いつのまにか姿を消した鯉のぼり

2024年GWの前半は栃木県鹿沼市、後半は新潟県三条市へオートキャンプに出掛けました。延べ1000km以上、クルマで走ったことになります。

両市はスノーピークのキャンプフィールドのある場所ですから、高速道路を下りてしまえば、長閑な田園風景が広がります。折しも5月5日は端午の節句。道々、視線の先に鯉のぼりを探すのですが、鯉のぼりを揚げている民家はわずか一軒(写真・下)でした。マンション住人の多い大都会・東京では、もとより大きな鯉のぼりを揚げるスペースなどありませんから、ベランダに小さな鯉のぼりを見かけるのがやっとです。最近は、そんなミニ鯉のぼりさえ殆ど見かけなくなりました。否応なく少子化の深刻さを実感させられます。「こどもの日」がやってくるたびに、実家の裏庭で悠々と泳いでいた大きな鯉のぼりや竿先で勢いよく回っていた風車(かざぐるま)を懐かしく思い出します。男児の健やかな成長と立身出世を願う習わしは、今や、風前の灯なのです。

3月に誕生した初孫の初節句に、息子が紋付き袴姿の孫の写真を送ってきました。孫の右横に鯉のぼりの描かれた大判手拭が映っていました。マンション住まいの息子夫婦が工夫したのでしょう。なかなか粋なお祝いだと感心しました。古来からの習わしをこんな形で継承し息づかせるのも悪くないものです。

5月5日付け朝日新聞天声人語」が自分が抱いたような感懐を次のように伝えています。

▶目に映るものが徐々に消えてしまっても、人は気づきにくい。ふと見回した時には、すっかり世界が変わっている。だが、あの景色(農家の竿先で悠々と風をはらむ絵画のような光景)さえ、少子化の通過点に過ぎないに違いない

冒頭で天声人語子はこう切り出します。

▶古いことわざに<江戸っ子は五月の鯉の吹き流し>とある。口は悪くても、腹の中はさっぱりして瑣事にこだわらない。こいのぼりは江戸時代から飾られ始めたそうで、八百八町のあちこちで見られたがゆえに生まれた言葉だろう

歌川広重の『名所江戸百景』・「水道橋駿河台」を見ると、写真(上)のように画面を覆い尽くさんばかりの鯉のぼりが描かれています。構図となった駿河台周辺では鯉のぼりや幟が揚がり、その遥か先に雄大な富士山が鎮座しています。江戸情緒溢れるこうした情景に郷愁を重ねてしまいそうになるのはいつものことなのです。

本の再販制度は本当に必要なのか?

「京王パスポートカード会員様限定特別ご優待券」と呼ばれるハガキを受け取るようになって、もう数年が経ちます。毎年12月に送られて来るこのハガキが、今年は3月下旬にも届きました。優待の具体的な内容は、啓文堂書店で1会計1500円(税込)以上の買い上げをするたびに、割引率が3%から5%、8%とアップし、4回目以降は10%の割引適用されるというものです。割引の対象期間は4/1~5/8まで。購入上限金額が設定されていないので、3回目までは1500円を超える本を一冊ずつ買い、4回目に欲しい本をまとめ買いすることにしています。

最終的に消費税10%相当分が割引されるため、この優待券ハガキをこれまで最大限活用して、新刊本を購入してきました。ところが、写真(上)のハガキを持参して、3回目の優待を受けようと最寄りの啓文堂を訪れたところ、レジで「期間途中ながら中止になった」と伝えられました。手渡されたお詫びの書面には、《限定のお客様に対する機関限定のキャンペーンということで実施しておりましたが、本の値引きはしてはならないという原則に対する違反行為であるとの指摘を受けました。当社としても当該指摘を真摯に受け止め、お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、誠に勝手ながら4月21日をもって中止させていただきました》とあります。

所謂著作物の「再販制度」に違反すると判断されたわけです。日本書籍出版協会のHPには当該制度の意義について、こう書かれています。

《出版物再販制度は全国の読者に多種多様な出版物を同一価格で提供していくために不可欠なものであり、また文字・活字文化の振興上、書籍・雑誌は基本的な文化資産であり、自国の文化水準を維持するために、重要な役割を果たしています。》

