悼む記憶
けさ一緒に洗濯物を畳みながら、それぞれの仕事の予定について話していた。とき……
「お墓にお花供えに行くなら(予定キャンセルして)一緒に行くからね」
と言われた。
私は兄の命日を1日遅く記憶してしまっている。6月13日だと思ってしまっているのだ。理由が判然としないから、そのことがコンプレックスだったりもする。
そのことをウネリに話し、ここ数年は是正できていたようだが、やっぱりだめだ。
洗濯物を伸ばしながら、ウネリが言った。
「いいんじゃない、マイさんにとってのカツヤさんの命日は13日で」
ありがとう。
みなさん
おやすみまた明日。
ごはんの話
こんにちは、ウネラです。
こちらではだいぶご無沙汰しているにもかかわらず、突拍子もない話ですが、私はあまりごはんを食べるのが得意ではなくて、そのことについて実はけっこう悩んでいます。
昨年末に少しウネリとふたりで話すことがあって、
「最近はけっこう食べられるようになった~一時期やばかった~」
みたいな話を冗談ぽく私が話したところ
「ウネラさんはコンスタントに何かをするのがたぶん苦手なんだよね。食事もそのひとつなんじゃないかな」
と言われました。さらにウネリは
「自分はウネラさんの食については何も言えない。ただ、ウネラさんが食べられない時でも、きちんきちんとごはんを食べている自分たちに対して、ウネラさんが何も文句を言ってこないって、すごいことだなと思うんだよね」
と続けました。
つまり、食べられない(食べるのがつらい)人と、めちゃくちゃ美味しそうに食事を楽しむ人びとが同じ場所にいてもコンフリクトが起きないということが、ある種奇跡的だし、それがどういうことなのか、みたいな話かなと思います。
「思います」と言っているのは、それについてまだ私が考えていて、じゅうぶんに言葉を継げなかったからです。
私自身、ウネリや一緒に住む小さな人たちからは「食べること」や「健康的であること」を強要されることがないので、多少楽観的であることができています。
そうは言っても、「それで良いのか」と自問することからは逃れられないのですが。
万人受けする話ではない話ではないかもしれないのですが、私にとっては大事なことだと感じたので記録しておきます。
ウネリのこと②海へ
まだまだ行きます、きょう3本目の駄文。
過去記事みたら「ウネリのこと①」というのがあって、案の定その後が続いていないので、書いてみますね。
今ウネリは石巻に絶賛出張中であります。
一昨日朝4時半ごろに家を出て、何やら漁船に乗せていただいたようですね。
そこでデジカメを取り出してシャッターを切ろうとしたら、
「スカッ」ってなったらしいんですね。
SDカードが入っていなかったそうです。
カメラマンさん同行の取材(←滅多にない、フリーになって初では?!)で
ほんっとによかったね!!!
カメラマンの方にも取材先の方々にもとても良くしていただいているとのこと。
などを告げる電話が昨日夕方4時ごろにかかってきてですね、いわく
「今から寝ます」
と。なんでも今日は午前2時頃から船?らしいのですね。
「つくづく勉強になる」と申しておりました。
お土産は、あるのかな?
ないなら私はマルト一平に行きますよ、今日は。
あっても行きます、マルト一平。
最近インスタ始めたっていうから、速攻フォローしたよね。
https://www.instagram.com/marutoippei/
でも私は断然ブログ派。マルトブログ好きです。
ウネリの話じゃなくなっちゃいました。
それでは~
動揺したこと
今日は立て続けにいきますよ~!
