劇場版 カバさんのミシン

uncycloNana_shiのらくがき帳

おはなしその5 ドジソン博士とモルモット

(これは今朝考えていて、実際には時間がなくて話さずに帰りました)

 

ドジソン博士の大事なモルモットが逃げ出してしまいました。モルモットは博士が苦労して作ったすごい薬を、博士の目を盗んで全部飲み干したあとにどこかへ行ってしまったのです。絶対に見つけ出さなければなりません。博士は研究所の中を隅から隅まで探し回り、棚と棚の狭い隙間の中でじっとしているモルモットをようやく見つけました。モルモットはなかなか出てこようとしません。博士はモルモットの小さいお耳に指をひっかけて無理やり引っぱりだそうとしました。すると薬の効果が表れて、モルモットのお耳が博士に引っ張られるままにグイーンと伸びてウサギさんになってしまいました。ウサギさんはすごく怒っています。狭い隙間からぴょーんと飛び出して、窓からお外へタッタカタッタカ駆けていってしまいました。

「これはたいへんだ」ドジソン博士はあわててお外へ駆け出しました。でもなにしろウサギさんはとても足が速いし、博士はお靴を履かないままお外へ出てしまったので、なかなか追いつけません。しかし、長年の研究の成果をふいにするわけにはいきません。そこで博士は知恵を絞って叫びました。「ウサギさんや、あまいニンジンがあるよ!」ウサギさんは思わず立ち止まりました。すかさず博士の手がウサギさんのあんよをつかまえました。「ようやくつかまったわい」そう言うと博士はそのままウサギさんをさかさにぶら下げて連れて帰ろうとしました。すると、今度は体の重みであんよがビヨヨンと伸びて、頭が床に着いてしまいました。いまやウサギさんはウサギさんではなく、大きなあんよのカンガルーさんになっていました。

「しまった!」博士は叫びました。しかし手遅れでした。カンガルーさんはビヨヨン、ビヨヨンと、立派なあんよで大きくジャンプして逃げて行ってしまいました。さっきよりもずっと早くて、そのままではとても追いつけません。博士は大急ぎで研究所に戻り、カンガルーの赤ちゃんのぬいぐるみを持ってきて叫びました。「おーい、忘れものだぞ!」

おなかのポケットが空なのに気づいたカンガルーさんが大慌てでもどってきました。そこをドジソン博士がすかさずロープでふんじばります。「だましたな!」「怒ってももう遅いわい」博士は身動きの取れないカンガルーさんを肩に担いで帰ろうとしました。そうしたら今度は胴体が伸びて、カンガルーさんはロバさんになってしまいました。ロバさんはカンガルーさんに比べると足が遅いし、それにもうだいぶくたびれていました。お腹も空いています。博士もそうでした。長いこと一生懸命走ったので疲れて、お腹が空いていて、足の裏はちょっとすりむけていました。博士とロバさんは顔を見合わせました。

「博士、ニンジンまだある?」

「研究所にはないが、わしのうちにはあるよ。もうお夕飯の時間だ。お家へ帰ろう」

博士とロバさんは長い道をとぼとぼ歩いて、博士のお家に着きました。「ただいま」博士の様子を見て、おかみさんはカンカンです。

「まあ、なんてこと!大発明をしたからお金持ちになれると聞いて楽しみにしていたのに、そんなボロボロの格好で、お靴も売ってしまって、おまけにそんな変なロバさんまで買ってくるなんて!」

訳を話すには、ドジソン博士はあまりにも疲れすぎていました。

そんな博士に、おかみさんは怖い顔で言いました。「何かをお金に換えてくるまでお夕飯は抜きですからね!」かわいそうなドジソン博士。おかみさんに叱られて、大事な研究の道具を荷車に積んで、ロバさんに引かせて、これから町に売りに行きます。早く何か売れて帰ってこられるといいですね。

(おわり)

おはなしその4 ゴリラのゲンちゃんの話

日本のとある動物園にへんなゴリラがいました。

 

ゴリラといえばふつうお山をのぼったり下りたり、ちょっと喧嘩したり、食べ物やメスのゴリラをとりあってオス同士争ったり、争いに負けてふてくされて体の毛をむしったり、それはけっこう忙しいものです。でもそのゴリラはそういうことをなんにもしませんでした。

