無意識日記々

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何故今バッハ?


さて、では何故ヒカルは「今になって」JSバッハに“出会った”のか。この点についてつらつらと考えてみたい。



まずひとつは、ヒカルが人間活動を通じて自立心と自活力を育んだことだ。今まで何度か語られてきたように、ロンドンに移住するに際して生活基盤を自分で整えた経験から、異国の地であっても自力で生活していく自信を持つに至った。銀行口座開設や電話契約、ライフラインの設置など、いわば“家”を自ら用意出来る人間になったのだ。


JSバッハはしばしば「音楽の父」と呼ばれる。彼の四桁にも及ぶ多様な作品群が様々なジャンルの音楽の源流となった為だが、「音楽の母」とは呼ばれない。それは勿論彼が男性だったからだけれども、それ以上に、彼の厳格で規律正しい性格がイメージとして先にあるのだと思われる。前時代的な言い方をすれば、彼は典型的な家父長としての人格を有する人物だったわけだ。一家の大黒柱として、周囲の人間や後継に依って立たれるような、王とか父とか言われる立場の人間だった。ここらへん、天才的な閃きで次々と煌びやかな循環を生み出していくアマデウスモーツァルトなんかの王子様気質とは一線を画する。


JSバッハの厳格な性格を反映して、彼の書く音楽もまた、非常に規律正しい性格のものが多い。種々の協奏曲は数学的とまで言われる程に全ての音が計算し尽くされ厳密なロジックに基づいて配置されている為、あらゆる音符が有機的な意味を持つ非常にスケールの大きい音楽として成立している。その立体的な威容と細部の緻密さはまるで建築物のようだ。


昨今のヒカルは、そういった彼の幾何学的な構造と性格を持った作品群に対して、昔に比べて好意的となっているのかもしれない。16歳の頃は数学大嫌いとか言って憚らなかったくせに、今や25周年ときいて「5の2乗だし、並べると正方形になるし」とかなんとか計算や幾何学の比喩をもってその“数としての区切りの良さ”を強調したりしている。他にも、非常に数学的な側面の強い量子力学について何度も言及してたりね。幼い頃からヒカルは科学全般に対して非常に好意的であったが、近年特に幾何学的・数学的なファクターについての理解が深まっているように感じられる。



以上、2点だ。ひとつは、バッハの厳格で家父長的な性格に昔より共感できるようになったこと。もうひとつは、バッハの幾何学的・数学的な側面にも魅了されるような嗜好の変化があったこと。どちらもこちらの勝手な妄想/推量に過ぎないが、何となく合点がいく気がするのは私だけではあるまいて。

Fallen in love with JS Bach, now !


今回のヒカルのテレビ出演は多数に及んだこともあって、どれも欠かさずチェックしてる向きにとっては同じ内容の質問が繰り返されていたり、また今までずっとインタビューやインスタライブなども観てきた人にとっては既知の話も結構あった。こういう事態に関しても、これも複数の場面でヒカルが答えていたフレーズ、「出会った時が新譜」の精神で向かいたいところだ。


ここで大事なのは“その人にとっては”なのである。所属するコミュニティや社会の機能の一端を担ってお金を稼ぐ職能のために必須な知識などとは異なり、私達はほぼ全員が趣味として音楽家のアウトプットを享受しているのだから、「社会やコミュニティの中での新しさ」に気を遣う必要は全く無い。勿論、そのコミュニティの中で情報通でありたいなどの願望があるのなら率先して新情報を収集してくれればよいし、それも趣味の中での嗜好選択のひとつだ。“その人にとって”新しいなら新しいのだ。いつリリースされていようが、出会ったその日があなたにとっての発売日なのよ。


今回はヒカルがバッハについてそんな風に語っていたわよね。もしヒカルがコテコテのクラシック(西洋古典音楽)の音楽家であれば、平均律クラヴィアを作曲した史上最も偉大なる作曲家の偉業を評価していなかったのは怠慢だとか何とか謗られるのかもしれないが、J-popのフィールドのミュージシャンとして認知されているのでその必要は、これも全く無いだろう。


今回ヒカルは「初めてバッハと出会った」と言っていい。だがどちらかといえばこれは「友達だと思っていた人に、ある日突然恋に落ちた」というシチュエーションに近いかもしれない。名前も顔も仕事ぶりも一応知ってたけれど、今回改めてその魅力に気づきましたとでもいうべきか。「気づいた時が一目惚れ」ですかね。


