメがすくない!?
自然派経営コンサルタント u1style
僕がアクセンチュアを辞めた理由
2月末をもって、12年間勤めたアクセンチュア株式会社を退社することにしました。お世話になった皆様方には本当に感謝しています。
これから述べることは、もちろん個人的見解です。もし、アクセンチュアの内部批判・告発を待ち望んている学生さんや転職希望者の方には期待はずれな記事になると思うので、他のサイトを当たってみてください。
アクセンチュアという会社は僕にとっては期待通り「会社員として最大限の自由を享受できるシステム」であり、素晴らしい環境でした。
僕はそういう意味で居心地がよかったのですが、そこから離れる意味というのは、アクセンチュアが先導してきたグローバル資本主義経済のシステムをつくるチームから一度離脱して、オルタナティブなシステムをつくる側に回ることにしたということです。
はじめにアクセンチュアがなぜ会社員にとって最も自由な環境なのかについて話しておきたいと思います。
一方でその環境がパラドックス的に不自由を作り出しているかもしれないという展開をします。それは個人の自由達成においても、経済の自由達成においてもです。今後、オルタナティブな勢力としてすべきこと、アクセンチュアがすべきことについて僕の考えを述べさせていただきたいと思います。
目次
1 アクセンチュアは最も自由を追求できる環境
2 個人の自由追求とその達成がもたらす不自然な生活
3 経済の自由追求とその達成がもたらす不自然な社会
4 A面とB面
5 アクセンチュアに残る同僚と後輩たちへのメッセージ
6 真の成功者とは、大富豪ではなく・・・
1 アクセンチュアは最も自由を追求できる環境
アクセンチュアという会社は、社会人の第1歩としては、最高の環境です。これ以上は他になかったのではと思います。他の会社に勤めたことがないわけですが、その違いは容易につきます。
アクセンチュアは僕にとってこんな会社でした。
・無駄な会議がない→あったら自分で潰すことができる
・できの悪い上司もいない→いたら、自分でプロジェクトチームから外すことができる
・できない部下もいない→いたら、同様外すことができる
・いやな仕事もない→あったら、最悪そのプロジェクトからリリースしてもらえばいいこと
・成果さえ出せば、給料もあがる
・合理的で成果主義なため朝9時に席に座っていろという、無意味な決まりにも縛られなくてすむ
(従って平日でもサーフィンを好きなだけできる。ただし、成果さえ出していれば。)
・やりたい仕事が必ずできる(アクセチュアは全産業、全バリューチェーンの課題解決を対象としており、かつニーズと希望のマッチング(面談)が必ずあるので、基本的にできない仕事はない、はず)
当たり前のように思っていたこれらの環境というのは、僕が最も欲していた、何にも縛られることのない「自由」そのものでした。無駄で無意味な慣習などに縛られることがない、極めて合理的なシステムです。
当然、自由であるということには責任が伴いますし、安全でない、ということです。
成果が出せなければとても厳しい環境であることは言うまでもありません。アクセンチュアの批判をネット上で発見しても、それは多くの場合、あまり仕事ができなかった人が発しているもののように思います。
2 個人の自由追求とその達成がもたらす不自然な生活
僕は、この自由な環境を生かして、アクセンチュアにいる間に、マズローの5段階欲求の階段を最速で駆け抜けてやろうと思ってやってきました。下位層の欲求である、お金をたくさん稼いで、いい家に住んで、高いものを身につけて、たくさんの女性とデートして。そんなことを30歳までに一通り卒業するほどアホみたいにやりつくしました。ひととおり自分の(下位層の)欲求は充たせる自由を手にしました。問題は、その先どこに向かうかです。
僕の持論ですが、年収はいわゆる大台を超えたあたりからは必ず何かを犠牲にしないとそれ以上稼げません。
当たり前ですね。人よりもずっと稼ぐのだから、どこかで人よりも無理=”人間として自然ではないこと”をしています。儲けている人は、多大な時間を費やす、多大なリスクとストレスを抱える、健康を度外視する、などとお金を換金しています。簡単な金儲けなどありません。
アクセンチュアの僕らの年代であれば、売上数千億~数兆円規模の企業経営に対して、数億~数十億という仕事を提案してそのお金と人を使って成果をあげる責任を一手に引き受けます。もちろん、やりがいもあるし、お金ももらえます。
ただ、ここだけの話?優秀な先輩や同僚の多くは酒や女に夢中です、笑。ディカプリオ主演の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の世界(一代で巨額の富を築き上げた主人公が酒とドラックに溺れていく)あれが成れの果てですが、そういう兆候があるのは内資外資とわず、収入の高い企業にありがちな傾向です。(統計的にはわかりません、あくまで周りを見渡していたしたときの感覚ですが、手応えは十分です、笑)
接待や部下のモチベーション維持のため、経費で美味しいものもたくさん食べられます。睡眠時間も少なく運動する時間も限られるのでどうしても太ります。そして即効性のあるマッサージを受け、専任トレーナーをつけてダイエットしたりします。買い物に頭と足をつかっている時間もないので、とりあえず間違えのない高級ブランド品を身につけておきます。
よい循環ですね!たくさん稼いだ金は、酒と女とブランド品とストレスを発散するためのビジネスに費やされ、それでGDPはあがって経済は活性化しますね!!
