塩の量を変えてパンの生地を作ってみた。
- 中力粉 …… 100g
- 水 …… 70g
- 塩 …… 0g、2g
- ドライイースト …… 2g
スコーンの油脂の量を変えて焼いてみた。
- 薄力粉 …… 100g
- ベーキングパウダー …… 5g
- 砂糖 …… 10g
- バター …… 0g、50g
- 牛乳 …… 40g
スコーンの砂糖の量を変えて焼いてみた。
- 薄力粉 …… 100g
- ベーキングパウダー …… 5g
- 砂糖 …… 30g、0g
- バター …… 20g
- 牛乳 …… 60g (40gの予定だったのに入れすぎた)
スコーンの水分量を変えて焼いてみた。
- 薄力粉 ...... 100g
- ベーキングパウダー ...... 5g
- 砂糖 ...... 10g
- バター ...... 20g
- 牛乳 ...... 40g、70g
英語と日本語、主体と客体の話
英語では必ず主体が客体より前に来る。
しかし、日本語であれば「母が私の髪を切った」でも「母に私の髪を切られた」でも語順は同じ。接続詞だけで主体と客体が入れ替わる。
英語であれば「母が私の髪を切った」と「私の髪が母に切られた」の語順でしか文章が成立しないので、接続詞でなく語順を含めた文章の構成を変えなければならない。
この違いが日本人の英語学習を妨げていることも考えられる。わざわざ語順を入れ替えるということに慣れていないのだ。
ということは、逆に語順はそのままで能動態と受動態を入れ替えた方が日本人には自然に扱えるのかもしれない。「私の髪が母に切られた」は「母が私の髪を切った」に変える。意味を伝えるだけならわざわざ受動態を維持する必要はないし、主体と客体を入れ替えて能動態にすればいい。
教育
制限は常に自らの力によってのみ課すべきだ。
自分でその制限を解錠できるように、鍵を渡してやらなければならない。他人の力で抑えこんではならない。
なにかを「育てる」のは、それが「強くなる」ことであり、それは「選べるようになる」ことでもある。制限することではない。
支配や介入による教育の問題点は、それが邪魔になって動きが制限されることだ。動きを邪魔しないように支援することしか許されない。
「貴族」
『善悪の彼岸』を読み終えたので「貴族」について。
ニーチェの著書でよく出てくる「貴族」とか「高貴さ」について、『善悪の彼岸』でも触れられている。そこにはだいたい「無私」や「厳格さ」が重要であることが述べられていて、意外と普通の道徳に近い。
でもたぶん、「誇り」を守るためにはこの「厳格さ」が必要で、そのためには「無私」を徹底する必要があるのだ。たとえば、誰も見ていない、車も通っていない、見晴らしのいい交差点で信号を守るような、そういう、状況にかかわらず自分の決めたルールを守る行為。
そもそも一般的にルールを守るのは自分のためだ。刑務所の外の自由とか、社会から得る利益とかを逃さないために、責任を持つ。信頼を得る。だからこそ状況が変われば行動も変わる。状況にかかわらず自分の決めたルールを守るのはこの「利益を得るための行動」とは一線を画している。
もしかしたらルールは何でもいいのかもしれない。ルールを決めて、それを厳格に守ること。自分を状況に合わせるのでなく、状況を自分に合わせるために?「支配する」ために?