ゆとり世代

 私の記憶が正しければ、多分小学校二年生の時にゆとり教育が始まった。

突然、土曜日の学校がなくなった。みんなは喜んでいたような気がするけど、土曜日の授業はいつもよりちょっとだけ早く帰れるので好きだった。

土曜日の授業は私たちの意思とはなんら関係なく本当に突然消えてしまった。

そして、同級生に昔は土曜日に授業があったよねと言っても、全然覚えてない!と言われることも多くなった。

 

こうしてのんびりとした教育プログラムを満喫した私も今年度で(留年したから一年遅れているのだけど)大学を卒業(できれば)する。

私は一人っ子で甘やかされてきたことにも自覚はあるし、ましてや留年までするほどのだらしなさなので、自分のゆとり世代っぽさは痛感している。

私は確かにゆとり世代の一員である。これは生年月日によって裏付けられた揺るがない事実だ。けれど私の性格のだらしなさはゆとり世代「っぽさ」でしかない。

 

ゆとり世代にはしばしば「これだから」という枕詞がつく。

このカテゴライズにプラスのイメージを持つ人はそんなにいないだろうし、多分多くのゆとり世代が思ってるのが、「別に好きでゆとり世代に生まれたわけじゃねーし」ってことだろう。

 

でも、例えば仕事で空気が読めなかったりミスをした時に、ちょっと頭の固い上司に

「これだからゆとり世代は」と言われたとして、その時に

「は?別に好きでゆとり世代になったわけじゃねーし、国が勝手に決めたことだし、そこにうちらの意思無いし」みたいに思うのはなんか違う気がするのだ。

私が考える正しい答えはこう。

「申し訳ありません。しかし一点訂正していただきたい点がございます。確かに私はゆとり世代の一員ですし、その自覚を十分持ち合わせております。ですが今回のミスは私個人の技量の至らなさが原因であり、私以外のゆとり世代と称される同世代の方々は全く関係ありません。ですから、私以外のゆとり世代の方々に対する謝罪の意思を込めて先ほどの発言を撤回していただけないでしょうか?」

ちなみに自分のことを棚に上げた、神様の視点で考えた答えです。

けれど自分の欠点や、これまでの人生で培われた何かを、ゆとり世代の産物として片付けてしまうのはおかしいし、少し寂しい。確かにゆとり教育の影響を少なからず受けているだろうけれど、人生の全てがゆとりだったわけではない。私たちに実際にたくさんのことを教えてくれた人たちはそもそもゆとりではないし、そういった人たちから得た思想みたいなものは決してゆとり教育によって打ち消されるものではなかったはずだ。

 

ゆとり教育は確かに私たちが望んだものではない。土曜日の授業は突然なくなった。ちんちくりんな7歳だった私はその理由も知らなかったし、大人が別のルールを決めたんだなという、漠然とした認識にもならない認識をわずかに持っただけだった。

そしてその世代名の存在感は年齢を重ねるとともに大きくなっていき、ネットニュースのコラムで『ゆとり世代の後輩の育てかた』とか『ゆとり新卒とはこう接する!!』みたいに言われるようになった。滅茶滅茶な腫れ物扱いである。

きっといつか私たちの年代が経営者とかやるようになったら、『使えないゆとり上司』とか『ゆとり経営が招いた破綻』とか言われるんだろうな。

 

でも、私はそういうのは個人の問題で、経営破綻させるゆとりもいれば、超成功するゆとりもいるし、そんなのいつの時代も変わらないと思っているし、実際そうでしょう。

ただ私たちは、人生の結構序盤からゆとり世代っていう箱にカテゴライズされているだけだ。そんなの気にしないでどんどん我が道を行けばいいと思うし、個人的にはゆとり世代というネーミングを気に入っているし、勉強は他の世代と比べて楽だったんだろうし、(でも円周率はギリギリ3.14でまだ3になってなくてそこはちょっとドヤ顔)マイナスの印象からスタートしたほうが結果的に同じことをしたとしても高評価な雰囲気あるし、要は私を含めたゆとり世代に当てはまる人たちは、他の世代が私たちのことを「ゆとり」だと思っているうちにガンガン活躍すればいいだけなのだ。

まあ口で言うのは簡単だろって感じだけど、それでも国のせいだの望んでないだのではなくて、あーはいはい私のことゆとりだと思って見くびってましたね?的な心意気が大事なのだと、思う。

ゆとりがゆとりに対する反骨精神をエネルギーにして、世界を変えたらいい。

 