それに関して『何色でもない花』が「バッハ×トラップ×R&B」だとヒカル自身が言っていたのを聞いて、「迂闊だった」と私が後悔した事はここに記しておきたい。うわぁ、ほんまやまんまやね冒頭のピアノの入り方。全然気づいてなかったわ。


バッハのメロディをポピュラーミュージックで引用する例は沢山ある。私が好きなのはイングヴェイ・マルムスティーンの"Prisoner Of Your Love"(1994)という、ここの読者なら「なんか紛らわしいタイトルだな!」と感じる事請け合いのバラードだったりするのだけれど、ヒカルの『何色でもない花』に関しては別に引用という事ではなく「ほんのりバッハ風」という程度の話だ。最も、西洋の平均律を使うとどこかバッハに通じるポイントができてしまうと言いたくなるくらい、バッハはオーソドックスでトラディショナルなのだが。いや、まぁそれは余談なんだけど。


それより面白かったのは、あれだけ様々な概念やフィーリングを言語化するのに長けているヒカルが、バッハの曲調についてはちゃんと言葉に出来ておらずジェスチャーを交えて必死に伝えようとしていた点。実際にはバッハの音楽というのは非常にロジカルで、「これを何もないとこから思いつくのは信じられないほど難しいが、ひとたび形になればその魅力の要点について語るのは容易い。」というタイプの音楽であり、その美点は数学的とも幾何学的とも呼ばれ、特に楽譜の美しさに関しては他の追随を許さないのだけれど、そういう視覚的に捉えやすい魅力をヒカルが捉え切れていない、というのは、今後に向けてかなり示唆的な側面が垣間見れて嬉しくなった。ヒカルについて既知の話を聞くのも楽しいけれど、「ヒカル自身にとっても未知の話」を聞けるのは、もっともっと楽しい事なのでありましたとさ。

君と僕の(地上の?)もつれ話


てことでこの日記もひとやすみモードでまったりいくかなぁ、さて何について書こう?と考えた時に最初に浮かんだのが「量子もつれ(quantum entanglement)の解説」だったんですよね。何考えてんの私ってば。あぁ、うん、「EIGHT-JAM」んときにマイクロキメリズムと一緒にヒカルが出してきたキーワードなんすけども。



まぁ用語の直接の解説はおくとして、『Electricity』の冒頭部の歌詞


『君と僕の間に誰も入れやしない

 離れていてもそれは変わらない』


の一節に関しては、確かに「量子もつれ」のイメージが援用されているように感じられた、というのは記しておきたいかな。


量子もつれ」というのは、量子Aと量子Bが…いやここは別に「君」と「僕」でいいのか、君と僕が、お互いに何光年離れていたとしても関係性が途切れない現象の事を指しているのだけど、この絆を維持する為には、君と僕の間に何も入れちゃいけないのね。外部からの影響を排した状況(専門用語じゃ"コヒーレントな状態"っていうんだけど)を作り上げて初めて、「お互いに何光年も離れていても」の部分が成立する。そして、もしそれが成立しているのなら、何光年離れていても、君が僕の方を向いた瞬間に僕も君の方を見るし、僕が君の方を向いた瞬間に君も僕の方を見るんですよ、えぇ。


…何を言ってるのかわからねーと思うが、科学の実験で実際に検証されてる理屈なのよこれ。(例えばスピンの測定)



単に歌の歌詞としてみた場合、『君と僕の間に誰も入れやしない』っていうフレーズも、『離れていても/変わらない』っていうフレーズも、歌詞としてはありがち。なのだけど、この2つを続けて歌った事がこの歌の、『Electricity』のオリジナリティなのだと思うのだ。


というのも、2人の間に誰も入れない時って、まぁそりゃ常識的に考えて2人が密接にくっついてるんだろうし、一方で「離れていても変わらない」という言い方をする時は、2人の間に時間や空間や人やモノがあれやこれやと挟まってる状態から、どこかで実際に時間と空間を縮めて2人が再会したその瞬間に「昔と全然変わらないね!一瞬であの頃に戻れるね!」みたいに確認できることを指すのが常だ。


ところがこの歌『Electricity』では、「離れたまま」でも2人の間に何も入れないし、「離れたまま」でもその絆を確信できているという、普通の歌詞より更に一歩踏み込んだ…踏み込んでしまったが故に雰囲気がテレパシーっぽくなったというか、超常現象じみてしまってSF風味が醸されてしまった、そんなシチュエーションを歌っているのだと、そう感じられたのでした。そんなことがあり得るのは、マイクロキメリズムとか量子もつれくらいだろうなと。ヒカルがこの二つのキーワードを出してきたのは、そんな背景があったのかなと、わたしは思ったのでありましたとさ。