動物園のごはんの時間になってみんながなるべくたくさんの餌をせしめようとして争う中、そのゴリラさんは自分の分のリンゴなりバナナなりを一個だけ取って、手にお水のコップを持って、お気に入りのゴムタイヤのあるところまでぶらぶら歩くのです。そして地面に半分埋まったそのゴムタイヤの上にひょいと上ると、檻の前に集まるお客さんの顔なんかをのんびり眺めながら、バナナをゆっくりゆっくり食べて、食べ終わったらお水を飲んで、立派に突き出たおなかをじつに満足そうにさすりました。そして細い木の枝を一本折りとると、その枝の先でシーシーハーハー歯の間をせせるのです。そんなふうにしてそのゴリラさんは、ずっとおんなじゴムタイヤの上に居心地良さそうに座っているのです。

ほんとうの名前はゲンスブールといってとてもおしゃれなのですが、ゴムタイヤの上でくつろいでいる様子がまったくおしゃれじゃなくてそのへんのおじさんみたいなので、みんなからはゲンちゃんと呼ばれていました。お客さんに名前を呼ばれてもゲンちゃんは愛想をしません。檻をつかんで見守るニンゲンたちを悠々と見渡し、さっき食べたバナナがおなかの中でこなれていくのをうっとりと感じているだけです。

明日は朝から会社に行ってお仕事をしなくちゃ、そしてお昼休みには会社の自分の机についたままで20分や30分くらいでお弁当かパンをさっさと食べてまた仕事にかからなくちゃ、と思っていたニンゲンたちでしたが、ゲンちゃんの姿を見ていると、お昼休みはほんとは一時間あるのだし、いつものパンやお弁当を、近所の公園までちょっと歩いてベンチに座って食べるのもいいかもな、という気になるのでした。そして実際のところ、それだけでけっこう気分がいいのでした。お外でごはんを食べる人が増えました。やがて公園のベンチの数がちょっとだけ増えました。休み時間が10分くらい伸びました。

そのようにしてゲンちゃんのおかげで人々はちょっとだけ幸せになったのでしたが、ゲンちゃんはそんなことなんにも知らないまま、いつものゴムタイヤの上でのんびりごはんを食べて、ゆっくり歳をとって、しわしわのおじいさんになって、ある時とうとう死んでしまいました。ゲンちゃんのお世話をしていた飼育員さんは、ゲンちゃんがいなくなってしばらくたったある日、ふと思い立って、ゴリラさんたちがいない掃除のときに、ゲンちゃんのゴムタイヤに腰掛けて、持ってきたバナナを食べて、爪楊枝で歯をシーシーハーハーしてみました。夜風が肌に心地よく、ゴムタイヤからはゲンちゃんの匂いがまだ少しして、とても懐かしくなりました。でもゲンちゃんの気持ちは全然わかりませんでした。ゲンちゃんは自分の周りを見渡して、ニンゲンはいつも檻に入ってないといけなくて大変だな、あの人禿げてるな、あの子かわいい帽子かぶってるな、などと思っていたのでしたが、今は夜で、真っ暗で、お客さんも当然一人もいなくて、飼育員さんは疲れていたので、ゲンちゃんの気持ちをうまく想像することができませんでした。ゴムタイヤの上はまっすぐじゃなくて座りづらいな、とその優しい飼育員さんは思いました。(おわり)

 

(お猿さんの話をしろと言われて本当に思うままに一気にしゃべったのですが、仕事に行きたくない気持ちだけが伝わってきますね……)

おはなしその3 どんぐりの好きなクマさんの話

クマさんが冬ごもりの準備をしていると、狐さんがやってきました。「クマさんや、聞いたかい、リスの坊やのこと。きのどくにねえ」

「いや、知らないよ。どうしたって?」

「昨日からお家に帰ってないんだよ。リスのお母さんが大慌てであちこち探してる。坊やはどんぐりが大好きで、どんぐりをいっぱい持ってるひとのところへだったらすぐについて行っちゃうんだって」

