ユウシの作文

それでも 私は 文章をかくんだっ 自分が生きるために!!

テキトーに生きて、そして死ぬ

いつ頃かは覚えていないが、いつしかずっと、こう思うようになった。
「テキトーに生きて、死ねばいい」

「どう生きるべきか」「こう生きるべきだ」
絶えず考えていた時間が、僕にはあった。
あった、つまり、過去だ。
だけど、今は、思考停止した、というわけではなく

ただ、折り合いがつかなかった。

今ははっきり確信していて。
どんな人間も、どんな人生も、原則として前提として、「無価値」だ。
そもそも人間に限らず、モノだって、コトだって、無価値だ。

ずっと考えていた。ずっと考えても、
「何かには、価値がある」
としてしまうと、折り合いがつかなかった。

つまり、「若くして死ぬ命」に。

「こう生きるべき」なんてことがあるのなら
「これこそが価値」なんてものがあるのなら
生まれてすぐに死んでしまった赤ちゃんは、「べき」の外か。「価値」の外か。
おれにはとても、そうは思えなかった。

そうじゃない。
そもそも全部、価値なんて、ないのだ。

誰からも絶対的な、客観的な、価値なんて、なににもない。
大谷翔平だろうが、10兆ドルだろうが、世界平和だろうが、新薬開発だろうが、
なににも、価値はない。

ただ、誰かが見出すだけ。
価値は、見出すだけ。
それが、共有できるものだったり、できないものだったり、するだけ。

価値、は、私、が、見出している。
ただそれだけだし、それだけでいい。

私たちは集団で、社会で生きているから、もちろんルールは必要だ。
だから、ルールは決めればいい。その方がいい。
でも、それは価値を決めることではない。
この、「ルール」は、「通貨」や、「言葉」に置き換えてもいい。

価値は、私が、勝手に決めればいい。
そんで、たまに、誰かと共有できると、うれしい。

この価値は私が勝手に決めたものだ、と思えれば、誰構うことない、存分に、愛せる。
そして、他者が勝手に決めた他者の価値に、寛容になれる。
競争や比較もいらないのだから。

私のこどもですら、当然、私ではないから
僕が見出す価値に興味がないときも、当たり前にある。
僕とは違うものに価値を見出し、楽しむ。
子育ては、その前提に立って、ただ、提案し、そして願うだけ。
それを超えると、ただの、間違い。
「価値」の認識への、間違い。

私たちは、社会に、時間に、身体に、文化に、関係に
いつも、無意識にも、縛られて、生きる。そして、死ぬ。
それは、いいとか悪いとかではなく、生きるとは、そういうもの。
誰も、自由なんてものは得られないまま、
そんな、成り行きの中で、
「でも、こうだったらいいのにな」とか、
「あ、そうじゃなくてもいいのか」とか、
思ったり、気づいたり、思い出したりしながら
発信したり、行動したり、する。
自由は、いつまでも、ずっと、得られない、けど、感じる。
自由を、感じる。

価値を、見出して、自由を、感じて
そして、楽しい、と感じられれば
愛しい、とか、豊かだ、とか、面白い、とか感じられれば
幸せ、というものの実存は、どうもつかめないけれど
どうやら、幸せを感じている、そう思う。

思い込みで、全然かまわない。
感じるとか、思うとかは、もともと全部思い込みだし
ひとりでここに立ったとき、満足と自己満足は、同じ意味だぜ。

テキトーに生きて、じゅうぶん、いい。
そんで、死ねばいい。
自分がいいと思っていれば、いい。
こう生きるべきとか、これこそ価値とか、押し付けられると、反吐が出るぜ。
クソ食らえ。

テキトーに生きていたい。
大事なことだけ、大事にして。
もちろん、おれが勝手に決めた、おれにとっての、大事なことを。

じゅうぶんじゃないか。
あとは、できれば、できるだけ、運がいいと、ありがたいな。

運よく、生きて、そのうち、死ぬ。
じゃあ、そんときまで、よかったら、よろしくね。

あ、今度、酒でも呑もうか。
それとマンガかロックンロールの話する?

愛し愛されて生きるのさ(クリスマスイブを楽しく過ごすってことは)

スゲーどうでもいい話を書くぜ。
できれば読まないでもらいたい。
あなたの中でのおれの評価が落ちるからな!!
でも今、酔っぱらってるから勢いで書くとするぜ。
おれ流のサービスとして。

おれって、クリスマスイブって、なにしてたっけ?って考えてて。
最近は、イブに日本にいることがなかったから、なんかアジアのどっかでケーキ探して食ってたな、って記憶しかない。
じゃあ旅をする前、毎年、日本にいたころ何してたっけ、って思い出してたんですよ、今。