それでもゆとり世代ゆとり教育が先?)は結構ネーミングセンスある…と感じる…私は好きだよ…

とまあ誰も読まないのによくこんな偉そうなことが書けるな〜このマイペースさも、ゆとり世代「っぽさ」… 

 

 

 

 

文字にすること

最近音楽を聴いている時、視覚とは切り離してその曲だけを聴くことと、MVを見ながら聴くことと、ライブで生の演奏、本人たちを目の前にして聴くことを比較した時、どれが最も音楽を純粋に聴いていると言えることができるのだろう、てなことを考える。もしアンケートをとったらライブが一番票を獲得するだろう。生とかライブとか接触可能性とかはなんだか重んじられる風潮があるし、超コンテンツ時代でオリジナルが無い、コピーばかりと言われる現代では、物事の一回性の価値は高まっているかもしれない。

関係ないかもしれないけれど、自分が音楽に対して「好きだ」と思うとき、その曲の何にそう思うのかと言えば、メロディーとかリズムとか、流れのようなものだ。その流れのようなものに共通項は見受けられない。あったとしても主観マックスすぎて自分ではわからないのだろう。だからその曲の歌詞だとか誰が演奏しているだとかは二の次になる。つまり私は音楽を、視覚とは切り離して選ぶ(選ぶという述語もなんだか現代っぽい、ストリーミング配信の産物っぽい)。

けれども歌だけ聴いてもイマイチだなと感じる歌も、MVの映像を見ながらだとなぜか最後まで見てしまうこともある。決して映像のクオリティが著しく高いとか、ストーリーが超面白いとかではないのに、だ。これは映像監督や制作会社とか、音楽以外の第三者が一番介入するものかもしれないが、アーティストの一つの作品提示の仕方ということに変わりがない。

ライブにはあまり行ったことがないのだけど、言葉にするとなんだか陳腐な感じがしてしまうがそれこそ迫力・熱量・勢い、他人同士が同じ場所に同じ目的で集まる異様な(いい意味で)一体感はそこにしか生まれ得ないものなんだろうと思う。

 

まあ当たり前のことではあるけれどどれにも良さがある。この中に順番をつけたいわけではないので答えが出ないことにはなんの不満もないのだけど、純粋に「聴く」という行為はどれなのか、もしくはこの選択肢の中には存在せず、BGMのように生活に溶け込んで「聴こえる」状態が純粋な行為なのか。前提として能動的に音楽を聴く時の話がしたいので聴こえる場合は排除して考えたい。

ライブの、言語化し難い雰囲気のようなもの、「やっぱ生が一番っしょ」みたいな感じは正直納得できない。他の聴き方にも、それに代わる長所があるからだ。

けれど改めて何がライブで優れているのかということを考えた時、それは音の再生不可能性、つまり、クオリティはさておき、録音されていないというところなんじゃなかろうか。

ストリーミングでもCDでもレコードでもMVでも、私たちは録音され編集された音を耳にしている。それが本物ではないってことでないし、洗練されていていてクオリティは高いはずだ。本物だけど、同じものを何回も聴ける。もちろんこれは利点でもある。けれど音の再現が不可能であることが、音として価値が高いんだとすれば、ライブは純粋に音楽を聴いていることに近いのかもしれない。

 

私は、音楽を「選ぶ」時には視覚と切り離している。けれど実際日常の中で聴くとき、私の視覚と耳から入ってくる音楽は切り離すことができない。高校生の時は夕暮れを見ながらバンプを聴いて泣きそうになったり、村上龍の『歌うクジラ』は宇宙っぽい話だったからtofubeatsの『水星』をずっとリピートして聴いていた。だから今でも水星を聴けばタナカアキラやヨシマツさんのことを思い出す。結局のところと音楽は(どちらがどちらにどう作用しているかは置いておいて)視覚と密接に結びついているものなのだと思う。そもそも音楽を作る過程で音が可視化されているのだから、切り離すなんて無理なのだ。

自分で書いておきながらまとまりがないと感じるけれど、なんにせよ思っていることを文字にするのはめちゃくちゃ気持ちいい行為だ。自分の中にためておくと、それしか考えられなくなる。文字にすることで次に考えたいことが見つかるし、文字にしていくうちに頭の中で考えているだけでは思いつかなかった言葉が生まれる。これは私に限った話かもしれないけれど。自己満足、自慰行為的と思う人がいたとしても、私は私のために文字に起こすことを多分死ぬまでやっていくのだ。!だって自分のために生きてるし。

 

熱帯魚

今日、秋葉原のつけ麺屋で飲んだ水は冷たくておいしかったし、おいしい水ですって書いてあったの嘘じゃないんだなって感心したけど、横浜のカフェで出されたお冷は変な後味がして横浜市の水道水かどうかも疑うレベルで不味かった。

