眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。
ーー寺田寅彦『柿の種』
写真を見るとき、たいてい目の前にその写真に写された風景はない。だから「窓」として写真を捉えるにせよ「鏡」として捉えるにせよ、写真の画面は目の前の風景と地続きではない。ただ、映画などほかのメディアとはことなって、目を閉じてしまえばその異世界体験は終わってしまう。そのことの不思議をひとは眠るときにもしばしば感じるだろう。目は閉じて意識が遠のいているのに、ありし日の記憶の断片で構成された夢をみたりするからだ。ただひとつ、写真はほんらい、見たくないときは見ずにすませられるものである。
ではこんな夢想もしてみたくなる。写真が世界の断片だとして、それらを全部集めたら世界がまるごと「見える」のか? と、ここまで大袈裟でなくとも、ある写真家が撮った写真と別の写真家が撮った写真はどう通じ合うのか、それらを総体として見ることで鑑賞はどう変わるのか。
上のような発想に至ったのは、鑑賞について考えているとき「間テクスト性」という文学の用語が頭をよぎったからだ。
(批評の文脈においては、構造主義の影響を受け、歴史的に異なる時代に属する文章であっても、それらは共時的に存在しているとみなす、その意味でーー引用者補足)作品ではなく、「織る」を語源とする「テクスト(テクスト性)」という語が用いられるようになり、批評の役割は、それぞれの(作品ではなく)文章があたかも織物(テキスタイル)のように相互に関係し合う様相、つまり「インターテクスト」性を記述することとなった。
あるテクストを読むとき、そこには過去の無数のテクストが織り込まれてあるようにして相互に関係しあっているのではないか。間テクスト性とは、そのような読解の態度である。じっさい無から文を生成する者はいない。AIですら何かしらの読書体験(情報摂取体験)を経てから書き始める。
このような立場に立ったとき、写真の場合はどうかと考える。断片である写真の「外」には現実の風景がひろがっている。時間も流れている。ひとつの参照点としてソンタグの言葉を借りよう。
一枚の写真は断片にすぎず、時間が経つにつれてそれをつなぐ綱は離れる。それはゆるやかで抽象的な過去性へと漂い流れて、どのような読みも(他の写真との組み合わせも)自由になる。(『写真論』p.93、1979年、晶文社)
文中の「それ」にはおそらく「自分」とか「記憶」といった言葉が代入されるだろう。総体として、現実の風景がなにか知覚し得ないほど巨大なものとしてあって、それの断片の切り貼りが写真をめぐる営みなのではないか。ソンタグの言う「抽象」とはほんとうは写真というジャンルにはそぐわない言葉だ。なぜなら写真は、具体的なものや光しか写せないからだが、時間が流れることによって、そこに写っていたものが誰のものなのかどこのものなのかわからなくなり、結果、「自由」になる。
写真に間テクスト性がありうるとすれば、それはフチの「外」の世界がつながっているという予想があるからだ。広大な世界を区切ってみればそれは断片としての写真となり、組み合わせてみれば総体としての世界となる。もちろんこれは思いつきの理念形にすぎないのだが、こうして写真に間テクスト性を導入することで、一枚の写真が、卓抜した写真家によって、単独で「創造」されるという見方を回避できるのではないかと思い至った。
逆にいえば、ごく単純に、写真を規定しているものとはフチである。写真家・大山顕は写真の原理を鋭く考え抜いた『新写真論』(2020年、ゲンロン叢書)で「フチのないものにサイズはない。(…)まず注目したいのは、人間の視界にはフチがないということだ」(p.94-95)と、人間の視界と写真のフレームについての相違を端的に述べている。
しかしそもそもなぜ絵画や映画、写真などの視覚芸術にはフチがあるのだろう。遠近法が発明されてからというもの、基本的にイメージとは四角い枠のことである。大山はつぎのように述べる。