話それるけど、職業によって偏ったパブリックイメージがあるじゃない?
ああいうのはよくないよね、自分を自由じゃなくさせるから。期待に応えようとしないほうがいいよね。
今日さー福本伸行の「天」の最終巻を読んで泣いちゃったんだよね、また。だから余計に思うよお前も読め。
正直おれなんて酒も好きだし女の子も好きだしギャンブルも好きだしさー、およそ先生のイメージとか困る。
向上心とかないし、遊んでるだけだし、自由に楽しく生きたいなってことしか思ってない。
好きなものが好きなだけだし。
マンガとか音楽とか映画とか好きなんだよ。好きなものは好きだから楽しいからやるだけだよ。
それと変わらない温度でこどもが好きだから先生やってるだけだ。
たったそのことだけ信頼してくれたらいい。
他のものを求める人にはごめんねとしか言いようがない。
立派でもえらくも頭良くもないしテキトーでいいかげんなんだよ、これは本当に!

そんなおれだからさ…そう思って、ね。続きます。
イブの夜って、なんかこう日本だと恋人とかとセックスする日みたいなイメージあるじゃない。
でも思い返すと、そういう記憶がマジでほとんどない。
だって面白くねーじゃん。そんなことしても。ありきたりっつーかさ。
たぶんひねくれ者なんだと思う。
お前ら地球人と同じことなんかしてたまるか!みたいな。
そういえば大学生のときもバレンタインにパチンコ行って(※彼女いたのに)クソ負けしてあまり玉交換してもらうとき、カウンターのかわいい女の子が一瞬手に持ったチョコをもう一回戻して他のお菓子に変えてから渡されたことあったな。
あれは「今日は!!お前なんぞに!!チョコ!手渡してたまるか!」っつー強い意志を感じたな!そういうの好きだな!!!
まあいらん話はいいとして。ていうかこの投稿全部いらん話なんだけど。

で、思い出せる範囲でイブの夜に何したか…思い出せたのが

・友人とチョコパイ買いまくって袋入れて、サンタとトナカイのコスプレして、コンビニとか牛丼屋で働いてる店員さんに「イブの夜にお疲れ様!サンタからのクリスマスプレゼントだよ」って渡して回った(しかも結構な数の店舗)。

・「クリスマスのラブホってマジで混んでるのか調べて回ろう」つって友人と一緒にサンタとトナカイのコスプレして同性カップルのごとくラブホ回って調査しつつ、どのホテルも待合ブースで部屋空き待ちのカップルがいるのにびっくりしてそのまま一緒に待った。

・「去年さーイブのラブホってめっちゃ混んでたやん?じゃあラブホに入れないカップルが絶対いるわけじゃん?そういう人たちって車でいちゃつくんじゃねーか?」「じゃあ、中総(※中央総合公園。暗くて夜景がきれいで駐車できるスポットがあるため車内でアレするカップルの定番スポット)行こう」つって中総行ったら見事なくらい車ズラーっと並んでて窓ガラスが内側から曇ってる。その流れでなぜか忘れたけどその駐車してる車沿いをおれがTバックにスニーカーだけの格好でマラソンする羽目になった。

とまあ…そんな思い出なんですよ。
プレゼント渡して回ったときは割と感謝されたんだよね。すごい困惑された店もあったけど、すごい喜んでくれた人もいた。なんか、バカにする感じで回るんじゃなくて、マジで心からサンタやろうって決めて回ってたこと覚えてる。そこがYouTuberとかと違うところで。撮影とか一切してないしな!マジで喜ばれるお菓子って何だろうって話し合ってチョコパイにした記憶あるもん。うまい棒とかのふざけたチョイスじゃなくて予算的に可能な上限がチョコパイだった。
ラブホはまあ、勉強になった。だってめっちゃ夜に5組とか6組とか空きを待ってるんだよ!?何時になるかわからんじゃない!?そっから盛り上がれる!?でもそんな空気のフロント前にサンタとトナカイが恋人つなぎで入ってきて「今日、もう部屋いっぱいだね、入れないね。せっかく頑張ってプレゼント配り終わったのにね」とか満室表示のパネルの前で会話してるんだよ。サービス以外の何物でもないわ。会話の減ったカップルたちに笑いと話題を提供したと思うぞ。何の得があっておれはこんなことしてたんだイブに。サービスだよ。ありきたりの夜にならないように、カップルに。思い出をプレゼントして回ったんだよ。
あと12月下旬の深夜にTバック一丁で屋外マラソンしたことある人いる?
あれマジで肺が痛いから。肺が凍る感じする。息できないの。
あっ、ディオに気化冷凍法くらわされて呼吸ができずに波紋が練れなくなるジョナサン・ジョースターってこんな感じ!?って思ったから。
最近だとアレ、竈門炭治郎。1巻で禰豆子を背負って雪山を進むときの「息が苦しい 凍てついた空気で肺が痛い」あれな。
「前に進め もっと速く足を動かせ(Tバックで)」
で、全然、車のカップルには気づかれないの。そりゃもう内側から曇っとるからな、ガラスが!
あまりに気づかれないからフロント側に回ったりもしたんだけど全然ダメな。
もうおれがクソ寒いだけのイベントよ。気づかれたところで妖怪扱いされるだけだと思うけども。
で、しばらくマラソンして駐車してる車がなくなったら後ろから友人の車が来て拾ってもらえる予定だったんだけど、やっと来た友人の車がまぁまぁな速度でおれを追い抜いて走り去りやがったからな。あの恨み忘れねぇ。えっマジ?往復なの?今の往路だったの?駅伝かよ!駅伝は年始だろ!ってなったもん。
このまま放置されたら中総で凍死っつーか不審死するやんかと。Tバック一丁で。事件性帯びるわ。
結局友人の車がしばらくして戻ってきたから今おれはまだ生きてるわけだけど。クソ。あのハンドル持ってニヤついた顔忘れねーぞ。マスキお前だよ!

