先人の言葉に見る業務引き継ぎや人材育成のポイント
ぽっど@univ_pdcaです。
今回は業務の引き継ぎ、広い意味での人材育成について、考えてみたいと思います。
大学職員は、民間企業の会社員と同様、数年ごとに異動するのが一般的です。したがって、業務の引き継ぎや人材育成の必要性が出てきます。
しかし、人に教えること、人を育てることは、苦労を伴います。なぜなら、自分自身がコントロールできる範囲を越えたところ(他者)を扱うことになるからです。
また、教え始める時点では教える側(自分)のほうが当然仕事を理解しているので、仕事を任せた時にもどかしい部分が出てきます。
それをぐっとこらえなくてはいけないのも、人材育成の大切なステップです。
この記事では、まずは人材育成に関連した3つの先人の言葉をご紹介し、あるべき人材育成のポイントを考えます。
ことわざを含め先人の言葉は数多くありますが、21世紀となった今もなお残り続けている言葉は、それなりに真理をついているからこそだと私は考えています。
そのあとで、大学業界でよくある「人材育成」の例を見てみます。
先人の言葉1 「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
元海軍軍人の山本五十六のこの言葉は、人材育成やリーダーシップなどを語る際によく取り上げられます。内容はそのままといえばままなのですが、ざっくりいえば以下のようなことでしょう。
まずは自分が実際に模範を示し、内容を説明して理解してもらい、その後相手に実際にやってもらい、適宜ほめること。
特に「やってみせ」と「させてみて」の部分が肝要かと思います。自分がやってばかり相手に任せないのはダメ。自分がフォローせず相手にやらせっぱなしもダメ。
つまり、人材育成は一朝一夕にできるものではなく、ある程度のステップを踏んでいかなければいけないという意味で、教える側に「忍耐」が必要だとも言っているように私は思います。
先人の言葉2 「守破離」
日本が大切にしてきた、「道」における師弟関係についての言葉です。何百年も前に生まれたものだと言われています。
辞書には以下のように紹介されています。
剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/268601/m0u/ goo辞書より
これを私たちの職場ではどう解釈できるでしょうか。
教える側の視点に置き換えると、まずは自分が教えることを相手に身に付けてもらい(「守」)、そこに他大学の事例や相手自身のこれまでの経験などを参考にしつつより良いものを試行錯誤してもらい(「破」)、自分なりの改善を加えたやり方を確立してもらう(「離」)。
私は、この守破離の考え方に、仕事の引き継ぎ方やマニュアルの正しいあり方があると感じました。守破離の考えでは、はじめに教えられたものを「型」と呼ぶことがあります。
これを「マニュアル」に置き換えて、先ほどの文章を再解釈してみましょう。
(1)マニュアル(型)の内容を相手に身に付けてもらう(「守」)
(2)マニュアルの内容をもとに、他大学の事例や自身の経験などを参考により良いものを試行錯誤してもらう(「破」)
(3)自分なりの改善を加えたやり方(新しい型)を確立してもらう(「離」)
つまり、マニュアルというのはあくまで「型」であり、そこからはみ出てはいけないということではないということ。もちろん、はじめはマニュアル通りにやってよいでしょう。
しかし、実際にやっていくうちに、ひょっとしたらより良い別のやり方を思いつくかもしれません。また、環境の変化などで当初のやり方を変えざるをえないときも出てくるでしょう。マニュアル(型)は参考にされるべきですが、永遠不変のものではありません。状況に応じて臨機応変に用いられるものです。
そして、この流れをそのまま推し進めると、4つ目の段階があることがわかります。お分かりでしょうか。それは、
(4)確立した新しいやり方(新しい型)をマニュアルに反映させる
というものです。
古い「型」からはみ出た結果成功したのであれば、「型」を古いままにしておくのではなく、新しい「型」を標準として見える形にして将来につないでいくことによって、仕事をするうえでの基本中の基本である、PDCAがしっかりと回っていくことになります。
