脳汁生活。

脳汁生活

考えることをやめない人のためのブログ。

ビジョンを描けるってことだけが、大事なことじゃない。

こんにちは、たっくんです。

 

仕事や自分のあり方の未来やビジョンについて、思うことを書いていきます。

 

未来や夢やビジョンを語れないと、自分はダメなんじゃないか、と思ってしまうような時代になっている気がします。

 

僕自身が大学時代に、ソーシャルな活動に深くかかわり、起業を志していたこともあり、ビジョニングの大切さは痛いほどわかります。

 

ただ、その一方でビジョンが描けない、未来を語るのが得意でないという人がいるのも事実。(僕がそれに当てはまるというのも、ありますが(笑)。)

 

風を創るか、風になびくか。

幼いころから、「〇〇になりたい!」という夢を持ち、コツコツと戦略的にその道を突き進んで、その道の第一人者になったり、希望通りの職に就ける人がいます。(そういう人を見ると、びっくりしてしまうのですが。)

 

でもすべての人がそんなに戦略的に生きれるわけじゃない。

 

興味関心が広すぎて、当初の目標なんか忘れて違う道に入ってみたり、今の自分が楽しすぎて、夢なんか考えられない!なんて人もいるんだと思います。

 

僕はどちらかというと後者で、将来どうなりたいか?というよりも、変化は必然なんだから、そんなことより色々考えて経験して、蓋を開けたらどうなってるかを知りたいというタイプ。

 

きっとそういう人にとっての、ビジョンや未来って抽象的でふわふわ。だから、どうなりたいか?という問いよりも、いまやっていること、考えていることを応援したり、共感する方が、効果的なのかなと。

 

狙い通り、想定通りの道を進み、確実に未来を獲りにいく。

 

不確定で分からないことだらけだからこそ、どうなるか分からない未来を楽しみにしていて、いまを生きる。

 

ベクトルの方向が違うだけで、どちらも素敵な生き方だなあと思うんです。

 

皆さんはどう思いますか?

 

 

 

 

嫌いな人からでも、何かを学び取ろうとする姿勢。

こんにちは、たっくんです。


今日は戒めを込めてこんなテーマを。

怒られた頃の記憶。


子どもの頃、叱られたり、怒られたりしたときに、どんなことを思いましたか?


「うざい」、「嫌だ」、「面倒くさい」。また、「なんで自分は怒られたんだろう?」と考えられる聡い子どもだったかもしれません。


素直に自分が悪かったところを認めたり、頑と意地を張って認めなかったり。

怒られることは嫌いだし、怒る人も嫌いなのが普通です。


そのときに、自分の心に湧き上がる気持ちは一体どんなものだったでしょうか。


怒りや不快感といった感情だけかもしれませんし、なぜかと思考するのかもしれないし、はたまた、相手の気持ちを詮索するかもしれません。

シャットアウトはもったいない!


怒られるというのは、極端な例でしたが、ネガティブな感情を持つと人の視野は狭くなりますし、拒否しがちになります。


怒られたり、嫌いな人の声を聞くだけで、「嫌だ!」とシャットアウトしがちですが、もったいないなと。


嫌いな人であっても、賛成できる意見や、面白いものの見方がありますし、それを受け入れることと、人格の好き嫌いは別物です。


特に、怒られることには原因があるので、それをなんで?と考えられると、怒られても有意義だなぁと思います笑。


褒められると嬉しい気持ちが先行して、なかなか原因を見つめられないですから。


ネガティブなことが起きてこそ、自分を見つめ直そうと思えるんだなぁと感じています。


皆さんはどう思いますか?