なんか書いてて改めて思うけど、なんていうか、あれだ、楽しかったな。

あなたの今夜が(こんなくだらねー投稿を読んでるくらいだからいろいろアレなんだと思うけども)この投稿で多少でも楽しいものになれたなら幸いです。

じゃ、Have a merry Christmas!

ロックが好きだ。

ブルーハーツは個性を大事にしろと言っているのに、ライブを見に行く奴らは皆ブルーハーツと同じ格好をしている」
といった発言をしていて、個性を大事にしろとはいってない気はするけど、でも、ああ、わかるわかる、と思った。
 
さてそんなブルーハーツのボーカル甲本ヒロトは、こういう言葉を言っている。
(※ジョー(・ストラマー)はTHE CLASHのボーカル。パンクロッカー。
ジョーいわく「Punk is attitude, not style」)
 
「ジョーに憧れました。
ジョーのようになりたいと思いました。
ジョーのようになる。
それは彼の音楽やファッションを真似ることじゃなく、誰の真似もしないことでした。」
まったくもって、パンクやロックの本質を突いた言葉だと思う。
 
もちろん実際は真似するんだよ!
ゼロから生み出すなんてのはできない。
憧れの人の真似したい気持ちもわかるしみんなやるし、ヒロトだってライブ中ピート・タウンゼントみたいなことやるじゃんかさ。曲にもパクリ(オマージュ)が山ほどある。
 
でもさ、
「Rock is attitude, not style」
だってことはいつも胸にある。
 
ロックが与えてくれるものは答えじゃない、問いかけだ。
 
と常々思っている。
だから、「ジョーがこう言ってる」「ディランがこう言ってる」「清志郎がこう言ってる」「ヒロトがこう言ってる」「だから、こうだ」というやつを見てると、世界一ロックじゃねー姿勢だな、と思う。
 
そもそも、音楽大好きで毎日ギター弾いたり歌ったりしてるようなヤツが、この世界の真実を教えてくれるわけないだろ、普通に考えて。
学者や科学者バカにしてんのかって話ですよ。
 
ロックの歌詞だのテーマだのが、なにかを教えてくれるんじゃないかと思っているのなら今すぐ考えを改めるべきだ。
考え方も決め方も、「ロックの人」の真似しようなんて考えるな。
 
ロックの価値は、その名のとおり「揺らすこと」だと思っている。
ダンスミュージックとして、体を揺らす。
そして、問いかけとして、心を揺らす。
 
時として
「それでおまえはどうするんだ?」
と揺らされる。
答えも与えられずに。
 
ロックは反抗の音楽だぜ、というのは一側面として間違いではないと思うが
「本当にそうなのかよ?疑わしいな?てめえのこと信じていいのかよ?このクソ野郎が!」
というトゲトゲした反抗は、政治や権力などの外向けのものばかりではない。
必ず
「それでおまえはどうなんだよ?」
と、自分に向かってくる。
 
そして、揺らされる。
 
それが、おれには必要なものなんだろうと思う。
だから好きだ、と思う。
 
どうか正しいことなんて歌わなくていいから、揺らしておくれ。
バカでもわかるやり方で。
強烈なビートや泣いてしまうメロディや踊っちゃうリズムを爆裂の音量で。
 
僕もずっと憧れている。ロックンロールのアティチュードに。

チャーリー・ワッツと俺。

ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツが亡くなった。
千葉真一に続いて、「おれが部屋にポスターを貼っている人」が立て続けに亡くなる。
ショックだ。
 
チャーリー・ワッツがどれだけ素晴らしいか、おれは完全にわかってる。
もちろんドラムプレイの技術や理屈に関しては、ほぼ全くわからんし、語れん。
ハイハット抜きとかレギュラーグリップとか知ってるよ?でもわかってはいない!
でもわかってる。完全にわかってる。
 
ストーンズがどんな曲をやろうと、それが「ストーンズだ」と感じる理由の内訳に、「チャーリーのドラム」が占める率は高いだろう。
どこを切ってもストーンズ。金太郎飴だ。
 
ストーンズがなんで世界最高のロックバンドなのか、理由は3つだと思ってる。
 
ひとつは、「おれが本能でそう感じてしまうから」という主観的な理由。
ひとつは、「今もずっとバンドをやっているから」。「続けている」という圧倒的事実の凄さ。「今やっているバンド」。「今」というデカさ。今いるんだぜ。過去じゃない。
そしてひとつは、「ダンスできるから」だ。
 
ビートルズなんてすぐやめちまった。ちょっとケンカしたくらいで。
ビートルズの美メロがいくら素晴らしくても、いや素晴らしいが、最高だが、でもな、踊るならビートルズより、そりゃ、ストーンズだろ??
 
