無意識日記々

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アルバム群はひとつの大きな流れに


アルバム『SCIENCE FICTION』では、リレコーディングは言わずもがな、リミックスも当然として、リマスター曲まで聴きどころが多い。10年前の『First Love 15th』の際にリマスターの威力はよくよく思い知らされていた筈だが、今回も油断してたかも。結局、一曲も飛ばさずに聴くモードのままだわ。


こうなってくると全曲過去トラックとの聴き比べがしたくなるな…などと思いつつ、一方で、この『SCIENCE FICTION』は宇多田ヒカルの何枚目のアルバムと呼ばれるようになるだろう?という疑問も湧く。


新しく知ったアーティストの過去作を聴くときに、ベストアルバムで済ます場合と、ファーストアルバムから順番に聴く場合とがある。前者はベテラン、後者は新人中堅の場合に多いが、どちらにせよ大抵は「どちらか」である。ベストアルバムでチェックしたらオリジナル・アルバムには行かないし、オリジナルで聴いたらわざわざベスト盤では聴き直さない。片方で事足りる。


もしこのやり方を宇多田ヒカルでも踏襲されるとなったら「ちょっと待って」と言いたくなる。特に、『Single Collection Vol.2』をスルーされたら「待て待て待て待て」と言いたくなる。ここでしか聴けないトラックが5曲もあるからね。『Goodbye Happiness』に関しては今回の『SCIENCE FICTION』でも聴けるようになったが、別ミックスだからそこは別トラック扱いという事でね。


特に、そうなのよね、その『Goodbye Happiness』こそが、第一期宇多田ヒカル最初の12年の集大成的楽曲なので、これを聴かないというのはまず有り得ない。PVも過去へのオマージュを盛り込んでいたので、監督の意図は兎も角、それで余計に集大成感が増している。


これと似た事態、似た懸念が、『SCIENCE FICTION』にもあるわよね。『Gold 〜また逢う日まで〜』『何色でもない花』『Electricity」の今後の処遇はどうなるか。まだ『COLORS』のようにオリジナル・アルバムに収録される道も残ってはいる。


…さっきからベスト・アルバムとシングル・コレクションを同じように扱ってるけど、そこは「非・オリジナル・アルバム」という括りだと思っておいてうただければ。


なので、もう宇多田ヒカル名義のアルバムに関してはオリジナルと非・オリジナルの区別をつけることなく、通し番号でも振っておいてくれたらいいのに、と思ったりもする。まぁそれも難しいけどねぇ。どのオリジナル・アルバムも


宇多田ヒカルの6thアルバム『Fantôme』!」

宇多田ヒカルの7thアルバム『初恋』!」

宇多田ヒカルの8thアルバム『BADモード』!」


っていう風に散々宣伝されちゃってるから、これを覆すのは難しいわよね。なかなかいい手は、思い浮かばないわ。


ひとまず、ここの読者におきましては、シングル・コレクションもベスト・アルバムも、ひとつの大きな流れの中で捉えて、そこはオリジナル・アルバムと同じ扱いになっているということだけ、踏まえておいてくれると、助かりますですよっと。


君の推しを恨む結果にならぬよう


ゴールデンウィーク中は各地で沢山のイベントがあり、それに比例して「公演中止」のニュースも幾つか飛び交っていた。中には当日キャンセルのケースもあり、連休中ということでかなりの遠方から来ていた人たちも多く居て結構な負担を強いられてしまったようで。


こういう場合、どうしたって釈然としない気持ちが残るもので。チケット代は払い戻されても、幾つかの手数料、交通費、宿泊代などは返ってこない。振替公演がセッティングされたとしても、その日に休みが取れるとは限らない。でも推しが体調不良ではどうしようもないわよね。代理役が公演を遂行してくれると言われても、推しは唯一無二だから推すのであってねぇ。


今夏の『SCIENCE FICTION』にも、そういうリスクはあるだろう。ヒカルなら体調管理は徹底しているだろうという信頼はあっても、公演中止のリスクはそれだけではない。地震をはじめとした天災や、テロ予告などの人災、断水や停電などの不可抗力。そうそう総ては予定通りには行かない。途中香港台北公演を交える今回は種々の国際問題にも注意を払わねばならないだろう。なかなかに気が抜けない。


