「動物って何考えて生きてるんだろう?」
ブログを新しく開設しました。
よろしくお願いします。
「動物って何考えて生きてるんだろう?」
「例えばそこらにいるスズメなんかは、生きる本能によること以外に何か思うことはあるのか?」
このような問答を友人と何度かした記憶はあるが、いつも大喜利じみたふざけあった答えをしてしまい、それについて調べたり、議論したりしたことは無かった。
しかし、30歳という年齢になり、自分の将来や現状について考えるようになった途端、文頭の「動物って何考えて生きてるんだろう?」という疑問が幾度と脳裏に浮かぶようになってしまった。
動物が何を思い生きているかは、「なるほど」と思える解説や解釈がインターネット上に沢山溢れているので、各々自分にあった解釈を"正解"だと思えばいい。
動物が何を考えているか、大体納得できると、今度は「人間は何を考えて生きているか?」という疑問に変わってきた。
この質問自体、まるで子供が考えるような質問であるが、大人になった今考えると、逆に複雑に思えてくる。
動物は「生きること」を根本にして生きている。しかし人間、特にその中でも大人はもはや「生きるのが当たり前」になってしまい、その意識は薄れているように感じる。
他の動物より発達した脳を持つが故、文明やテクノロジーを発展させてきた功績は大きいが、その高い知性、思考能力、想像力のおかげで苦しむようなことも。
自分の考えでは、「人は苦痛やストレスから解放される為に生きている。」と今は思っている。
苦痛やストレスの定義は人それぞれ違うので、解放される為に"するべきこと"も変わると思うが、"死"を最終地点にするのは皆の共通項ではないだろうか?
想像力や知識が生んだ、"死"へのイメージが付きまとうが故、その最終地点への道のりをいかに華やかに過ごすかを競っている。
その"華やか"も、想像力、もしくは他人との比較でイメージが固められているのが厄介なところだ。
ここまで書いて、もはやこのエントリーにおいて何を書きたいかすらもわからなくなってきていて、支離滅裂な文を読む方はもっと苦痛だろう。
「生きる意味」について考えているような僕は、"劣等種"であると、改めて理解らされる瞬間である。
自分の為に生きるか、他人の為に生きるかで道は大きく分岐をする。
自分の為に生きる選択を無意識にしてしまったが、この歳になり、失敗だと気付いた。
自分の為に生きる選択をしてしまうと、どうしても甘くなってしまう。
学生の頃からそうだ。他人である"親"のことも考えず、学業をほったらかし、不良の真似事のようなことをした。
"自分"が楽しければそれで良かった。
そんな考えだから、一番苦労や努力が必要な学生時代を無駄にしてしまい、今現在、多大な苦労は強いられているのだ。
自分の為に生きるか、他人の為に生きるか、何行か前に書いたこの選択肢、人生においては数度現れるが、最初はかなり序盤で現れると思う。
物心ついて、"自分"という存在を認識し始めたとき、育ててくれている"親"に対し、尊敬できるか。
「お父さんかっこいい!」や「お母さんの料理は美味しい!」など小さなことでも尊敬と呼べると思う。
例え客観的に見て悪い親であったとしても、子供から見て正義ならそれはそれで良い。
かく言う僕は父も母も尊敬することができなかった。
何一つとして憧れを抱くことも無く、母親に対しては憎悪すら感じていた。
自分の為に生きる選択肢をした瞬間その1だ。
その後の選択肢も全て"自分"を選びここまで来た。
自分を甘やかし、大した努力もせず、頑張ってるフリをして、
他人を馬鹿にしたりして、自分の劣等感から目を背けてきたが、ようやく自分の姿をしっかり見る時、いや、見なくてはならない時に差し掛かった。
最終地点で僕を待つ"死"よりも、"うだつの上がらない現状の自分"を見るほうが、よっぽど苦痛やストレスの原因である。
「人は苦痛やストレスから解放される為に生きている。」
この考えをモットーに、ストレスの原因である"自分自身"を、変えられたら良いなと試行錯誤しながらブログを更新していこうと思う。