ストーンズはメロディのバンドじゃない。ビートだ。
ロックは踊れてナンボじゃい。
ビートだろ。グルーヴだろ。
そして、それが「黒ければ」言う事なし。
 
そのビートを、グルーヴを、生むのはチャーリーだ。
チャーリーが常にリードしてる!
上手いとか下手とかではない。
「自分のもの」にしてるんだ。
チャーリーがぶれないから他のメンバーも軸から外れようがない。
 
結果、最高のダンスミュージックが生まれる。
四つ打ちのダンスじゃなくて、ほら、わかるでしょ。
 
おれは常々、「ストーンズで一番好きな曲はMidnight Rambler」「ストーンズ最高の年は1972」と主張してるんだけど
これ。
もう最高。このグルーヴ。
チャーリー以外も最高なんだけど今夜はドラムに多めに注目したとして
最高すぎないか?
5:30あたりから 爆発寸前の火薬!がキープされてうねるうねる!
ラスト1分の気持ちよさ。
特にシラフじゃなく、それなりに酔っ払ってから聴くとたまらんぜ。あとライブで聴くとやばいぜ。
 
ローリング・ストーンズのライブで、チャーリーがドラムを叩かなかったことは、「結成以来一度もない」んだけどさ、ひとつ、チャーリーに関するライブの思い出を書かせてくれ。
 
ストーンズは、今までに6回、来日している。
90年、95年、98年、03年、06年、14年だ。
おれが行ったのは、来日4回(ライブ6回、たぶん)。
 
98年、東京ドーム(チャーリーが投げたドラムスティックをおれの目の前のやつがキャッチした!)
2003年 大阪ドーム(後述!)
2006年 名古屋ドーム(日本最終日かつストーンズ史上唯一の名古屋ライブ!)
2014年 東京ドーム(平日のみの3days、「一日も仕事を休まず全部行った」)
 
思い出を語ればキリがないが
1998は3月、大学入学直前だった。
初めてのストーンズでワクワクした。ひとりで行った。
「Memory Motel」という大好きなレア曲が聴けた興奮。
2006は初名古屋、友達や従兄弟と行ったような気がする。
終わった後、おれは何で全国回らなかったんだ!って思った。次来日したら全公演行くと決めた。そしたら8年も来日しなかったんだけど・・・
2014は決意どおり、仕事早めに終わって死にそうな勢いで東京向かってライブ後即帰る、を平日3日やった。ツレと行ったり一人で行ったり。
 
で、2003、大阪。
色んなツレと何人かで行った気がする。
鈍行乗り継いで行ったんじゃねーかな。たしか。
終電間に合わなくなるぞ!って時間なのに
ここで!ライブ途中で帰れるかよ!つって最後まで粘った結果
終電間に合わなくて
金もねーからさ
大阪ドーム近くの、なんか地下道の中で朝まで過ごしたよなー。
寝たり、なぜか空手の練習したり。興奮してたよなー。
途中で暴走族が近くまで来てビビッたり。アングラ暮らし。
 
その大阪ライブで、ミックがメンバー紹介してさ。
ドラムス、チャーリー・ワッツ
つってひと盛り上がりしたあとに
おれが。おれがだよ。
「チャーリー!チャーリー!」
つって手拍子打って、でっけー声でチャーリーコール始めてさ。
大阪の客、ノリがいいから近くからどんどん広がってってさ
ドームいっぱいのチャーリーコールになって。
そしたらチャーリーがドラムソロで応えてくれたんだよね。
 
あれは嬉しかったなぁ。
ドキドキしたけど、コールしてよかった。
チャーリーにとっちゃ知らん話だけど、あのコールはおれが起こしたんだよ。
一方通行だけど、おれからしたら、あんときチャーリーのドラムとつながった気がしたんだよ。
 
おれより38歳も年上のヒーローだからさ
いつかこういうときが来ると、理屈ではわかってた。
でも悲しいよ。
納得できないわけじゃない、でも悲しい。
でも俺は幸せだ。
もうさ、俺はずっと幸せだよ。
高校2年生のときストーンズと出会ってから。
ロックの扉をあなた方が開けてくれたときから。
たぶん、ずっとチャーリーのドラムが鳴ってたんだ。
おれの心臓の鼓動の一部は、たぶんどっかチャーリーの音になってる。
 
だから俺がある限り、鳴り続ける。
あの大阪のあなたのビートが、おれの鼓動になったんだ。
 
安らかに眠ってくれ。
でも、あの世があるなら、そこでのコンサート、楽しみにしてる。
 
Rest in beat.
チャーリー愛してる!!!
 