要するに、動かず固定された片目で見た遠近法は、フチを設定しないと「不自然」に見えてしまうのだ。フチがないにもかかわらず肉眼の視界が「不自然」にならないのは、眼球、頭部、身体が絶えず動いているからだ。(p.96-97)
イメージが「不自然」になるかどうかは、鑑賞者側の動きに要因があったようだ。それに、肉眼の視界は動いているものをとらえ続ける。ソンタグは前掲書で「写真は時間の明解な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう」(p.28)とも述べていた。
もうすこし大山の議論を引き受けよう。今度は支持体についての話である。
そもそも、写真に触るようになったこと自体が衝撃的である。フィルム時代の写真は基本的にプリントしなければ見ることができず、そのプリントは決して触ってはいけないものだった。(…)しかし、今や写真は触れるものである。(前掲書p.204)
多くのひとがスマートフォンで写真を見る時代になった。もはやプリントされた写真を手に取ることもないだろう。そもそも、その表面は不可触な場所であった。そんな畏れ多い「表面」を、ひとはいま撫でまわしつまみ倒している。触ることと見ること。大山は本書の中で、「〈顔〉的知覚」(西兼志)という概念を紹介している。
〈顔〉的知覚とは、触れるものがそのままで触れられるものである触覚的なものである。別言すれば、視覚において触覚性を再現するのが〈顔〉的知覚なのだ。
(西兼志『〈顔〉のメディア論』p.19、2016年、法政大学出版局)
大山は「「触れる」と「触れられる」が同時に起こるのが触覚の特徴である。(…)しかし乳児が母親の顔を見るときの視覚は「見る」と「見られる」が区別しがたく、いわば触覚的だというのだ」(p.207)と西の議論の補足をしているのだが、乳児にとって、授乳をされるときの知覚は言ってみれば視覚-触覚相互的な感覚なのであろう。このような見る-触るの相互的な感覚に近いのが、スマートフォンの液晶画面なのだという指摘だ。ひとはスマホで写真を見るとき、すでに写真に触っている。
このような写真の形式への注意は内容をも変化させる、というのが本記事のつぎの論点なのだが、収拾がつかなくならないようにあくまで軽く触れるにとどめておく。
メディア論学者・石田英敬と思想家・東浩紀の共著『新記号論』(2019年、ゲンロン叢書)で石田は対談の補論として長い考察を書いている。石田による補論「4つの追伸 ハイパーコントロール社会について 文字学、資本主義、権力、そして自由」ではメディアの進化と人間の関わりあいについて多種多様にふれたあと、映像系メディアについてこう述べている。
じっさい写真や映画を見ればわかるように、ぼくたちが技術的無意識と呼んだ認知的ギャップを人間は文化的に「文法化」することで、新しい記号表現を生みだしてきた。新しいテクノロジー環境で、ある意味自分たちの無意識を乗りこなしてきたのである。(p.414)
たとえば、写真の静止性は肉眼には備わっていない。人間には見えない一瞬の像をカメラは固定化する。スポーツなどの連続写真は人間の肉眼ではとらえそこなった流れを逆手にとってぼくたちに見せているわけだが、これが「技術的無意識」である。「写真は見えない瞬間を撮ってしまうわけだが、そのことで、バルトがかれの現象学的写真論(『明るい部屋』ーー引用者補足)で語ったように、〈それ・は・あった〉という新しい時間性のカテゴリを生みだした」(同書p.414)。
メディア表現には、脳と神経のプロセス、技術的無意識とのゲーム、偶発的な創発の契機、技術の効果を再認して文法化する意識的な捉え返しの作業という、複雑で文化的な練り上げのプロセスが関与している。意識を逃れている偶発的要素を取り込んで、新たな「期待の地平」が生みだされる。そこに「カメラを持ったひと」の「自由」が成立するのだ。(同書p.415)
と、「期待の地平」というフレーズが出てきた。石田が言っているのは技術を逆手に取った新しい表現のことだろうが、別のところで、文学研究者・石原千秋も写真をめぐって「期待の地平」について語っている。まずはこの語の意味するところを押さえておく。
