かいしゃの話。

久々に、出社する日が続いた。帰りの電車が手持ち無沙汰で、くだらない考えごと。
 
今度関わることになるかもしれないマネージャーが、部下の労働時間を分単位でみっちり管理する人らしいという話を耳にして、ゾッとした、ということについて。
 
なぜゾッとしたのかを考えた。
 
多分、細かく管理していること自体が怖いというよりも、細かく管理することに意味を見出してしまっていることに対して、怖いと感じた。
 
まず前提として、部下の労働時間を正確に正確に記録して欲しいと思っているのは、人事部。なぜなら、正確な労務管理を通じて、法律(と従業員の健康)を守ることが、人事部のミッションだから。そしてそれは、会社組織が掲げているミッションでもある。
 
一方で、現場でクライアントワークをしているマネージャーがしたい(はずの)ことは、お客さんに価値を提供して、その対価をもらうこと。部下の労働時間を厳密に管理することに工数を割いたところで、お客さんにとっては何の価値にもならない。サイゼリヤに行っていくらミラノ風ドリアを注文しても「このドリアからは、従業員の着替え時間まで厳密に管理して賃金を出している味がするぞ、美味い!」とはならないのと同じ(実際、着替え時間の賃金は特に払ってはいない)。
 
つまり、会社組織がしたいことと、現場がしたいことは、はなから矛盾している。両者が同時に完璧な達成をみることは、多分ない。
 
そして、今のご時世のマネージャーが直面しているのは、この矛盾した問いとどう向き合い、自分なりの答えを出すか、ということなんじゃないか。
 
たいていの人は、ある程度組織のルールには従いつつ、程よいラインを部下と一緒に探る。
 
一方で、杓子定規に部下の労働時間を分単位で管理している、彼。
きっと彼は、その矛盾の存在にすら気づけていないんじゃないか。
 
その可能性に、ゾッとしたのかもしれない。
部下の労働時間を分単位で管理しているというだけで、言い過ぎじゃないかという気もするけど、ひとまずそういうことにしておく。
 
 

とまあ、あれこれ考えてはみたものの。

単に細かく管理されるのが嫌なだけ、というのが、きっと本当の答え。

晴れ、時々懐古

天気の良い日は、いつもより前向きな気持ちになる。

それでもやっぱり、少しは後ろを振り返る。

 

思い出は劇薬。振り返る時は慎重に。

------

石川達三『青春の蹉跌』書評

 まず書評を書くにあたって、この文脈で求められている書評とは何か、ということを考えなければならない。一般的な意味での書評とは、書物の内容を解説しながら批評を与える文芸評論の一形式のことである。それゆえ客観的な、また批判的な視点で書かれることも少なくない。

 今から私が綴ろうとしているのは、感銘を受けた本の書評である。折角なので、なぜ感銘を受けたのかも説明しようと思う。そうでなければ、全く時間の無駄であった悪書の書評を書くことと、何ら変わりのない結果になってしまう。それではつまらない。

 さて、感銘を受けるとは何か。それは、忘れられないほどの深い感動によって、自身の思考や感性が更新されることであると、私は考えている。しかし、万人に支持される政治家が存在しないように、万人に感銘を与える本もまた存在しない。従って、いかなる人間がいかなる状況下でその本と出会い、感銘を受けたのかを、読者には知ってもらう必要がある。以上の理由から、まずは私の身の上話から始めたい。

 私は、ただ文科二類の学生だからという理由で経済学部に進学した。そこに学問への意欲や期待といったものはほとんどなく、生きる上で無難な道を選択したに過ぎなかった。東大の経済学部を卒業すれば、それなりに名の知れた企業に就職することができよう。それは私に安定した収入をもたらし、そしてその収入は私と私の家族に一定の幸福を与えてくれるに違いない。そう思った。これは極めて打算的な論理であった。周囲の学友たちも近しい理由で経済学部への進学を決めていたから、その選択について疑問を抱くことはなかった。

しかし経済学部への進学が「無事に」決定した後、他の学部の友人たちが各々の学術的な関心や将来への野心から自分の進路を吟味、決定し、そして「ついにここまで辿り着いたのだ」と目を輝かせる様を目の当たりにし、ようやく私は自分の生き方のつまらなさ、愚かさに気付かされ、そして後戻りできないことに嘆き、落胆した。