 

けどそんなクソ不味い水を飲みながら聞いた友だちの話は、その友だちから聞く話の中で3本の指に入るくらい幸福なものだったから、水の不味さが気にならなくなったと言ったら嘘になるけど、多少和らぎはしたように思う。

 

その友だちが恋人と電話をしていて、一人暮らしに何が必要かな?と聞かれ、友だちは熱帯魚、と思ったものの口にしなかった、のに、彼のほうが熱帯魚かな?と言って、同じこと考えてた、というエピソードをお風呂のなかで結構反芻した。

 

私も、前に好きだった人や友だちとそういう経験があるし、そのときのシンクロみたいなものって、内容がどんなにどうでもいいことでも単純に嬉しいものだと思う。

私が不思議に思うのは、そこに瞬間的な驚きは発生するけれど、意外とそのシンクロみたいなものが自分にとってしっくりくる事実であること。

わ、いままんまおんなじこと思ったよって言って笑い合うのに、どこかではそうなるような気がしていた、ような気もするのだ。

これはめちゃくちゃ感覚的なことだし、瞬間っていう単語が合っていないのかもしれない。

シンクロみたいなものと驚きが物凄く小さな差で発生するから、私の中で勝手にそうなるものだったのだと処理されてしまっているのかも。

きっとこれはシンクロみたいなものであってシンクロではない。広い選択肢の中から選んだ1つがたまたま相手と重なった偶然の誕生なのだと思う。意見が重なるのはめずらしいことじゃない。ただそれを、こちらが思っていてもあえて口にしなかったのに、相手に言われることで奇跡っぽさが生まれる。実際奇跡と言えないこともない。ただ私の中の奇跡の定義とは異なるけれどそんなの私以外の全員にとってどうでもいいこと。

 

ただ友だちが恋人とシンクロみたいになった言葉が、熱帯魚だったところにかなりセンスを感じる。一人暮らしに必要なのは熱帯魚だと思っていることが、ではなくて、文脈は無視して熱帯魚かな、がシンクロみたいになったことが。私が経験したことあるのはもっと抽象的だったり、具体的でも数字だったり、選択肢が3つくらいしかなくてその中のひとつだったりで、具体的かつ母数の多い中のひとつ、というのは記憶にない。あったらきっと覚えていると思う。

そしてバナナや椅子やクッションじゃなくて、熱帯魚。ぜったい必要ない。ふたりのセンスの一致かもしれない。けれどこのシンクロみたいな現象を、単にふたりの思考回路が似ているからで片付けてしまうのはもったいないし馬鹿っぽい気がする。

しかもこのシンクロみたいなものが起きるとき、相手のことは多分考えていない場合が多い。だからこそ驚きが発生する。お互いに相手だったらこう思うだろうな、という考えが無い状態で同じ答えが導き出されるところがロマンチックなのかもしれない。

さっき、不思議なのはちょっと驚くがしっくりくることだと言ったけれど、もしかしたら自分がこうだと考えているときに空白の予感が生まれるのかもしれない。空白の予感というのはいま考えた言葉だけれど、なんかあると思うけどなにがあんのかはわからん、みたいな漠然としているけれど小さな予感のことで、その空白が突如埋まったことに驚きはするものの、同時に埋まるべくして埋まったという感覚も得るからなんじゃなかろうか、、という迷想

 

とりあえず友だちが幸福であり続けますように。私は私で面白いことを探して生きていきたいです。

ふーんしかコメントできないでしょう

夢日記を書きたいと思ってから結構時間が経った。カルテットでも言ってたけど夢の話ってほんとにふーんしか言えない。へえとか。

それでも誰かに聞いてほしくなるほど変な夢を見ることがある。そして、ほんとに誰かに聞いてほしくて誰かに話すんだけど、まあふーんは免れても なにそれとか、すごいねとかになりがち。だから最初から一方通行を想定した文字にすることにした。アーンド自分はかなり口下手で、必要がないかぎりダラダラしゃべるタイプだし、文字にしてもそこそこダラダラするだろうけど文字にしたほうがテンションは読み手の方に委ねることができるし、しかもそもそも誰も読まない可能性の方が高い。

そうはわかってても目の前の空気みたいな、漠然とした他者っていうカテゴリーの人たちに向けて文字を発信したい、というより、誰かに話したいのにその誰かにぴったりな人や機会が周りにないのに、話さないことには消化されずに自分の中にぐにょぐにょ居続けられるのは、自分がそこで止まっちゃう感覚になってしまってどうにも気持ち悪い。

