ジョン•ケージの4分33秒は、当時の人たちにとっては衝撃だった。

でも昔から、音楽の中では、休符も音楽の一部だったはず。

ここから二つのことが言える。
①当たり前のことも、少し状況を変えるだけで衝撃を与えられる
②当たり前のことをひっくり返してみると衝撃を与えられる(音楽は音が鳴るものというアタリマエ)

同じ事象を例にとってるけど、ひとつは当たり前自身を変えて、もうひとつは当たり前の周りを変えている。
どこに目を付けるかで得られる結論は異なる。
人の話を聞くにしても、本を読むにしても、いろんな視点から批判して、より質の高い情報収集ができると良いよね。

なんでこんな話を突然したんだ。

何かについて語れる、って実はすごいことだと思う。
この二日、何かについて語る人を二人見た。どんなことでも小一時間語れるようになったら、それについてものすごい執着しているってことだし、それについてかなり調べているということだと思う。
それぞれの人が色々な出来事に出会い、色々な人に出会っていて、その中で何かに憤ってそれを覆すべく日々努力してる。
私は何に憤ってるんだ?そこまでの労力をつぎ込めるのか。

醜いアヒルだって自覚して努力したら、いつか白鳥になれるのかな。

物書きになりたい。そう思って生きてきた。

小説の世界が好きだった。物語の終わりはいつも哀しい。それがハッピーエンドであればあるほど。
ずっとこの世界にいたいと思った。だったら自分の頭の中に創り出せばいいじゃないか。
そう思っていた。

でもだんだんオトナになって、空想の世界に浸っているだけでは現実を生きられなくなって、ずるずる言い訳をしながら受け身の生活をしていた。

小説の世界が好きなんだったら、その世界を自分で創り出せばいい。現実に。

なりたい自分に今だったらなれる。
そりゃあ私は、眉目秀麗頭脳明晰というわけではない。完璧な主人公は無理だろう。
でもニンゲン誰しもどこかしら他の人と違うところがあって。それは弱みにも強みにもなる。
自分の価値観を可愛がってあげて、自分の中のハミダシモノを大事にしてあげるだけで、私はワタシになれるはず。

幸いなことにまだ時間はある。
私の中のハミダシモノは、好奇心、継続力、執着心。声、身長。あと何より大事なのは想像力。
今まで何人の人生を生きてきたんだ。いくつの世界を経験してきたんだ。
酸いも甘いも、まずは本の世界に教わった。私の人生は、物語の誰かをなぞっている。いろんな登場人物の総合体、それが今の私。
自分の人生を、自分で描こう。主体的に生きるとき。

目下の目標は、
言葉の武器を身に付けること
第一関門を時間内に通過すること
それと、捕食。

今日が1ページ目。


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今日は「第一回 秋のお散歩〜小さな秋、ミィツケタ。〜」に行って参りました。
「第二回 〜アキ、君の家の前にいます。〜」「第三回 〜亜紀、君の後ろにいるよ。〜」も開催予定ですので奮ってご応募ください。

本当は六義園に行こうと思ったのだけど、結構遠そうだったので、小石川方面に歩きました。Googleマップを見ながら歩いたのに、気付いたら御茶ノ水にいたので、そのまま神保町までぷらぷら歩くことに。私が悪いのか私のiPhoneが悪いのか私のGoogleマップアプリが悪いのか、なぜかGoogleマップ見ながら歩いても、とちくるった場所にいることが多いです。まぁ私が悪いな。人の携帯借りてやってもそうだからな。
文京区周辺、とても好きなんです。というか東京の古い街並み好き。小説が好きで昔からよく読んでたけど、その中に出てきたおしゃれな地名たちに、徒歩30分以内でほぼ行けちゃう今の環境を大事にしたいと思う。「神保町」とか「御茶ノ水」とか「湯島」とか。
ミーハーなので神保町で古本巡りをしました。少しだけ。完全にイメージですけど、神保町の古本屋って幹線道路から2本くらい入った小さな通りに古本屋が立ち並んでるってイメージだったんですよ。そしたらめっちゃ幹線道路沿いにバァーって並んでるのね。大辞林のどでかい看板みたいなのあってびっくりしたわ。予想してた風情とは違ったけど面白かった。めちゃめちゃニッチなお店がたくさん。1985年のJJがあった。「ジェイ•ジェイ」って書いてあった。せっかくなので適当に買った本がなかなか良い感じでご機嫌です。昔から本のジャケ買いには自信がある。なんかこう、ピピッとくるんですよピピッと。パラパラッてめくって読んだ文章がなんか良かったり。ジャケ買いじゃないねこれ。パラパラめくってるわ。