先ほどアップした記事の関連で。
私は新聞記者時代トラウマになるような事件にあい、それにより心身を壊して会社を辞めたという経緯があります。
物書きユニット「ウネリウネラ」では主にウネリの取材記事を編集する「デスク」業務をやっています。
版元「ウネリウネラ」では『らくがき』というエッセイ集を書きましたが、それはあくまで自分の身の回りのことを自分の視点で書いているのであって、単独で誰かに取材して書くということについては、たぶん一生無理だし、進んでやりたくもないな、と思っていました。
新聞記者時代のことがすぐ蘇ってくるからです。それは今でも物凄くつらい。動悸がしてきて、わけもなく涙が出たり、息がしづらくなってくるんですね。
ギリギリできて、ウネリの取材補助くらいまで。メモを取ったり、文字起こしをしたり、写真を撮ったり。口はいろいろはさみますけど(苦笑)
もとい~もとい~
今回の中村晋さんとの企画は、はじめは「ウネリウネラ」で、と考えていたのですが、中村さん宅でウネリとともにお話を伺って、これはとても大事なことだから、別の媒体でより多くの人たちに届けたいと強く感じました。私は少しばかり俳句をやるし、中村さんは俳句の師でもあるんです。
で、作品を軸とした構成にするなら、ウネラが書くべきでしょうと、ウネリの後押しがあったわけです。
しかしまだまだ通常の記者さんのように対面でバシバシ取材できるほどには、残念ながら回復していないウネラ。そこで中村さんに「メールでの往復書簡方式」を提案し、快諾していただいたのでした。メールで私が質問を送り、それへの返答をいただくと。
そしたらですね。中村さんから帰ってくる回答の文章すなわち記事、くらいのクオリティなわけです。手入れ不要。これは編集者的にやっていれば大丈夫かなとほっと胸をなでおろしていました。
ところがどっこい。マガジン9の編集者さんとやり取りし、いよいよ記事の体裁が固まってきて、掲載日が迫って来るや、ものすごい不安に苛まれ始めたのです。
うまく説明できませんが、自分のことを書くのと、誰かのことを書くのは、やっぱり全然責任の重さが違いますし、誰かに取材して記事を執筆するという行為自体が、まだ自分にはトラウマ的なんですね。
動悸をはじめとする小パニックは掲載日午前にピークを迎えました。
病院を受診し(たまたま予約受診日だった)終え、外に出たところで編集担当さんから公開を知らせるメールが。画面上にはヤン・ヨンヒさんのインタビュー!(←普通にうれしかった)
早速記事を確認。邪念を振り払って読む。
全身の力が抜けましたね。
気づいたら、深呼吸できていました。
中村さんにも即送信、OK。
ウネリの迎えを待つ間、涙ぽろり。そして放心。
こんなにもまだ、いろんなことがスムーズにできないんです。
もの凄い振れ幅。ガーっと書いて、落ち込んで寝込む。
でも、この企画をあきらめたら、また自信を失うし、後悔するだろうと思いました。
無事1本出せてよかったし、みなさんの協力を得ながら、連載はやり切ります。
いろいろ回復してきていると思っていたけれど、まだ全くだめな自分に動揺したという話です。だけど、会社を辞めた当時は数年後に記事を書くなんて予想もしていなかったし、他人とまともに話すことができるようになることさえ、想像できませんでした。
説教くさいのはいやなのですが、生きていると何があるかわからないというのはありますね。悪いこともあるんだけれども。「今ここ」では思いも及ばない「回復」とか「良いこと」とかも、あり得るんですね。
当たり前のことを言っているとお思いでしょう。
でも、私はなんか自分がブツブツに切れていて、それらをつなげられないどころか、切れた自分が散らばって拾いきれない感覚がいつもあるんです。だから、なんか過去のある時点の自分と今の自分とを同一人物だと思えないところがあるんですよね~。。。
すみません、散らかってて。
でも書き留めておきたくて。
中村さんといつも支えてくださるみなさんに、改めて感謝します。
今は全然元気です!次回の編集にも取りかかっちゃってるくらいですから、
みんな、読んでね!
取り急ぎ、お知らせ――久しぶりに記者的な仕事をしました
お久しぶりです、ウネラです。
ご無沙汰記事で早速ご紹介ですが、10年以上ぶりくらいに記者的な仕事をしました。
マガジン9さんで連載スタートです。
テーマも責任重大だし、簡単なことではありませんでしたよ。
ほとんど中村晋さんが書いてくださっているようなものですが(苦笑)
記事アップまで胃がキリキリ痛かったです。
記者時代も、記事掲載前日と当日無事に終わるまでは、気が気ではなかったですね。最後まで全然慣れなかったですね、それは。
臆病者なので。
とにかく頑張って書いたので、
読んでくださいっ!
