友人を鏡にして

文献を何十冊も読みこなしたりして、
かつては自分の苦手だった分野にどんどん切り込んでいって、
むしろモノにできたと自負できるようなとき。
何だか一つステップアップしたような気になる。
同じ数字でもその意味や裏側にあるストーリーが読めてきたり、
仕事上のコミュニケーションで今までになかった手応えや確からしさを得られたりすることもある。
主観的な満足感だけでなく、客観的な評価や数字がついてきたりする。
そんなとき、ふと感じる、全能感。奢りや傲慢さ。
少しずつ自分自身の客観視の指標がなくなってくる。

自分は今どう見えているのだろう。
これは正しいのだろうか、浅はかなんだろうか、傲慢なんだろうか。
自信はある。けど不安になる。確認作業を欲する。
そんなときに大事なのは、気のおけない友人との会食や歓談。
友人相手に自分の緩みや浅はかさのチェックをしてみたくなるときがある。
もちろん、会社経営のパートナーである実父や、
人生の伴侶である妻や、
何でも言い合える兄妹との語らいのなかで、
そんなことを確かめることもあるかもしれないけれど、
やっぱり持つべきものは友、だと信じている。

賢くて優秀な友人たちは、きっと、
仮にボクが浅はかで傲慢な仮説や持論を展開したとしても、
頭から否定することはないだろう。
会話の中の言葉の選び方もそうだけれど、
リアクションや表情だけで何となくお互いにわかったりもする。

あ、これは面白がられているな、とか、
あ、これは退屈な話なんだな、とか、
あ、これは少し論拠が浅かったな、とか、
あ、これは本当に斬新なアイディアなのかもしれないな、とか。

当たり前なようで意外と疎かにしがちなこの作業がとても重要で。

お互いがお互いにこんなことを思いながら、
とても前のめりに「最近どう?近々飯でも行こうよ。」なんて誘ったり誘われたり、
面倒でも年賀状を送ったり送られたりするような関係が、
ずっと続くといいななんて真面目に思っている。

東京都の顔

東京都民として。都知事には誰が相応しいのか。本当は一番大事な「政策」はとりあえず抜きにして。結局、東京ってデカすぎるから、やることは膨大で決まってることがほとんどで、あとは、ディーゼルの排気を減らしたいとか、路上喫煙をなくしたいとか、カジノを誘致したい、とか、そういうカラーが出るか出ないか、で、結局は誰が都知事やろうが、オリンピックと豊洲をどうするの、とかみたいなことだと思うんだ。勝手に決めつけるけど。で、都民として顔として気持ちがいいか、誇れるか。みたいなとこなんだ。テレビをみながら「え、丸川珠代?本気でいってんの?」っていう批判を、もう一人の自分が「いや、だったらお前は誰がいいのさ」と冷静に諌める。対案を求める。東京都知事に誰が相応しいのか。無責任に考える。たけし?タモリ?いやいや、そういうことじゃなくて。東京都の顔。経験者がいいの?舛添要一池上彰?江戸の顔。東京の顔。地方出身者でもいいけど。できれば根っからの東京人がいいな。シティボーイ。シティガール。いるのか?そんな人材。サッカーでも野球でも、自分が代表監督だったらコイツは絶対選びたい、みたいなのあるけど。そういうの。内閣の組閣みたいな。なかなか居ない。石原慎太郎橋下徹東国原英夫、しがらみ少なそうだったけど。猪瀬直樹も。どうなんだろう。しがらみ。元議員?学者?ジャーナリスト?誰よ。真のシティボーイ。東京都の。誰よ。外様でもいいのかな。東京都庁で数十年務め上げた人とかじゃダメなのかな。本当に東京のことを何年も一生懸命考えた人。考える人。誰よ、東京都のことを真剣に考える人。居ないのか、スーパー公務員。いっそのこと、都庁上がりの副知事3人の中から誰か都知事になればいいのに。