「どんぐりならぼくも大好きだけれど」クマさんはつぶやきました。

「ひょっとしてきみのおうちに来てないかい」

「いや、見てないな。もし見かけたらすぐに教えるよ」クマさんは狐さんにそう約束してドアを閉めました。そして冷えた体を温めるためにベッドに入りました。クマさんは枕元にあるテディベアのぬいぐるみに話しかけました。「リスの坊や、どこでどうしているのやら、心配だねえ」

そうして寝床の中でいろいろ考えました。「そういえば、きのう家のドアをちゃんと閉めたっけ?もしリスの坊やが、ぼくの知らないうちに中へ入り込んでいたら?ぼくのどんぐりの貯えをきっと見つけただろう。昨夜ぼくはおなかが空いて、貯えをちょっとつまみ食いしたけれど、あのときはずいぶん寝ぼけていたな。坊やがどんぐりの山の中に隠れていて、ぼくがうっかりどんぐりといっしょに坊やも食べちゃっていたらどうしよう!」

気になりだすともう眠れません。クマさんは慌てて飛び起きてどんぐりの貯蔵庫へ走り、どんぐりの山を崩して隅から隅まで探しました。リスの坊やはいませんでした。「やっぱり気のせいかな」クマさんはホッとして寝床へ戻りかけ、そしてはたと気づきました。「とちゅうの廊下で踏んづけたかも!」クマさんは四つん這いになって目を皿のようにして、寝床まで続く廊下をよくよく調べました。リスの坊やが廊下でぺちゃんこになって見つかることはありませんでした。念のためお台所もよく探しました。やっぱりいませんでした。「寒いからベッドの端っこに隠れていて、ぼくがうっかりお尻で押しつぶしちゃったかも!」掛布団とベッドのシーツをはぐってみました。ベッドはきれいでしみひとつありませんでした。でもクマさんは安心できませんでした。居間の家具という家具をひっくり返しました。坊やはいませんでした。「そうだ、トイレとお風呂も探してみなくちゃ。ぼくのおうちのトイレもお風呂もすごく大きいから、坊やがうっかり落っこちているかも」クマさんの体はふるえ、目にはクマができていました。

そのときクマさんのお家のドアを叩くものがありました。狐さんでした。狐さんはほっとした様子で笑いながら言いました。「リスの坊やが泥だらけでお母さんのところへ戻ってきたよ。なんでも、どんぐりの隠し場所を忘れちゃって、あちこち掘り返して探しているうちに道に迷っちゃったらしいんだ。まったく人騒がせなことだよ。いや、ほっとした、ほっとした」

「それは……それは良かったねえ、本当によかった。貯えをなくしちゃったのはかわいそうにね。ぼくのどんぐりを少し分けてあげるといいよ」クマさんは貯蔵庫から両手いっぱいにどんぐりを抱えてきて、狐さんに渡しました。

「そんなにたくさん、いいのかい。少しでいいんだよ。リスさんはとっても小さいんだから」

「いいんだ、いいんだ、あげてくれ」クマさんはそのまま、たくさんのどんぐりをリスさんにあげてしまいました。正直なところ、当分どんぐりを食べる気にはならなかったのです。

狐さんが帰ったあと、クマさんはベッドに戻って、床に落ちたテディベアを拾い上げて話しかけました。「やあ、今日はすごく大変だったな。とっても疲れちゃった。……本当に、本当に怖かった」クマさんはちょっと泣きました。そしてテディベアをぎゅっと抱いて、ようやく安心してぐっすり眠りました。バニラのソフトクリームをいっぱい食べる夢を見ました。(おわり)

 

(話してる最中は我ながらいい話だと思ったんですが、一晩経って書き起こしてみると、ちょっと犯罪者の心理っぽいですね……なぜクマさんはリスさんと直接話さないんだろう?)