それではっ!!!
かっこいい言葉
長いこと、うちではウネリが子を寝かしつけています。ウネラは入眠にすこし壁があり、まだお薬の力を借りないと眠れないので、別の部屋でひとりで寝ています。
そのことに悩んだりした日もないではなかったのですが、子どもたちにもその理由を話し、理解を得られていると感じているし、生活には何の差し障りもないと思っています。
で、ここからが本題なんですが。
子どもたちは毎晩ウネリに寝物語をせがみます。ウネリもそれを喜びとしているように見えます。時々子どもたちがその内容を話してくれるのを、私も楽しんでいます。
ところが先日、子どもたちを送り出した後、ウネリが神妙な面持ちで
「昨日は(寝物語が)大不評だった」
と言いました。
「やっぱりどっかから持ってきた話じゃダメなんだ。オリジナルじゃないとウケない…子どもには見透かされてるんだ…」
一体何が?!
聞けば、ウネリがいわゆる「正直村と嘘つき村」の話を盛り込んだそうなのです。
「正直村」の概要についてはこちらをご参照ください↓
http://nazo-nazo.com/sp/cat400/post-83.html
うちの子どもたちは謎解きやクイズが大好きです。考える時間を与えて間を持たせようというウネリの意図もあったかもしれません、
が、しかし。10歳の子がこう言い放ったというのです。
「クイズはいらない。物語がほしいんだよ」
何それ、なんかかっこいいんだけど〜
と、ウネラは思ったのであります。
昼間と寝入り時ではニーズも違うのかもしれませんね。
というわけで、ウネリの連続長編寝物語を、ウネラは隣の専用寝室から全力応援しています。
ずっと思っていること
ウネラです。
少し前からから、亡き兄の看護記録ノートを、パソコンで書き起こす作業をしています。
3年8カ月分あるので、1日に2日分くらい書き起こし続けていけば1年半くらいでとりあえず全文電子データに移行できるかなと思っていたのですが、予想を遥かに超える苦行で、1日に2日分どころか、数行しか打てない日もあります。
兄が倒れた時、私は小学4年生で、当時はいろいろわかっているつもりでいたのですが、やはり全然わかっていなかったことが、次から次へと出てきて、頭と心が大混乱です。
兄は初期の頃、隣県の大学病院のICUに入っていたので、私は祖父や親戚の車でたぶん2時間くらいかけて面会に行っていました。
両親は病院に付ききりなので、その頃は半日に1回病院で数時間会うのですが、「半日で人はこんなにもやつれていくのか」と、両親の顔を見るたびショックを受けたことをよく覚えています。
両親は兄が目をさまし回復してほしいとの一心で、付き添い(その後看護へと変わっていきます)続けているわけですが、そのことによって両親たち自身からどんどん生気が失われてしまうということを、どう捉えればいいかわかりませんでした。
はっきり言えば、「このままでは両親まで死んでしまうかもしれない」と感じ、怖かったのです。
実際、親は「自分の命と引き換えに」と思っていたと思うし、いろいろな人からそのような旨の言葉も何度か耳にしました。
けれど、私は誰かを救うために誰かが犠牲になったり「死んでも良い」という心持ちになるという理屈はおかしいし、悲しいと考えていました。(一切口にはだせませんでしたが)
私ももちろん、兄の回復を心から願っていたけれど、どこか疎外された気持ちがわだかまっていました。
「生に対する動機」みたいなものが、わからなくなってしまった。
その後両親は自らの手で兄を看護することを通じ、それを得たように、私には見えます。
けれど、まだ子どもでそこにもあまり関わることができなかった私は、兄から受けとるべきものを、充分に受けとることができないまま、ずっとここまで来てしまったように感じています。
看護記録の電子データ化は、その先に確固たる目的があるわけでもないのですが、いまの私に必要な写経のようなものなのかな、と思っています。
この命題と正面から向き合った先に、真の自分の人生を生きられれば良いなと思います。
無理しないで、休み休み。