ちなみに、「前例主義」「マニュアル人間」になるかならないかの分水嶺は、「守」から「破」の段階へと移れるかどうかではないかと私は思っています。
「守破離」は、短いですが奥深い言葉ですね。
先人の言葉3 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
ドイツ帝国宰相であったオットー・フォン・ビスマルクの言葉です。
この言葉は、自分の経験からばかりではなく、他人の経験から学ぶことの大切さを説いています。具体的にはどういうことなのでしょうか。
まず、この言葉の前半のポイントは「すべて最初から自己流でやることは避けよ」ということ。もちろん、失敗することは成長するのに大切なステップであり、失敗からでしか得られないことはたくさんあります。実際、本田宗一郎など成功者の多くが失敗の必要性を語っています。
一方で、無駄とまでは言わないものの、得るものが少ない失敗というものもまた存在します。例えば、少し考えれば、または少し調べれば避けられる失敗からは、学べることはそう多くはありません。
それでは、どうすればよいのでしょうか。
答えは後半のポイントである「他人の事例を参考にする」ということ。これは守破離の「破」でも必要となる視点ですね。いま自分が直面している疑問、課題、困難、チャレンジは、ひょっとしたら既に他人(他大学)が経験しているかもしれません。
成功であれ失敗であれ、その事例を知ることができれば、自分たちに応用できる可能性は大いにあります。
人を育てる際にこのことを教えてあげれば、教えられた側が今後何かの壁にぶつかった時に、自分ですべて消化しようとせず、他部署や他大学でうまくやっているケースはないかということに必然的に目を向けてくれることと思います。
以上のように、先人の言葉には多くのヒントを見出すことができます。
皆さんの職場での状況はいかがでしょうか。
不思議なことですが、大学は人を教育する機関でありながら、内部のスタッフを教育したり、うまく活用したりするのが得意でないように私には見受けられます。
ここからは、3つほど改善すべき例をご紹介したいと思います。
改善すべき例1 仕事を抱えてすべて自分でやってしまう
山本五十六の言葉にも「させてみて」というくだりがありました。相手に任せてみること。これが人材育成において大切な段階のひとつです。
長年同じ人が同じ業務を担当していると、どういった仕事をしているのか周囲からは分かりづらいブラックボックス状態になりがちです。
それを避けるために複数担当制にしても限定的な仕事しか共有させてもらえず、根っこの仕事はその人しか分からないまま、といったパターンが多いのではないでしょうか。
こういった行動の背景には「人に任せると自分の思ったとおりにいかない」という認識があることが多いと思われます。
これはある意味では当たっています。長年同じ人が担当していた業務を、まったくの別人に切り替えれば、一時的にそれまでよりも仕事の質が下がってしまうことは往々にしてあります。
しかし、だから自分でやったほうが早い、とするのは長期的な視点、人材育成の観点が欠落した利己的な発想と言われても仕方ありません。
もうひとつ、こういった人たちの中には、仕事の内容を自分なりのこだわりや専門性に合わせて変質させてしまう「職人技化」させる傾向もあるので、やっかいです。
大学職員という職業は、ある程度の専門性を持ちつつも数年スパンで異動する宿命にあるのですから、仕事は替えがききづらくなる「ブラックボックス化・職人技化」ではなく、やっている内容を可視化して、将来誰が担当しても良いように「標準化」していくことが求められます。
改善すべき例2 ろくに引き継がず相手に仕事を投げてしまう
今度は逆の例です。守破離でいう「型」を一切示さず任せっぱなしにしてしまうというものですね。
このタイプの根っこにあるのは、「任せる」と「放置」の混同です。
こういった人たちの中には、自分自身がそうやって先輩から仕事を引き継がれてきたという人もおり、「自分でやりながら覚えていくことこそが仕事だ」という事実誤認をしていることが多いのがやっかいです。