なお、付言しておくと、この「量子もつれ」現象、『Electricity』の中でも娘への手紙を書いた人として?歌われているアインシュタインさんは、その妥当性について死ぬまで懐疑的だった。あたかも光の速さを超えて声を届け合える様子に、光が世の中でいちばん速いと主張した彼は耐えられなかった模様。それについて100年後の世界で「光」という名の音楽家がこんな歌を歌っているのは、なんとも因果なものだわよね。

怒涛の4月が終わってひとやすみ


あー怒涛の4月が終わったのか。ツアーの申し込みもこれで一区切りということで、ある意味ここから当落発表までの2週間は心休まるかもしれん…けどこれは性格に依るか。自分は「足掻いても仕方がないことは気にしない/諦める」を選んでしまう方なので「後は野となれ山となれ」モードでいられるが、「当落どっちでもいいから決まってくれないと落ち着かない」という人は落ち着かないだろう。それも含めて人生やね。


オリコンによるとここまでの『SCIENCE FICTION』の累積は25万枚。シンプルに、日本国内ツアー収容人数の最大値を上回る枚数が売れてしまった。…という言い方からも分かる通り、出来るだけコンサートチケットの当選確率を上げたい向きからすれば、シリアルが封入されているCDは1枚でも少なく売れて欲しかった。一方で自分は何枚も買い増す始末。裏腹というか矛盾というか、なんとも不健全な時間を過ごしたなと自分でも思う。


大体、応援するアーティストのCDが「どうか売れませんように」と願うのは、余りにも情けないというか、自分が嫌いになるよ。「別に売れなくても構わない」と「売れたら嬉しい」は両立するからね。宇多田ヒカルが売れてるから有名だから応援してるとかではないのでね。中にはそういう人も在るだろうしそれはそれでこちらも参考になるので有り難い存在なのだが自分はそうじゃないので。それに、ヒカルも売れたら嬉しそう。周りで頑張ってるスタッフの皆さんが報われるのをみるのが喜ばしいのだろう。なのでこちらとしても、「一枚でも多く売れますように」と祈るのが自然な姿であって欲しかった。なお、「売れたら嬉しい」からといって「売れる為なら何でもしよう」にも、ならない。そりゃね。


そこから抜けて、やっと売上を喜べるようになって、それが今嬉しいとこ。もう応募できないし、後は抽選だからね。当落が決まったら、U-NEXT枠とか、出来れば綾鷹枠や伊藤忠枠も出てきて欲しいとこ。これでサントリーが相乗りしてきたら面白いんだけど。1999年当時東芝EMIのアーティストでありながらSONYのMDのCMに出てしまったヒカルでも流石にそこまでは…?ん?xbox?ナンノコトカナ??


幸いなことに、既に何度か触れてきてるテレビ放送も一部まだネットで観れるものがある。テレ朝系の「EIGHT-JAM」と、TBS系「CDTV LIVE LIVE」出演時の『First Love』だ。前者は5月5日まで2回分とも観れるし、後者は歌のみが5月22日までの限定公開。ゴールデンウィーク中にゆっくり観る人も多かろう。この時期が書き入れ時の皆さんはそれが終わったらゆっくりどうぞっ。…って「EIGHT-JAM」の方は配信終わっちゃってるかもなのか…そちらはお早めにっ。


そんなこと言ってるおいらもまだNYLONのインタビュー読んでる途中だもんね。いつもなら考えられないのだけど、ついついSF本編を聴いてしまったりテレビ出演のインタビューを振り返ってしまったりで。それに、折角なのでと英語の方で読んでるから時間が掛かってるというのもある。結構訳が正確で嬉しい。日本語圏外/英語圏内の方は電子書籍で購入できるなら是非こちらをどうぞ。日本語のニュアンスもちゃんと含まれているよ。


一方SFマガジンだが、科学を冠するそんな名前してるのに電子書籍版が見当たらないのが笑った。こういう技術の最先端(でもないな、もう数十年前からあるもんな)に手をつけてないあたり、読者層や作り手側の平均年齢が高いのだろうか。外で読めないのでなかなか読み返せないけどこちらのインタビューは読了済み。ただ、そこまで濃い内容でもなかったので取り上げるかどうかは微妙なところ。…この判断も、普段では考えられないほど贅沢!