ということで、「公演中止の可能性」は、どんな時でも頭に入れて行動した方が、精神衛生上いいだろう。感染症禍下を経て、例えばキャンセル補償/キャンセル保険などのサービスも出てきているようだが、私は利用したことがないから特にオススメも出来ない。それはそれとして。


ならば、まぁこれは旅慣れてる人には耳タコかもしれないが、公演に遠征する場合はなるべく他の旅程も入れるのがいい。交通費や宿泊代を費やして、目的がライブコンサートのみというのがリスキーなのだ。普通の旅行でも観光地を幾つか回るのが通例かと思うが、コンサートを目的に出かける場合も、できるだけ他の観光地やアトラクション、美食巡り美術館巡りなども旅程に入れておくのがいい。であれば、たとえ公演が中止になったとしても、数ある予定のうちのひとつが変更になるだけなので、総体的/相対的な心理ダメージは軽減される。歌は聴けなかったけど美味しいもの食べて綺麗な景色が観れたからまぁいいか、と思える。空いた時間は映画でも観に行けばいいかな。


これのいちばん大事なことは、


「推しを恨まずに済むこと」


である。どれだけ信奉していようと、精神的にコンサートに全賭けしていた場合、公演中止のダメージはとても大きい。結構事前には、そうなった時の心境の変化というのは予測しづらい。もしかしたら、理由によっては、公演を催行しなかった推しに対して、図らずもネガティブな感情を抱いてしまうかもしれない。たとえば忙しい仕事を更に詰め込んで休みを取ってきたりしていたら、人の精神状態は大いに荒廃してたりするからね、通常状態なら「推しを恨むなんてあり得ない」と確信していても、過労に加えて精神的ダメージを受けた時に同じように確信できてるかどうかは、結構わからないのだ。


そうならない為にも、コンサートに全身全霊を賭けるよりは、リラックスして旅行を楽しむくらいがいいのだと思う。「そんな余裕はない!」というのもよくよくわかるけどね。余分なお金があるならグッズ買って貢ぎたいよ!というのも、そうだよねぇ。なので、「そういう考え方もあるのかぁ」くらいに、ぼんやり思っておいてくれればいい。


…だなんて余裕ぶっこいて書いてるけど、来週のSFツアー当落発表の事を考えたら気が気でなくなるので気晴らし&その気を逸らす為に痩せ我慢をしているのでした。ちゃんちゃん。



追伸:なお世代的に、当方応援する相手のことを「推し」と呼ぶのに慣れていない。今回は敢えて書いてみたけれど、なかなか馴染まんな!(笑) でもこういうのも、書いてみないとわかんないからさっ。

何故今バッハ?


さて、では何故ヒカルは「今になって」JSバッハに“出会った”のか。この点についてつらつらと考えてみたい。



まずひとつは、ヒカルが人間活動を通じて自立心と自活力を育んだことだ。今まで何度か語られてきたように、ロンドンに移住するに際して生活基盤を自分で整えた経験から、異国の地であっても自力で生活していく自信を持つに至った。銀行口座開設や電話契約、ライフラインの設置など、いわば“家”を自ら用意出来る人間になったのだ。


JSバッハはしばしば「音楽の父」と呼ばれる。彼の四桁にも及ぶ多様な作品群が様々なジャンルの音楽の源流となった為だが、「音楽の母」とは呼ばれない。それは勿論彼が男性だったからだけれども、それ以上に、彼の厳格で規律正しい性格がイメージとして先にあるのだと思われる。前時代的な言い方をすれば、彼は典型的な家父長としての人格を有する人物だったわけだ。一家の大黒柱として、周囲の人間や後継に依って立たれるような、王とか父とか言われる立場の人間だった。ここらへん、天才的な閃きで次々と煌びやかな循環を生み出していくアマデウスモーツァルトなんかの王子様気質とは一線を画する。


