小山田圭吾のことを擁護するつもりはまったくない。マジでまったく。
辞意表明もしかるべきと思う。
ただ個人的に思うことは、たぶん、多くの人と、感じ方が違うんだな、ってことだ。
それだけだ。
例のインタビューは94年。
94年のあのころの感じ。
僕はよくわかる。
当時の「サブカル現役っ子」だったからだ。
あのクイックジャパン、「ほぼ」当時、読んだ。
でも、たぶん古本だな。
17か18歳くらいで読んだような気がする。
あのインタビューで、最悪だなこいつは、クズだな、って、当時、現役で、思った。
でもそのころのサブカルの一部の空気感は、それがいいとか悪いとかではなく
露悪的に、おれたちはクズだ、ということを共感しあう確かめあうような空気があったんだと思う。
それはもちろん、この世界のほんの狭いところの空気でしかなかったけれど。
バブルが崩壊して、なんだか世の中は希望を失い、浮かれた気分が冷めて、きな臭く、世紀末に向かって、なんだか退廃的だった時代。
そんな時代に、みんながそうだったかは知らないけれど、サブカルの世界の空気に、確かにそれはあったように思う。
「いい子みたいなふりするのはやめようぜ、おれたちってクズじゃんか、人間なんてクズじゃんか」
というような。
「おれもクズだよ、おまえもクズだろう?」
「いい人みたいに振舞ってるけど、おまえだって人を助けたりしないだろう?」
「おまえだって欲望にまみれて生きてるじゃないか?世界には苦しい人なんてたくさんいるのに、おまえは何してるわけ?」
「しょせん、おまえはクズだろう?」
「おまえの友達だって、親だって、恋人だって、結局、独善的な偽善者じゃないのか?そいつらも全員クズだろう?」
そういう問いかけが、いろいろなところにあったと思う。
それは、思春期のおれに、いつもいつでも刺さり、今だって抜けていない根源的なものだとすら思う。
そんな中で、人間のクズさを証明するような告白めいたものは、たくさんあったように思う。
鬼畜系だとか、村崎百郎だとか、根本敬だとか、ガロのマンガだとか・・・
(一緒くたにしてはいけないのかもしれないけれど、少なくとも、おれの心の中では近くにあった)
そういったものは、今はネットに沈んでいるのかもしれないが
当時、インターネット以前の時代、それはアングラ・サブカル雑誌の中にあった。
僕はたくさん読み漁った。
僕の中にある暗いもの、黒いもの、自分のクズみたいな「ある部分」、利己的な欲望、他者への残酷性、そういったもののことを知りたくて。もしくは、他者にもあることを確認したくて。
小山田圭吾のインタビュー、それはクズそのものだ。
そこにある「(笑)」も含めて、クズそのものだ。
だけどそれは、ただのいじめ自慢とかではなく
「おれなんてクズなんだよ」
という、若い魂の、告白のようにとらえていた。
「こういう行為はクズの行為だ。悪いに決まっている」
と知っていて、どう思われるかもわかってて、あえて露悪的に、読んだ人が最悪だと思うように、わざと「正直以上の悪意」を告白している、そんなように見えた。
「こんなオシャレな音楽とか言われて、ファッション雑誌とか載ってるけど
おれはクズの行いを繰り返してきたクズなんだよ」
と、隠さずに言いたいのではないか。
隠して生きることをしたくないのではないか。
あのころの空気感の中で、そうしたかったんじゃないか。そう思った。
チンポやウンコやゲロやケツの穴を、わざと見せたかった。
ロックやパンクが反抗の音楽だなんて言うけれど
体制や政治に対して反抗するものだと思っているのなら、それは多分、勘違いだ。
というか、認識の不足だ。
外側に向かう反発や反抗は、いつか必ず、自分に向かう。
内側に向かう。
「誰かを責めて反抗する、そんなてめえ自身はどうなんだ?」
自分自身の、人間ならほぼ全員、背負う原罪に向かうことになる。
自分の欲望に、残酷性に、そういうクズさに。
最終的に、自分の心に反抗を向けていく、問いかけを続ける、それがロックの魂の行き先だ。おれはそう思っている。
だから小山田の正直すぎる隠さないクズさは、吐き気を催すものだったが、その表現をそこでするということ自体、納得できないものではなかった。
それは、他者に対する問いかけでもあるからだ。
「こんな音楽を作っているおれは、こんなクズなんだ。どう思う?」
小山田圭吾ことコーネリアスの95年のアルバム「69/96」。