まず教える相手に対して、自分が手本を見せるなりマニュアルを共有するなどして型を提示し、駆けっこで並走するように仕事を一緒にしていく期間を設ければ、足らないところやイレギュラーなトラブルなどをフォローしながら教えられるので、担当が変わった際に仕事の質が急落することを防げます。
改善すべき例3 マニュアルを作らない
前の2つの現象どちらにおいても見られる関連現象です。
また、これについては意外と優秀な人でも誤解していることが少なくありません。
山本五十六の「やってみせ 言って聞かせて」、守破離の「型」、ビスマルクの「賢者は歴史に学ぶ」で見てきたように、それまでの仕事のやり方やポイントを示すマニュアルは必要です。
そうしなければ、いつまでたってもKKD(経験・勘・度胸)に頼ったまま、すなわち仕事が人にくっついたままになってしまいます。
マニュアルの内容は業務の性質によって大きく変わってきます。
単純作業など定型的業務であれば作業手順書のようなものになるでしょう。
非定型的な業務であれば、仕事の全体像や流れ、判断にあたってのコツやポイントを見える形で示す必要があります。
これは、教えられる側がほぼゼロからスタート、ということのないようにするための最低限のことです。
マニュアルを作るのは面倒な部分もありますが、業務の概要を記したメモ程度のものでもよいので、残しておきましょう。一番楽なのは、仕事をやりながらマニュアルを作っていく&修正していく方法です。
以上見てきたように、人材育成とは労力のかかることです。
しかし、ここをおろそかにすることは、苦労の先延ばしに他なりません。
改善すべき事例を3つほど挙げましたが、いずれに共通するのは「自分」や「今」といった限定的な視点です。「後任の人がスムーズに仕事ができるようにする」「いつ自分が異動しても穴が開かないようにする」といった部分にも意識を向ければ、おのずとやるべきことは見えてくるでしょう。
まとめ
- 「いつ自分が異動しても大丈夫なようにしておく」くらいの気持ちでいましょう。
- 仕事は抱えすぎず、任せっぱなしにしすぎず。「任せる」と「放置」は違います。
- 人を育てることは、ある程度の忍耐が必要です。
手段の先にある目的を意識して仕事しよう
ぽっど@univ_pdcaです。
少し前にテレビを何気なく見ていたら、川崎市の中学生殺害に関する事件に関連して、教育学者の尾木直樹(尾木ママ)先生がおよそこんなことを言っていました。
- 中学校の担任教諭は事件が起こるまでに(不登校状態だった)被害者の家庭に対して「家庭訪問5回、電話は合計34回した」と言っている。しかし、これは評価されるべきことではない。
- 担任教諭は不登校児童が発生した場合、その家庭に対して訪問や電話をする定めがあり、電話したら日時をそのつどExcelに記録し、年度末に校長に提出することになっている。記録はそのための資料に過ぎない。
- 不登校の生徒に対する電話やその記録は「手段」であって「目的」は不登校児童の実態をつかむこと。
- そのことを理解せずに100回家庭訪問や電話をしたところで意味はない。
- 今回の事件は、クラスの生徒に聞けば解決できていた問題。
- 電話した日時の記録が「こういう風にやってましたよ」と外部に説明するための証拠作りになってしまっている。
ここで、中学校や教育委員会側が別の対応をしていたら被害者を救えていたかどうかについては焦点にしません。
重要なのは、尾木先生の「証拠作り」という言葉です。「アリバイ作り」とも言い換えられると思います。
尾木先生の言葉を噛み砕くと、「目的と手段を取り違え、目的を果たせる手段だったかどうかの視点を伴わずに『自分はこういうことをやった。やるべき仕事はした』と主張するのは誤りだ」ということではないでしょうか。
このような目的と手段の関係は、しばしば山登りに例えられます。
(1)目的(山頂)はひとつであること、(2)その目的を達成する(山頂にたどり着く)ための手段(ルート)は複数ありえること。(3)状況が変われば、正解となる手段(ルート)も変わること、などが共通しているというものです。