再販制度」は独占禁止法の適用除外となるわけですが、競争原理を導入しないことが本当に出版文化の健全な発展を促しているのでしょうか。公正取引委員会は長年にわたり「再販制度」の廃止を検討していますが、出版業界は頑として抵抗し続けているようです。「再販制度」の対象外である電子書籍が20%~30%オフで販売されているのに対し、衡平ではありません。

一方、この10年で町の本屋さんは2/3まで激減し、2024年3月時点の全国の書店数は1万918店です。書店のない自治体は27.7%になるそうです。活字離れも手伝って、地方の書店経営が厳しくなっているのは厳然たる事実です。しかし、品揃えに乏しい小さな書店で本を買いたいとは思いません。東京に住んでいると、ジュンク堂啓文堂などの大規模書店へ自然と足が向かいます。人口減少に拍車のかかる地方の住民は、通販サイトで本を買えますから、不便はありません。大規模書店へのシフトはもはや時流です。町の薬局や小売店舗が大手ドラッグストアやコンビニに淘汰されたのと同じ道理です。耳障りのいい出版文化にこだわる時代ではないのです。

ひと昔前は、どこへ行っても本が定価で売られていることに満足していました。物販はすべからく「一物一価」であるべきだと思っていたからです。やがて、家電品をはじめ定価という概念が消失し、価格.comなどで最安値を調査して購入するのが当たり前になりました。

デジタル社会の到来に加え、人口急減社会が迫っています。ビジネスの世界は非情です。「再販制度」を存置しつつ出版業界を優遇する合理的理由は乏しいと考えます。消費者目線に気配りした京王電鉄傘下の啓文堂が出版社に屈する理由はないと思うのです。

イル・ヴォ―ロ ジャパンツアー2024年@東京国際フォーラム 

目一杯スケジュールを詰め込んだ2024年GWは、イル・ヴォ―ロの来日公演(4回目の来日)でスタートしました。会場は東京国際フォーラムAホール。2階席から見渡した限りほぼ満席、5012席もある巨大ホールを観客で埋め尽くす人気ぶりには、たじろぐばかりです。フィギュアスケート羽生結弦選手がイル・ヴォーロの楽曲「ノッテ・ステラータ(星降る夜)」(サン=サーンス《動物の謝肉祭》「白鳥」)を使用したことで、日本での知名度が飛躍的にアップしたように思います。

イル・ヴォ―ロは、若き3人のイタリア人男性オペラ歌手によって2009年に結成された音楽ユニットです。今年はデビュー15周年にあたり、中国と日本(4会場)を皮切りにワールドツアーが予定されてます。メンバーは、公演ポスター左から、ジャンルカ・ジノーブレ(28)、イニャツィオ・ボスケット(29)、ピエロ・バローネ(30)の3人です。幼少期から大人顔負けのベルカント唱法をマスターし、デビュー当時の彼らは14~15歳でした。コンサートでも披露されたイタリアの名曲「オー・ソレ・ミオ」がユニットで歌われた最初の曲だったそうです。

グループ名の"Il VOLO"は、イタリア語で飛翔すること。デビュー以来、破竹の勢いで文字どおり世界に羽ばたいていきました。今年は日本公演の後、母国イタリアに戻って9月まで国内ツアー、10月からパリ、ベルリン、プラハなど欧州主要都市を回り、2025年は北米とラテンアメリカ諸国でツアーを行うそうです、その世界的人気ぶりからして、三大テノールの後継者と呼ばれるのは当然なのかも知れません。

ソロを聴いて一番歌唱力があると思ったのは、最年長のメガネ男子、ピエロ・バローネです。圧倒的な声量と大ホールに響きわたる伸びやかな声が抜きん出ています。イル・ヴォ―ロにはリーダーはいませんが、やんちゃなイケメン・ジャンルカとお喋り好きで陽気なイニャツィオを巧みにリードしているのはピエロではないでしょうか。


アンコール直後にステージに殺到する女性たち

披露されたオムニバス編成の楽曲のなかでは、巨匠エンリオ・モリコーネの代表曲「ニュー・シネマ・パラダイス」やプッチーニトゥーランドット》「誰も寝てはならぬ」に痺れました。アンコールはヴェルディのオペラ《椿姫》より「乾杯の歌」。GWが過ぎた今も、パワフルなイル・ヴォ―ロの歌声の余韻に浸っています。