これのアナログ盤はジャケが違い、「ピンクの原作デビルマン」だ。
(ちなみに持ってる)
これだけで、わかるだろう。
「小山田圭吾が、わかってやっている人だということ」が。
少なくとも、原作デビルマンをちゃんと読んだ人なら、わかるはずだ。
彼の中に何がいるのか。
彼が(おそらく自分に)「悪魔」を見つめていたことが、想像できるはずだ。
(クイックジャパンの表紙で彼が持つマンガは「魔太郎」だ)
あのころの空気感の中で、多くのサブカルっ子が苦しみ、悩み、ゲロを吐いて見せあっこして
「どう生きたらいいのか」
を考えていた。
現実が地獄のようで、醜く、汚く、クズみたいだと知って
その上でどう生きるかを。
そんな中だから、原作版「風の谷のナウシカ」はああやって完結して、「新世紀エヴァンゲリオン」が生まれた。
ニルヴァーナは絶叫し、カート・コヴェインは自殺した。
(クイックジャパンや太田出版は、当時、最もすぐれた「エヴァンゲリオン」解析をしていたと思う)
そういう文化の、空気の流れを、現役で感じた自負がある。
もちろんそれは、個人的な、狭い田舎の、勘違いとか、思い込みもあったのだろうが、あながち全部が間違いじゃないと思う。
その文脈の中に、あのインタビューがあったのだ。
それを、今、あれだけを読んだ人にはわからないだろうな、と思う。
「感じ方が違うんだな」と思う。
ただ、それだけだけど。
あのインタビューだけ見たら、そりゃそういう反応になるし、実際、最悪なインタビューなんだから、まっとうな反応だ。
しかも、それから25年以上、小山田圭吾は、言葉で過去の発言を刷新してこなかった。
そのままで、小山田圭吾がパラリンピックの音楽なんて悪い冗談にしてもひどすぎる、受け付けない、それは当たり前の感覚だ。
辞めるしかない。それもわかる。ていうかそうだろ。当たり前だ。
(でも当時のごく狭いところの文脈を理解していればしているほど、問題の複雑さに何も言えない、他のミュージシャンの気持ちも想像できる気がする)
だいたい、上に述べたおれの思ったことなんて、実際にいじめ、いや暴力を受けた人間からしたらクソどうでもいいことだ。
そんなことどうでもいい。加害側の自己表現だのなんだの。クソどうでもいいわ。
一生忘れないし、一生を狂わされることだぞ。
小山田圭吾に擁護できる要素なんてねぇ。
ただおれは正直言って、今回、やっと少しだけ、すっきりした。
小山田圭吾が自分の言葉で述べたことで。
何も許せないし、何もかばえないし、クズの過去はクズのままだけど。
それでも、彼の謝罪文の
「そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います」
この言葉に真実味を感じた。
本当にどうなのかはわからないけど
おれの感じていた感じとは、符合した。
罪悪感を感じないほど鈍感じゃないはずだ。
小山田圭吾は全然好きじゃない、嫌いだ。
大嫌い憎い殺したいではないけどずっと心理的に距離がある。
ファンだなんて思わない。まったく思わない。
あのころから今までまったく変わらない。
でも彼の音楽をたまには聴くだろう。
フリッパーズギターを、コーネリアスを、METAFIVEを、「デザインあ」を。
そうして思うだろう、変わらずに「この音楽かっけえ」「好きだ」と。
そして変わらずに、おれはおれに問いかけるだろう。
おまえは本当にクズじゃないのか?
と。
おまえの過去は全部、正しかったか?
ユウシ、おまえは
いじめられた側、いじめた側、静観した側
どれだった?
「あの時」はどうだった?
「あの時」は?
じゃあ、「あの時」は?
「あいつ」に対しては?
そして「あんた」はどうなんだ?
いじめられた側だったか?
いじめた側だったか?
静観した側だったか?
そして、今は、どうなんだ?
SNSに、「ワタシ、弱いものの味方です」って書くだけなのは
ただの「静観」だぞ?
勘違いするなよ?
問いかけ続けて生きていく
コーネリアスがどうであろうと
小山田圭吾が謝罪しようと辞任しようと
大事なのはそんなことじゃないだろう。
「おれ」のことだし「あんた」のことだろう。
どう生きてくんだ?
それを、喉元にナイフ突きつけられて、改めて聞かれてる。
そういう意味じゃ、94年と、あまり変わらない。
今回のおれの「感じ方」は、そういうことだから
だから、多くの人と、感じ方が違うんだな、ってことだ。
あいにく、人を責めてりゃハッピーってほど、鈍感じゃないんでね。