うーん、なんだか、変だと思いませんか、僕はとっても変だなあと思っていました。
自由を得て成功していると言われているエリート集団の多くがとっても変な?生活をしているなあと。
そういう人たちだけではないしそういう人たち自体を否定しているのではありません、僕はそういう人たちが生まれてしまっているシステム自体になんらかの欠陥があるのだと思わずにはいられませんでした。
お金持ちになったことがないのにお金のことは否定できないし、女遊びをしてないのに女遊びを否定することはできないですから、僕はマズローの階段を登り切ったときの景色が早く見たく、言いたくてここまできました。世の中他を見渡せば僕なんか全然やりきっているほうではないですが、次のステップに行くのに僕にはこれで十分でした。
3 経済の自由追求とその達成がもたらす不自然な社会
2.ではアクセンチュアという極めて合理的システムのなかで、個人が自由を追求した結果もたらされる不自然さについて述べました。ここからは視点を変えて、アクセンチュアが経済の自由を実現するために追求しているグローバル資本主義経済がもたらす不自然さについてです。
鶏の話をします。
みなさんはどのくらいの方が「平飼いの卵」を食べたことがあるでしょうか。
日本人の卵の消費は年間330個で世界で第2位でアメリカやフランスよりも多い消費量であり、卵大国であります。それを支えてきた養鶏場の経営システムのお話です。
父がよく言っていました。1950年代、卵1個の価格は公衆浴場の大人料金、ビン牛乳一本の価格とほぼ同じ15円程度だったそうです。
驚くべきことに現代でも、卵一個の値段はほとんど変わっていません。一方のビン牛乳は120円=卵8個分、公衆浴場の料金は、430円=卵2パック以上分。これがどうして成り立っているのか、考えたことがある人はそう多くないのではないでしょうか。
1戸あたり10羽飼うのが限界だったのが、今では、1養鶏場の平均は5万羽だそうです。もっとも効率化された養鶏場は20万羽を5人で回しています。温度、湿度、空調は完璧に管理されたバタリーゲージというのが全体の98%です。多くの鶏は、窓のないわずかB5の大きさの中で一生を終えます。ストレスを抱えているので餌もあまり消費されない。それがまた効率がよいわですね。
逆にストレスなく生きた土の上を歩き回って自由に育った鶏=平飼いの卵は、明らかに殻が固く、ぷりぷりしていて、その背景を知っていれば、なおさらおいしい。卵が1個100円であったとしても、それで食っていけなくなるわけではないのですが、99%の消費者は1個15円の卵をずっと支持し続けてきています。
いうまでもなく、動物愛護の観点でこの話をしているのではありません。僕は僕たちが推し進めている資本主義経済の話をしています。経営として1個15円で卵がつくれる、消費者としてその値段で買える、というのはこのシステム上は素晴らしいことだとされてきた。それがこれまで僕たちが追求してきた経済システムです。
さらにこのシステムによって、高度依存型社会、無知社会、無責任社会が生まれました。
3.11はそのことを如実に示していませんか。
僕たちは自由を求めてきたはずなのに、いつの間にブラックボックスで肥大化した巨大なシステムに依存せざるを経ない不自由な状況に陥っている気がしてなりません。
僕はこのシステムに大いなる違和感を覚えずには入られませんでした。
その理由のひとつは、きっと僕がサーファーだからです。
サーフィンというスポーツは、自然エネルギーをいかにロスなく無駄なくスピードに変えて楽しむかを追求するスポーツです。上手い人は最も効率良くエネルギーをパワーと加速に変えて、喜びに変えているわけです。
植物、動物、建築、水、エネルギー、コミュニティー、これら全てをデザインの対象とする、パーマカルチャーという概念があります。
風向きや太陽の方角などから家のデザインを決めるのは当たり前ですが、雨水、湧き水を重力で供給えきるように、住宅の排水でさえ、葦を通過して農園の小川に流れるようにデザインする。