「決めない」ことは怠惰なようで、最も勇気を試されること。

こんにちは、たっくんです。


古今東西、富や、名誉や地位を得て成功していると世間が思うような人は、みんな「突き抜ける力」を持っている気がします。


第17回 みんな“多動力”を履き違えている|箕輪編集室・公式|note


では、その逆で「突き抜けない力」っていうものの正体も考えてみると面白いなと。

社会的抹殺からの脱走


社会のなかで、人は必ず何者かになります。社会的な役割を持って生きています。(それが与えられるものであれ、掴み取ったものであれ)


何者かになるというのは、就職をしたり、会社を作ったりということだけではないのかなと。


もっと大きな社会的なプレッシャー=何者かであらねばならないという認識が強くあると思います。


適切な表現ではないのかもしれませんし、一概には言えませんが、この時代のこの国で、餓死をするというのは、起こってはいけないなと。


生活保護を受ければいいし、SNSで助けを求めることができます。


もちろん、それはその日暮らし的な考え方で持続可能な生き方ではありません。


ただ、多くの人が声を上げる前に、命を落としているという事実。


僕らには命よりも惜しいものがあるのかもしれません。


僕らは自分自身の生命の維持よりも、社会的に抹殺されることを何よりも恐れているのかもしれません。

「決めない」という勇気


その意味で、何者でもない、何もしていない、何も決めないというのは、すごく勇気のいることです。


働いてなければ、社会から白い目で見られる。


家で何もせずぼーっとしていれば、何かしなきゃという、得体の知れない焦燥感に駆られる。


そういう状況に陥ってしまったという人が圧倒的に多数でしょう。


けれどきっと、自ら何者でもない道にいる人も存在するはず。


ある意味でそんな人は、成功者と呼ばれる人よりもずっとずっと少ないのかもしれません。

ある意味で達観し、超越したその感覚を僕らは見習えるのかもしれません。

そしてそんな勇気は、決める側の人にとっても役に立つリソースになりうるのかなぁと。

皆さんはどう思いますか?

チャンスは考える人のもとにやってくる。

こんにちは、たっくんです。

 

僕が通っているコピーライター養成講座では、さまざまな課題が出されています。

 

不定期ではありますが、課題量も多いので、ほぼ毎日、何かについて考えている状態です。

 

コピーライティングのノウハウを・・・というわけには、なかなかいかないのですが、そんな毎日のなかで気づいたことをシェアしたいなと思います。

 

チャンスは考える人のもとにやってくる。

広告屋さん、広告クリエイターの仕事は考えることです。他の職種の方が無思考状態に思えるほどに、常に商品やサービスのことを考えています。(クライアント以上に。)


朝起きた瞬間から思考が始まり、歩いてるときも、ご飯を食べてる時も、ずっとそのことばかり考えているのです。(少なくとも、僕はそうです。)


常に何かを思考し続けていると、あらゆる刺激に対して敏感になるんです。


考えている対象(クライアントからの課題)との結びつきを強く求めているのです。


引き寄せの法則に近いのかもしれません。


考え続けることで、一見何も関係なさそうに見えることも、「これってひょっとしたら関係あるかも…」と思えるようになってしまう。(アイデアに渇望しすぎているがゆえに)

 

ひらめきって実は、こういう原理で生まれてるのかなと、ふと思いました。


繋がりのないものを繋げ、新しいものを生み出すには、やっぱり考え続けるしかないのかもなぁと改めて感じました。


皆さんはどう思いますか?

 

 

 

自由は与えられるものではなく、勝ち取るもの。

こんにちは、たっくんです。

 

高円寺について、面白い考察をしている記事を読んでいました。

 

いつかは必ず卒業しなければならない街、高円寺「街に答えのない世界に飛び込んだ若者の葛藤や不安が滲み出てる。」 | ハウスコム株式会社

 

高円寺や、若者の葛藤といった文脈とはあまり関係がないのですが、なるほどなあと思う引用があったので、シェアしたいと思います。

 

子どもの描く絵には揺さぶられない?

 

岡本太郎は子供が描く絵は自由でのびのびしていて魅力的かもしれないけど、成熟した大人の感情が揺さぶられるかと言われれば、そんなことはないのだと言います。

 

その理由について、子供が持っている自由とは「自分で勝ち取ったもの」ではなく、ただ単に「与えられたもの」で、許された自由の中での表現に魅力はあったとしても、それが何か人を感情的に動かす力にはなり得ないのだと断言しているのです。

 

(引用:いつかは必ず卒業しなければならない街、高円寺「街に答えのない世界に飛び込んだ若者の葛藤や不安が滲み出てる。」 | ハウスコム株式会社

 

 

憧れるのは、『自分も』ではなく、『自分でも!』?