今日は死ぬほど寒かったのでぷらぷら歩いた後、おでんを食べました。最近食の好みが変わった明らかに。
昔だったら
「はぁぁぁ!寒い!ドリア食べたいドリア!グラタンでも可!」
みたいだったのに、今では
「寒。おでん食いたいおでん。あーーーはんぺん食べたい。あ今もうめっちゃはんぺん食べたいわ。」
みたいになったし、
蕎麦も昔は麺つゆのストレートじゃなきゃ食べれなかったのに、今は刻んだ大葉と大量のすりごまと海苔で蕎麦をコーティングして食べてる。っていうか薬味食べるために蕎麦食べてる。
スタバ行っても、昔は
「バ、バニラクリームフラペチーノ、、、のいちばんちっちゃいサイズで。。。あ、あとチョコチャンククッキーもお願いします」
みたいな感じだったのに、今や
「本日のコーヒー、トールで。あ、ちょっと濃いめの方でお願いします。あ、あとカバーみたいなやつ付けてください」
ってなってる。(頭に あ、 付けるのは変わらない。)
これが成長ってことやな。

最後にアンケート。
これ、「お団子頭の女性」か「きのこの上に立ってる女性」だったらどっちに見えますか。
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イスラムの台頭をどう見るのか。
今怒ってるのはウィーン包囲なのか。アメリカは十字軍になるのか。
イスラムの初期思想の回帰、特にハンバル法派みたいな厳格主義は、キリスト教の内部改革運動としてのプロテスタントの台頭と同視していいものなのか。

東京は息がしにくい。数値としても、数値にあらわれない部分でも、酸素が足りないのだ。
地元に帰り着くときちんと空気が私の身体を満たす。

大学がはじまった。昔から思っていたけれど、何故生徒は教師の言葉に反応を示さないのだろう。講義だって、言葉を使ったコミュニケーションなのだから、くすくす笑ったり、目を見開いたりできるはずなのに。だれも教授の顔をみない。
そう、だれも目を合わせないのだ。東京を歩いていると数え切れない人とすれ違う。だけどだれも前から歩いている人の顔を見ないし、見る気もない。こんなにも人が多いのにこんなにも人との関係が希薄になるのは、哀しいことだけれど、ひどく合理的なことだとも思う。
だけど今日は少し特別なことがあった。一ヶ月以上前に訪れたお店に、まったく違う人を連れてまったく違う曜日に訪れたのに、帰り際に、「以前来ていただいた方ですよね」と声をかけられた。ごみごみやたらに人の多い渋谷で、いかにもちょっと背伸びした大学生が好みそうなお店 。今日も月曜だというのに若いカップルが友人同士で溢れていた。ゆったりしたソファと木の机、メニューには気の利いたディップの盛り合わせやお酒に合うアミューズはもちろん、きちんと食事も取れる。おまけにデザートにもこだわっている。(スフレがお勧めらしいが私はショコラのテリーヌが好き。)
なんで私のことなんか覚えてたんだろう。「誰か」ではなく、個の私として認識してもらえるのはとても嬉しいことだ。たった一言声をかけてもらっただけだけれど、私はきっとまたそのお店に行くだろう。

履修を決めるときはあんなに胸が高鳴っていたくせに、いざ講義を聞くとそんなに面白いものではない。
こうして退屈な毎日が始まるのだ。