同じ年に生まれた歌舞伎と江戸幕府

政治と芸能、江戸時代を通じた宿敵同士の奇異な行きがかり。

 歌舞伎の歴史をながめるとき、私はいつも奇異の念にうたれます。
 出雲の阿国が京都の四条河原で歌舞伎踊(かぶきおどり)の興行に成功したのは、慶長八年(一六〇三年)のことで、これが歌舞伎のはじめとされていますが、その同じ年の二月に、徳川家康征夷大将軍になり、江戸幕府の基を開いているのです。
 歌舞伎と徳川幕府、言い換えれば、民族演劇と封建政治権力との、この二つの相いれない宿敵同士が、同じ年にその出発点を持ったということは、歌舞伎の運命を象徴する出来事であるかのように私には思えてくるのです。――武智鉄二「〈歌舞伎〉はどんな演劇か」(『歌舞伎はどんな演劇か』所収)

以下も武智論文によるが、これらは一般の知見と同様のはず。

阿国歌舞伎のような男女が入り混じって演じられる歌舞伎(女歌舞伎と呼ばれた)は、風紀を乱すとの名目で寛永6年(1629)に禁止され、その代用として生まれた若衆歌舞伎も慶安4年(1651)に禁止、その2年後の承応2年(1653)、前髪を落とした野郎頭の男性だけで演じる野郎歌舞伎に生まれ変わる。このような外面的な統制に加え、幕府の抑圧はしだいに歌舞伎の内面に及んでいった。

女熊坂