欲深い人

ちょっと前に、友達とお茶しながら、
何の気なくポロッと自ら発してしまった、

「いやさ、最近ホント、ゼロからイチを生み出すみたいな作業と無縁でさ。」
という発言について、モヤモヤ考えている。

その言葉がすんなり出てきちゃって、
それでいいんだろうか、みたいな、モヤモヤ。

いや、別にいいんだろうな、きっと。

でもね、なんか物足りないよな、オトコとして。。
そんなモヤモヤのこと。

もちろん、携わっている仕事や環境にもよるだろうし、
そもそも「オレ、クリエイティブな仕事してまっせ」みたいなのも違うし、

ほとんどの人間が、ゼロからイチを生み出している実感なんか少ないはずなんだけど、
仕事云々だけでなく、プリミティブな意味での創造欲求っていうか、
そういうのって大事だよな、っていう話しではあるのだけれど。

なんだろう、なんでだろう、、
やっぱり何か生み出して発信して行きたいんだろうな。。


もしかしたら、
「子育て」がオモシロすぎて、
そこに日々一喜一憂してて、刺激を受けていて、
自分の根源にある創造する欲求みたいなものが、
そこである程度満たされている、というようなことなのかな。


子どもをどんなヤツに仕立てたいか、みたいなことを薄っすらと考えつつ、
でも子どもの性格や生まれたての自我とせめぎあいながら、そんななかで垣間見せる、
「あぁ、コイツ、オレに似てる」なんていう、遺伝という当たり前のメカニズムを実感したりして、
それが何とも言えず楽しかったりして。
やっぱ子育てしてる、ってのは大きいかもしれないな。

ゼロからイチを生み出す余地がないほど、
毎日が新しい発見の積み重ねだったりはする。


あともう一つは、経営、かな。
会社という「法人」を育ててる感覚も、それはそれで何かを満たしてるのかも。
自分の色を出すっていうか、ゼロだったところに新風を吹き込んで、
なんとかイチを生み出そうとはしてるかな。


どうやったら従業員がハッピーになりつつ、
お客さんもハッピーになって、地域に貢献できてるのか、とか、
そんなことを考えることも、いわばクリエイティブな作業なのかもしれないな。

すくなくとも、「この資料を明日までに誰かまとめておけ」というようなイメージの、
「オレじゃなくても誰でもできる作業」には、時間を費やしてない自負はある。
そういうのがしたくなくて自営の道を選んでいるのだから当たり前なのだけど。

いずれにしても、
これはとても内向きでドメスティックなことであって、
広く世の中にゼロからイチを生み出すことではないのだけれど。


一方で、
仲間内の大喜利大会だったら絶対負けたくない、みたいな、
どうでもいい気概はいつまででも持っていたいし、

友人たちが苦労して仕込んだ結婚式の二次会とかをお客さんとして見ながら、
すごい忙しいはずなのにみんな徹夜してワイワイ作ったんだろうな、いいな、みたいな、

漠然と、作りたい発表したい願望はあるから、
形はどうあれ、そのマインドは全く消えているわけではないのだけれど。


結局、、
なんでモヤモヤしちゃうかっていうと、それは「欲張り」だからなんだろうな。

自分の生活、ライフサイクルが安定していれば安定しているほど、
「これでいいのか」と別のものを欲しちゃう。欲張る。

必要以上に自分に負荷をかけたり、リスキーなところに飛び込みたくなったり。

いくつになっても貪欲に何かにチャレンジし続けたい、みたいな感覚は、
ポジティブで美しいけど、

別の言い方をすれば、
「まだ自分は何かやれる才能があるんじゃないか」って愚直に信じてる、
過剰なプライドと自意識の問題なのかもしれなくて。

欲深いんだよねぇ。全く。

ブレないということ

他人の評価や周りの視線ばかりが気になって、自分のスタイルを貫きたくても結果的に妥協したり迎合しちゃったりするような弱い自分にとってはなかなかできない芸当なのだが、首尾一貫、矜持とか美学とか、そういうのが全くブレてないなぁ、、ってヤツがたまにいる。


