人は広告にだまされたがっている、と仮定してみる。

広告制作の現場ではよく「広告は読まれないもの」だと意識するように言われる。広告は好んで読まれない、だからこそ読ませる必要がある、と。それはある意味正しくて、ある意味間違っているとも言える。

広告はそもそも読まれないものではあるのだが、実は意外と読まれているように思う。そして僕らはそれを、あくまでも「広告である」と理解した上で読んでいる。広告は、それが広告だと認識された時点で、ある意味「読む人を都合のいいようにだまそうとしているもの」だと認識されていると考えていいだろう。

それにも関わらず、広告は、本やテレビやニュース記事や映画やアニメや漫画や、あらゆるコンテンツと同じカテゴリーにあるものだと捉えられているように思える。そしてそれらコンテンツと同様の価値基準で、読むべきか否か判断されている。

つまり、多くの人が「広告が自分をだまそうとしている」ことを理解しながらも、その広告を「コンテンツとして楽しめるものかどうか」という基準で読むべきか否か判断しているのだ。 

だからこそ、広告制作者は「広告は読まれないもの」という前提にたって広告づくりを行うよりも、「広告だろうと、面白ければ受け入れてもらえる」という前提にたったほうがいいのではないかと思う。言い換えれば、「たとえだましていることがバレていたとしても、楽しませたら許してもらえる」ということだ。

「そもそも読まれないものを何とか読ませよう」として作るのと、「積極的にだまされたいと思えるものを作ろう」として作るのとでは、出てくるアウトプットはわりと大きく違ってくるような気がする。