小山田圭吾のこと。(たぶん、多くの人と違うってこと)

 小山田圭吾のことを擁護するつもりはまったくない。マジでまったく。
辞意表明もしかるべきと思う。

ただ個人的に思うことは、たぶん、多くの人と、感じ方が違うんだな、ってことだ。

それだけだ。

例のインタビューは94年。
94年のあのころの感じ。

僕はよくわかる。
当時の「サブカル現役っ子」だったからだ。

あのクイックジャパン、「ほぼ」当時、読んだ。
でも、たぶん古本だな。
17か18歳くらいで読んだような気がする。
あのインタビューで、最悪だなこいつは、クズだな、って、当時、現役で、思った。

でもそのころのサブカルの一部の空気感は、それがいいとか悪いとかではなく
露悪的に、おれたちはクズだ、ということを共感しあう確かめあうような空気があったんだと思う。
それはもちろん、この世界のほんの狭いところの空気でしかなかったけれど。

バブルが崩壊して、なんだか世の中は希望を失い、浮かれた気分が冷めて、きな臭く、世紀末に向かって、なんだか退廃的だった時代。
そんな時代に、みんながそうだったかは知らないけれど、サブカルの世界の空気に、確かにそれはあったように思う。

「いい子みたいなふりするのはやめようぜ、おれたちってクズじゃんか、人間なんてクズじゃんか」

というような。

「おれもクズだよ、おまえもクズだろう?」
「いい人みたいに振舞ってるけど、おまえだって人を助けたりしないだろう?」
「おまえだって欲望にまみれて生きてるじゃないか?世界には苦しい人なんてたくさんいるのに、おまえは何してるわけ?」
「しょせん、おまえはクズだろう?」
「おまえの友達だって、親だって、恋人だって、結局、独善的な偽善者じゃないのか?そいつらも全員クズだろう?」

そういう問いかけが、いろいろなところにあったと思う。

それは、思春期のおれに、いつもいつでも刺さり、今だって抜けていない根源的なものだとすら思う。

そんな中で、人間のクズさを証明するような告白めいたものは、たくさんあったように思う。

鬼畜系だとか、村崎百郎だとか、根本敬だとか、ガロのマンガだとか・・・
(一緒くたにしてはいけないのかもしれないけれど、少なくとも、おれの心の中では近くにあった)

そういったものは、今はネットに沈んでいるのかもしれないが
当時、インターネット以前の時代、それはアングラ・サブカル雑誌の中にあった。

僕はたくさん読み漁った。
僕の中にある暗いもの、黒いもの、自分のクズみたいな「ある部分」、利己的な欲望、他者への残酷性、そういったもののことを知りたくて。もしくは、他者にもあることを確認したくて。

小山田圭吾のインタビュー、それはクズそのものだ。
そこにある「(笑)」も含めて、クズそのものだ。
だけどそれは、ただのいじめ自慢とかではなく
「おれなんてクズなんだよ」
という、若い魂の、告白のようにとらえていた。
「こういう行為はクズの行為だ。悪いに決まっている」
と知っていて、どう思われるかもわかってて、あえて露悪的に、読んだ人が最悪だと思うように、わざと「正直以上の悪意」を告白している、そんなように見えた。

「こんなオシャレな音楽とか言われて、ファッション雑誌とか載ってるけど
おれはクズの行いを繰り返してきたクズなんだよ」
と、隠さずに言いたいのではないか。
隠して生きることをしたくないのではないか。

あのころの空気感の中で、そうしたかったんじゃないか。そう思った。
チンポやウンコやゲロやケツの穴を、わざと見せたかった。

ロックやパンクが反抗の音楽だなんて言うけれど
体制や政治に対して反抗するものだと思っているのなら、それは多分、勘違いだ。
というか、認識の不足だ。

外側に向かう反発や反抗は、いつか必ず、自分に向かう。
内側に向かう。
「誰かを責めて反抗する、そんなてめえ自身はどうなんだ?」
自分自身の、人間ならほぼ全員、背負う原罪に向かうことになる。
自分の欲望に、残酷性に、そういうクズさに。
最終的に、自分の心に反抗を向けていく、問いかけを続ける、それがロックの魂の行き先だ。おれはそう思っている。

だから小山田の正直すぎる隠さないクズさは、吐き気を催すものだったが、その表現をそこでするということ自体、納得できないものではなかった。
それは、他者に対する問いかけでもあるからだ。
「こんな音楽を作っているおれは、こんなクズなんだ。どう思う?」