 私は本当に経済学を学びたかったのだろうか。勿論、前期教養学部で履修した経済学の講義はそれなりに興味深く、僅かに持ち合わせていた私の知的好奇心を満たしてくれた。しかし、他にもっと自分にふさわしい選択肢があったのではないか。もっと深く吟味するべきではなかったか。どうして立ち止まって考えなかったのか。いくら思い悩んだところで今更どうしようもないのだから、諦めるしかない。そう思った。私の歩む人生を、人々はきっと輝かしいものとして理解するであろう。それで十分ではないか。私は努めてそう信じようとした。

 二年の夏休み、私はとにかく酷い虚脱感と自己嫌悪に悩まされた。なんとなく大学を卒業し、どこかしらの企業に訳もなく就職し、何十年とあくせく働かされ、気が付けば棺桶に押し込まれているといった人生の一体どこに、興趣があるというのだろうか。生きる喜びがあるというのだろうか。私は自らの将来に希望を見い出せず、残された二年間の大学生活をどう過ごしていけばいいのか分からなくなり、自宅や図書館での惰眠、或いは時給千円のアルバイトで、貴重な資源である時間というものを空費するようになった。当然学問に身が入るわけもなく(これは詭弁であるかもしれない)、二年の九月から始まった経済学部の講義にはほとんど顔を出さなくなり、そして春にはみっともない成績がついた。

 しかし私とて、講義に出席していなかった間、何もしていなかったというわけではない。アルバイトやサークル活動の傍ら、実に多くの本を手に取った。元々読書など滅多にしない私は、かねてから読みたいと思っていた本があるわけでもなく、書店の新刊コーナーに平積みされているような大衆小説をただ漫然と手に取った。しかし、やがて文学性の高いものに関心を抱くようになり、夏目漱石太宰治三島由紀夫川端康成といった日本を代表する文豪たちの作品から、ランボー、フランシス・ジャムといったフランス詩人の作品集に至るまで、様々なジャンルのものを手に取るようになった。

 村上春樹の『ノルウェイの森』には、東大法学部に通うエリート青年である永沢という男が登場する。彼は死後三十年を経ていない作家の作品を読まないことを信条として掲げている。彼はこう言った。

現代文学を信用しないというわけじゃない。ただ俺は時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄にしたくないんだ。人生は短い」(村上春樹ノルウェイの森』より)

 なるほど。確かに理に適った考えだ。私の持て余している時間が貴重なものであるかは少々疑問の余地があるが、どのみち残すところ二年しかない学生生活だ。自由に使える時間は想像以上に少ない。そういった理由から、正月から三月の終わりにかけて、私は試験勉強もほっぽり出して、あまり今日性のあるとは言えない作家たちが残した古い作品を多く読むことになった。

 本音を言えば、推すべき作品は山のようにあるのだが、求められている書評は一冊分のみである。従って、酷い虚脱感に襲われていたあの時期に出会った本の中で、私に最も深い感銘を与えてくれた一作品を、今回紹介したいと思う。

 それは石川達三の『青春の蹉跌』(1968)である。石川達三といえば、1938年に発表した『生きてゐる兵隊』が即日発禁になったことは、文学史に明るくない者でも御存知であろう。彼は社会的問題意識を強く打ち出した作品や社会派の風俗小説を多く書き残しているが、今回紹介する『青春の蹉跌』は、それらとは一味二味違っていた。この小説は、安保闘争期の殺伐とした時代を舞台に、立身栄達を画策する若き貧しい青年の人生の挫折を描いた物語である。まずはその大略を大まかに紹介したい。ネタばらしも多分に含んでいるが、物語の結末を知ってしまった程度で、この作品を読む価値は少しも損なわれないであろうと、私は確信している。それが良書というものだ(シェイクスピアの戯曲が、結末を知っているからといって、もはや鑑賞に値しないと考える人間はいないだろう)。