先日、小学校の時の同級生と飲む機会があった。

半年ぶりくらいに会ったその席で、なんの流れだったか、
「他人に評価されるされない」みたいな話になり、ふと、図工の時間に作った作品の話になった。

人一倍器用で、図工の時間に作品を提出すれば、
出す作品出す作品、常にA評価をとっているようなそんな彼だったが、
一度だけ、土鈴(陶器の鈴のようなもの)を作ったときに、B評価を取ったんだそうだ。
ドレイ(土鈴)、、、、久しぶりに聞いた。でも、すごく覚えてる。

ボクは、、そのとき、ドーム状の鈴の形から安直に想像して、
オバケのQ太郎の形の土鈴を作ったんだっけ。。今思えばオリジナリティの欠片もないな・・・。

いつもは常にA評価だった彼が初めて1ランク下の評価をされたんだから、
普通の子だったら「何がだめだったんだろう?」とか悔しがるところだと思うんだけど、
彼は、「あれ?先生はこういう感じ、キライだったのかな?でも自分では納得いくものが作れたから、満足。」と思っていたそうで。。

彼曰く、「ワシ、昔から他人の評価っていうのにはあんまり興味が無くて、自分の作りたいものを自分の納得いく形で作れれば、それが一番シアワセなんだ」と。

あぁ、思えば、コイツは昔からこんなヤツだった。
全くブレていない、彼の矜持と美学。スゴイや。

ピュアな眼差しでこんなことをサラッと言ってのける彼の姿が眩しい。

自分の思ったことを自分の納得いくまでやれれば、仮に報われなくてもそれでいい。。
それって、ボクにはあまり無い要素で・・・。

他人の目や他人の評価ばっかり気にして何でもやってきた自分にとっては、
心にぐさっと刺さる言葉と姿勢だったりもするんだ。


彼は更に続ける。
ラディカルな言い方に聴こえるかもしれないけど、
彼は「勝ち負けとか、基本的にはどうとも思わない」らしい。

例えば麻雀をやっているとき、
自分の作りたい手役が作れてて、自分のスタイルがつら抜けていれば、
仮にそれが仇になって振り込んで負けても全然構わないのだそうだ。(笑)

彼は大まじめにこんなことを言う奴だ。
ウソだぁ、負けたら悔しいよ。。

でも、彼はまっすぐにこっちを見て言うんだ。

TVゲームをやっているときでもそう。ボスに負けようが失敗しようが、
自分の納得いくやりかたさえしていれば、どーってことないんだ。
自分なりのやりかたで修正して、でもプレイスタイルは絶対に曲げないね(笑)、と。

件のエピソードのとおり、彼は自分の世界をしっかり持っている人だ。
自分の時間と領域を犯されるのがすごくイヤだ、とも言っている。
こんなワシ、結婚できるのかなぁ、なんてことも。

たぶん、かなりの頑固者ではあると思う。
でも、そういう彼の感じをわかってくれる人は絶対どこかにいると思う。
間違いなく。魅力的だもの。
ただ、第一印象は、、、その言動や振る舞いから、
少しとっつきにくい人だなぁとか思われちゃうかもしれないけど、
それが彼のオリジナリティーなんだから、仕方がない。


そんな彼に、ボクは少し意地悪な議論をふっかけてみる。
「例えばさ、でもさ、みんなでババヌキとかやっててだよ、ババを引いちゃって負けちゃったけど、
でもボクは全くなにも思わないよ〜みたいな態度だとさ、周りはなんか拍子抜けしちゃわない?」

彼は淡々とそれに答える。

「それはたしかにそうだけど、でも・・・極論言えばその状況でも、あんまり勝ち負けには興味ないんだよね・・・。やっぱおかしいよね?(笑)」と。

小学校から付き合ってるボクには、彼のこの感じはすごくよくわかるんだけど、
初対面の相手だったら、どうかなぁ。。
「またまたぁ〜強がっちゃって、本当は悔しいんでしょ?」みたいに思われるかもしれないな。