小山田圭吾ことコーネリアスの95年のアルバム「69/96」。
これのアナログ盤はジャケが違い、「ピンクの原作デビルマン」だ。
(ちなみに持ってる)

これだけで、わかるだろう。
小山田圭吾が、わかってやっている人だということ」が。
少なくとも、原作デビルマンをちゃんと読んだ人なら、わかるはずだ。
彼の中に何がいるのか。
彼が(おそらく自分に)「悪魔」を見つめていたことが、想像できるはずだ。

クイックジャパンの表紙で彼が持つマンガは「魔太郎」だ)

あのころの空気感の中で、多くのサブカルっ子が苦しみ、悩み、ゲロを吐いて見せあっこして
「どう生きたらいいのか」
を考えていた。

現実が地獄のようで、醜く、汚く、クズみたいだと知って
その上でどう生きるかを。

そんな中だから、原作版「風の谷のナウシカ」はああやって完結して、「新世紀エヴァンゲリオン」が生まれた。
ニルヴァーナは絶叫し、カート・コヴェインは自殺した。

クイックジャパン太田出版は、当時、最もすぐれた「エヴァンゲリオン」解析をしていたと思う)

そういう文化の、空気の流れを、現役で感じた自負がある。
もちろんそれは、個人的な、狭い田舎の、勘違いとか、思い込みもあったのだろうが、あながち全部が間違いじゃないと思う。

その文脈の中に、あのインタビューがあったのだ。

それを、今、あれだけを読んだ人にはわからないだろうな、と思う。
「感じ方が違うんだな」と思う。

ただ、それだけだけど。

あのインタビューだけ見たら、そりゃそういう反応になるし、実際、最悪なインタビューなんだから、まっとうな反応だ。
しかも、それから25年以上、小山田圭吾は、言葉で過去の発言を刷新してこなかった。
そのままで、小山田圭吾パラリンピックの音楽なんて悪い冗談にしてもひどすぎる、受け付けない、それは当たり前の感覚だ。

辞めるしかない。それもわかる。ていうかそうだろ。当たり前だ。

(でも当時のごく狭いところの文脈を理解していればしているほど、問題の複雑さに何も言えない、他のミュージシャンの気持ちも想像できる気がする)

だいたい、上に述べたおれの思ったことなんて、実際にいじめ、いや暴力を受けた人間からしたらクソどうでもいいことだ。
そんなことどうでもいい。加害側の自己表現だのなんだの。クソどうでもいいわ。
一生忘れないし、一生を狂わされることだぞ。

小山田圭吾に擁護できる要素なんてねぇ。

ただおれは正直言って、今回、やっと少しだけ、すっきりした。
小山田圭吾が自分の言葉で述べたことで。

何も許せないし、何もかばえないし、クズの過去はクズのままだけど。

それでも、彼の謝罪文の

「そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います」

この言葉に真実味を感じた。
本当にどうなのかはわからないけど
おれの感じていた感じとは、符合した。

罪悪感を感じないほど鈍感じゃないはずだ。

小山田圭吾は全然好きじゃない、嫌いだ。
大嫌い憎い殺したいではないけどずっと心理的に距離がある。
ファンだなんて思わない。まったく思わない。
あのころから今までまったく変わらない。
でも彼の音楽をたまには聴くだろう。
フリッパーズギターを、コーネリアスを、METAFIVEを、「デザインあ」を。
そうして思うだろう、変わらずに「この音楽かっけえ」「好きだ」と。

そして変わらずに、おれはおれに問いかけるだろう。
おまえは本当にクズじゃないのか?
と。

おまえの過去は全部、正しかったか?

ユウシ、おまえは
いじめられた側、いじめた側、静観した側
どれだった?

「あの時」はどうだった?
「あの時」は?
じゃあ、「あの時」は?
「あいつ」に対しては?

そして「あんた」はどうなんだ?

いじめられた側だったか?
いじめた側だったか?
静観した側だったか?

そして、今は、どうなんだ?

SNSに、「ワタシ、弱いものの味方です」って書くだけなのは
ただの「静観」だぞ?
勘違いするなよ?

問いかけ続けて生きていく
コーネリアスがどうであろうと
小山田圭吾が謝罪しようと辞任しようと

大事なのはそんなことじゃないだろう。
「おれ」のことだし「あんた」のことだろう。

どう生きてくんだ?