 裕福な伯父から学資を貰いながら一流私大の法学部に通う貧乏学生の江藤賢一郎は、慎ましい母と二人、ぎりぎりの生活を強いられていた。江藤は容姿に自信があり、健康に恵まれ、学業成績も優秀であった。ただ貧しさだけが、彼と社会とを敵対させていた。彼は実現性のない共産主義革命を画策する仲間たちとは距離を置き、まずは今ある資本主義社会で十分な地位を築くことを目指した。彼は革命など起きるはずがないと知っていた。彼は、今ある社会において高い地位を得た者のみが、自らの理想を掲げ社会を改革することができるのだという、一見現実主義でありながらも極めて野心的な考えを抱いていた。彼はその野心のために、法律の勉強に勤しんだ。司法試験に合格し、立身栄達の道を歩むというのが、彼の思い描く未来であった。そして生きる希望でもあった。それは資本主義社会を憎む彼にとって、貧しい生活からの唯一の脱却方法だった。

 法律の勉強に勤しむ傍ら、以前の家庭教師の教え子である大橋登美子という女と、江藤は愛人関係にあった。しかし江藤は将来法学士となって社会的地位を築くであろう自分にとって、大橋登美子という何も持たない貧しい女は結婚相手に相応しくないと考えていた。それゆえ近い将来別れなければならないと考える一方で、若い女の持つ肉体的な悦びを享受させてくれる彼女を、彼は手放すことができずにいた。また大橋登美子も、貧しい生活や娘を愛さない父とその妾に嫌気がさしており、江藤に救いを求めた。それ故、彼のエゴイスティックな要求にも黙って応じるのだった。

 司法試験を着々と突破していく江藤には、伯父の娘である江藤康子との縁談があり、それは打算的に将来の地位を画策する江藤にとって、この上なく美味しい話であった。裕福な伯父の娘康子との結婚は、この資本主義社会で立派な地位を築いていく上で重要な足掛かりとなるはずであった。しかし、江藤はこの期に及んでも大橋登美子を手放すことができず、愛欲を満たしてくれる存在として彼女を利用し続けた。

 無事司法試験に合格して康子との婚約が決まった江藤だったが、彼の人生計画は、あることをきっかけに崩れ始める。江藤は大橋登美子から、「妊娠した」との報告を受けるのだった。彼は今すぐ堕胎するようにと迫るが、登美子は産みたいと言い張り、さらには結婚を約束させようとまでする。そうやって時間を取られているうちに、赤ん坊は堕胎不可能なほどに成長してしまう。大橋登美子とその赤ん坊の存在が自身の人生計画を狂わせることを危惧した江藤は、彼女を箱根旅行に誘い出し、その山中で彼女を殺害する。

 あらゆるアリバイを用意していた江藤だったが、警察の捜査から逃れることはできず、逮捕され、刑事の尋問を受けることになる。描いていた未来が崩れた江藤は、暗い独房の中で大橋登美子と結婚した未来に思いを馳せるのだった。もしそうしていれば、彼は貧しいながらも幸福な人生を送ることができたかもしれない。康子は打算的な理由から江藤賢一郎を愛したが、大橋登美子は純粋な気持ちから彼を愛していた。しかしもう大橋登美子はこの世にはいない。何もかもが壊れてしまったのだ。自身の生涯の破綻を嘆く江藤賢一郎。彼は一体、どこで何を誤ってしまったのだろうか……

 この作品の特徴は、小説的描写(人物描写や風景描写)が最小限に抑えられており、文章の大部分が登場人物の独白に終始しているという点にある。特に主人公である江藤賢一郎の思考は、自身の立身栄達のためのエゴイズムに基づき極めて打算的、論理的に展開されていく。法律を武器として自らの考えや行いを正当化しながら未来を画策した彼は、最後の最後、野心の完遂まであと一歩というところで殺人犯となり、それまで出世栄達のための武器として心得ていたはずの法律に牙を剥かれるのである。

 読後、私はネット上にある『青春の蹉跌』の読者レビューにいくらか目を通したが、どうやら少なくない数の人間がこの作品に対して否定的な感想を抱いているようである。特に多く見られた批判は、登場人物の殆ど全員が徹底的なエゴイストであるためにいまいち共感できず、嫌悪感すら覚えた、というものである。また他にも、ジェンダーの観点からの批判も見られた。確かにこの作品の背景には男女の古い在り方が深く浸み込んでおり、現代社会におけるジェンダー思想にそぐわない部分も多い。しかしそうはいっても、現代の新しい思潮をもって過去の作品を批判するのはあまりにナンセンスであるので、その点は十分理解した上で作品を鑑賞するべきである。