仕事には必ず目的があります。
言い換えれば、何かの目的を達成するために仕事があるということです。
したがって、目的を達成しているかどうかという部分に目を向けることは、日頃仕事をする上での基本となります。
しかし残念ながら、冒頭の例のように目的よりも手段に意識が集中されるケースは私たちの身の回りでもしばしば起きます。そして、ここでいう手段の多くは、「形式」や「手続き」に置き換わります。
いくつか例を挙げてみましょう。
「キャリア妨害」(東京図書出版、2011年)という書籍があります。
民間企業を経てある公立大学に転職した筆者・菊地達昭氏が、同大学での経験を退職後にまとめた書籍です。
この書籍は、かなりストレートに大学職員の仕事についての問題点を指摘しているという意味では読む価値は大いにあるのですが、一方で、記述がかなり偏っている箇所も多く見られるという、評価が難しい書籍です。大学側もこの人にはきっと手を焼いていたのだろうと推測できます。
さて、この書籍で参考になった部分のひとつにペットボトルを買うのに見積書が必要、というくだりがあります。
同書によれば、その大学はペットボトル1本買うのでさえ見積書・納品書・請求書を出さなくてはいけないルールがあり、「物事の本質より常に手続きを重視する」と指摘しています。
おそらく、その大学で書類を出させる目的としては、
1)不適切に高い金額で買うことを防ぐ
2)架空請求を防ぐ
の2点かと思います。
しかし、同書にも書いてあるとおり、これらの目的を達成するためのやり方(手段)には問題があると言わざるをえません。それは、購入先がペットボトル1本を買うのに3点の書類を出してくれる業者に限られてしまうことや、書類を経理に提出する手間かかるということいったことだけではありません。
もっとも問題なのは、書類さえ揃っていれば大学側は何も言ってこないという点です。同書ではそれを「形式主義」「手段の目的化」と切り捨てていますが、これは今回の記事のテーマとまさしく合致します。
目的を達成するのにベストな手段は、その時の状況に応じて変わります。これまでやってきた手段をこれからも続けることが正解とは限りません。
したがって、形式的な要件を満たしているから内容面は何でもOK、というのはおかしな話です。
自分たちがとっている手段が目的を達成しているかどうか、このことにもっとも意識を向けるべき点です。
「シュートは自分は打った。ただしゴールしたかどうかは興味が無い(自分は悪くない)」という姿勢は無責任ですし、組織にとって大きなマイナスです。
ペットボトル1本で見積書をとる例はやや極端かもしれないので、似たような例として、稟議について考えてみましょう。
おそらくどこの大学も、ある程度の金額以上の契約など重要な案件については稟議書などの書類を上司や関係部局に回すことになっているかと思います。
ここでの手段は「稟議書を回すこと」。目的は「上司に担当者の案をチェックしてもらい、その実施の可否を決めてもらうこと」です。
もし皆さんの大学で、上司が印を押す際に書類をしっかりチェックし、中身について疑問点を尋ねてきたり、時にはツッコミを入れてきたりなどしてくれるならば、稟議の本来の機能が働いている可能性が高いでしょう。(ただし、稟議を出す担当者からすれば口うるさいと思うかもしれませんね)
しかし、もし稟議書の提出が形式的になっていて、色々な人のハンコが押されるけども中身については常に何も聞かれず承認される、ツッコミが来るとしても書式や形式的な部分しかない、形式や手続きを満たしていれば中身の妥当性はまず問われない、といった状況であれば、残念ながらその大学の稟議システムは、本来求められているはずのチェック機能が充分に働いていないかもしれません(責任意識の分散化には寄与しているかもしれませんが…)。
最後の例として、情報の発信について考えてみましょう。
学生向けにとある手続きに関する情報を発信することになっているとします。ここでの目的を「正しい手続きの仕方が学生にちゃんと認知・理解されること」としましょう。
そして情報発信後、手続きについてほとんど理解していない学生からたくさん問い合わせが来たとします。