 

僕らはしばし、自由を謳歌している人に憧れます。(実際はそう見えるだけであっても)

 

旅をしながら働く人、在宅勤務で満員電車とは無縁の人、大金持ちで、好きな時に好きなものを買える人・・・

 

僕らはきっと、そうでないから憧れるんだなと。つまり、人は自分が経験していないことに対して憧れの念を抱くのだと思います。

 

だからこそ岡本太郎さんが言ったように、僕らは子どもの絵には、心を揺さぶられないのかもしれません。

 

なぜなら、子どもののころの『与えられた自由』は、僕らのほとんどが享受し、経験しているものだから。

 

逆に、大人になってから、理不尽や不都合や不安、批判や罵倒に苦しみながらも、耐え抜いた先にある『自由』は誰しもが得られるものではありません。

 

適性や努力、嗜好や思考といった変数が絡み合いながら、実現される自由なんです。

 

だからこそ、僕らはそういった人たちのストーリーに憧れるんでしょう。

 

インターネットが発達して、『自由』を謳歌する人が可視化されやすくなりました。だからこそ、「自分でも!」となおさら憧れやすくなるんだと思います。

 

僕らは『自分も』経験したことには、憧れも嫉妬もしません。でも、『自分でも!』と思うものには、憧れや嫉妬を抱くものなのでしょう。

 

勝ち取られた自由を、自分でも勝ち取れるかもしれないと思い、高円寺の若者もまた生きているんだと思います。

 

なんだかざっくりとしたまとめになりましたが、皆さんはどう思いますか?

 

 

 

 

 

雪は嫌いだけど、雪は綺麗。

こんにちは、たっくんです。

 

雪めっちゃ降りましたね。東京でも毎年雪が降っている気がしますが、ここまでの積雪は稀なんでは・・・

 

こんな感じの雪が降ると、Twitterのタイムラインに色んな感情が見えて面白いんです。

 

雪は嫌い。

 

日本は電車大国ですから、雪が降れば真っ先に頭をよぎるのが、交通機関(特に電車のダイヤの乱れや、混雑)の状況。

 

各線の名前をTwitterで検索してみると、「嫌だ」「辛い」「ウザい」「死ね」といったネガティブワードから満員の様子を写真とともにあげ、ある意味で、楽しむようなツイートも。

 

そのほかにも、家の前に雪が積もってたり、道に雪があったりで、びしょびしょになったり、転倒のリスクがあったりと・・・

 

雪は嫌われ者だなぁと、思ってしまいます。

 

雪は綺麗。

 

一方でこんなツイートもあるのが面白いですよね。

 

 

 

こんな景色を見ると、一瞬、幻想的でいいなぁ、綺麗だなぁと思うわけです。

 

けれどそれは一瞬だけで、見に行こうとすれば、結局はずぶ濡れになったり、転んだり、寒い思いをするのは確実。

 

瞬間を切り取ってみる

 

美しいオーロラを見るためには、想像を絶するほどの寒々に耐えなくてはいけません。

 

行楽シーズンの江ノ島を、江ノ電の車窓から眺めようとしても、その人混みに嫌気が差すことでしょう。

 

それでも人と人の隙間から、夕日と浜辺と海のコントラストを望めば、心にささやかな感動が広がるはずです。

 

こうして考えてみると、雪は嫌いだけど、綺麗。と思う感情は実に人間らしいなぁと思います。

 

それは努力や忍耐、苦しむことは嫌いだけど、もっともっと認められたい、賞賛されたい、成功したい。という感覚に近いのかもしれません。

 

あらゆる物事は連綿と続いていくものですが、あえて瞬間を切り取ってみると、違った見方ができるかもしれません。

 

何だかこじつけのようになってしまいましたが、皆さんはどう思いますか?