新プロジェクトX始動〜三陸鉄道復旧秘話に涙〜

東日本大震災から3年後の2015年4月、三陸沿岸を走る三陸鉄道(三鉄)の全面運行再開をメディアが大々的に報じました。大漁旗や三鉄のロゴをあしらった旗を振って歓迎する沿線住民の姿がとても印象的で記憶に残っています。

18年ぶりに復活したNHKの新プロジェクトX第3回《約束の春 三陸鉄道 復旧への苦闘》は、落涙ものでした。MCを務めるふたりも、番組終盤、宮古と久慈を結ぶ総延長71kmの北リアス線最難関工事箇所を担当した筒井光夫(東急建設所長)さんをスタジオに迎え、涙を浮かべていました。


(出典:新潮社・東日本大震災の記録より)

津波に襲われた島越(しまのこし)駅周辺では、橋脚が崩れ、コンクリート高架上にあったホームと共に駅舎が跡形もなく流されてしまいました(写真・上)。先細りの湾奥深くまで勢いよく海水が注ぎ込み、途轍もない破壊力が生じたからです。復旧には最低でも6年を要すると考えられました。

復旧工事に尽力したいと全国から作業員が集まったといいます。筒井さんは最も工事が難航するであろうと予想された10.5kmの責任者を務めます。担当区域は砂や岩の軟弱地盤、地盤改良は困難を極め、工期を少しでも短縮するために降雪期も休まず工事が継続されました。筒井さん以下、難工事に従事した作業員の皆さんは、家族と離れ、過酷な飯場暮らしを強いられたに違いありません。電気が確保できるディーゼル車内で寝泊まりした三鉄職員然りです。新プロジェクトXも3年に及んだ工事現場に密着できるはずもありません。復旧工事が完成するまでの艱難辛苦に関しては、想像力を極限まで働かせて補うしかないのです。

被災当時の三鉄社長が言うように、ローカル鉄道の廃線に伴い地域そのものが消失する危機が現実化しています。自然の脅威が再び三陸鉄道を襲うかも知れません。それでも、三鉄の灯を消すまいと再び地域の人々は立ち上がるのでしょう。活字では絶対に伝わらない復旧秘話を知って心が震えるほど感動しました。不屈の闘志で三陸鉄道の復旧にあたった関係者の皆さんを心から讃えたいと思います。

エンディング・テーマ「ヘッドライト・テールライト」の余韻があまりに切ない。

『書いてはいけない』(森永卓郎著・三五館シンシャ)~日航123便墜落の隠された真実~

森永卓郎氏の最新刊『書いてはいけない 日本経済墜落の真相』の帯にはこうあります。コミカルタッチのカバーは頂けませんが、深刻極まりないテーマを掘り下げています。

<2023年12月、ステージ4のがん告知を受けた。「命あるうち、この本を完成させ世に問いたい」私はそれだけを考えた>

メディアがタブー視して決して取り上げようとしないアンタッチャブルな話題が3つあると森永氏は言います。そのうち、以前、当ブログで取り上げた「財務省のカルト的財政緊縮主義」と「ジャニーズの性加害」については割愛し、最も世間が驚愕するに違いない「日本航空123便の墜落事件」(本書第3章)に絞って、森永氏が明らかにした真実を解説していきます。

「墜落事故」ではなく「墜落事件」とある点にお気づきでしょうか? 1985年8月12日(月)18:56:30、羽田空港から大阪・伊丹空港に向けて飛び立った日航123便御巣鷹山に墜落しました。以来、単独機による史上最悪の航空機事故として記憶され、毎年お盆が近づくと必ず当時のことを思い出します。あまりにも衝撃的なニュースだったので、連日深夜まで、独身寮でテレビに齧りついていた記憶があります。第一報をメディアが報じてから翌朝になるまで、墜落地点が二転三転し、救出活動が始まらないことに名状し難い違和感を感じました。自衛隊在日米軍がレーダーで機影を補足できないのは何故なのだろう・・・と不思議でなりませんでした。その後、『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』(朝日文庫)や吉岡忍の『墜落の夏―日航123便事故全記録』(新潮文庫〉など関連書籍をずいぶん漁りましたが、釈然としません。今もわだかまりを抱えたままです。