それを、喉元にナイフ突きつけられて、改めて聞かれてる。
そういう意味じゃ、94年と、あまり変わらない。

今回のおれの「感じ方」は、そういうことだから
だから、多くの人と、感じ方が違うんだな、ってことだ。

あいにく、人を責めてりゃハッピーってほど、鈍感じゃないんでね。

 

妄想、日々に滲む

共感を求める文章でもなく、理解してほしいとも思わず、だからといって批判もされたくなく、ただ書かずにいられなかった。書かずにいられなくて書いちまったからここに置いておく。

正解とか不正解とかいう話ではなくて。価値観の話。
妄想。

目の前に明らかな超常現象として
「はい、制限時間は30秒です!
このスイッチを押すと、○○さんの命は助かります。
そのかわりあなたは即死します。
なお、あなたの行動は○○さんには伝わりませんし、他の誰も気づきません。
ただの変死です。では、カウントダウンスタート!」
みたいなことを言う超常的存在が現れたとして。

※「○○さん」は「リアルな死と直面している大切な友人」とする

おれ押しちゃうんじゃないか、と思うんだよね。
確固たる意志をもって押すとか覚悟を決めて押すとかとはたぶんちょっと違って
「押しちゃう」っていうくらいの表現がふさわしい感じで。つい、押しちゃった、みたいな。勢いでつい、みたいな。

たぶん短いなりにいろいろは考えると思う。
ああもっといろんな女の子と遊んでおけばよかったなとか一回でいいから叙々苑に行ってみたかったなぁとかDr.STONEの最終回読みたかったなぁとか変死だとハードディスク調べたりするかな恥ずかしいけど死んでるからまあいいかなとか。30秒以内じゃその程度だろうな、自分だと。

家族のことはもちろん頭に浮かぶけどあんまり深く考えないだろうと思う。残された家族が苦労するかもとかは。改めて考えなくても、きっと本人と周囲の素晴らしい人たちがなんとかしてくれるだろうという確信的楽観がある。生きてるんだから大丈夫だろう。仕事のことも同様。

30秒じゃなくてもっと長い時間悩めるんだとしたら、正直、自分がどう判断するかわからないけど、まあ結局最後は、まあいいか!!考えるのめんどくせー!つって「押しちゃう」気がする。

それと、「即死じゃなくて、物凄い拷問を受けて苦しみぬいて死ぬ」に条件変更されたら、押さないかもしれない。おれ、昔から、一番怖いのは「拷問」だと思い続けてた。今も思う。この世で一番怖いのは拷問。だから押さない、もしくは押せないかもしれない。
そう考えるからこそ「即死?即死でいいの?じゃあ!」つって押しちゃう気がするんだよな。逆にもう、それでいいなら押さなきゃ損じゃない?くらいの。そこまでではないか…

さらに勝手に他人を巻き込んで勝手に妄想して失礼だとは思うんだけど。
たとえば橋下徹とか。ホリエモンとか。西野亮廣とか。
なんらかの、頭の良いカリスマ的存在の方々。
押さないと思うんだよ。同条件で。
(いや、勝手な妄想だよ!?知らんよ実際は!彼らのことよく知らないしさ!会ったことも話したこともない人にそんな妄想するのは失礼だってのは当然わかってる。申し訳ない。ただ、その、例え話として仮定させてくれ)
で、それは絶対に間違いでもないし恥ずかしいことでもない。
押さない、でいいと思う。心底、いいと思う。本当に心の底から。
どう考えたって押すべきじゃないだろう。押さんだろ。

なんならおれも思うもん。
生きてることが大好きだ。執着したい。
欲望と快楽が大好きだ。自分が大好きだ。自分の命が大切だ。
あと自分の頑張りや自己犠牲については、他人に知ってほしい。人知れず苦労したくない、気づいてほしい。加えて、執着はしないけどできればやっぱり褒められたい。
だから押さない。そのスイッチは押さない。

ただきっと、つい押しちゃうんだろうなと思う。

頭がいい人みたいに考えられないから。

そしてやっぱりおれにとって、憧れとか、自己満足とか、そういうものが向かう先は…タイガーマスクの最終回のような…009の6巻のような…うしおととらのジエメイのような…それにはきっと、抗えない。
(逆に言えば、橋下徹ホリエモン西野亮廣に憧れることはないだろうと思う)
そんなおれだから、きっと、つい、押しちゃうのだ。

さて、とはいえこれはただの妄想だ。
現実に、超常現象なんて起きない。
押すか押さないか、こんなことを判断せざるを得ないときは永久にやってこない。
考えても仕方ないし、いざその時が来たとしても、本当に自分が、今、想像しているように判断し行動するか、合っていると言い切れる自信も、そんなにない。全然普通にビビッて押せないかもしれない。考えた結果、押さないかもしれない。
ただの妄想だ。重要じゃない。

現実は一日一日。少しずつ。そんなドラマもないままに、でも、私は生きる。
生活して。出かけて。働いて。寝て。
ただ生きることを繰り返し、日々を重ねる。
だから思う。
私は私の価値観を全うする。
現れないスイッチを押すことはない。
ただ、そのぶんを、生きる。
日々に滲むように。なんでもない一日にわずか滲むように。
祈りのようだ。
生活と、祈り、それを繰り返す。
正解とか、不正解とかではない。
価値観の話だ。

イナズマン

今日、窪塚洋介がネットのトレンドに上がっていたので、てっきり伊勢谷友介のイモヅルで逮捕されたのかと思った・・・

 