 しかし、『青春の蹉跌』は賛否両論の問題作であるが故に、私自身もこの作品を手放しに称賛することはできない。というのも、本来強く非難されるべき殺人という行為、それもあまりにエゴイスティックな理由による殺人が、作中においては「論理的な殺人」としてほとんど肯定されてしまっているからだ。倫理や道徳の観点から評価すれば、最低の文学ということになる。本稿の冒頭において、万人受けする本は存在しないと断りを入れたのは、このためである。

 この作品の恐ろしさは、主人公の思考が極めて論理的に展開されているが故、大橋登美子を殺害しなければならないという狂人的な結論が、至極真っ当なものであるように感じられてしまう点にある。江藤賢一郎は、もはやそうするしかなかったのだ。江藤自身も自身のエゴイズムを理解しており、そのため大橋登美子を殺害することを多少は躊躇っていた。殺害計画を実行する算段になって、彼は随分二の足を踏んでいる。しかし、立身栄達の道を行くには、自身のエゴイズムを貫き通し、彼女を殺してしまう他に、選択の余地はなかった。

 果たして、エゴイズムを貫くことは悪なのだろうか。もし、悪だと断言する読者がいるならば、それはただの偽善に過ぎないと私は考える。殺人という極端に非道な行為には至らずとも、他人の被る不利益を顧みないことによって自身の利益を守ろうとした経験は、誰にだってあるだろう。このおぞましいアナロジーに気付いた時、我々読者は、この作品に仕込まれた猛毒をこれでもかというほど浴びることになる。

 物語の終盤、大橋登美子の妊娠が発覚した後、江藤賢一郎は堕胎のための資金繰りに奔走する。しかし貧乏学生である彼に、その資金を用意することはついぞできなかった。一方、伯父の懐には、何百万円といった大金ですら取るに足らないという程のお金がある。江藤賢一郎は、それを手にすることはできない。なんと歯がゆいことだろう。世の中の至る所にお金は山ほど存在するというのに、彼はそれを一銭たりとも享受することはできないのだ。彼は自身の破滅の原因の一つとして、金の不足、つまり貧しさを挙げている。資本主義社会で十分な地位を築くことで社会を改革していこうという野心を抱いていた彼だが、結局は金に躓いてしまった。金さえあったならば、大橋登美子を殺す必要もなかったかもしれない。この論理によって、この作品は何を読者に訴えようとしたのだろうか。そこには極めて深い示唆が隠されているように、私には思えてならない。

 また、この物語には江藤賢一郎の従兄である小野精二郎という男が登場する。彼は秀才であったが恋愛に溺れて学生結婚をしてしまったが故に、司法試験にも受からず、貧しい生活を強いられ、最後は法学士になるという夢を諦めて青森に移住し、高校の教師として生きていくことを決める。彼は、富貴栄達以外にも幸福な人生はあるということに気が付いたという旨の手紙を江藤に送るが、江藤はそれを最後まで読むことなく破り捨てた。社会に対しある種の復讐を熱望する江藤にとって、小野精二郎が青森で見出したらしい幸せは、負け犬の遠吠えとしか思えなかったのだ。どうして江藤は小野の幸せを受け入れることができなかったのだろうか。読者の多くは、金や名誉以外にも私たちを幸せにしてくれるものはたくさんあると知っているだろう。しかし、忘れないでほしい。江藤賢一郎は、伯父の支援がなければやっていけない程の、貧乏学生なのだ。貧しい人間は、常に切羽詰まった生活を強いられる。どっしりと広い視野を持って物事を考える余裕など、どこにもない。明日を生きるために、何としてでも歩き続けなければならないのだから。富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる。金銭的な貧しさは、心の貧しさにも繋がる。これは資本主義社会を生きる私たちに与えられた悲しき運命だ。人間の幸せは、そんなもので、決まってしまうのだろうか……