鶏は、放し飼いにすることで、害虫を退治し、雑草を食べ、糞が土の栄養になる。単一品種ではなく複数品種の植物をうまく植えることで相互に助け合いながら成長する。鳥や魚が住みやすくして、水や植物によい影響を与えるようにするために設計する。人間の作業が最小限に住むようゾーニングが考えられる。一つの有機物が複数の役割を担う。あらゆる自然の多様性を総合的に有機的にデザインすることで、自然エネルギーのロスなく最も効率よく、恒久的に持続可能なシステムがなりたつ、ということを目指したデザイン手法です。
前述した、ゲージで完全に管理されたシステムと後者で紹介した自然と人間の多様性を踏まえて有機的にデザインされたシステムがある。どちらも極めて合理的で効率的なシステムですが、僕の大いなる関心は後者にあります。
4 A面とB面
僕は、12年前にアクセンチュアに勤めるようになり、7年前に鎌倉にきてから徐々に鎌倉にシフトしてきました。古いですが昔のカセットに例えると、前者がA面、後者がB面です。
A面は、世間一般に受ける人気の曲で、わかりやすくてビジネスとしても成功する曲です。B面は、一般的には受けないものの、アーティスト本人としては気に入っている曲です。
僕は、このカセットをつくることでバランスをとってきたのですが、ついに内なる声を無視できなくなってB面だけで生きていこうと決意したということです。
直近のB面の話です。
僕は、鎌倉で小さなお店をやっています。4年前に奥さんと細々とはじめたヨガサロンです。
ここは、これまで話してきたオルタナティブなシステムー生き方、働き方、経済、コミュニティの実験場です。
現在、ご縁があって、農家さんと鎌倉野菜をにつくっています。
週2日は畑仕事をして、テラスでマルシェをやって。旬のもの、とれたてのもの、自分たちでつくったもの、これがめちゃめちゃおいしくて。お客さんが美味しかったと喜んでくださり、珍しい食材も多いのでレシピを共有しあいながら、たまに持ち寄りパーティーをやって。
身体にいれるものから、身体のメンテナンスと暮らしを豊かにするスキルの提供、そこに集う仲間同志の情報や笑顔の交換。お客さんとは、家族みたいに結びついていって、強い信頼関係で結ばれていく。これが、先に紹介した効率化された養鶏所のような、経済合理性や効率化一辺倒の世界から自由になる糸口のひとつであり、古くて新しいアプローチではと思っています。
鎌倉には、農業、漁業、サーファー、アーティスト、古くから伝統を重んじる文化人、オルタナティブカルチャーを模索しているグループ、最近はカマコンバレー、若いクリエイターや起業家も加わって、かつてのように閉鎖的ではなく多様性が許容される土壌が生まれてきているように思います。まさに、先に紹介したパーマカルチャーのようなシステムー多様な人材が有機的に相互に助け合う状況が生まれた時に、もっとも美しいシステムー生き方、働き方、経済、コミュニティーが生まれるのだと確信します。僕はその一部となってデザインに加わりたいと思っています。
この先、リスクがたくさんある世の中になり、大きなものー会社や国家自体もどうなるかわからないなかで、
僕は今までとは逆サイド=ローカルニッチサイドにたち、できるかぎり個人の自給スキルを高めつつ、プロセスを可視化し、多様な人材とスキルをもちつもたれつ、多様なコミュニティを形成し、結束をつくりながら共同体で助け合って生きていくパーマメントシステムのモデルづくりを目指しています。大きな理想を掲げながらも、耳目口手足から離れない身体感覚を忘れずに。
5 アクセンチュアに残る同僚と後輩たちへのメッセージ
◻︎自分らしくあるがままを大切にすることの重要性
これは、僕の反省でもあるんですけども。差別化とか競争戦略だとかいいますけど、自分に正直であるというのが一番強いんだと思うんですよね。
これからの時代は確実に、個の時代が訪れます。 アクセンチュアが進めているグローバル資本主義経済がさらに世界を覆いつくすならば、ますます外国人勢力や デジタルデバイスに代替されないような、なにかがなければ仕事にならなくなるわけだし、逆にローカルニッチで生きる場合においても、個性=商売に直結します。