同じような違和感を覚えていた森永氏は、墜落事故から30年以上経った2017年7月、日航の客室乗務員だった青山透子さんが著した『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社)と出会います。2020年7月、青山さんは続篇ともいうべき『日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす』(同)を出版し、誤って航空自衛隊から発射された何らかの飛翔体(ミサイル等)が日航123便に衝突した可能性が高いと合理的推論を展開しています。さらに驚愕すべきは、第4エンジンだけが主翼から外れ粉々になって広範囲に散乱した原因を自衛隊機による(誤射隠ぺいのための)追撃によるものだとしている点です。オレンジ色の飛翔体が地上から目撃されていることや、墜落前に(スクランブル発進機とは違う)2機のファントムが追尾していたという複数の目撃証言のあることを合理的に説明するためには、主たる墜落原因=圧力隔壁の修理ミスだけではどうにも腑に落ちません。墜落現場のご遺体が通常の航空機事故では見られないほど炭化が著しかったという事実についても。納得のいく説明が必要です。こうした見方を陰謀論と片づけるのは簡単ですが、不可解な点があまりに多く、事故原因は未だ藪のなかなのです。

ご遺族が日本航空に対してボイスレコーダーやフライトレコーダーの開示を求めた訴えは、2023年6月、東京高裁において請求棄却の判決が下されています。その理由は(損害賠償をめぐる)、和解契約において原告がこうした請求権を放棄しているからだというのです。森永氏が言うとおり、血も涙もない「門前払い判決」です。データの開示が、政府・自衛隊にとってパンドラの匣を開けるかの如、極めて不都合な真実を炙りだすことに繋がるからに違いありません。三権ががっちりとスクラムを組んで国民から真実を隠蔽しているとしか思えません。

「三鷹市吉村昭書斎」を訪ねて|ミクロコスモスとしての書斎

吉祥寺通りと玉川上水が交差するところに萬助橋という名の小さな橋が架かっています。鴛鴦夫婦として知られる吉村昭津村節子夫妻の自宅は、その萬助橋から東へ徒歩数分、井の頭恩賜公園の西エリアに隣接する閑静な住宅街の一角にありました。井の頭恩賜公園の自然が身近に感じられる立地に惚れ込んで購入を決めたそうです。吉村昭(1927-2006)の書斎は、母屋から独立した「離れ」として建設されたものです。生前、夫婦で旅行に出掛けても「早く書斎に戻りたい」と言うほど、氏にとって心安らぐ場所だったといいます。

三鷹市吉村昭書斎」は、元あった場所から京王井の頭線井の頭公園駅にほど近い住宅街に移築され、今年3月9日に開館しました。吉村昭は、現在の荒川区東日暮里の生まれで、空襲で実家が焼失するまでの18年間を荒川区で過ごしています。そのため、荒川区が先行して顕彰事業を行っており、2017年に「吉村昭記念文学館」が開館しています。

「離れ」の書斎を展示の中心に据えた「三鷹市吉村昭書斎」は、全国的に見ても、珍しい文化施設ではないでしょうか。都内であれば、「漱石山房」の書斎を再現した「新宿区立漱石山房記念館」をはじめ、文学館や図書館など文化施設の一隅に書斎コーナーを設けて公開するのが一般的です。

開館から1ヵ月後の4月10日の午後遅い時間に「三鷹市吉村昭書斎」を訪れました。吉村・津村夫妻と生活圏が重なる我が家から徒歩で20分、井の頭線沿線にはまだ桜が残っていました(写真・上)。自治体の文化関連予算(写真・上は令和5年の三鷹市計上予算)は限られていますから、さして期待せずに訪れたのですが、工夫を凝らした施設全体の出来栄えに感心させられました。「交流棟」と「書斎棟」のふたつの建物は、周辺住環境に配慮して隣家との一体感を重視、施設であることを意識させないような造りになっています。向かって左手「交流棟」の外装には表面を焼いて炭化させた「本焼き板」が使われていて、レトロな味わいが「書斎棟」とよく調和しています。「交流棟」に入館すると、背丈より高い大きな曲面ガラスを通して「書斎棟」を眺められます。船底天井のような設えで天井を高くした結果、採光に優れた空間が産まれ、外観と内観のミスマッチが奏功しています。とかく陰気臭くなりがちな文学館ですが、来館者にはいい意味でサブライズだと思います。