言い訳って最強にダラダラしやすい。

消化作業に入りたいと思います。

 

天才プログラマーのコラムに感化された私は、どういう経緯があってかスタートアップ企業のインターンに参加することになった。(どういう経緯なのかは夢なので端折られている。)(事業内容も同様に端折られている。)

私は圧倒的知識不足によってその先輩方に結構あからさまに邪魔者扱いを受けた。受けたというより、えぇこれもわかんないんだ?的な、言葉の抑揚としては優しいけれどプレッシャーをしっかり掛けてくるタイプの洗礼だった。あ、結構きついなー(>_<) 身のこなしからして世の中をかなりうまく渡っていけるタイプーそれもいやらしさやコネなどを排除して人柄と実力で道を切り開くーの男の人から、お前なんで来たんだよと思われている事実は覚えなければいけない目の前の知識よりもズッシリ来た。(ここには普段の自分にあるイケメン苦手意識と自分より賢い人へのルサンチマンがよく表れている)

こんなことではいけない、せめて勉強意欲があるということだけは知ってもらおうと、会社のUSBを持ち帰り自己学習をすることにした。(USBの内容も端折られている。)(このUSBの色形は紛れもなく伊勢丹新宿写真館のものと同じだった)

しかし、ここでうまくいかないのが人生、嫌なことが重なるのもまた人生で、私のMacにUSBを差した瞬間、何者かによってパソコンがハッキングされた…!

運命のいたずらは止まらず、私の持ち帰ったUSBは教育用ではなく社長が独自に入手した、裏側の世界の闇情報満載のとにかくヤバいヤツだった。私のアイフォンが鳴る。会社からだ。私は体の至る所に冷や汗が滲み出しているのを感じながら、心臓の鼓動が呼び出し音より大きくなる前に意を決して電話に出た。

「とにかくすぐにオフィスに来て」

こんなときでもオフィスっていうカタカナが出てくるのが不思議だな、と思った。社長は会社のことを緊急時でもオフィスと言えるくらい、普段からオフィスって言いまくってんだな、そういうことを考えることで自分を落ち着かせようとした。

会社に着くとあの先輩が私の顔を見るなりため息をついた。まあそういう対応は想定内だし、予想を裏切ってこないあたりまだまだだな、などとまたくだらないことを考え、先輩のため息を無視するクールな自分を形成していった。

社内には何人か警察の人がいて、社長はその人たちを相手にヒステリーを起こしていた。

「あそこにはマリアが上と繋がっている疑惑を晴らすための証拠があったのに!」

マリアは社長の元恋人だ。(夢なので設定が手に取るようにわかる)

私はこの会社の事業やビジョンに惹かれてインターンに参加したはずだった。しかしこの瞬間、社長はマリアを救うためだけに会社を立ち上げたと知り、そのマリアへの熱情に文字通りポカンとした。先輩もぽかんとしているようだった。

そのとき、携帯に先輩のブログ更新通知が来たので読もうとした。彼はjunという名前でネットと人の繋がりについて深く掘り下げるようなブログを書いていた。(ブログを読むようになった経緯も夢なので以下略)

タイトル『情報に対する人の倫理観』

これを見て読む気は失せた。要は私が情報を不用意に扱ったために多くの人に迷惑をかけたことを軸に、私にお前はバカだと言っているのだ。

マリアを救いたかったと泣き喚く社長と、俯瞰してこのオフィス笑を見渡すブロガーjunに私はうんざりした。もう天才プログラマーへの憧れの火はものすごい勢いの消化器によって黒い焦げ跡となってしまった。

「バカでごめんね♡」

ブログをドヤ顔で更新したであろうjunの顔を見ながら言った。そもそも、誰もが触れる場所にヘンテコ闇USBを置いた社長が悪いし、マリアのために会社まで立ち上げちゃった社長は結構うざい。マリアだってそういう社長が嫌で逃げたに違いない!

開き直った私はそれじゃあさようならUSBは一応返しますと言って会社を後にした。

しかしなぜかjunが追いかけてきた。その雰囲気はまるで少女漫画。junは開き直った私の反応が過去出会ったことない新鮮なものだったために私に惚れてしまったようだった。

これはすごい細やかな設定な夢だしかなり今っぽい、最後に甘酸っぱさを入れてきたところに自分の願望を感じてこれは今までになく守備範囲の広い夢だしなにかに書き留めたいかも、そう思ったときに目が覚めた。

 

ふーん へえ なにそれ すごいね

選択肢は四つあります、四つもあって良かったね!おわり