JSバッハの厳格な性格を反映して、彼の書く音楽もまた、非常に規律正しい性格のものが多い。種々の協奏曲は数学的とまで言われる程に全ての音が計算し尽くされ厳密なロジックに基づいて配置されている為、あらゆる音符が有機的な意味を持つ非常にスケールの大きい音楽として成立している。その立体的な威容と細部の緻密さはまるで建築物のようだ。


昨今のヒカルは、そういった彼の幾何学的な構造と性格を持った作品群に対して、昔に比べて好意的となっているのかもしれない。16歳の頃は数学大嫌いとか言って憚らなかったくせに、今や25周年ときいて「5の2乗だし、並べると正方形になるし」とかなんとか計算や幾何学の比喩をもってその“数としての区切りの良さ”を強調したりしている。他にも、非常に数学的な側面の強い量子力学について何度も言及してたりね。幼い頃からヒカルは科学全般に対して非常に好意的であったが、近年特に幾何学的・数学的なファクターについての理解が深まっているように感じられる。



以上、2点だ。ひとつは、バッハの厳格で家父長的な性格に昔より共感できるようになったこと。もうひとつは、バッハの幾何学的・数学的な側面にも魅了されるような嗜好の変化があったこと。どちらもこちらの勝手な妄想/推量に過ぎないが、何となく合点がいく気がするのは私だけではあるまいて。

Fallen in love with JS Bach, now !


今回のヒカルのテレビ出演は多数に及んだこともあって、どれも欠かさずチェックしてる向きにとっては同じ内容の質問が繰り返されていたり、また今までずっとインタビューやインスタライブなども観てきた人にとっては既知の話も結構あった。こういう事態に関しても、これも複数の場面でヒカルが答えていたフレーズ、「出会った時が新譜」の精神で向かいたいところだ。


ここで大事なのは“その人にとっては”なのである。所属するコミュニティや社会の機能の一端を担ってお金を稼ぐ職能のために必須な知識などとは異なり、私達はほぼ全員が趣味として音楽家のアウトプットを享受しているのだから、「社会やコミュニティの中での新しさ」に気を遣う必要は全く無い。勿論、そのコミュニティの中で情報通でありたいなどの願望があるのなら率先して新情報を収集してくれればよいし、それも趣味の中での嗜好選択のひとつだ。“その人にとって”新しいなら新しいのだ。いつリリースされていようが、出会ったその日があなたにとっての発売日なのよ。


今回はヒカルがバッハについてそんな風に語っていたわよね。もしヒカルがコテコテのクラシック(西洋古典音楽)の音楽家であれば、平均律クラヴィアを作曲した史上最も偉大なる作曲家の偉業を評価していなかったのは怠慢だとか何とか謗られるのかもしれないが、J-popのフィールドのミュージシャンとして認知されているのでその必要は、これも全く無いだろう。


今回ヒカルは「初めてバッハと出会った」と言っていい。だがどちらかといえばこれは「友達だと思っていた人に、ある日突然恋に落ちた」というシチュエーションに近いかもしれない。名前も顔も仕事ぶりも一応知ってたけれど、今回改めてその魅力に気づきましたとでもいうべきか。「気づいた時が一目惚れ」ですかね。


それに関して『何色でもない花』が「バッハ×トラップ×R&B」だとヒカル自身が言っていたのを聞いて、「迂闊だった」と私が後悔した事はここに記しておきたい。うわぁ、ほんまやまんまやね冒頭のピアノの入り方。全然気づいてなかったわ。


バッハのメロディをポピュラーミュージックで引用する例は沢山ある。私が好きなのはイングヴェイ・マルムスティーンの"Prisoner Of Your Love"(1994)という、ここの読者なら「なんか紛らわしいタイトルだな!」と感じる事請け合いのバラードだったりするのだけれど、ヒカルの『何色でもない花』に関しては別に引用という事ではなく「ほんのりバッハ風」という程度の話だ。最も、西洋の平均律を使うとどこかバッハに通じるポイントができてしまうと言いたくなるくらい、バッハはオーソドックスでトラディショナルなのだが。いや、まぁそれは余談なんだけど。