そこで、「最近の学生は掲示すら読まない。こちらは所定の掲示板にちゃんと掲示を出している」と学生の至らなさで思考を終わらせてしまうのと、「問い合わせが多数来たということはこちらの情報の発信方法にも問題があったかもしれない。学生が認知しやすい場所や方法を次回から工夫しよう」と考えるのでは大きな隔たりがあります。
もちろん、発信された情報を読まなかった学生側にも落ち度があるケースもあるでしょう。ですが、情報の発信側としても、前年踏襲でそのまま続けるのではなく、必要に応じて手法を変えていくことが重要です。
この手段と目的の話は実は色々な話につながってきます。
目的の達成を意識するということは、結果に責任意識を持つことです。それはつまり当事者意識を持つことでもあります。
また、目的達成のためにベストな手段を考えるとういことは、従来のやり方にとらわれない思考を持つことです。それはつまり、変化を引き起こします。
大学は手続きや書類といった形式をとても重視する風土があります。もちろんそれらは一定の役割を果たしていますし、これまでのやり方についても尊重する必要はあります。
しかし、数年前にベストだった手段が、今もなおベストであるとは限りません。いえ、そもそもその時にとった手段がベストでなかった可能性もありえるのです。
私たちは目の前の仕事に追われがちですが、時にはふと立ち止まり、今の仕事のやり方やあり方を見直す機会を持つことが必要だと私は思います。
まとめ
・すべての仕事に目的があります。
・目的を達成するための手段は複数あります。そして、ベストな手段は時と場合によって変わります。
・今やっている仕事の目的は何か、目的を達成しているかどうかを意識していますか。
自部局にとってのプラスだけでなく組織全体にとってのプラスを考えよう
ぽっど@univ_pdcaです。
前回の記事で、視野を広げることの必要性を、「虫の目」「鳥の目」の例を用いてご紹介しました。
今回からもう少し具体的な内容に踏み込んでいきたいと思います。
上の記事で、視野を広げるアプローチにはいくつかあることをお話しました。
その中でも、組織全体の観点からものごとを見ることというのは重要なアプローチのひとつです。上の記事で引用したトヨタの記事にもあったとおりですね。
虫の目、鳥の目の構図を当てはめると「自部局 ⇔ 組織全体」という関係ですね。言い方を変えれば、「部分最適」と「全体最適」の話でもあります。
今回はこのことについて考えみましょう。
ところで、私たちは基本的にどこかの部局に所属して仕事をしています。
各部局には何かしらの目標やミッションが課されていて、それを達成するために課員たちは日々努力します。
そうした各部局の目標やミッションは上位組織の目標とリンクするのが一般的なので、各部局にとってプラスなことは、基本的には組織全体にとってもプラスとなります。
例えば、「志願者を入学定員の◯.◯倍以上集めること」という目標があったとします。これは募集(入試)の部局とってのプラスとなる目標ですが、同時に大学全体にとってもプラス要素です。
一方で、目標を達成する過程で必要となる資源、いわゆる「ヒト・モノ・カネ」が絡んでくる案件は、個別部局と組織全体ではプラスマイナスが一致しないことがあります。
まずヒト(人員)についてを例にあげて考えてみましょう。
「忙しいから職員を増やしてほしい」と主張する部局があったとします。
一般的に、人が増えることは単純にマンパワーが増えるので、その部局にとってプラスなことだと言えます。
一方で、人員が増えれば、当然その分人件費が上がります。
人件費があがっても、それに見合う効果をあげられればまだいいでしょう。今回の例で言えば、「課員一人当たりの残業が減る」「雑務に追われるのみでなく新しい試みを企画する」などの切り口からの効果が考えられます。
ですが、組織は人で成り立っています。
新しく来た人が仕事にマッチしない、または他のメンバーと仲違いが起きて仕事が滞る、などのトラブルが起きる可能性もあります。人は増えたけど忙しさはあまり変わらなかったということは、それほど珍しくないのではないでしょうか。