いずれにしても、クリエイティブでなければいけないわけですが、それは個人的経験や自分ならではさからくる。これは決して無理をするということではなくて、好きな事、いいなと思うことを追求することそのものです。
これからは僕は、好きな人と、好きな事しかやらないと決めました。でもこれは、アクセンチュアにいてももっともっとできたことでした。
若手は、なんでもできないといけないと教えられるけど、これからはそれも無視しちゃっていいんじゃないかと思います。コンサルタントの仕事って、本当にこれが正解っていうマネジメントスタイルもスキルも決まったものはない。紙がかけなくても、話が下手でも、そのことに絶対に自信をもってほしい。コンプレックスこそ最大の個性です。ほとんどの欠点は長所の裏返しですから。
ああ、これがダイバーシティーってことなんだな、と本当の意味を最近になってようやく理解したんですが、多くのマネジメントは理解してないか実践できていないと思います。同僚や部下や上司のできないことを指摘したり批判しあいます。組織に多様性がないとなぜダメなのか。それは画一的な組織はシステムとしてサステイナブルに存続しえないからです。これは格差論とも相似形です。できない人間を許容しないシステムは何代ももたない。弱者はいつかの自分であり将来の自分であるからです。
個性の発揮と組織の多様性こそが、生き残る道です。
◻︎クライアントファーストではもうだめ
競争至上主義、成功至上主義、経済合理主義・・・つきつめていくと、人間の知性が失われると僕は思ってるんです。成長すればいい、勝てばいい、儲かればいい、どんどん「内容は問わない」となる。いま特に日本は安倍政権になって反知性主義に陥っているという人たちがいますが、僕もそう思います。大衆には最悪シナリオに気付かせないように反知性化を狙い、エリートたちは水面下でノアの箱船を着々とつくっている、そんな恐ろしい妄想は現実かもしれません。
そんなことは許したくないですね。エリートこそが、中身=信念をもって、将来の社会全体のことを考えていかなければないと思います。そうでなければとんでもない社会になってしまう。自分だけ、とか家族だけがとか事業が儲かりさえすれば、じゃだめですよね。
世界一貧乏な大統領 ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカのスピーチを聞いて、僕は世界の指導者にもこんな人がいるのだと感動したことを覚えています。
「人類は発展するために生まれてきたわけではない、幸せになるために生まれてきんだ」
これからは、クライアントファーストではもうダメなんです。
クライアントが短期的にちょっと儲かることを支援しているくらいじゃダメなんです。クライアントも変な方向に行きかねないし、だいたい今の消費者は知性を奪われてしまっていますから、お客さんを騙してものを売ろうと思えばものはいくらでも売れますから、お客さんは神なんていっていては社会は決してよくならない。
アクセンチュアだけがもうかる提案なんて論外だし、クライアントの利益があがるだけでもまだ足りなくて、それが本当に価値ある提案じゃないと提案しない、この姿勢は貫かなければならない。
僕が若いときまではそういう会社だった気がします。今は正直わかりません。
なぜなら、アクセンチュアも相当大きな会社になり、株式会社としてはますます成長と生き残りをかけて熾烈な競争を繰り広げています。全ての意思決定がそんな理想的なことだけでは成り立たなくなるのは当然です。
それでもみなさんには地球の幸せと、何より自分たちの幸せを追求してほしいし、そのイズムをグローバル資本主義社会を牽引するものの使命としてみなさんに持ち続けてもらいたいなと願っています。
6 成功者とは、大富豪ではなく・・・
最後に、僕が、波乗りをやり、釣りをやり、畑をやっていて感じることは、やはり自然こそが一番の教科書だということです。
一番の成功者は、大富豪ではなく、大自然です。
もっとも豊かで、もっとも美しく、もっとも完成されたものというのは、やはり自然しかないと思うんです。