でも、残念ながら彼はそういう男じゃないんだ。
心底こう思ってる。「自分のスタイルさえあれば、それでいい」、と。。


その変わらないピュアで真っ正直な姿勢に圧倒されながら、
改めてこういう貴重な旧友がいることを大切にしなければならないな、と思った。


彼は図工の才能もあったけれど、漫画も描けたし、ストーリーを作る能力もあったので、
「仕事の傍ら、何か作品書いてみたりしないの?イヤかもしれないけど、賞に応募してみるとかさ」とか言ったら、
彼は、照れ笑いしながら、、
「そこまで言うならなんか書いてみるかなぁ。構想や設定はたくさんあるんだよ。ま、、、気が向いたらね(笑)」と言っていた。

彼のことだから、その作品を世の中に発表することはもしかしたら無いのかもしれないけど、
もし何かの賞に応募したら、ひょっとしたらひょっとするんじゃないかとか、勝手にワクワクしている自分がいる。応募しないとしても、こっそり読ませてもらおう。


最後に、
彼は今、寝る間も惜しんでドラクエ10をやってるらしい。
やっぱりか・・・やってるのか。

ボクも当然発売日に買ったんだけど、二ヶ月くらいでやめてしまった。
でも、コイツがやってるなら、久しぶりにまたドラクエ10始めようかなぁと思った。

こういうところ、
ボクらはあの頃と何一つ変わってはいないんだ。

二次元なのか三次元なのか

文学少年・少女と呼ばれる、読み巧者の人たちは、
小説の主人公を、「どんな顔・姿で想像して読んでるのか」、ということが気になる。

・・・


先日、悪の教典の上下巻を読んだ。


これを純文学と呼ぶのか、ミステリー、SF、ライトノベル、、、
どういうふうにカテゴライズするのかはよくわからないけど、


この作品にかぎらず、
最近の小説、特にラノベ・SF的なものと純文学的なものをを雑多に読んでて少し困るのは、
「頭の中で情景を浮かべたり、主人公達のすがたかたちを思い浮かべるときに、
それを、デフォルメした二次元として浮かべるか、リアリティのある生身の三次元の人間として浮かべるか」


どっちなんだ、ということ。


没頭しているときは、
二次元だか三次元だか意識もせずに熱中して読んでるんだけど、
ふと、冷静になってみると、主人公の顔は、どっちで想像してるんだろう、みたいな。
自分でもよくわからない。


悪の教典は学校・学生が出てくる話だから、
それこそ映画バトルロワイヤルや、告白、桐島部活〜、みたいな、リアルな感じでもいいし、
完全に学園モノのアニメや漫画だと思ってもいいし。


これって、日本人独特のものなのかな。


例えば、学生の頃、吉川英治三國志を読んだけど、
その時はどうだったんだろう、とか。


劉備関羽張飛の顔ってのは、たぶん、
漫画家・横山光輝のそれ、もしくは、
光栄の作り上げたそれ、だったりして。


でも、よく考えたら、諸葛孔明の顔は、それのどちらでもない感じで想像してる、かも、
どこの何から想像して思い浮かべてるんだろう、みたいな。
むしろ、孔明は神格化して捉えてて、具体的な姿形は思い浮かべてないのか、とか。


なんか、そんなことを思いながら。


指輪物語ロード・オブ・ザ・リングだって、
ドワーフとかエルフとか言われて思い浮かべるのは、
今は映画で観たキャラクターを思い浮かべるな、とか。


もっといえば、昔ばなし「ももたろう」を読んでるときに、
思い浮かべる絵、ってのは、紙芝居や絵本でみた、ももたろうと、オニ、だよな、とか。


そう考えると、漫画絵、というものはやっぱりパワーがあって。。


アニメ・まどか☆マギカはストーリーはとんでもなく重たいけど、
あの萌えアニメ的な絵、があって、あのアンバランス感が生まれるんだろうな、
とか・・。


ライトノベルや最近の小説に漫画絵(イラスト)が挿絵として書かれてることって、
こういう想像をいい意味でも悪い意味でもインスタントに解決するというか、
想像しやすくする効果があるのかな、とか。


でもそれって、小説の醍醐味である(はずの)ところの、
「読み手一人ひとりが自由に自分の頭の中で情景を(主人公の顔もふくめ)思い浮かべる」
みたいなことが、一つ損ねられてるのかな、とか。
想像力や読解力のトレーニングとしては、軽い方向、楽な方向、になってるのかなとか。