おはなしその2 おせっかいなスズメさんのはなし

スズメさんは餌場の近くのおうちで飼われているネコちゃんのことがずっと気にかかっていました。そのおうちのネコちゃんは夜の間じゅうずっと窓辺にいてお星さまを眺めていました。そして時々お手々をチョイチョイと動かしました。お星さまを取りたいのかな、とスズメさんは思いました。ある夜のこと、流れ星がおうちの屋根にひっかかっているのを見つけました。スズメさんはお星さまを拾ってネコちゃんに渡しに行きました。「ほら、どうぞ、欲しかったんでしょう」ネコちゃんはびっくりして言いました。「欲しいなんて言ってないわ、ただ見てただけなのに!かわいそうだから元に戻してきて!」

スズメさんはしかたなく星をまた屋根の上に置きに行きました。「ちがう!元はお空にあったものでしょう!」見ていたネコちゃんが言いました。「お空に帰してよ」とお星さまも言いました。

スズメさんはお星さまをくちばしにくわえてお空へ飛んでいきました。スズメさんはとちゅうで不安になって訊きました。「お空のどのへん?」お星さまが答えました。「もっと上!」ネコちゃんが下から叫ぶのも聞こえました。「もっと上!もっと上!」スズメさんは頑張ってもっと上まで飛びました。だいぶ長い間飛びました。そしてだんだん疲れてきました。「ねえ、まだ上?」スズメさんは訊きました。「もっと上!」お星さまは答えました。それでスズメさんはまたしばらくの間いっしょうけんめい上の方へ飛びました。そしてやがて本当にへとへとになりました。「ねえ、ここらでちょっと休まない?」スズメさんは言いました。「もっと上!もっと上!」お星さまは駄々をこねるように言いました。しかたがないのでスズメさんは気力をふりしぼって休まずにどんどん飛んでいきました。

こうしてお空にお星さまが一つ増えたのです。おしまい!

 

(ここで「どういう意味?」と訊かれたので、「わからない」と答えました)

おはなしその1 らっこちゃんと大きな石

(6歳の姪っ子のために即興でつくって喋ってぜんぜんウケなかったお話をいくつかここに残しておきます。悲しいので。)

 

らっこちゃんはおなかに平らな石をのっけて、そこへ貝をぶつけて割って食べます。そのための大事な石を、らっこちゃんはある日なくしてしまいました。朝の体操でバンザイをしたひょうしに海の中へ落っことしてしまったのです。らっこちゃんはとても悲しみました。でもそのままではごはんが食べられないのでがんばって代わりの石を探していると、大きな灰色の石がぷかぷか浮いているのを見つけました。へんな模様があってデコボコして、貝を割るのにちょうどよさそうでした。おなかに石をのせるとぺたりとくっついて、ちょっとやそっとのことでは落ちませんでした。「やあ、これは便利だ。」

らっこちゃんはお昼に大きな貝をつかまえて、おなかの石で上手に割りました。そしてらっこちゃんが貝の中身に手をのばす前に、お腹の石からニュッと首が伸びて、貝の中身をきれいに平らげてしまいました。じつはらっこちゃんが拾った石は石ではなくてカメさんだったのです。カメさんの首の動きはとてもすばやくて、らっこちゃんはのんびりしていたので、石がほんとはカメさんなのも、ごはんを横取りされてしまったのにも、らっこちゃんは全然気づきませんでした。「この貝、手で持ったときにはずっしりしていたのに、空っぽだったのか、ざんねんだなあ」らっこちゃんはため息をついて貝がらを海に捨て、次の貝を探しました。ようやく見つけた次の貝も、あっという間にカメさんに食べられてしまいました。らっこちゃんはまた何にも気づきませんでした。

 

こんなことがずっと続きました。

 

むかしは貝をいっぱい食べてよく太って大きかったらっこちゃんでしたが、だんだんやせて縮んでいきました。反対におなかの石、つまりカメさんは大きく重くなっていきました。らっこちゃんはもうふらふらでした。ある日のこと、ついにおなかの石の重みにたえきれなくなって、らっこちゃんは石を海に捨てようと思いました。でも石はぴったりおなかにくっついてとれません。らっこちゃんが今にも海に沈みそうになったそのとき、カメさんの首がニュッと伸びて、大きな頭についた大きなお目目がらっこちゃんを見ました。そして大きな口を開けて、らっこちゃんをぱくりと一口で飲み込んでしまいました。らっこちゃんは今カメさんのおなかの中で、カメさんが食べたお魚やなにかをちょっと分けてもらって暮らしています。(おわり)

ゴンベズ・フィーバー 1

おばあちゃんは目の前を駆けている鶏の首を山刀でさっと刎ねた。首無し鶏はそのままおれのところへ走ってきた。おれは思わず泣きだした。「嫌だ、嫌だよお、おれもう帰りたいよ、ばあちゃん家くるといっつもこうなんだもん」