だから、四季折々の自然を感じながら生きていくことに僕たちの幸せのヒントがあるのだと思います。大事なことは人間のもっている知性と感性を研ぎ澄まし、身の回りの小さな変化に喜びを見出す力を取り戻すことです。
人工的な強い刺激による幸福感は、麻薬や農薬と同じで、依存体質をつくり、自身をもろくしてしまう。刺激がないと生きていけなくなり、なくなったらどん底に落ちてしまう。穏やかな幸せが有機的で自然な生き方で、ときどき、荒波もあるけど、それを抑えつけるんじゃなくて、それを受け入れて調和して乗り越えていく人生を目指したいものです。
僕は、今一度自然を注意深く観察し、そこから学ぶことから、人間の本当の豊かな営みー生活、経済、コミュニティーの新しいシステムづくりを目指していきたいと思っています。
一人でできることは本当に小さい事だとよくわかっています。だから、共感できる仲間・コミュニティと一緒に楽しみながら、新しいチャレンジをしていきたいと思っています。
これだけ長い文章はよい迷惑でしたね、笑
ここまで読んでいただいた方は、きっと何かを共有し一緒にできる方だと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
何か感じることがありましたら気軽にご連絡ください。
ちっぽけな僕ですが、まだまだできることやりたいことの本の一部もできていませんが、一歩一歩確実に進めていきたいと思います。 今後ともおつきあいのほど宜しくお願いします。
山下 悠 一
19度の3月17日。水は冷たく気持ちよい波乗り日和
なんだかんだで久しぶりの入水。
外はポカポカ、まだ水はひゃっこい。けど気持ちいい〜。
畑と野菜のサイクルに、波乗りに、魚に、お店の展開とマーケティングに、商店会と自治会と地域の重鎮との飲みや新たなプロジェクトに・・・
海でも、しばらくのんびりしてるの?
東京でも、いいなースローライフ
とか言われるんですけど・・・うーん、働いてたときよりもずっとPCに向かってるし人とお会いすることも増えたし、やたら忙しくて土日もないんですよね。
でも、土日がない?というのも変な言い方で。
毎日が仕事であり遊びであり、時間をお金に換金するのではなく、時間のほとんどを(たとえお金にならなくても)創造活動に当てられることの喜びはとてもとても大きいものです。
3.11から4年、本当に変わらなければいけない僕たち自身の考え方。
なぜ、効率化とか均一化が良くないか?
それは、一言でいうと依存社会、無知社会、無責任社会をつくるから。
どんなときも安定的に効率的に電気が供給されるようになりました。
なにがいけないか。原発が悪いとはいっていません。
そういう「安定」というものが、人の「楽をする」という本能を駆り立たせます。
その結果、安定的電力が前提となる、結果的に原発がなくてはならない依存社会になり、それがどのくらい恐ろしいものか、どんだけ大変な苦労が裏にはあるのかに対してまったく無知になって、しまいにはそれを頑張ってやってきた人たちや政治家のせいにするという無責任な社会になってしまいました。
結局だれが悪いかといえば、僕たち一人一人が効率化、均一化によって「楽したい」という欲望を究極まで求めてきてしまったからなんだと思います。
「自由」をめぐるパラドックスは実に不思議です。
人は自由になりたくていろいろなことを効率化したり均質化したりするんですよね。少ない時間で多くの果実を得るために、働く時間を減らしてやりたいことをする時間をつくるために。それ自体は決して悪いことではなくむしろ、自由に生きるために大切なことです。
でも、それが行き過ぎるといつのまにか、「大きなもの」に依存し、支配される状態になる。これは逆にリスキーな状態で、いつまにか不自由という大きな箱のなかで生きていることを知らないまま、自由に生きていると勘違いした状態でいることになります。そして、あるとき突然その大きな箱に穴があいたときに、はじめてその箱の存在に気づいて愕然とするということです。僕は、3.11の教訓をそのように捉えています。
僕たちは、自由を求めてきたが、その結果いつのまにか不自由になってしまったということです。
じゃあ、このパラドックスの輪を抜け出す出口はどこにあるのか?