企業のように人員整理が簡単でない大学においては、「人を増やす」というのは企業以上に重い判断です。
今の時代で財政状況に余裕のある大学は決して多くありません。たとえ今は良好であっても、10年後、30年後の見通しは視界不良です。こういう状況下では、判断の重みはさらに増してしまいます。
もちろん、どうしても人を増やさなくてはいけない状況もあるでしょう。
ですが、「忙しいから職員を増やしてほしい」と主張するよりも前に、仕事のやり方を変えたり、業務効率をあげる工夫を凝らしたりなどして「人を増やさずに問題を解決できないか」ということをまず探るほうが、長期的には自部局、大学全体双方にとってプラスにつながるのではないでしょうか。
以上、部局にとってのプラスが組織全体にとってのマイナスになる構図の例を挙げました。
次に逆の構図、つまり「部局にとってのマイナスが、組織全体にとってはプラスとなる構図」の例を見てみたいと思います。
今度は先ほど挙げた資源の中からカネ(予算)を取り上げてみます。
自部局のことのみを考えれば、予算はあるに越したことはありません。あればあるほど、何かをする際の選択肢が増えるからです。そして、もし何らかの理由で、必要以上に予算が多くついてれば、期末が近づいてもある程度の残額が発生するでしょう。
しかし、これは自部局のプラスのみを考える人の目には、不都合なことと映るかもしれません。
なぜなら、残額を多く残したままにしておくと、予算編成をする大学執行部から余分であると思われ、次回以降予算が削減されてしまう可能性があるからです。
これを避けるために行われるのが、いわゆる「予算消化」「年度末駆け込み」です。
皆さんの部局では、年度末が近づくと実際はそこまで必要ではない物品購入や出張がなされていませんか。
本来、ある部局で不必要に予算が多いのであれば、削減して他に優先度の高い事業に資源を集中することが、大学全体にとってのプラスです。
しかし、自部局視点で見れば、予算が減ることはマイナスになるため、上で述べたような無駄遣いにブレーキがかからないケースが多く、予算の削減は自主的にはなかなか進みません。
コスト意識をしっかり持ち、業者と交渉して価格を適正な水準に調整したり、不必要な事業の実施や物品購入などをやめたりれば、予算を減らしながら業務の質を落とさないで済む余地はあるかもしれません。
大学の人は、そのあたりの交渉やアイデア出しは得意でないように思います。
私は、執行部や財務(経理)から、予算削減の数値目標が課されてなかったとしても、自ら部局のムダな予算を圧縮していくくらいのスタンスでいてもよいと考えています。
これこそが本当のボトムアップだと思うからです。
最後に、なぜ組織全体(大学全体)の視点が必要かということについて2点まとめます。
第一に、私たちは、最終的には所属大学そのものの価値を向上させることを目指しているからです。
自部局を優先するあまりに所属大学の価値が損なわれるような方策を取ることは、本末転倒です。自部局にとってのベストの選択肢が、大学全体にとってもベストであるとは限りません。
第二に、部局同士で意見が対立した時に、解決の糸口になりうるからです。
お互いが自部局のことばかりを主張していると、歩み寄りが難しくなり不毛な衝突に終始してしまいます。利潤を追求する組織ではない大学だからこそ、大学全体にとってベストな選択肢は何かという視点から考えることによって、単純な部局間の損得勘定から離れた解決策を得られるチャンスが出てきます。
以上、自部局と大学全体の2つの視点について見てきました。
次回は別の切り口から視野の広げ方について考えてみます。
視野を広げて「鳥の目」「虫の目」を使い分ける
ぽっど@univ_pdcaです。
私が普段仕事をしていて大切にしていることのひとつが、「視野を広げる」ことです。
「鳥の目と虫の目を使い分けよ」という有名な言葉があります。
これは要するに「全体的なことをざっくりつかむ視点と、詳細的なことをしっかりとつかむ視点をうまく使い分けなさい」ということ。
(似たような言葉として、「幹と枝葉の関係」や、「木を見て森を見ず」などがありますね。自然界に置き換えるのが定番のようです。)