「怖がりだねお前は。じきに慣れるさ。お前の父ちゃんだって大丈夫だったんだから」

おばあちゃんはしわしわの口をすぼめてうまそうに煙草をふかし、おれの顔を覗きこんで言った。

「そろそろ払っておくれよ。家賃。もう四か月もたまってるんだよ」

「えっ?」

アパートの大家のオヘアさんだった。いつにもましてものすごい形相でこちらを睨みつけていた。

「せっかくいい気持で眠っていたのに」

「うなされてるように見えたがね。まったく。こんなに汚くして。この床の酒瓶の山ときたら!ハエがたかってるじゃないか!それに一体何だいこりゃ。子供用かい?」そう言ってオヘアさんは壁にかかっている黒いタンバリンを指ではじいた。

「そのハエとタンバリンとの間におれの宇宙があるんですよ」

「その汚いソファのことかい。冗談じゃないよ。いい加減にしないとあんたそこで寝たまま腐っちまうよ」

おれは穴の開いたハンチングを顔にのせて再び眠ろうとした。オヘアさんは低い唸り声をあげてソファを蹴っ飛ばした。体じゅうにびりびり来た。それでも動くまいとしているところへ、開いたままのドアをわざわざノックする音とともに、よく知った声がした。

「やあ、オヘアさん。大変そうですね」

「あら、警部さん!警部さんからもなんか言ってやってくださいな!」

ハンチングの穴から恐る恐る覗いてみる。半袖のワイシャツにはちきれんばかりの太鼓腹。卵型の頭。いつも眠そうな目。元上司のイーサン・ダル警部だった。警部は腹をゆすりながら、ソファの前のスツールに大儀そうに座った。

「おい、フェリックス、どうしちまったんだ一体。アレクシスから電話もらってびっくりしたぜ。もう三度も面会をすっぽかしてるそうじゃないか。ミンさんの店にもずっと出てきていないようだし」

「あんなとこもう辞めたよ。あのおっさん6時半から店を開けやがるんだよ。そんな早くから誰も来やしないのに。イヤんなるぜ。カウンターにいるだけで揚げた魚の匂いが体にしみついて、洗っても取れやしない」

「あれは良い匂いだろうが。お前が臭いのはずっと酒飲んで寝てるからだよ。最後にシャワー浴びたのはいつだ?歯ァ磨いたのは?もう覚えてないんじゃないのか?しっかりしろよ。ひとのせいにするな。しっかり身繕いをして、そのピンク色のしょうもないワイン以外の、もっとまともなものを腹に入れろ。そうすりゃ頭もすっきりするさ」

「先立つものが無ぇ」自分でも信じられないくらい情けない声が出た。数秒の沈黙ののち、深いため息とともにスツールがきしんだ。警部が札を三枚指で数えて床に置く音がした。おれはぼろきれみたいな毛布の下から光の速さで手をのばして床の上の紙幣をおさえた。その手首を警部の太い指が思い切りつかんだ。

「取ったな!たしかに取ったな!あたらしい仕事の前金だそれは。必ず受けてもらうからな」

おれは恐る恐る手をどけた。札が二枚と、その下に、二年前に取り消されたはずのおれの探偵のライセンスがあった。「マジかよ、どうやったんだこれ」

「苦労したんだぜ。やるか?」

「やる!」おれはソファから跳ね起きた。

「詳細は追って知らせる。電話に出ろ」そう言い残して、でかい腹をゆすりながら警部は去った。高校生くらいの頃に読んだ小説に出てきたビア樽の天使を思い出した。

おれは形から入るタイプだ。床にいくつも転がった酒瓶をゴミ袋にまとめて、とりあえず全部ベランダに出した。床をざっと拭き、汚れた肌着を捨て、熱いシャワーを浴びて髭をそった。茶色いスーツを着て、緑のハンチングを深くかぶり、洗面所の割れた鏡をのぞいてみる。ジャケットのボタンがどうしても留められないが、そう悪くない。『フェリックス・ゴンベ探偵事務所』の看板をどこにどう出そうか考えながらデスクを片付け、ペン皿と電話を取りやすい位置に置いて、そのときようやく思い出したのだが、電話が止められていた。

(続く)