ということで、暫しの間、まぁ今迄とさほど変わりないのですが、怒涛の4月をもう一度丁寧に振り返っていきたいところですかね。まぁ、流石にここから暫くは新しいネタは無いと思うんだけど、はてさて。ともあれ、今月もこのキャッチコピーでいきますか。


「自分のリズムでいこう。」!

Her Sci-fi second verse takes us our second birth !?


「EIGHT-JAM」は話の構成も素晴らしかった。みなさんお馴染み『One Last Kiss』でA.G.Cookがやらかしたエピソードから「セカンドバース(2番Aメロ)」をキーワードにして流れるように『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』についての質問へ。自分も観ながら「なるほどこのあと『道』の話に繋げるのだな。上手いな。」と思いながら見ていた。そう、ヒカルさんの歌詞の口調、急に変わるよね。最近ではこれに更にブーストが掛かっている。


例えば、『BADモード』。1番Aメロ(ファーストバース)では


『いつも優しくていい子な君が

 調子悪そうにしているなんて

 いったいどうしてだ、神様

 そりゃないぜ』


と歌っている。1番Aメロ最後で『そりゃないぜ』とそこまでからはあまり想像がつかない語尾が来てて「2番Aメロまでは同じ口調だろう」と油断したリスナーに対して早くも先手を取っている。もう既に見事なものなのだが、そこからの2番Aメロが更にエグい事になっているのは皆様もご存知の通り。


『メール無視して ネトフリでも観て

 パジャマのままで

 ウーバーイーツでなんか頼んで

 お風呂一緒に入ろうか』


1番の歌詞が描くシチュエーションは「人と人」だった。『神様』にも呼び掛けてはいるけれど、基本的にはヒカルさんがリスナーに、或いは想い人(親友でも息子でも)に優しく話しかけるという“舞台設定のつもり”でこちらは歌を聴いていた。そこにいきなりメール/ネトフリ/パジャマ/ウーバーイーツ/お風呂と、「目に見えるモノの名詞」を連発して視覚的に訴えてくる。「人と人」から「モノとモノとモノと…」への転換。小説でやられても面食らうヤツである。


番組内でヒカルも言っていたように、2番Aメロというのはリスナーが最も油断している時間帯だ。サビの高揚感が落ち着いて一息つく、というのと、無意識裏に「次はまたさっき聴いたAメロと同じようなメロディと歌詞が来るだろう」という予測をするからだ。一息と予測。これを見逃さずにヒカルは言葉を畳み掛けてくる。ここに至るのは、先ほど述べたように『そりゃないぜ』が利いている。宇多田ヒカルに慣れたリスナーは、ひとつの曲の中であちこちに揺さぶられるのに慣れているから、この曲ではなるほど、思いやり溢れる優しいヒカルさんと、守ってくれる頼もしいヒカルさんのギャップを振り幅にしてるんだなと何となく思わせてからのネトフリとウーバーイーツなのだ。横の振り幅に身を委ねていたら縦の落差にいきなり翻弄されるような。もっと抽象的な空間(君と僕、私とあなただけの、背景に何もない場所)に居ると思ってたのに気がついたらリアルな部屋に居た!? 斯様な場面転換が自由自在なので、タイムスリップやテレポーテーションのような感覚を与えてくれる歌詞になっている。


まぁ、しかし、『BADモード』の恐ろしさ、真骨頂は更にここからだよね、これも皆さんよくよくご存知の通り。優しさとかっこよさの振り幅、急な場面転換の落差ときて、さぁ2番サビが来るのかと身構えるそのほんの僅か前に急にリズムがフェイドアウトしてアンビエント・パートに1分間突入する。おかしい。もう2年以上前の曲だけど、どう考えてもおかしい。タイムトラベルやテレポーテーションならまだ「この世界」の中で移動している感じだが、このいきなりのアンビエント突入は最早異世界転移・異世界転生だよね。気がついたらエルフの里の最奥地の泉のほとりに放り出されてたみたいな、そんな感覚に陥ったよね。


「優しさ」から「カッコよさ」へ


「人と人」から「モノとモノ」へ


「この世界」から「異世界」へ


と、それまで暗黙裡に前提とされていたものが悉く突き崩されて新しい世界へと誘なってくれる…ふむ、後付けも甚だしいけれど、ヒカルさんの書く歌詞が「SFっぽい」というのは、こういう見方で見直してみればなるほどと唸らざるを得ない。今まで思いもみなかった視点/価値観/世界観をみせてくれる事こそ、SFの醍醐味ですからね─と、星新一筒井康隆小松左京を(それぞれほんのちょっとずつ)読んで育った身としては今更ながらに痛感するのでありましたとさ。