「目」の話は、最近だとトレンドや流れをつかむ「魚の目」も含めて3つセットで語られることも多いようですが、今回はシンプルに2つの「目」で話を進めます。
この鳥の目と虫の目の関係は、色々なものやことに置き換えられます。
私はかなり広く解釈しているので、あまり見慣れないものも含まれるかもしれませんが、自分なりにいくつか例を挙げると以下のようになります。
左側の言葉が鳥の目、右が虫の目にあたります。
- 全体 ⇔ 詳細
- 抽象 ⇔ 具体
- マクロ ⇔ ミクロ
- 幹 ⇔ 枝葉
- 過去、現在、未来など時間軸全体 ⇔ 現在
- 自分や周囲を含めた全体 ⇔ 自分
実際に使い分ける時はさらに具体的な内容に置き換えていく必要があるのですが、それは今後取り上げていきます。
ところで、この2つの目を持つことは、簡単なようで意外とそうでもありません。特に、大学は虫の目に偏りがちになる職場環境だと私は感じています。
前回のエントリーで、理想とは逆の人物像のひとつとして、「大学全体のことよりも、自分または自部署のことをいつも優先させる」を挙げました。これはまさしく虫の目に偏った一例です。
それでは、大学で働いているとなぜ虫の目に偏りがちになるのでしょうか。
私は以下のような大学ならではの理由があると考えています。
1.分かりやすい数字で共有できる共通目標や指標がないこと
企業で全社的に掲げられる目標や指標の多くは、利益や売上といった誰でも簡単に共有できるような分かりやすい数値です。その達成に向けて社員たちは努力します。
一方、大学では数値で評価できる目標や指標が掲げられることはあまりありません。
財務指標のひとつである帰属収支差額は、企業における経常利益のようなものなので本来は全学的な案件ですが、そもそも大学では収入を直接生み出す部局は募集(入試)などごく一部。
大半がお金を使っていく(その分価値を生み出しているとも言えますが)部署であり、そうした指標を出されても、実感が伴われにくいのです。
志願者数や科研費の採択率といった指標も、一部局においては重要な指標ではあるものの、全学的なものとしては認知されないところが多いのではないでしょうか。
教育や研究といった活動は、単純に数値に置き換えられない部分があるのは確かです。
2.業務内容や方向性が部署間で共有されづらいこと
部署ごとに業務が多種多様なのが、大学という組織の特徴です。
大学によっては課員が一人しかいない「一人部署」が置かれているところもあります。
また、同じ課であっても、担当業務が人によってまったく違うため、毎日机は隣同士でも業務内容はお互いブラックボックス状態、ということもあるでしょう。
業務が非常に多岐にわたると、他部署がどのような仕事をしているのか、どのようなことを今は重点課題と考えているのか、といったことが見えづらくなります。
3.鳥の目が必要である状況になってから間もないこと
虫の目、鳥の目は、企業では一般的な考え方です。
なぜなら、経営やマネジメントを将来担う人材を育てるためには絶対に「鳥の目」が必要となるからです。
鳥の目には色々な切り口があることは上で述べましたが、その中でも「自部局だけでなく組織全体の視点に立って物事を考えられるかどうか」という視点は非常に重要です。
先日、トヨタの人事に関する新聞記事で以下のような記述がありました。
トヨタ首脳は日頃、社員に対して「自分の役職より2階級上の目線で物事を考えてくれ」と訴えている。自分の部署だけでなく経営者に近い感覚でトヨタのことを考えて欲しいという思いからだ。(2015年3月5日 日刊工業新聞)
今回はたまたまトヨタの例を出しましたが、これはどのような組織においても必要とされる視点であって、大学も例外ではありません。
近年、大学においても経営やマネジメントの必要性が認知されつつありますが、長い歴史で見ればまだまだ最近のこと。上司や同僚がそのような視点を持っていなかったら、大学全体のことを考えるきっかけはなかなか訪れないかもしれません。
以上のことから、大学職員は日々の目の前の業務をこなすことに追われ、「鳥の目」が養われにくいのではないかと私は考えています。
ですから、私たちは意識的に視野を広げていくことが必要です。