 

 

戦争の対義語は『暮らし』なのかもしれない。【この世界の片隅に】

こんにちは、たっくんです。

 

遅ればせながら、この世界の片隅にをこの週末にかけてじっくりと鑑賞しました。(Amazonで100円レンタルだったもので・・・)

 

戦争に関するアニメーション映画で、あらゆる世代から共感を寄せ、ロングランとなったのは、『火垂るの墓』以来なんじゃないかなと思いまして、感じたことを書いていきます。

 

戦争の対義語は『暮らし』。

戦争の対義語といえば平和だと思いますが、戦争の経験のない僕らにとって平和とは、かなり抽象度の高い言葉だと思います。

 

正直言って、平和って分かりにくいんです。だからきっと、僕たちの前でイデオロギー的な平和を語ったり、デモで「平和が大事!」と叫んでも、響かないんだと思います。

 

平和の必要性を説く前に、平和を現代風に翻訳することって大事なことだと思うんです。

 

本作は、『暮らし』に徹底的にフォーカスしたことで僕たちに、平和の尊さを感じさせたのだと思います。

 

主人公のすずが、物資が不足する中で献立を工夫したり、自然や風景を、『スケッチ』で切り取ることでその美しさを強調させたり。

 

そんな感受性の高いすずの『暮らし』を根こそぎ奪われた時、僕らははじめて、戦争と平和を認識できるんじゃないかなと。

 

全世代が共感できる土壌がつくられていた。

戦争経験の僕らが主人公の『すず』や当時の人々に共感できた理由は、3.11の震災があったからではないでしょうか。

 

戦争と震災・・・?と思われるかもしれませんが、『暮らし』が奪われるという感覚は同じであり、この時代を生きるすべての人に刻まれた共通意識だと思うんです。

 

原爆が落とされてから、日本の人々の意識は変わりました。平和を最も貴ぶ国民へと変わったはずです。

 

同じように、津波地震原発事故を経た僕らの意識も変わっているはずです。言葉にしなくても、何んとなく感じられるものだと思いますが、それこそ、『暮らし』を、生き方を見つめ直すことなんじゃないかと。

 

激動の時代を生き抜いた少女と、僕たちは遠い存在でなく、むしろ重なり合えるほどに近いのかもしれません。

 

だからこそ、こんなにも日常の一つ一つに、僕らは魅入られ、怒り、悲しむのではないでしょうか。

 

皆さんはどう思いますか?

 

昔の自分を忘れないようにすること。

こんにちは。たっくんです。

 

ポジティブな意味で、昔の自分を忘れないようにすることって、大事なことだと思います。(もちろん人にはトラウマのように、思い出したくもないこともあったりしますが。)

 

人は成長し、変化をする生き物です。その過程で、今までの自分の思考・嗜好も、変化することは当たり前です。

 

その変化は受け止めたうえで、過去の自分を否定したり、忘れたり、なかったことにするのって、とってももったいないなと思います。

 

今の自分=自分のすべて?

 

名前は忘れてしまいましたが、とあるコピーライターの方がこんなことを言っていました。

 

僕は昔、子どもが嫌いだった。結婚して子どもができると、子どもが大好きになった。

 

それはとてもいいことだけど、『子どもを嫌いだったころの自分』がなくなっているわけじゃないし、捨てたり、拒否したりするのは違うなと思う。

 

『子どもが嫌いだったころの自分』、 『子どもが好きだったころの自分』。その両方の気持ちが分かることって、めっちゃ貴重なんじゃないかなあ。

 

 

今の自分が、完成ではない。

 

戒めを込めて・・・ですが、多くの人が今現在の自分で、物事に向き合っているような気がしています。

 

でも、人はもっと多面的ですし、アップデートされていくものだと思うんです。変化を受け止めたうえで、『今はあんまりこうは思わない』、『昔は好きだったなあ』という気持ちをとっておくこと。

 

そうすることで、きっと多層的に物事を考え、分析できると思いますし、今ぶつかっている壁も突破できるかもしれません。

 

僕自身、昔はロハスとか持続可能性、幸せな社会のような概念に惹かれていました。今は、あまり興味を持てなくなりつつありますけど、そのころ夢中になっていた自分は、ずっと大切にしていこうと。

 

今の興味だってきっと、薄れるかもしれないですし、いまの自分が自分の全てではないなあと。

 

点と点を繋ぐのはこういうことなのかも・・・ハッとしました。

 

愛された自分、愛されていなかった自分。仕事ができる自分、仕事ができない自分。僕らはいろんな自分を知ることで、相手や社会を深く理解できるのかもしれません。

 

みなさんはどう思いますか?