「交流棟」の先にある扉を開けていったん外へ出て、時計回りに進み「書斎棟」に入場します。退場はその逆になります。書斎は、幕末の水戸藩尊王攘夷派が組織した「天狗党」による動乱を描いた『天狗争乱』執筆当時の様子を再現しているのだそうです。書架に収まった蔵書のタイトルを眺めているだけでも、徹底して史実を重視した吉村昭の執筆態度が透けて見えてきます。『北海道行刑史』、『日本史籍協会叢書』、『高知県史』などの郷土史がその一例です。幕末・維新期研究に必要不可欠な第一級の基礎史料である『日本史籍協会叢書』のなかの「川路聖謨(かわじとしあきら)」に目が留まりました。川路聖謨は、幕末、ロシア使節プチャーチンと交渉し、日露和親条約の締結に尽力した人格・識見共に優れた勘定奉行です。『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』執筆に際して参照した資料の一部でしょう。維新後、不平等条約の改正に奔走した小村寿太郎を描いた『ポーツマスの旗』と並ぶ二大外交官物として、記憶に残る作品です。

『わたしの取材余話』(河出書房・2010)のなかで、吉村昭は「史実を(忠実に)記して(作者が表面に出て自らの解釈を明確にせず)その判断を読者にゆだねる」立場に身を置いていると記しています。吉村文学、特にノンフィクション性の強い作品(歴史小説)の魅力は、そうした歴史に対する謙虚な姿勢にあるのだと思います。作者・吉村昭は、史実が明らかでない謂わば歴史の空白に対してのみ、珠玉の補助線を求めて合理的思考を重ねます。こうして、完成度の高い作品が生み出されるのです。

2024年四月大歌舞伎・夜の部|にざたま夢の競演による『於染久松色読販』&『神田祭』

2024年「四月大歌舞伎」夜の部は、にざたま夢の競演による『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』&『神田祭』でした。

市川宗家と並んで抜群の集客力を誇るのは、十五代片岡仁左衛門松嶋屋)と坂東玉三郎(大和屋)のふたりではないでしょうか。今回は、玉三郎を是非見たいという同級生のために一等席を手配して、「にざたま」コンビのお芝居と舞踊に同伴しました。先ずは、松竹が公開した特別ビジュアル(写真・下)をご覧下さい。

盗人・鬼門の喜兵衛(仁左衛門)と土手のお六(玉三郎)は、悪人夫婦。惚れた男のためなら悪事にも手を染める悪婆・お六が夫の手助けをして、瓦町油屋(質屋)に乗り込み、強請(ゆすり)を働くというのが『於染久松色読販』の筋書きです。通称《お染めの七役》、今回は名場面をダイジェストした「見取(みどり)」上演です。ふたりの示し合わせたような視線が実に様になっているではありませんか。幕切れ、思惑が見事にはずれ花道を籠を担いで引っ込む場面は、ふたりの仕草がかわいらしく滑稽味にあふれ、会場から万雷の拍手が送られました。次の清元の舞踊『神田祭』では、粋でいなせな鳶頭を仁左衛門、艶っぽい芸者を玉三郎が演じます。<火事と喧嘩は江戸の華>と言います。夜の部はそれを地で行く演目構成です。


(序幕第二場 小梅莨屋の場)


(第二幕 瓦町油屋の幕切れ)

400年以上にわたる歌舞伎の歴史を遡っても、「にざたま」のような不世出の役者コンビは見当たりません。歌舞伎ファンなら誰しも、同時代を共に生きる喜びを感じているはずです。昭和ならともかく、様々なエンタメ・コンテンツが存在する令和の今日において、歌舞伎が観客をひきつけ存在感を放っているのはこのふたりによるところが大きいと考えます。仁左衛門さんの気迫に満ちた舞台を観ていると、傘寿を迎えた役者さんであることをついつい忘れてしまいそうになります。

けれんたっぷりの大南北(おおなんぼく)のお芝居が大好きです。スター歌舞伎役者は生涯現役です。『東海道四谷怪談』と『桜姫東文章』の舞台をもう一度「にざたま」で観たいものです。