それより面白かったのは、あれだけ様々な概念やフィーリングを言語化するのに長けているヒカルが、バッハの曲調についてはちゃんと言葉に出来ておらずジェスチャーを交えて必死に伝えようとしていた点。実際にはバッハの音楽というのは非常にロジカルで、「これを何もないとこから思いつくのは信じられないほど難しいが、ひとたび形になればその魅力の要点について語るのは容易い。」というタイプの音楽であり、その美点は数学的とも幾何学的とも呼ばれ、特に楽譜の美しさに関しては他の追随を許さないのだけれど、そういう視覚的に捉えやすい魅力をヒカルが捉え切れていない、というのは、今後に向けてかなり示唆的な側面が垣間見れて嬉しくなった。ヒカルについて既知の話を聞くのも楽しいけれど、「ヒカル自身にとっても未知の話」を聞けるのは、もっともっと楽しい事なのでありましたとさ。

君と僕の(地上の?)もつれ話


てことでこの日記もひとやすみモードでまったりいくかなぁ、さて何について書こう?と考えた時に最初に浮かんだのが「量子もつれ(quantum entanglement)の解説」だったんですよね。何考えてんの私ってば。あぁ、うん、「EIGHT-JAM」んときにマイクロキメリズムと一緒にヒカルが出してきたキーワードなんすけども。



まぁ用語の直接の解説はおくとして、『Electricity』の冒頭部の歌詞


『君と僕の間に誰も入れやしない

 離れていてもそれは変わらない』


の一節に関しては、確かに「量子もつれ」のイメージが援用されているように感じられた、というのは記しておきたいかな。


量子もつれ」というのは、量子Aと量子Bが…いやここは別に「君」と「僕」でいいのか、君と僕が、お互いに何光年離れていたとしても関係性が途切れない現象の事を指しているのだけど、この絆を維持する為には、君と僕の間に何も入れちゃいけないのね。外部からの影響を排した状況(専門用語じゃ"コヒーレントな状態"っていうんだけど)を作り上げて初めて、「お互いに何光年も離れていても」の部分が成立する。そして、もしそれが成立しているのなら、何光年離れていても、君が僕の方を向いた瞬間に僕も君の方を見るし、僕が君の方を向いた瞬間に君も僕の方を見るんですよ、えぇ。


…何を言ってるのかわからねーと思うが、科学の実験で実際に検証されてる理屈なのよこれ。(例えばスピンの測定)



単に歌の歌詞としてみた場合、『君と僕の間に誰も入れやしない』っていうフレーズも、『離れていても/変わらない』っていうフレーズも、歌詞としてはありがち。なのだけど、この2つを続けて歌った事がこの歌の、『Electricity』のオリジナリティなのだと思うのだ。


というのも、2人の間に誰も入れない時って、まぁそりゃ常識的に考えて2人が密接にくっついてるんだろうし、一方で「離れていても変わらない」という言い方をする時は、2人の間に時間や空間や人やモノがあれやこれやと挟まってる状態から、どこかで実際に時間と空間を縮めて2人が再会したその瞬間に「昔と全然変わらないね!一瞬であの頃に戻れるね!」みたいに確認できることを指すのが常だ。


ところがこの歌『Electricity』では、「離れたまま」でも2人の間に何も入れないし、「離れたまま」でもその絆を確信できているという、普通の歌詞より更に一歩踏み込んだ…踏み込んでしまったが故に雰囲気がテレパシーっぽくなったというか、超常現象じみてしまってSF風味が醸されてしまった、そんなシチュエーションを歌っているのだと、そう感じられたのでした。そんなことがあり得るのは、マイクロキメリズムとか量子もつれくらいだろうなと。ヒカルがこの二つのキーワードを出してきたのは、そんな背景があったのかなと、わたしは思ったのでありましたとさ。



なお、付言しておくと、この「量子もつれ」現象、『Electricity』の中でも娘への手紙を書いた人として?歌われているアインシュタインさんは、その妥当性について死ぬまで懐疑的だった。あたかも光の速さを超えて声を届け合える様子に、光が世の中でいちばん速いと主張した彼は耐えられなかった模様。それについて100年後の世界で「光」という名の音楽家がこんな歌を歌っているのは、なんとも因果なものだわよね。