嫌いの理由

ラジオのパーソナリティで嫌いな人がいた。

最初から存在を知っていたわけではなく、特に先入観もなく、たまたま行き当たっただけの人だ。

声だけで嫌いになるのは個人的に珍しいことなので理由を考えてみたくなった。

 

・声質が嫌いである(致命的)

・語尾が「〜と思います」の紋切り型

・独自の視点がなく人から聞いた話や読んだ話を話しているだけ

・正しいことかどうか怪しいことを断言する

 

整理してみるに、生理的な嫌悪感に加え、知性が感じられない点に不快を感じたようだ。

他、話す内容が自己啓発系であり自分の考えと合わなかったというのも一因だろう。

昔遭遇した、恋愛工学に傾倒している人と話した時のような分かり合えなさも感じた気がする。

 

ということは、どうやら向こうの考えを押し付けられるような心持ちになるのが不愉快だったらしい。

 

ラジオは切った。

空気が悪い

喧嘩をすると空気が悪い。

私の周りはほとんどが瞬間湯沸かし器のように怒るタイプではないため、静かに自分の怒りを分析して文句を練り上げる時間がお互いに数時間ある。

今日はその数時間が20分に短縮できたので覚書として書き留めておく。

簡潔にまとめると、お互いに

・冷えていないか

・お腹がへってはいないか

・体調が悪くはないか

をチェックし、整え、その上で場所を変えて謝罪をした。

クレームの対処法の基本は時、場所、人を変えることだが、身内の場合人は変えられないため、強引に場所を変え、いわゆるいい目(あたたかい水分と食事を摂りリラックスした状態)に持ち込み、謝罪をして鷹揚に受け入れてもらう、というのが今回の成功事例である。

数時間不快な思いをしているよりも短時間で終わるのだから、謝り負けはどうでも良いのだ。

月を食う について

月を食う を読んだ。

短歌集を読むのは初めてだったけれども、一文でこんなにも情景を想像できる世界があるのか。

もともと感性が豊かなのか。

私が普段漫然と生きている間に、日常の綺麗なものや汚いものをひとすくいして、それを伝えようとしている人がいる。

特に好感を持てるのは、自分を大きく見せようとしていないところだ。

人間らしい。

いっそ気持ちがいいくらいあけっぴろげなのだ。

ある種の憧れをもって読んだかもしれない。

自分が会うことのない異世界に近い人の頭を少し覗き見させてもらった気分だ。

好きなものと嫌いなもの

私にとって、好きなものを言葉で説明するのは難しい。

好きなものには、たいてい素晴らしいポイントが沢山あって、取りこぼしのないように表現するのが難しいのだ。

言葉にしたら案外薄っぺらくて、強い情動を表しきれていないと感じる。

 

それに比べて嫌いなものはするすると言葉が出てくる。やれ下品だ、胡散臭い、商売っけが透けて見える、あざとい、などなど。

 

嫌いなものについては断言できるのだ。

しかし好きなものは断言できない。好きなものはとても大事で、言葉で侵すのが躊躇われるのだ。

語彙が無いだけという部分もあるが。

特に人については多面性があるため、より表現が難しい。

総括して「〇〇は尊い、あとは見てもらえればわかる」ということになるのも致し方ない気がする。

 

しかし何かを熱心に語る人は割にいて、その情熱たるや驚くものがある。

取りこぼしのないようにありとあらゆる言葉を尽くして語るし、その労力を惜しまない。

そういう人たちのおかげで新しいものを見てみようという気分になったりする。

世の中の自称インフルエンサーより格段に訴求力があるのだ。

これこそ好きの為せるわざかと思う。

そんな自覚なきインフルエンサーの心の中はどうなっているのだろうか。

人に何かを好きだと表明することに何の抵抗もないのだろうか。自分に確固たる自信があるだとか、盲目的であるとかいう特徴も部分的に見られるかもしれない。

もしくは多少不正確でもよいという大らかさか。

 

私にはとても推し量ることの出来ない不思議かつ素敵な方々である。

興味ない

人のことに興味がないのだけれど、自分ではこの性質をとても気に入っている。

自分だけを見つめている時間が心地よい。

人のことを見ると私が増える。

たくさんの私は扱いきれないしよく変化するので、私は私だけの私を見る。

なかなか変化している。

いつの私だって予想外のことをする。

私は私を通して人を見ている。

人に寛容になるとより興味を持たずに済むので、色眼鏡を探すために私は人を観察して想像する。

もしかしたら、時には人に興味のある人よりじっと見ている。

じっと見過ぎると習慣になる。

習慣になると私が増えて辛くなる。

だから私は人に興味がないのだと定期的に思い出す。

そうすると私はすっかり楽になる。

じっと見ながら興味がないと言い聞かせる私は、興味津々に見えているはず。

でも本当に興味はないのだ。

タオル

ガザガサのタオルが好きだ。

干したらパリパリに固まるくらいの使い込んだタオル。

ふわふわのホテルタオルはお呼びでない。

安い温泉で売っている薄いのタオルの方が水分を吸う気がする。

もしホテルタオルの方がたくさん水分を吸うとしても、おそらくはそうなのだろうが、気持ちの問題である。

自分の中のこんな細かな矛盾と執着を発見すると安心する。

わずかでも自分を客観的に見られているように感じるからだ。

世間で楽に生きるために、自分と大勢の違いを知っておいた方が良いと信じているからだ。

面倒ごとを避けるためにホテルタオルが好きな顔をするのだ。

思考停止していないか?

私は思考停止している。

 

なぜか。

疲れているからか、心身の健康に異常があるからか。

違う。

人の思考を通す筒になるのが楽なのだ。

通せば通すほど自分が賢くなった気がする。

感じているだけで考えているわけではないのに。

 

思考停止していることは良いことでも悪いことでもない。

好きにすればいい。

でも私は考えていたい。

なぜか。

私は私の話す事のほとんどが最近見たものや読んだことであることに気付いた。

私は筒だ。

なぜかと自分に聞き続けない限り私は筒だ。

 

筒は何と繋がるのか。

中身と筒が繋がるのか、筒同士が繋がるのか。

知人も筒なのか。

筒でなくなった私は何になるのか。

思考する塊か。

ひとひとりのこと、大差はないだろうになぜ筒が塊になりたいのか。

筒になって自我をなくせば楽なはずなのに。

 

何はともあれ、きょう私は塊と筒を行ったり来たりしている。