これからもう少し具体的な内容に入っていきたいと思いますが、その前にひとつ強調しておきたいことがあります。
それは、虫の目をないがしろにしていいというわけではないということ。
「視野を広げる」というのは、あくまで鳥の目と虫の目をバランス良く使い分けることです。鳥の目に偏ってしまっては意味がありません。
また前回のエントリーから引用しますが、「評論家のように、批評したり抽象的なことを語ったりすることばかりに興味がある」という人物像は、鳥の目に偏ってしまった一例です。特に、入職まもない新人層~若年層の職員は、まずは実務的な成果を要求されます。
大学全体や教育業界全体を見る視点は確かに大事ですし、実務の中でそうした視点が必要となることは多々あります。ですが、置かれた立場で必要となるバランスを崩さないこと、これこそが仕事を進めていく上でのポイントとなります。
なお、「虫の目に偏った管理職と、鳥の目に偏った課員」という状況はもっとも避けたい職場環境のひとつですが、色々な大学の話を聞いていると、意外とあるようで…。
前置きが長くなってしまったので、次回に続きます。
「仕事ができる人」とは?(サイトの紹介)
ぽっど@univ_pdcaです。
このサイトでは、端的に言って「仕事を動かせる職員」になるためのポイントや心構えなどをご紹介していきます。
突然ですが、皆さんにとって「仕事ができる人」とはどういう人たちでしょうか。
ひょっとしたら、以下ような方々を思い浮かべるかもしれません。
- 日本の高等教育の姿がどうあるべきかをイメージしている
- 文科省の最新の中教審答申について、経緯や趣旨を細かく理解している
- 大学教育や大学職員に関する論文をたくさん書いている
- 特定の業務への専門的知識と経験を誰よりも持っている
- 他大学に知り合いがたくさんいる
大学で働く場合、こうした要素はまったく否定しませんし、実際に活躍されている方々も多くいらっしゃいます。また、実際に大学職員の資質向上として、「講演会やシンポジウムへの参加」「大学職員向けの大学院への進学」「グループでのディスカッション」「専門的な知識のインプット」といった取り組みは、とてもよく見かけます。
上記の要素はもちろんあって越したことはないでしょう。でも、それよりも優先してまず身に付けるべきことがあるのではないか?というのが私の考えです。
「仕事ができる人」とは?
私にとって「仕事ができる人」というのは、言い換えれば「仕事を動かせる人」。または「仕事を前に進められる人」。
簡単に言えば、理想と現実のバランスを見た上でベストな提案を行い、周囲をうまく巻き込みつつそれを実現できる人です。この人物像は、企業で求められる人物像と多くの部分で重なるでしょう。
分かりやすい説明として、私が理想とするのとは「逆の」人物像の一例を示しておきます。
- 評論家のように、批評したり抽象的なことを語ったりすることばかりに興味がある
- 大学全体のことよりも、自分または自部署のことをいつも優先させる
- 仕事を抱え込みがちで、担当業務がブラックボックス化している
- 自分が「ここまで」と決めた守備範囲から一歩も出ないし、入らせない
- 完璧主義で、重要でない部分について夜遅くまで残って取り組んでいる
- これまでの取り組みややり方を、疑うことなく今後も続ければよいと思っている
- 人を育てよう意識がなく、配属された人の評価を短期的な視点で判断する
知識や情報の提供というよりは、仕事に対する姿勢、行動、実践など実務的な内容について述べていく予定です。
高等教育全般または各大学のニュースや情報については、他の大学職員の方々が運営されているブログで紹介されているので、このサイトでは取り上げません。
最後になりますが、大学は非営利なので、非営利ならではの文化や風土があります。
ですので、サイトでご紹介する内容が、大学職員だけでなく社団法人や財団法人をはじめとした非営利組織で働く方にも役立つものになればと考えています。
もし取り上げてほしいテーマや質問は大歓迎です。
Twitterやってます!
@univ_PDCAです。
このサイトに書かないことも発信していきますので、もしよければフォローをお願いします。