とりとめないけど、そんなことを思う。


悪の教典は、残念ながら、
伊藤英明の顔を半分頭の中でチラつかせながら、
でも100%は侵食されない感じで、読んだ。

カーズ

レーシングタイヤを履いて、結構優秀なエンジン積んでるのに、
なんでこんなにゆっくり走らないといけないんだ。


たまにサーキットに出ると、走ってる走ってる。レーシングカーが。
知的で高尚な会話の渦の中が非常に心地よい。
アイツは海外遠征に行ってるとか。こんど日本代表に選ばれたとか。
目が輝いていて上向きで眩しい。ヒリヒリするけど、いい。
出自はここだったはずなんだ。明日の日本を動かす力。


・・・


他方、ボロボロなレーシングタイヤを履いて乗り込んだら、そこはダートレース。


車輪のでかいオフロードタイヤを履いた、車がゴロゴロ。
なんという場所に入り込んでしまったんだ、と少し戸惑うも、
そのオフロード仕様の奴らのドリフトを見よう見まねで真似てみる。


(・・・案外イケるじゃないか。)


最初は場違いな車体を馬鹿にされたけれど、回転の速さは負けない。
アンタもなかなか味があるじゃないかと、認めてもらったりして。

もともと、日本一のスピードを目指すような生粋のレーシングカーじゃなかったわけで、
少しずつ、ハイブリットな感じでオフロードにも慣れてくる。

こっちはこっちで心地よい。
何より、気をはっていなくていよい。いい意味で雑でオフロード。でも笑顔があって。
とんでもない発想力に時に嫉妬したりもして。明日の日本を豊かにする力。


オフロードレースのなかでも、またその先端のところ。
これまた奇想天外なハイコンテクストな会話の渦の中で、
我を忘れて馬鹿笑いしちゃうような感覚がたまらない。


っていうか、なんで俺らコレ乗ってんの?一度降りてみようか?
なんつって、世界や設定を根底から覆してみたり。
無鉄砲に飛び出しちゃったりして。

我を忘れて、泥だらけになりながら、夢中で。
なんか、生きてるぞ、っていう感じ。有り体に言えば、青春、のようなもの。


・・・


市中の人になる、市中で生きるっていうのは、
そういうところとはまた少し無縁のところで生きるということ。

20キロで路地を走るような。
もみじマークの車に合わせて、慎重に低速で走るような。

こころのレーシングタイヤもオフロードレースの体験も、それはそれ。
排気ガスをなるべく出さないように、エコ運転。



・・・でも、たまに少し物足りなくなって、
泥だらけの山道や、つるつるのサーキットが恋しくなる。

そんな感じ。

諸行無常の響きあり

諸行無常


自分がポップカルチャーとか、流行とか、
っていうのに異常なほど興味があるのって、なんでだろうって。


たぶん、それは、儚いからなんだと思うんだ。


はやりもの、っていうのはその名の通り、流れうつろいゆくものであって、
いつかはなくなってしまったり変わってしまったりする。


はかない。


ゆえに、その、モノや現象の、
「一番輝いている瞬間を捉えたい」。
「旬なものを旬な時期に味わいたい」。


そんな気持ちが強いからなんだと思う。


昨日、前田敦子がAKBを卒業した瞬間、なんてのも、
AKB48という歪なポップカルチャーの、


位置エネルギーとしてかなり頂点に近い瞬間なんだろうな、と思う。
そんなことを思いながら、真剣に卒業公演を観ちゃったりして。。


前田敦子の話は置いといても、
この、無常感、常なるものは無いからこそ面白い、という感覚というか、


一歩進んで、
移ろいゆくものを感じながら、楽しみ、取り入れ、
代わり映えしない日常を少しでも色付けながら、柔軟にバランスよく対応していく、


みたいなことは、
実は自分のアイデンティティの、
ものすごく重要なところの一つだったりするなぁって、
あっちゃんを見ながらあらためて思ったので、ここに書いておく。