小説を読むとき、読者はさまざまな期待を持ち、予測を立てながら読んでいく。小説がそれらとどう関わるかということである。「期待の地平」(ヤウスーー引用者)通りに終わったとすれば、その小説は読者に新しい何かをもたらさなかったことになる。一方、「期待の地平」が裏切られたとするなら、その小説は読者に新しい何かをもたらしたことになる。
(石原千秋『読者はどこにいるのか』p.93、2009年、河出ブックス)
「期待の地平」とはごくかんたんに、読者が想定する読後感のことだ。期待値といってもいいかもしれない。おそらく音楽でも映画でも演劇でも適用可能な概念だろう。つぎにユージン・スミスの水俣病患者の写真の構図について石原は例を挙げる。
アメリカの比較文学研究者ロバート・スコールズは、「期待の地平」が残酷なまでに機能する例を挙げている。日本で起きた公害、水俣病を撮り続けた写真家ユージン・スミスに「入浴中のトモコ」という写真がある。限りない愛の表情を顔にたたえた母親が、水俣病患者の「トモコ」を浴槽に横たえながら抱きかかえて入浴させている写真である。水俣病を世界に知らしめた写真の中の一枚である。スコールズは、この一枚の写真についてこう言っている。
この場合においてスミスは、自分が何を求めているのかをあらかじめ知っていたのだと私は考える。彼は我々の文化史全体の中でイメージと概念が最も根強く、精緻に結合しているものーー図像法とコード、ピエターーを知っていたのだ。処刑された我が子の傷ついた身体を腕に抱く悲しみの聖母マリアのイメージ。彼が「写真の自己構築」と感じたものは、実は母と子の身体が、このすでにコード化されたイコンに近づいていくプロセスだったのである(『読みのプロトコル』高井宏子ほか訳、岩波書店、1991)(p.94)
写真には絵画という先達がいる。膨大なイメージ、それも人々に深く共有されたものであれば構図ひとつでメッセージを伝えることができる。引用が多くなってしまうが、最初のソンタグの『写真論』では写真に固有の語彙が少ないことをつぎのようにまとめている。
写真が一般に評価されるときの言葉はきわめて貧弱である。構図、明るい部分など、絵画の語彙に寄生していることもある。写真がうまいとかおもしろい、力がある、複雑だ、単純だ、あるいはーー好んでいわれるーーうそのように単純だといって誉められるときのように、およそ漠然とした類いの判断からなることの方が多い。
言葉が貧しい理由は偶然ではない。つまり、写真批評の豊かな伝統がないということである。それは写真を芸術と見るとき、いつも写真自体に備わっているなにかである。写真は(少なくとも伝統的に考えられた)絵画とはまったくちがった想像力の過程と、趣味への訴えを提案する。(前掲書p.171)
「期待の地平」とはそのジャンルの鑑賞者が培ってきた語彙のことでもある。スミスはキリスト教圏の視点からある伝統的な構図を繰り出し、絵画の語彙を鑑賞者に喚起させた。しかしソンタグによれば、おそらくそれは写真にとっては「貧しい」ことなのだろう。
ここで結論に明確なかたちを与えることはできないのだが、写真を見るときの語彙が、絵画だけに頼ってしまっていては『写真論』が日本語訳された79年の時点から何も進歩がないと言われても、反論ができない。最低限慎みたいのは、美しい画面を見たとき、「絵画みたい」と漏らしてしまうことだ。それでは絵画のような写真を志向する「ピクトリアリズム」の流行った150年前に逆戻りではないか。
では、写真を見て驚くとはどのようなことか。ひとつには、バルトの言葉に戻ってしまうが、「それ」が「あった」ということであろう。おそらくそれを突き詰めるにせよ、逆手に取るにせよ、すぐれた写真とは存在の〈顔〉を時間からはぎ取ったものである。こう感覚的にしか断言できないが、この予測が大きくは外れていないことに期待をこめて、「見る」ときの思考のスケッチを終えよう。