たとえば20代の前半あたりとか。大学生の頃とか。
男に限った話なのかわからんけども。
「自分はクソ野郎だぜ」
とか思ったり口に出したりするようなポーズあるよね。
俺はクズだ。
俺はダメ人間だ。
みたいな。

おれもあった。めっちゃあったと思う。
そういう意味でシド・ヴィシャスなんかを都合よく解釈して自分に重ねたりする。
お前のどこがシドやねんと。キャプテン翼の次藤くんみたいな図体しやがって。

あれは自己分析だと、「安心」したいんじゃないかな。
現実って複雑だからさ。
政治とか選挙とか
仕事したり貯金したりさ
市役所で手続きしたり税金払ったりさ。
いろんな現実が見えてくるじゃない。
こどもから大人になる過程で。
「自立」の過程で。

その中には、思うようにならない現実もたくさんあって。
イライラしたり。それで人を傷つけたりね。あるじゃない。

そこで「クズになった僕」の出番ですよ。
「空っぽの僕」でもいいけども。
それをあえて出す。
そんなこんなあるけども、自分はクズだから「仕方ない」みたいな安心の得方というか。
さらにちょっと被害者ぶってるみがあったりさ。

まあ認めたくないものだな、自分自身の若さゆえの過ちと言うものを。
過ちっていうか、赤面するような、でもその時は必要だったかもしれない途中過程。
思春期みたいな・・・
誰にでもわかりやすいように例えると、イナズマンで言うところのサナギマンみたいなものだな。

こういう「俺はクズ(だから仕方ない)」現象は、彼女と海ばっか行っちゃうパリピ気質な人にも、暗い部屋でひとり古いにっかつ映画を夜中ずっと見てるような人にも、同じように起こったりするから、誰にもサナギマンなんだと思う。

さらにそんな頃はクールぶってなにごとも接頭語みたく「別に」とかつけちゃったりするからな。
沢尻か!
沢尻もあのとき21歳だぞ。
沢尻もサナギマン。美しいサナギマン。元気かなぁ。イナズマンになったかなぁ。

だからまあ、そういう意味じゃあわからんでもない。むしろわかる。
クズになった僕をとか言っちゃうの。わかるよ。
過去として。懐かしさをもって。苦笑と共に。おれだってサナギマンだった。
だけどなぁ現実に生きていくには坂口安吾堕落論」の後半が必要なんだよ。
それなり落ちたら上がるしかねぇ。
地道に毎日生活やるんだよ。
「クズになった僕」みたいなこと言って自分を慰める余裕はねえ。
選挙行って税金払って生きてくんだよ。
9階から飛び降りたって生きてる以上は生き抜くさ、なにをやっても。
ときに「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」見て涙ぐんだりしながらも
汗かいて、頭使って、
毎日なにかをがんばっていりゃ
生きていくんだ。それでいいんだ。
ここで玉置浩二だよ。わかるかい。
クズにならないように。一生懸命。やるんだよ。
それがイナズマンになるってことだ。

だいいちな
20代前半のガキがイタリアの香水なんて早いんだよ!
甘い香りがほしいなら鬢付け油でもつけてろ!
別に力士を求めてないけど 横にいられると思い出すだろうさ。
それかクレ5-56にしとけ。その感性が錆びつく前にな!
なにがD&Gだ。ガキが。ガキのDGは電気グルーヴだろ。「N.O.」聴いてろ!!
マルチェロ・マストロヤンニくらいになってから使えや香水なんぞは。

そうそう、おれ、窪塚洋介と同い年よ。
お互い現実でがんばろうぜ、もう二度と9階から飛ばないように。
でかい口を叩いた以上、がんばりましょ、お互いね。
もう41歳。自分はクズだなんて言ってられないぜ。
毎日、一生懸命、生活。
まわりの誰かが喜んでくれた方が、自分も楽しいもんね。気づいたよね。
21歳の自分より、今の自分が好き。
戻りたいなんてちっとも思わない。
なんでもできる気がしてるよ、今のほうが。
…あー、それにしてもおれもさ、ドルチェ&ガッバーナの香水の匂いがする女の子から3年位ぶりにLINEこないかなー夜中にいきなり。どうしたのもこうしたのも、寝てて気づかないと思うけどさ。ていうかそんな匂いの知り合いいないけどさ。クレ5-56の臭いするのならいる。
あと、女の子を好きになると香水とかじゃなく頭皮の匂いをかぎたくなりませんか。つむじあたりを。それは一般的ではないですか?
よく幼稚園の先生は落し物の匂いをかいで、誰のか当ててますけれども…
嗅覚は五感のうちでも長期記憶領域に残るらしいからな!
とりあえず伊勢谷も窪塚もがんばれよ!おれもがんばるわ!じゃ!!

 

※知らない人もいるかもしれないので念のため

https://www.youtube.com/watch?v=9MjAJSoaoSo

今年の大ヒットナンバーらしい。