 大橋登美子を殺害した後の場面で、江藤賢一郎は近所の火事を目撃することになる。そこには、命からがら逃げ出してきた若い夫婦がいた。コツコツと積み上げてきた財産が、一瞬にして灰となった瞬間であった。焼ける我が家を見つめながら、赤ん坊を抱えた夫は、悲観する妻に向かってこう言うのである。

「泣くな」「焼けたものは仕様がないじゃないか。またやり直すんだ」

 家族への純粋で美しい愛。妻子に己の全てを捧げるという揺るがない決意。この純愛に満ちた夫婦は、エゴイズムに満ちた現代社会にひとつの希望を見出させてくれる。

 ここまで書けば、なぜ私がこの小説に感銘を受けたのか、おおよそ見当がつく者もいるかもしれない。私を含め東大生という属性を持つ人々は、少なからず、親族や知人、そして社会から、ある種の期待を抱かれている。東大卒でありながら「下等な」職業に就くことは、嘲笑の対象である。社会を先導する者として生きていくことが、事実上要求されている。しかしその期待に沿うべく奔走しているうちに、人の道を踏み外すことはないだろうか。例えそうはならなくとも、我々は幸福な人生を送ることができるのだろうか。そもそも、幸福な人生とは何か。二十歳になったばかりの私がどんなに頭を悩ませてみたところで、全く見当がつかない。しかしこの問いと向き合うことこそが、生きるということの喜びであるかもしれない。

 書評というより読書感想文といった体裁になってしまったが、ひとつ伝え忘れていることがあった。実はこの作品は、最後の数ページで衝撃の事実が明かされる。司法解剖の結果、大橋登美子が身籠っていた赤ん坊は、江藤賢一郎の子どもではあり得ない血液型であることが判明したのだ。彼女が孕んでいた赤ん坊は、彼の子どもではなかった! 彼女は江藤以外の男とも密かに肉体関係を持っており、おそらくその男は彼女が妊娠したことを知るとさっと身を引いたのであろう。なんともずるい男である。そこで彼女は江藤賢一郎に結婚を迫ることで、自分の未来を画策したのだ。なんと打算的で狡猾なことか! 江藤の殺人は、全くの無意味であった。純情を装って自分を利用しようとした彼女を、江藤は何度でも殺してやりたいと考えた。失意と怒りのあまり、江藤賢一郎は、暗い独房の冷たい床に頭を打ち付けながら、泣き叫ぶのであった。

 江藤が泣き叫ぶ間、私もまた泣いていた。それは、彼の人生の蹉跌への同情によるものではない。私がこれから先、何十年と生きていかなければならない現代社会。その奥深くに毒蛇の如く息を潜めている絶望的な病理に、打ちのめされたのである。

2018.4.12 

近況

あけましておめでとうございます。

今までのこととこれからのことを、ここに少しだけ書き留めておきます。

 

その一。留年します。

理由はいくつかあります。20卒で内定をもらえなかったことも理由の一つですし、まだもう少し学生でいたいというのもまた理由の一つです。ようするに、物は言いよう。

まあそんなことはどうでもいいです。卒業する人もしない人も、働く人も入院する人も、今まで通り仲良くしてください。

 

その二。内々定をもらうことができました。

20卒として就活を始めたのは昨年2月頃。6月に全落ちして、7月頃からはしれっと21卒として就活をしていました。まだ目のキラキラした学部3年生や院1年生に混ざって面接を受けたりインターンに参加したりしているうちに、なんとか内々定をもらえた形です。お疲れ、俺。

 

その三。中国語がたのしい。

昨年の夏頃から始めて、今ものんびり続けています。中国語がたのしい理由はたくさんありますが、あえて一つを挙げるとするならば、「僕の知らない東京と出会えた」です。いや、どういう意味だ?

てか英語やれし。

 

まあどうせ暇だし、今年中にはHSK6級と中検2級に挑戦したい(合格点を取るとは言っていない)。

 

おまけ。取り留めのないひとりごと。

ちょっと長引いた就活を通じて、ひとつの小さな気づきがあった。それは、僕は今まで、自分をどのように切り取るか、あるいは切り取られるかばかりを考えてきたけれど、もしかしたら本当に大切なのは、どのように自分を「切り取らせるか」なのかもしれないということ。

苦手だなあ、そういうの。ちょっとずつ頑張ろう。