僕は、「倫理」と 「知性」とだと思っています。
これは、これまでの社会で重視してきた「効率性」と「論理」 に対応するものです。
「効率性」に勝る「倫理」というのは、たしかにこっちのほうが効率的だけど、自然環境や社会にとってはよくないよねとか、子供たちのこと考えたらやめたほうがいいよねとか、とどまる所のない効率性の追求をちょうどよいところにとどめるものです。
「論理」に勝る「知性」というのは、こうなっているだろう、こうあるべきだ、と頭で漠然と考えているのではなくて、実際にどうなっているのか、まず自ら知るということが第1だということです。僕たちが生きてきた消費社会というのは、「大きなもの」への依存社会であり、ひとつひとつの製造プロセスやメカニズムが完全にブラックボックス化してしまいました。実際どうなっているのか、消費者ひとりひとりが知ることが大切です。
「知性」を得るうえで大事になるのは「身体感覚」です。
「大きなものの論理」への依存を断ち切るのは、「一人一人の身体感覚」です。大きなものへの依存社会でたち消えてしまったのは、僕たち一人一人の感性です。大量生産大量消費のマスプロダクト・マスプローションは、一人一人のもの、ことへの感覚を麻痺させ、失わせました。
僕たちひとりひとりが真の人間的な知性を取り戻すことができれば、原発だ原発ゼロだというイデオロギー戦争ではなく、「ごく自然」なところに行き着くのではないかと思うのです。
ひとりひとりが、よく人の話を聞く耳をもち、手で素材の良し悪しを感じ、舌で一番体が求めているものを探し、目で本物を見る。人に任せるものは任せても、ものごとが「身体感覚」から離れすぎないことを意識する。そういう生き方、働き方が増えていけば、脱依存、脱無知、脱無責任社会の実現が可能になってくるのではないかと思うのです。
脱コンビニ論
僕は、会社を辞めてからコンビニでものを買うことが無くなりました。(これまでのクライアント様がたには大変申し訳ないのですが。)
そう決めているわけではないのですが、僕にはあそこに必要なものがないからです。
そして、僕の経営するお店は、この必要でないかもしれないコンビニにとって代わる存在を目指しています。
コンビニの特徴。
「利便性」・・・好きな時間に、必要なものが大体手に入る
「効率性」・・・オペレーションを意識した均質的な品揃え
「アノニマス」・・・顔の見えない存在との売り買い
コンビニは、お金で簡単に手に入る時代を作りました。
そうなったことで、作り手側(労働)側よりも買い手(消費者)側が主導権を握るし、労働の価値よりも購買力の価値に重きが置かれる世界観になります。これは、コンビニが普及するようになった高度経済成長期からの比較的新しい概念です。
購買力がものをいうということは、それを得るに至った働き方については問わないという価値観になってくる。つまり、「効率的に儲けた収入のある人間がえらい」という価値観です。
今の社会では、「あなた何やっているの?」と聞くとき、その相手は、購買力(収入)を意図して、値踏みするのが習慣になってしまっています。これが消費社会を物語っていますね。
そうすると、グローバル経済の主役である外資系とか、お金を操る金融マンがヒエラルキーのトップにたって、多大な苦労の割には報われない農林水産業はもちろん、欧州では考えられないほど日本の建築家のステータスは高くなりません。
飛躍もいいところですが、と一応断っておきますが、このような本来的な価値とは異なる価値ヒエラルキーを作り出したのは「コンビニ」であり、それが諸悪の根源とも言えないでしょうか。
僕は、大学でものごとのデザインの基礎を学び、社会にでて消費社会 の仕組みのデザインをしてきましたが、これから先のチャレンジは、「見えないもの」のデザインです。
事業とその延長上にある経済の目標は、成長し続けてお金生み出し続けることですが、その限界は明らかであるだけでなく、むしろ激しいスピードの成長や競争は、「見えざる資産」ー自然、健康、心の豊かさ、家族や仲間の絆ーを食いつぶしてしまっています。GDPは、自然を汚染しても、肥満になっても、うつになっても、離婚しても、犯罪が増えても、 上がりますから。
見えないものは、お金で交換できないものなので、経済指標には入らず、従っていわゆるビジネス社会に洗脳・依存・埋没してしまっている多くの人たちには、本当に見えなく、価値も理解しにくいものです。
企業が、CSRとかCSVとかいっていろいろ取り組んでいますが、多くの場合は所詮、お化粧です。それはやむおえない。なぜなら、消費者があいも変わらないからです。消費者に支持されなければ企業は成り立たない。だから、消費者が変わらないと企業も変わらないんです。
僕は、青空空間という小さなお店で、そのような「見えないもの」を、逆にお客様にたくさん見せていただいています。いいお客様がいれば、いい経営が成り立つ。そういうお客様たちがますますハッピーで、さらに増えていくようにできたら最高だなと思っています。